ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年05月

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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、「塘沽協定」 の締結によって、満州事変が終結した日です。
 塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1931年(昭和6)に勃発した満州事変に関して、熱河作戦後に中国河北省塘沽(タンクー)において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定でした。1933年(昭和8)2月に日本軍は熱河作戦を開始し、4月には河北省に侵入、北京・天津 に迫ったので、対中国共産党作戦に重点をおく蒋介石は対日和平策をとり、5月31日に岡村寧次関東軍参謀副長と熊斌北平軍事分会総参議によって調印されたものです。
 主要な内容は、①中国軍の延慶、通州、蘆台を結ぶ線以西および以南への撤退、②日本軍による中国軍撤退の確認、③日本軍の長城の線への撤退、④長城線以南と①項の線以北・以東地域に非武装地帯を設けることなどからなっていました。この協定は即日発行し、中国は満州と熱河の放棄を事実上承認し、長城以南に非武装地帯を設け、華北における有力な軍事的拠点を日本軍に与え、その後の華北分離工作の重要な布石となります。
 しかし、これによって両国の関係を好転させることはなく、逆に1937年(昭和12)の日中戦争勃発へと繋がっていきました。
 以下に、「塘沽協定」 を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇満州事変とは?

 昭和時代前期の1931年(昭和6)9月18日、中国東北部の奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まり、1933年(昭和8)5月31日の「塘沽協定」 での停戦まで続いた日本の満州(中国東北部)に対する軍事行動でした。
 日露戦争後の1905年(明治38)9月4日締結の「ポーツマス条約」で利権を得た南満州鉄道株式会社 (満鉄) を拠点として、日本は満州に対する独占的支配に乗出し、政治的経済的進出をはかります。その中で、関東軍が奉天郊外の柳条湖で満鉄を爆破し、これを中国軍の行為であるとして「自衛のため」と称して満鉄沿線一帯で軍事行動(柳条湖事件)を起しました。
 同年10月の錦州爆撃などにより南満州を占領、さらに北部満州の占領を企図し、11月チチハル占領、翌年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領して、東三省(奉天・吉林・黒竜江の3省)におよぶ満州全域を支配下におさめます。そして、1932年(昭和7)3月9日に、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政に就任させて傀儡国家「満州国」を建国させました。
 そこで、国際連盟は中国の提訴により満州事変に関して、リットン調査団を派遣してその報告書を採択、日本軍の東北撤退を勧告することとなります。しかし、日本はこれを拒否し、1933年(昭和8)2月からの熱河作戦で熱河省を占領、3月に国際連盟を脱退、5月31日には、中国との間で「塘沽協定」を結び停戦して、中国東北部での権益を確保し、「満州国」を既成事実化させることで満州事変は一応終わりました。
 この後、1937年(昭和12)7月7日の蘆溝橋事件による日中戦争全面化から、1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開戦へと進んでいくこととなります。

〇「停戦に関する協定」(塘沽協定) 1933年(昭和8)5月31日

關東軍司令官元帥武藤信義ハ昭和八年五月二十五日密雲ニ於テ國民政府軍事委員會北平分會代理委員長何應欽ヨリ其ノ軍使同分會參謀徐燕謀ヲ以テセル正式停戰提議ヲ受理セリ

右ニ依リ關東軍司令官元帥武藤信義ヨリ停戰協定ニ關スル全權ヲ委任セラレタル同軍代表關東軍參謀副長陸軍少將岡村寧次ハ塘沽ニ於テ國民政府軍事委員會北平分會代理委員長何應欽ヨリ停戰協定ニ關スル全權ヲ委任セラレタル北支中國軍代表北平分會總參謀陸軍中將熊斌ト左ノ停戰協定ヲ締結セリ

一、中國軍ハ速ニ延慶、昌平、高麗營、順義、通州、香河、實抵、林亭口、寧河、蘆薹、ヲ通スル線以西及以南ノ地區ニ一律ニ撤退シ爾後同線ヲ超エテ前進セス
 又一切ノ挑戰攪乱行爲ヲ行フ事ナシ

二、日本軍ハ第一項ノ實行ヲ確認スル爲随時飛行機及其他ノ方法ニ依リ之ヲ視察ス
 中國側ハ之レニ對シ保護及諸般ノ便宜ヲ與フルモノトス

三、日本軍ハ第一項ニ示ス規定ヲ中國軍カ遵守スル事ヲ確認スルニ於テハ前期中國軍ノ撤退線ヲ越エテ追撃ヲ續行スル事ナク自主的ニ槪ネ長城ノ線ニ歸還ス

四、長城線以南ニシテ第一項ニ示ス線以北及以東ノ地域内ニ於ケル治安維持ハ中國側警察機關之レニ任ス
 右警察機關ノ爲ニハ日本軍ノ感情ヲ刺戟スルカ如キ武力團體ヲ用フル事ナシ

五、本協定ハ調印ト共ニ效力ヲ發生スルモノトス

 右證據トシテ兩代表ハ茲ニ記名調印スルモノナリ

 昭和八年五月三十一日

  関東軍代表 岡村寧次

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1937年(昭和12)文部省編纂『国体の本義』が発行され、全国の学校等へ配布される詳細
1943年(昭和18)御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定される詳細
1944年(昭和19)俳人・翻訳家・新聞記者嶋田青峰の命日(青峰忌)詳細
1974年(昭和49)写真家木村伊兵衛の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の占領下の1950年(昭和25)に、皇居前広場(通称:人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される「人民広場事件」が起きた日です。
 人民広場事件(じんみんひろばじけん)は、皇居前広場(通称:人民広場)において、民主民族戦線東京準備会主催で、5万人規模(主催者発表)の人民決起大会が開催されたおり、私服警官が集会に紛れ込んでいたのを追及したのを機に警備をしていた占領軍との衝突に発展し、8名の労働者・学生が逮捕された事件でした。これは、5日後に控えていた参議院選挙投票に対するGHQの政治活動抑圧のアッピールとも考えられ、6月2日には、警視庁が皇居前広場と日比谷公園のデモ・集会使用を永久禁止する方針を発表、さらに3日には、異例の速さで実施された占領軍の軍事裁判で、人民広場事件逮捕者に重労働10年などの有罪判決が下されています。
 その後、7月18日にマッカーサー(連合国軍最高司令官)が、日本共産党機関紙『アカハタ』の無期限発行停止を指令、7月24日にGHQが新聞協会代表に共産党員と同調者の追放を勧告し、レッドパージが開始されました。続いて、8月30日にGHQが全労連の解散を指令、9月1日に閣議が公務員のレッドパージ方針を決定、9月21日に映画界のレッドパージ始まり、10月23日に私鉄36社が516人をレッドパージ、11月13日には国鉄のレッドパージ開始で、470人に解雇通告されるなどレッドパージの嵐が吹き荒れることとなり、政府やGHQを批判する労働運動や政治活動に大きなダメージを与えます。
 この一方で、公職追放されていた軍国主義者の追放解除、警察予備隊(現在の自衛隊の前身)の結成、学校行事への「日の丸・君が代」の復活、道徳教育の開始など当時軍国主義の復活ではないかとされ、「逆コース」と呼ばれた一連の動きが進められました。

〇戦後占領下での大衆運動、政治運動と「逆コース」の推移

<1947年(昭和22)>
・1月1日 吉田首相が年頭ラジオ放送で労働運動指導者を「不逞の輩」と呼んで問題となる
・1月31日 マッカーサー連合国軍最高司令官が「二・一ゼネスト」の中止を命令する

<1948年(昭和23)>
・4月8日 東宝争議が始まる(東宝は、経営不振を理由に270人の解雇を通告し、労働組合側は拒否)
・6月7日 国労が手当などを要求し鶴見線で終日ストを決行する
・7月31日 政令201号が公布され、公務員労働者から、団体交渉権を厳しく制限し、争議権を奪う
・10月19日 東宝争議が終結し、解雇通告の撤回と引き換えに、山本薩夫ら組合幹部20人が退社する
・11月29日 海員組合が48時間ストに突入し、全船舶が停船する

<1949年(昭和24)>
・4月4日 「団体等規制令」が公布され、主に左翼政治団体が取り締まりの対象とされる
・5月12日 東京三田の職業安定所で、自由労働者が「仕事よこせ闘争」を開始し、全国へ波及する
・5月14日 炭労740組合42万人が48時間ストに突入する
・5月31日 「行政機関職員定員法」の公布により、285,124人が整理の対象となる
・7月1日 政府が国鉄労組に9万5千余人の整理通告をする
・7月4日 マッカーサー連合国軍最高司令官が、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明する
・7月6日 常磐線北千住~綾瀬駅間で国鉄総裁下山定則が汽車に轢断された遺体で発見される(下山事件)
・7月15日 中央本線三鷹駅構内で、無人列車が暴走して車止めに激突する事故(三鷹事件) が発生する
・7月19日 民間情報教育局(CIE)教育顧問イールズ、共産主義教授を追放せよと演説する
・8月17日 東北本線松川~金谷川駅間で列車転覆事故(松川事件)が発生する
・9月17日 東京都が都職員の人員整理を断行し、千百余人に辞令が出される
・9月28日 全国教育長会議が「赤色教員」追放を決議、各県で教員レッドパージが広まる
・10月2日 全労連などが反ファッショ平和擁護大会を開催する
・10月5日 日産自動車が組合に2,000人の整理通告をする
・10月20日 「東京都公安条例」が公布・施行され、これによりデモが届け出制となる          
・12月25日 マッカーサーが戦犯で4年以下の刑で服役中のBC級46人に特赦令を出す

<1950年(昭和25)>
・2月10日 GHQが沖縄に「恒久的な基地」を建設すると発表する
・2月13日 東京都教育庁がレッドパージにより教員246人に退職を勧告する
・3月3日 自由労働者が完全就労要求し、東京八王子の職安に座りこみで68人が検束される
・3月7日 GHQが戦犯の仮釈放制度を制定と発表する
・3月25日 炭労の全国360組合31万人がストへ突入する 
・5月2日 東北大学でのイールズ講演会に学生が抗議し、流会となる
・5月30日 皇居前広場(通称:人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)
・6月2日 警視庁が皇居前広場と日比谷公園のデモ・集会使用永久禁止の方針を発表する
・6月3日 占領軍の軍事裁判で人民広場事件逮捕者に重労働10年等の有罪判決が下される
・6月13日 文部省が「学生が学外での政治集会やデモに参加することを禁止する」文相談話を発表する
・7月8日 マッカーサー連合国軍最高司令官が、警察予備隊の創設と海上保安庁保安員の増員を指令する
・7月18日 マッカーサー連合国軍最高司令官が『アカハタ』の無期限発行停止を指令する
・7月24日 GHQが新聞協会代表に共産党員と同調者の追放を勧告しレッドパージが始まる
・8月9日 レッドパージの被解雇者ら中心に、言論弾圧反対同盟が結成される
・8月23日 警察予備隊が第1次合格者約7,000人の入隊をもって発足する 
・8月30日 GHQが全労連の解散を指令、全日本学生自治会総連合(全学連)がレッドパージ反対闘争を始める
・9月1日 閣議が公務員のレッドパージ方針を決定する
・9月21日 映画界のレッドパージ始まる
・10月13日 政府が戦犯覚書該当者を除く解除訴願中の10,090人の公職追放解除を発表する
・10月17日 文部省が学校行事に「日の丸・君が代」復活との天野貞祐文相談話を通達する    
・10月23日 私鉄36社が516人をレッドパージする
・11月13日 国鉄のレッドパージ開始で、470人に通告される
・12月13日 「地方公務員法」が公布され、地方公務員の争議行為禁止が規定される

<1951年(昭和26)>
・2月7日 三井・北炭など4労組が無期限ストに突入する
・4月11日 トルーマン米国大統領が国連軍最高司令官・連合国軍最高司令官マッカーサーを解任する
・4月26日 文部省が教師用の「道徳教育手引要綱」を発表する 
・8月16日 旧陸海軍将校1万1,185人の追放を解除する
・9月8日 「サンフランシスコ講和条約」と「日米安全保障条約」(旧)が調印される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1950年(昭和25)「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に、横浜大空襲が行われ、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者は311,218人を出した日です。
 横浜大空襲(よこはまだいくうしゅう)は、太平洋戦争末期に、マリアナ基地を発進した米軍のB-29爆撃機517機とP-51戦闘機101機による京浜地区に対する昼間の大規模な空襲でした。横浜市街地中心に、午前9時20分~10時半頃までの約1時間で、総数43万8,576個(2,569.6トン)の大量の焼夷弾が投下され、被害面積は17.8平方kmで市域臨海部の34%が壊滅します。
 これによる被害は、直後の公式発表によれば、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者は311,218人とされますが、実際には死者8,000人から1万人に上るとも言われてきました。横浜市における空襲ではこの日に最大の被害が出ましたが、本格的な本土空襲が始まった1944年(昭和19)暮以降、横浜市を襲った空襲は29回にも及び、それ以前にも1942年(昭和17)4月18日のドゥリットル空襲でも、機銃掃射によるも死者1人が出ています。
 その内、B-29爆撃機による横浜市の空襲は、1944年(昭和19)12月25日を最初に計18回あり、艦載機および戦闘機P51による空襲は、1945年(昭和20)2月16日を最初として、計11回に及びました。5月29日に次ぐ被害を出したのが、同年4月15日の鶴見・川崎空襲で、死者972人(内横浜市345人)、罹災住宅5万2655戸(内横浜市1万9,189戸)で、次いで4月4日には、川崎の他鶴見・港北・神奈川・西各区が被害を受け、死者398人(内横浜市214人)、罹災戸数5,873戸(内横浜市4,103戸)とされています。
 その他の都市でも、3月12日名古屋、10日東京、14日大阪、17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京西部地域、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月24日未明と5月25日-26日に再び東京と大都市が空襲されてきました。その後は、空襲は地方の中小都市へと移り、8月6日の広島原爆投下、8月9日の長崎原爆投下へと至って、日本全土が多大な被害を受け、8月15日の敗戦となっています。

〇太平洋戦争下の主要な空襲一覧

 <1942年(昭和17)>
・4月18日 東京、名古屋、神戸などが初空襲される(ドウリットル指揮の16機の米陸軍機B-25による)

 <1944年(昭和19)>
・11月24日 B-29による初めての東京空襲が行われる

<1945年(昭和20)>
・1月19日 阪神地方へ初の本格的空襲が行われる
・3月10日 東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る
・3月12日 名古屋大空襲で中心街が消失する(家屋25,734棟棟被災、105,093人罹災、死者519人、負傷者負傷者734人)
・3月13~14日 大阪へ初の大空襲が行われる
・3月17日 神戸大空襲が行われ神戸市西部が消失する(約65,000棟が全半焼、死者2,598人)
・3月19日 名古屋大空襲で名古屋駅が炎上する(家屋39,893棟被災、151,332人罹災、死者826人、負傷者2,728人)
・3月29日 北九州が空襲される
・4月4日 川崎の他鶴見・港北・神奈川・西各区が空襲を受ける(罹災戸数5,873戸、死者398人)
・4月13日 東京空襲(西部地域)が行われる
・4月15日 東京・横浜・川崎の空襲が行われる(罹災住宅5万2655戸、死者972人)
・5月14日 名古屋空襲で名古屋城が焼失する(家屋21,905棟被災、66,585人罹災、死者338人、負傷者783人)
・5月24日 東京へ250機来襲し、皇居が炎上する
・5月25~26日 東京空襲(山手地域)が行われる
・5月29日 京浜へ600機来襲し、川崎、横浜が被災(横浜大空襲)する(死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人)
・6月1日 大阪、尼崎等へ400機来襲する
・6月5日 兵庫県神戸市へ350機来襲する(西部の神戸市垂水区から東部の西宮市まで広範囲が爆撃される)
・6月7日 大阪周辺へ250機来襲する
・6月29日 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)
・7月9日 和歌山大空襲で和歌山城が消失する(焼失家屋31,137戸、被災者113,548人、死者・行方不明者1,424人)
・7月14日 青函連絡船の翔鳳丸など9隻が米艦載機の攻撃を受けて沈没する
・8月5日 B-29爆撃機92機が前橋市・高崎市を空襲し、死傷者1,323人が出る
・8月6日 B-29が広島に原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われる
・8月7日 愛知県の豊川海軍工廠が爆撃され女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人の死者を出す
・8月8日 福山大空襲で福山城が消失する(焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人、死者354人)
・8月9日 B-29が長崎にも原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、8万人弱の人命が喪われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1889年(明治22)小説家・随筆家・俳人内田百閒の誕生日詳細
1942年(昭和17)歌人・詩人与謝野晶子の命日(白櫻忌)詳細
1952年(昭和27)国際通貨基金(IMF)と世界銀行が日本の加盟を承認する詳細
1981年(昭和56)日本で7番目の地下鉄として、京都市営地下鉄が開業(烏丸線北大路駅~京都駅間)する詳細
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santoushyou01

 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、「山東派兵に関する政府声明」が出されて、第一次山東出兵が始まった日です。
 山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、1927年(昭和2)から翌年にかけて、田中義一内閣が在留邦人保護の名目で、三次にわたって、中国山東省に出兵した事件でした。蔣介石の率いる中国国民党革命軍の北伐を阻止し、満州・華北への勢力拡大をねらったものでしたが、たび重なる出兵は中国の抗日民族運動を強め、日本国内でも対華非干渉運動を巻き起こすことになります。
 1926年(大正15/昭和元)に、蔣介石は中国国民党による中国革命を進め、国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始しました。翌年4月17日に、不干渉主義を保持していた若槻内閣が総辞職し、同月20日に田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)内閣が発足すると、中国革命に干渉し、国民党軍から親日の張作霖政権を守るため、5月27日に「山東派兵に関する政府声明」を出し、不祥事件予防、居留民保護と称して、在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令(第一次山東出兵)を下します。
 6月1日には、青島上陸を完了し、山東省に展開したものの、南京政府の抗議や国際的な反対が強まると共に、国民党軍が北上を中止したので8月には撤兵を決め、9月8日に完了しました。1928年(昭和3)に、蒋介石が北伐を再開すると、4月20日に支那駐屯軍の天津部隊3個中隊と内地から第6師団の一部が派遣され、4月26日には済南に到着し、6千人が山東省に展開(第二次山東出兵)します。
 そして、5月3日には、日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生(済南事件)しました。その状況下で、緊急閣議を開いて、出兵の増派を決定、5月9日には、第3師団の山東派遣が命令(第三次山東出兵)されます。
 5月11日には、日本軍が山東半島全域とその主要都市済南を占領(済南事変)したため、国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京を目指すこととし、6月8日に北京に入城しました。1929年(昭和4)3月末に、和平交渉がようやく成立し、5月には、済南城から日本軍が撤退して、山東出兵は終結しましたが、反日運動の激化を招き、同時に英米の日本批判も強まることとなります。
 以下に、「山東派兵に関する政府声明」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「山東派兵に関する政府声明」 1927年(昭和2)5月28日

支那二於ケル最近ノ動亂殊ニ南京、漢口其ノ他ノ地方ニ於ケル事件ノ實跡ニ徴スルニ兵亂ノ際支那官憲ニ於テ保護十分ナルヲ得サリシ爲在留帝國臣民ノ生命財産ニ對スル重大ナル危害ヲ被リ甚シキハ帝國ノ名譽毀損ノ暴擧ヲ見タリ從テ現下北支ノ動亂切迫ノ際此ノ種事件再發ノ虞ナキヲ保セス今ヤ右戰亂ハ濟南地方ニ波及セムトシ同地在留帝國臣民ノ生命財産ノ安全ニ付危惧ノ念措ク能ハサルモノアリ同地ニハ帝國臣民ノ居住スルモノニ千ノ多數ニ上リ而モ同地ハ海岸ヲ距ルコト遠キ奥地ニ在ルヲ以テ長江沿岸各地ニ於ケル如ク海軍力ニ依リ之ヲ保護スルコト到底不可能ナルニ依リ帝國政府ニ於テハ不祥事件ノ再發ヲ豫防スル爲陸兵ヲ以テ在留邦人ノ生命財産ヲ保護スルノ已ムヲ得サルニ至レリ然ルニ右保護ノ爲派兵ノ手配ヲ爲スニハ相當日子ヲ要シ而モ戰局ハ刻々攣化シツツアルニ顧ミ應急措置トシテ在滿部隊ヨリ約二千ノ兵ヲ不取敢靑島ニ派遣シ置クコトニ決セリ右陸軍力ニ依ル保護ハ固ヨリ在留邦人ノ安全ヲ期スル自衞上已ムヲ得サルノ緊急措置ニ外ナラスシテ支那國及其ノ人民ニ對シ何等非友好的意圖ヲ有セサルノミナラス南北兩軍何レノ軍隊ニ對シテモ其ノ作戰ニ干渉シ軍事行動ヲ妨礙スルモノニ非ス

帝國政府ハ斯ノ如ク自衛上已ムヲ得サル措置トシテ派兵ヲ行フト雖モ初メヨリ永ク駐屯セシムルノ意圖ナク同地方ノ邦人ニシテ戰亂ノ患ヲ受クルノ虞ナキニ至ラハ直ニ派遣軍全部ヲ撤退スヘキコトヲ茲ニ聲明ス

   「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より

☆山東出兵関係略年表

<1915年(大正4)>
・1月18日 中華民国政府に対しドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した「21か条の要求」を提出する
・5月25日 「山東省に関する条約」、「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」、「膠洲湾租借地に関する交換公文」として承認される

<1918年(大正7)>
・9月 満蒙四鉄道および膠済鉄道の延長線である済順鉄道(済南‐順徳)、高徐鉄道(高密‐徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取極めが交わされる

<1919年(大正8)> 
・パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で、山東問題について、大日本帝国は対支21ヶ条要求を中華民国が受諾したと主張したが、中華民国は対支21ヶ条要求は強要されたもので、山東は自国に復帰すると主張した[4]。イギリスとフランスは前者を支持したが、アメリカ合衆国は後者に同情的だったため、大日本帝国は要求が拒否されるなら国際連盟規約に調印しないと迫ったため、アメリカ合衆国が譲歩した[4]。中華民国は、大日本帝国によるドイツ山東省権益の継承に反発し、ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり五・四運動となり、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、

<1922年(大正11)> 
・2月4日 「山東還付条約」締結によって、青島を含んだ山東省を中国に還付することとなる

<1926年(大正15/昭和元)>
・中国の蔣介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始する

<1927年(昭和2)>
・1月 イギリス租界奪取事件が起き、イギリスは租界の居留民を保護するため、日本に共同出兵を要請したが断る
・3月 揚子江下流の南京での国民革命軍と軍閥部隊との衝突に巻き込まれた日本を含む居留民に多くの被害が出る(南京事件)
・4月3日 漢口事件が起きる
・4月18日 上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立、イギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本側はいまだその必要がない旨を回答する
・4月17日 若槻内閣は総辞職する
・4月20日 立憲政友会の田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生する
・5月27日 政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定する
・5月28日 「山東派兵に関する政府声明」が出され、陸軍中央部は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下す(第一次山東出兵)
・5月30日 歩兵第33旅団は大連を出発する
・5月31日 歩兵第33旅団が青島に入港する
・6月1日 歩兵第33旅団が青島上陸を完了する
・7月3日 北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとする
・7月4日 藤田栄介済南総領事は外務大臣に旅団の西進を申請する
・7月5日 閣議で旅団の西進の必要が認められる
・7月8日 旅団は済南に進出、閣議で兵力増派の要請が承認される、
・7月12日 在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が、青島に上陸する
・8月13日 蔣介石は武漢政府(汪兆銘政権)との合流を優先させてに下野を宣言し、北伐は一時的に中断する
・8月24日 日本政府は閣議で撤兵を決定する
・9月8日 撤兵を完了する

<1928年(昭和3)>
・3月、蔣介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近する
・4月末 10万人の北伐軍が市内に突入する
・4月20日 支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、臨時済南派遣隊が済南到着する
・4月26日 第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開する(第二次山東出兵)
・5月3日 日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生する(済南事件)
・5月4日 日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定する
・5月8日 閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認する
・5月9日 第3師団の山東派遣が命じられる(第三次山東出兵)
・5月10日から11日 北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開する
・5月11日 済南城ならびに済南全域を占領する(済南事変)
・6月8日 国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京に入城する

<1929年(昭和4)>
・3月末 和平交渉がようやく成立する
・5月 済南城から日本軍が撤退して終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1119年(元永2)第75代天皇とされる崇徳天皇の誕生日(新暦7月7日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が長崎の出島の造成を命じる(新暦6月23日)詳細
1635年(寛永12)江戸幕府により、「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)が布告される(新暦7月12日)詳細
1953年(昭和28)小説家堀辰雄の命日(辰雄忌)詳細
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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、山陽鉄道(後の山陽本線)厚狭駅~馬関駅(現在の下関駅)間が延伸開業し、神戸駅~馬関駅間が全通、東京から下関までが鉄道でつながった日です。
 山陽鉄道(さんようてつどう)は、1888年(明治21)に、三井財閥,藤田伝三郎などの出資により設立(本社は神戸の西柳原町)され、近畿・中国・四国に路線を有した、明治時代の大私鉄会社でした。1888年(明治21)11月1日に、最初に兵庫駅~明石駅間で開業し、西へ向かって徐々に路線を延伸させ、1901年(明治34)5月27日には、神戸駅~馬関駅(現在の下関駅)間が全通(現在の山陽本線)します。
 一方で、1903年(明治36)に播但鉄道(姫路駅~新井駅間)、1904年(明治37)に讃岐鉄道(高松駅~琴平駅間)から事業譲渡を受け、近畿・四国地方にも路線を延ばしました。その中で、サービス改善に心がけ、1894年(明治27)に急行列車の設定、1898年(明治31)に食堂車、1900年(明治33)に寝台車を初めて運行するなどしています。
 また、1898年(明治31)から徳山~門司間に傍系の山陽汽船による連絡船を運航し、1901年(明治34)の全通時に関門連絡船を設け、1903年(明治36)には岡山~高松間および尾道~多度津間に連絡船を走らせ、宮島渡航を買収、1905年(明治38)に関釜連絡船(下関~朝鮮半島の釜山間)を就航させるなど船舶事業も展開しました。さらに、1902年(明治35年)には、日本最初の鉄道経営ホテルとなる「山陽ホテル」の営業を開始しています。
 しかし、1906年(明治39)12月1日に、「鉄道国有法」により、他の16社の私設鉄道と共に国有化されましたが、国有化時の資本金は3,610万円、路線延長は693.0kmありました。

〇山陽鉄道関係略年表

・1888年(明治21)1月 山陽鉄道株式会社が設立され、本社は神戸の西柳原町に置かれる
・1888年(明治21)4月 株主総会で中上川彦次郎が社長に選出される
・1888年(明治21)11月1日 兵庫駅~明石駅間が初めて開業する
・1888年(明治21)12月23日 明石駅~姫路駅間が延伸開業する
・1889年(明治22)9月1日 神戸駅~兵庫駅間が延伸開業する
・1889年(明治22)11月11日 姫路駅~竜野仮停車場駅間が延伸開業する
・1890年(明治23)7月8日 貨物支線(和田岬線)兵庫駅~和田崎町駅間が開業する
・1890年(明治23)7月10日 竜野仮停車場~有年駅間が延伸開業する
・1890年(明治23)12月1日 有年駅~三石仮停車場駅間が延伸開業する
・1891年(明治24)3月18日 三石仮停車場~岡山駅間が延伸開業する
・1891年(明治24)4月25日 岡山駅~倉敷駅間が延伸開業する
・1891年(明治24)7月14日 倉敷駅~笠岡駅間が延伸開業する
・1891年(明治24)9月11日 笠岡駅~福山駅間が延伸開業する
・1891年(明治24)11月3日 福山駅~尾道駅間が延伸開業する
・1892年(明治25)7月20日 尾道駅~三原駅(初代)駅間が延伸開業する
・1894年(明治27)6月10日 糸崎駅~広島駅間が延伸開業する
・1894年(明治27)10月 長距離急行列車を運転を開始する
・1897年(明治30)9月25日 広島駅~徳山駅間が延伸開業する
・1898年(明治31) 車内灯の電化・ボーイの添乗、食堂車を連結する
・1900年(明治33)4月 日本で初の寝台車を導入する
・1900年(明治33)12月3日 三田尻駅~厚狭駅間 が延伸開業する
・1901年(明治34)5月27日 厚狭駅~馬関駅間が延伸開業し、神戸駅~馬関駅間の路線が全通、関門連絡船の運航が開始される
・1901年(明治34) 日本初の優等列車「最急行」(特急列車の元とされる)を走らせる
・1902年(明治35)11月1日 日本初の鉄道経営ホテルである山陽ホテルの営業を開始する
・1903年(明治36)6月 経営悪化した播但鉄道から事業譲渡を受ける
・1903年(明治36) 二等寝台車を投入する
・1904年(明治37)12月1日 讃岐鉄道から事業譲渡を受ける
・1906年(明治39)12月1日 「鉄道国有法」により、山陽鉄道が国有化される
・1909年(明治42) 国鉄山陽本線、播但線、大嶺線(後の美祢線の一部)、讃岐線(後の予讃線と土讃線のそれぞれ一部)となる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)墾田永年私財法」が出される(新暦6月23日)詳細
1235年(文暦2)藤原定家によって「小倉百人一首」が完成された(百人一首の日)詳細
1273年(文永10)鎌倉幕府第7代執権北条政村の命日(新暦6月13日)詳細
1938年(昭和13)「日独防共協定」締結による同盟強化に伴い、大日本青少年独逸派遣団が出発する詳細
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