今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、桂太郎内閣の閣議で「韓国ニ対スル施政方針」を決定し、同年8月の韓国併合後の朝鮮に対する施政方針を明らかにした日です。
「韓国ニ対スル施政方針(かんこくにたいするしせいほうしん)」は、1909年(明治42)7月6日の桂太郎内閣による「韓国併合ニ関スル件」および「対韓施設大綱」の閣議決定を受けて、韓国併合に向けての準備が進められ、翌年6月3日に閣議決定されたもので、併合後の韓国に対する施政方針を明らかにしたものでした。その内容は、朝鮮は天皇の大権によって統治すること、一切の政務は天皇に勅隷する総督が独裁すること、朝鮮人官吏の採用は階級を考慮することなど、となっています。
日本は、1876年(明治9)に、朝鮮に対して最初の不平等条約である「日朝修好条規」を締結して以来、朝鮮半島進出を試み、その支配をめぐって、1894~95年(明治27~28)に日清戦争、1904~05年(明治37~38)に日露戦争が起きました。日露戦争終結のために調印された「ポーツマス条約」 (1905年) 第2条と「第二回日英同盟協約」(1905年)第3条において、それぞれ朝鮮における優越的立場を認められます。
それと前後して、三次にわたる「日韓協約」で実質的に韓国主権を手中に収めました。そして、1909年(明治42)7月6日の桂太郎内閣による「韓国併合ニ関スル件」および「対韓施設大綱」の閣議決定、翌年6月3日の「韓国ニ対スル施政方針」の閣議決定へと至ります。
その後、8月22日に「韓国併合条約」が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日には、裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合することとなりました。この状態は、1945年(昭和20)の太平洋戦争で日本が敗戦するまで続くこととなります。
以下に、「韓国併合ニ関スル件」、「対韓施設大綱」と「韓国ニ対スル施政方針」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「韓国併合ニ関スル件」、「対韓施設大綱」 1909年(明治42)7月6日閣議決定
帝國ノ韓國ニ對スル政策ノ我實力ヲ該半島ニ確立シ之カ把握ヲ嚴密ナラシムルニ在ルハ言ヲ俟タス日露戰役開始以來韓國ニ對スル我權力ハ漸次其大ヲ加へ殊ニ一昨年日韓協約ノ締結ト共ニ同國ニ於ケル施設ハ大ニ其面目ヲ改メタリト雖同國ニ於ケル我勢力ハ尙未タ十分ニ充實スルニ至ラス同國官民ノ我ニ對スル關係モ亦未タ全ク滿足スヘカラサルモノアルヲ以テ帝國ハ今後益同國ニ於ケル實力ヲ增進シ其根底ヲ深クシ內外ニ對シ爭フヘカラサル勢力ヲ樹立スルニ努ムルコトヲ要ス而カシテ此目的ヲ達スルニハ此際帝國政府ニ於テ左ノ大方針ヲ確立シ之ニ基キ諸般ノ計畵ヲ實行スルコトヲ必要トス
第一、適當ノ時機ニ於テ韓國ノ併合ヲ斷行スルコト
韓國ヲ併合シ之ヲ帝國版圖ノ一部トナスハ半島ニ於ケル我實力ヲ確立スル爲最確實ナル方法タリ帝國カ內外ノ形勢ニ照ラシ適當ノ時機ニ於テ斷然併合ヲ實行シ半島ヲ名實共ニ我統治ノ下ニ置キ且韓國ト諸外國トノ條約關係ヲ消滅セシムルハ帝國百年ノ長計ナリトス
第二、併合ノ時機到來スル迄ハ併合ノ方針ニ基キ充分ニ保護ノ實權ヲ收メ努メテ實力ノ扶植ヲ圖ルヘキコト
前項ノ如ク併合ノ大方針旣ニ確定スルモ其適當ノ時機到來セサル間ハ併合ノ方針ニ基キ我諸般ノ經營ヲ進捗シ以テ半島ニ於ケル我實力ノ確立ヲ期スルコトヲ必要トス
(引用書―日韓合邦一件)
對韓施設大綱
韓國ニ對スル帝國政府ノ大方針決定セラレタル上ハ同國ニ對スル施設ハ併合ノ時機到來スル迄大要左ノ項目ニ依リ之ヲ實行スルコトヲ必要ナリト認ム
第一、帝國政府ハ旣定ノ方針ニ依リ韓國ノ防禦及秩序ノ維持ヲ擔任シ之カ爲ニ必要ナル軍隊ヲ同國ニ駐屯セシメ且出來得ル限リ多數ノ憲兵及警察官ヲ同國ニ增派シ十分ニ秩序維持ノ目的ヲ達スル事
第二、韓國ニ關スル外國交涉事務ハ旣定ノ方針ニ依リ之ヲ我手ニ把持スル事
第三、韓國鐵道ヲ帝國鐵道院ノ管轄ニ移シ同院監督ノ下ニ南滿洲鐵道トノ間ニ密接ナル連絡ヲ付ケ我大陸鐵道ノ統一ト發展ヲ圖ル事
第四、成ルヘク多數ノ本邦人ヲ韓國內ニ移殖シ我實力ノ根底ヲ深クスルト同時ニ日韓間ノ經濟關係ヲ密接ナラシムル事
第五、韓國中央政府及地方官廳ニ在住スル本邦人官吏ノ權限ヲ擴張シ一層敏活ニシテ統一的ノ施政ヲ行フヲ期スル事
「日本外交年表竝主要文書 上巻」外務省編より
〇「韓国ニ対スル施政方針」1910年(明治43)6月3日閣議決定
一、朝鮮ニハ當分ノ內憲法ヲ施行セス大權ニ依リ之ヲ統治スルコト
一、總督ハ天皇ニ直隸シ朝鮮ニ於ケル一切ノ政務ヲ統轄スルノ權限ヲ有スルコト
一、總督ニハ大權ノ委任ニ依リ法律事項ニ關スル命令ヲ發スルノ權限ヲ與フルコト但本命令ハ別ニ法令又ハ律令等適當ノ名稱ヲ付スルコト
一、朝鮮ノ政治ハ努メテ簡易ヲ旨トス從テ政治機關モ亦此主旨ニヨリ改廢スルコト
一、總督府ノ會計ハ特別會計ト爲スコト
一、總督府ノ政費ハ朝鮮ノ歲入ヲ以テ之ニ充ツルヲ原則ト爲スモ當分ノ內一定ノ金額ヲ定メ本國政府ヨリ補充スルコト
一、鐵道及通信ニ關スル豫算ハ總督府ノ所管ニ組入ルルコト
一、關稅ハ當分ノ內現行ノ儘ニナシ置クコト
一、關稅收入ハ總督府ノ特別會計ニ屬スルコト
一、韓國銀行ハ當分ノ內現行ノ組織ヲ改メサルコト
一、合併實行ノ爲メ必要ナル經費ハ金額ヲ定メ豫備金ヨリ之ヲ支出スルコト
一、統監府及韓國政府ニ在職スル帝國官吏中不用ノ者ハ歸還又ハ休職ヲ命スルコト
一、朝鮮ニ於ケル官吏ニハ其ノ階級ニ依リ可成多數ノ朝鮮人ヲ採用スル方針ヲ採ルコト
附憲法ノ釈義
韓国併合ノ上ハ帝国憲法ハ当然此ノ新領土ニ施行セラルルモノト解釈ス然レドモ事実ニ於テハ新領土ニ対シ帝国憲法ノ各条章ヲ施行セザルヲ適当ト認ムルヲ以テ憲法ノ範囲ニ於テ除外法規ヲ制定スベシ
「日本外交年表竝主要文書 上巻」外務省編より
☆韓国併合関係略年表
・1894年(明治27)7月25日 朝鮮の豊島沖で日清間の武力衝突(豊島沖海戦)を契機に日清戦争が勃発する
・1895年(明治28)4月17日 日清戦争の講和により、「下関条約」を締結し、朝鮮半島における清国の影響を排することに成功する
・1895年(明治28)10月8日 李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃の暗殺(乙未事変)が起きる
・1896年(明治29)2月 李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に逃亡する露館播遷が起きる
・1897年(明治30)10月12日 大韓帝国に国号を変更する
・1904年(明治37)2月10日 日露の相互宣戦布告により、日露戦争が開戦される
・1904年(明治37)2月23日 日本と大韓帝国とで「日韓議定書」が結ばれる
・1904年(明治37)8月22日 日本と大韓帝国とが「第一次日韓協約」を結ぶ
・1905年(明治38)9月5日 「日露講和条約」(ポーツマス条約)が調印され、日露戦争が終結する
・1905年(明治38)11月 「第二次日韓協約」(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される
・1905年(明治38)12月21日 「韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件」(明治38年勅令第240号)に基づいて韓国統監府が設置される
・1907年(明治40)6月15日 オランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に、日本による韓国支配の糾弾するため密使を派遣したが失敗に終わる(ハーグ密使事件)
・1907年(明治40)7月24日 韓国は「第三次日韓協約」を結んで内政権を日本に譲る
・1907年(明治40)8月1日 大韓帝国の軍隊を解散させる
・1909年(明治42)7月6日 桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定する
・1909年 (明治42)10月26日 ロシア帝国のハルビン駅頭で日本の枢密院議長伊藤博文が朝鮮民族主義者の安重根に暗殺される
・1910年(明治43)6月3日 桂内閣は「韓国に対する施政方針」を閣議決定する
・1910年(明治43)8月22日 韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印される
・1910年(明治43)8月29日 裁可公布により「韓国併合条約」が発効、大日本帝国は大韓帝国を併合する
・1910年(明治43)9月30日 大日本帝国領がた朝鮮を統治するため、朝鮮総督府が設置される
・1911年(明治44)8月24日 「朝鮮教育令」が発布される
・1919年(大正8)3月1日 大日本帝国からの独立運動である三・一運動が起きる
・1919年(大正8)4月15日 堤岩里事件が発生する
・1945年(昭和20)9月12日 日本の太平洋戦争敗戦により、朝鮮半島は アメリカ合衆国とソビエト連邦に分割占領され、朝鮮総督府が廃止される
・1948年(昭和23)8月15日 大韓民国が建国される
・1948年(昭和23)9月9日 朝鮮民主主義人民共和国が建国される
・1952年(昭和27)4月28日 サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は朝鮮に対する権利、権原及び請求権を正式に放棄する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1872年(明治5) | 歌人・国文学者佐佐木信綱の誕生日(新暦7月8日) | 詳細 |
1900年(明治33) | 詩人・映画評論家北川冬彦の誕生日 | 詳細 |
1949年(昭和24) | 「測量法」が制定・公布される(測量の日) | 詳細 |
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