今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、愛媛県の別子銅山において、運搬夫の指導者山田豊次郎が解雇され、別子銅山争議(別子暴動とも)が始まった日です。
別子銅山争議(べっしどうざんそうぎ)は、住友財閥が経営した愛媛県の別子銅山において発生した労働争議でした。明治時代後期以降度々起きていますが、1907年(明治40)と1925年(大正14)の争議は規模が大きく、この2つのことを指す場合が多いとされます。
1907年(明治40)の労働争議は、前年の飯場制度改革後、賃金の低下、係員の威圧的態度への鉱夫の反感が強まり、5月にかけて運搬夫が賃上げを要求したものの、採鉱課が取り上げなかったため、6月1日に鉱夫・運搬夫ら三百数十名が集会を開き、約3割の賃上げ要求を出し、拒否された場合はストライキ実行を申し合わせました。しかし、翌日に運搬夫の指導者山田豊次郎が、翌々日には鉱夫の指導者山崎鹿太郎が解雇されたため争議に突入することとなります。
6月4日に運動に参加した鉱夫・運搬夫らが全員退職届を提出、賃金の一括支払いを求め、交渉委員が採鉱課員と話し合ったものの、決裂しました。そこで、回答を待っていた鉱夫らが採鉱課の門柵を破って乱入、暴動に発展して、採鉱課出張所、守衛部・木炭倉庫・石炭倉庫・販売部・電話交換所を焼き払らう事態に至り、別子全山に広がります。
警察のみならず、軍隊も出動して鎮圧にあたったため、同月7日までに鎮圧されました。この暴動により警察は62名を検挙、35名を起訴し、12月に松山地方裁判所は指導者3名を懲役13年に処すなど30名が有罪となっています。
1925年(大正14)の争議は、日本労働総同盟系の別子労働組合が12月に不当解雇反対、組合抑圧の中止、死傷者の手当改善などを要求してストライキに突入したことで始まりました。その中で、御用組合側との衝突、争議団員による住友本社への襲撃、発電所・水路破壊などの諸事件が発生します。翌年2月に会社側は労働者172人を解雇、結局同月16日に県知事が調停に入り、争議団がこの解雇を認め、金一封の支給を受けて終息したものの、組合は壊滅しました。
〇別子銅山(べっしどうざん)とは?
江戸時代中期の1690年(元禄3)に発見され、翌年から約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した大鉱山で、一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が巨大財閥となる礎となります。鉱床は三波川変成岩類の緑泥片岩、石墨片岩、石英片岩などの岩層中に含まれる層状含銅硫化鉄鉱床で、銅を中心に金、銀、亜鉛、硫化鉄鉱を産出、明治初年には、フランス人技師ルイ・ラロックによる施設の近代化が進められました。
しかし、近代化に伴い鉱毒水による河川の汚染や煙害問題により、住民の反対運動が起き、1895年(明治28)に製錬所の四阪島移転など煙害防除等に腐心し、中和工場をつくるなどの対策をしています。また、度々労働争議が起きましたが、特に1907年(明治40)と1925年(大正14)は大規模なものとなりました。
坑道もどんどん拡張されていき、1962年(昭和37)には、全長4,455mに及ぶ大斜坑を完成、深部開発と採鉱の効率向上に努めています。ところが、採鉱が深部に及び過ぎ、災害発生の危険増大と鉱石品位の顕著な低下のため、1973年(昭和48)に閉山しました。
その後、1991年(平成3)6月5日に、銅山のテーマパーク「マイントピア別子」としてオープンし、現在は“端出場ゾーン”に本館があり、旧火薬庫を改造して作られた観光坑道(長さ333m・別子銅山の様子を再現)との間を、鉱山鉄道(日本初の山岳鉄道)が復元されて、別子1号が運行されています。また、標高750mの山中にある“東平ゾーン”には、銅にまつわる品々を展示する「東平歴史資料館」、レンガ造りの旧保安本部を活用して銅板レリーフなどを体験できる「マイン工房」、その他数々の産業遺跡が整備されていて、端出場ゾーンとの間を観光バス(要予約)で結ぶようになりました。
また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されています。
〇「明治40年7月の別子銅山守衛の報告」
「今回ノ暴動迄ヲモ惹起シ運動シタルニモ不拘賃金値上運動ガ不首尾二終リタルヲ遺憾トシ再上賃金値上ケノ嘆願ヲ為スベシト然し共今回ノ以前ノ如ク聴許キトキハ暴起スル等ノ軽挙ヲ為サズ極メテ静穏二嘆願シ若シ聴届ケラレザル時ハ潔ヨク袖ヲ連ネテ退山シ退山後ハ全国ノ鉱山二其旨ヲ通知シ當鉱山ノ各飯場二対シテハ|切飯場交際ヲ断夕シメ而シテ富鉱山ヘハ一人ノ坑夫ヲモ行カシメズシーナ當鉱業所ノ事業ヲ障害スルノ方針ヲ執ルベシト。」
「日本労働運動史料」第二巻より
☆戦前の主要な労働争議(ストライキ)一覧
・1907年(明治40)2月 足尾銅山争議
・1907年(明治40)6月 別子銅山争議 約800人参加
・1911年(明治44)12月~ 東京市電争議 6,000人参加
・1917年(大正6)6月 三菱長崎造船所争議
・1920年(大正9)2月 八幡製鉄所争議 2万4千人参加
・1920年(大正9)6~8月 三菱・川崎造船所争議 3万8千人参加
・1925年(大正14)12月~ 別子銅山争議 約1,400人参加
・1926年(大正15)1~3月 共同印刷争議(60日間)約2,000人参加
・1926年(大正15)4月~ 浜松の日本楽器争議(105日間)約1,200人参加
・1927年(昭和2)4月~ 野田醤油労働争議(216日間)約1,400人参加
・1927年(昭和2)8月~ 山一林組製糸争議 約1,300人参加
・1930年(昭和5)春 鐘紡争議
・1930年(昭和5)9月 東洋モスリン亀戸工場争議 約2,500人参加
・1932年(昭和7)3月 東京地下鉄争議
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1582年(天正10) | 京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する | 詳細 |
1716年(享保元) | 画家・工芸家尾形光琳の命日(新暦7月20日) | 詳細 |
1743年(寛保3) | 陶工・絵師尾形乾山の命日(新暦7月22日) | 詳細 |
1859年(安政6) | 前年締結の「日米修好通商条約」により、横浜・長崎が開港される(新暦7月1日) | 詳細 |