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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、岩波書店から新村出編『広辞苑』初版が発行された日です。
 『広辞苑(こうじえん)』は、岩波書店発行で、新村出が編集した中型国語辞典で、国語辞典と百科事典を兼ね備えたものでした。昭和初期に出版された博文館発行の『辞苑(じえん)』の改訂作業を引継ぎ、太平洋戦争後新たに発行元を岩波書店、書名を『広辞苑』と改めて出版され、約20万語を収録、挿入図版2千余図となっています。
 1969年(昭和44)に第二版、1976年(昭和51)に第二版補訂版、1983年(昭和58)に第三版、1991年(平成3)に第四版、1998年(平成10)に第五版、2008年(平成20)に第六版、2018年(平成30)に第七版と改訂を重ねて発行されてきました。第一版から第七版の累計で1,200万部以上販売され、辞書としてはベストセラーで、第七版では約25万語を収録し、三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄とされています。
 尚、1992年(平成4)には、第四版をもとにした『逆引き広辞苑』も発行され、また、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多くなっていて、幅広く活用されてきました。
 以下に、『広辞苑』第一版発行時の新村出による自序と後記を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇新村 出(しんむら いずる)とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した、言語学者・国語学者・随筆家です。明治時代前期の1876年(明治9)10月4日に、山口県山口において、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれましたが、1889年(明治22)に、父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、元小姓頭取の新村猛雄の養子となりました。
 1896年(明治29)に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学へ入学、1899年(明治32)に博言学科を卒業、国語研究室助手を経て、1902年(明治35)より東京高等師範学校の教授となる一方で東大大学院で国語学を専攻します。1904年(明治37)に東京帝国大学助教授を兼任、1907年(明治40)に京都帝国大学助教授となり、欧州留学に出発し、イギリス・ドイツ・フランスで言語学研究に従事、1908年(明治40)にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として参加、1909年(明治41)には、欧州留学から帰国して京都帝国大学教授となり、言語学講座を担当しました。
 1910年(明治43)に文学博士、翌年には、京都帝国大学図書館長となり、日本語音韻史や近隣の諸言語との比較研究に成果をあげ、1927年(昭和2)に論文集『東方言語史叢考』を刊行、翌年には帝国学士院会員となります。1930年(昭和5)に語源研究『東亜語源志』を刊行、1935年(昭和9)には、宮中の講書始の正メンバーに選ばれ、昭和天皇に国書の進講を行い、国語審議会委員も勤めました。
 1936年(昭和11)に京都帝国大学を定年退官し名誉教授となってからは、1937年(昭和12)に音声学協会、1938年(昭和13)に日本言語学会、1942年(昭和17)に日本民族学協会などの会長を歴任します。1943年(昭和18)に『国語学叢録』を刊行、1949年(昭和24)に国語辞書『言林』を編纂、1955年(昭和30)には、国語辞書『広辞苑』を編纂、初版が発刊されました。
 これらの功績により、1956年(昭和31)に文化勲章を受章、文人でもあり、『琅玕記 』(1930年)など多くの随筆も残しましたが、1967年(昭和42)8月17日に、京都府京都市北区の自宅において、90歳で亡くなっています。

〇『広辞苑』自序   新村出

 いまさら辞典懐古の自叙でもないが、明治時代の下半期に、国語学言語学を修めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入したころには、恩師上田万年先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両先進の、辞書編集法およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであった。柳村上田からは『新英大辞典』の偉業の紹介を「帝国文学」の誌上で示され、目をみはって海彼にあこがれた。われらもいかにしてか、理想的な大中小はともかくも、あんなに整った辞典を編んでみたいものだと、たのしい夢を見たのであった。
 かくて、英米独仏の大辞書の完備に対して限りなき羨望の情が動き、ひたむき学究的な理想にのみふけりつつ、青春の客気で現実的方面については一層暗愚であったことは、後年とほぼ同様であった。卒業後の三年めの明治三十五年(一九〇二年)から凡そ五年間、それぞれの大辞典の編著や統理に成功を収めた上田・大槻・芳賀・松井等の諸先覚には、他方において国語の研究や調査や教育や改善やの諸事業にわたって計るべからざる種々の資益を得たことが、かれこれと想起されてくる。とりわけ、上田・松井両博士の『大日本国語辞典』と、大槻博士の『大言海』とに関しては、身親しくその編集室に見学した縁故もあったのみか、殊に後者の校訂には深く参与し、前者の再刊に際しては僅少ながら接触したゆかりもあって、自分のためにも、何かと参考に資せられて幸福であった。その後も、かれこれ二つばかりの辞典の編集に参画はしたものの、元より綜合統理の任に当った次第ではなかった。それに反して、自分の仕事は、主として語原や語史、語誌や語釈の、主として分解的な、しかし根本的本質的な方面の考究に専念し、綜合的方面の事業に意を致し力を注ぐまでには至らなかった。それは、自分自身の研究が、当初は音韻および文字に、やや進んでからは漸次語法や語義に及び、後年には段々と語誌に向って来たのであって、要は分解を主とし、綜合にうとかった。
 今から二十年前、私の辞典の処女作が出来て、望外の歓迎を受けたが、内心大いに満足し得ず、『言海』の著者が、古く率直にその巻末に録しておいたごとく、そんなに良く出来あがったものは無く、ただ直してゆくばかりだ、と思って、すぐさま改訂の業を起し、或は簡約し、或は増訂し、同時に業を進めて、大戦の末期に入り、改訂版の原稿が災厄に帰した。簡約版は衆知のごとく、早く印行して世に出でたが、しかし私に代って戦時中には、統理の傍ら、他方には、新たに、語詞の採訪と採集とに力を尽くしつつ専ら改訂の業に従った私の次男猛は、苦心努力の結果、辞書編集上、望外にもこよなき良い経験と智識とを得たかと信ずる。彼自身もまたフランスの大辞典リットレないしラルース等の名著およびダルメステテール等の中辞典から平素得つつある智識を、他山の石として、乃父の『改訂辞苑』旧版本の礎石の材料にも供してくれた。彼は従前のごとくには、今回の『広辞苑』の編集に関して、協力する余裕は十分でなかったが、名古屋大学の行余の力をこれに注いでくれ、老父の能くせざる所を補足し、編集および印刷の進行、人事その他各般の統理に心を尽くしてくれた。現代の国語に対する智識と感覚とについては、当然長所の在ることは認めてよろしく、その点において、むしろ語史にのみ傾倒せる編者の粗漫な一方面を補佐してくれたことを付言したい。また、グリム兄弟の場合とは全く違った情味が存する。
 以上、主として『改訂辞苑』の進行および始末について述べつつ、その善後の処理に及ばんとしたが、戦後その改訂版の長所を保存し、短所を除去し、内容形態共に新時代の要求に応ずる必要上、根本的修正と増補とを施すことを得たのは、昭和二十三年九月より岩波書店内に設置された編集室において、斯業の経験と智識とを具備する市村宏氏を編集主任となし、終始一貫、増訂の業を進めたことによる。爾来、編集部はこの複雑な編集に従事し、その間いくたびか内員外員の増減変動と場所の転移等とを見たが、書店内外よりの定期臨機に嘱託された諸員諸君の格別なる協力に依って、編集すでに了り、校正および修治の業、将に完成せんとするに至ったのは、まことに欣懐といたす所である。
 抱負と実行、理想と現実、その間、自分の未熟か老境かよりして、事志と違った趣きがあることを自省してやまないが、とにかく、簡明にして平易、広汎にして周到、雅語漢語、古語新語、慣用語と新造語、日用語と専門語、旧外来語と新外来語、新聞語と流行語、みなつとめて博載を期した。発音の正確と語法の説明には意を注ぎて、規範を示さんと欲したけれども、現在の規範こんとんとして未だ定まらぬ不便をなげかねばならなかった。
 誇称してもよいが、われら父子が親交ある哲学・史学・文学の先進同友をはじめ、今日の科学界に令名あり世界的栄誉をも博せられた碩学者より、直接にも間接にも指示を受けた語詞の説明も少からず存し、花さき実のれる、この言語園を展望しながら、感激してやまぬ心境に在るのである。従来の経験により、あとからあとから、自他の注意から、種々補修を要することが、殊に一般辞書の上には生じがちなのを按ずるが、さりとて先進の辞典学者の引いた言葉にたよって、あのラテン語の金言や、ゲーテの箴言にもあるがごとき、過まるは人のつね、容るすは神のみち、とやら申された遁辞めいた文句にすがる気はない。ただ周密な眼光をもって徹底的に過誤なきを期したばかりである。
 もしそれ、物の順序からすると、大辞書が先きに出来あがってから、その後に、それらの成果を収拾し抜萃し、簡易に平明に、短縮して編集してこそ、より完全な中小辞典、簡短(ショーター)とか、要略(コンサイス)とかの文字を冠らせた中型小型の辞書が作られるわけであるが、私一個の場合、その逆のコースを進んで来たので、殊に現今わが国語界の標準規律は未だ緒につかず、新語の粗製濫造のはげしい時代には、程よき中辞典の達成は、省みるに早計であったかも知れない。
 上記のごとく、本書は、当初の出発点こそ改訂版をいささか加除し修正する程度から進んだのであったが、いつしか本来の節度をかなり超えて、根本的修正が、ひとり文字の表記法のみにとどまらず、載録語詞、分量の上のみならず、かなり本質的にも及ぶことになってしまった。結局、実質にも、形式にも、少なからぬ進歩の跡がみとめられると信ずる。従って、頁数や組方の上にも、多大の影響を及ぼし、厚みその他装幀等色々な点にも、予想以上の多難を感ぜねばならなかった。
 かくて、編集完成の時期もおくれたし、諸般の煩雑名状しがたい苦難も甞めなければならなかった。編集部においても、辛うじてこれらの難を克服し得たのであるが、部員の手不足などを補充するために、書店の内部からも、俊敏練達の士の参加協力を得ると共に、臨時に外部からも特に明達懇篤な新進諸学人の援助をも求めることとなり、内外一和、衆力一致、他方もちろん熟練な校正員の補翼にも由り、着々、印刷の工程もなめらかにはかどり、ここに発行の機運に恵まれるに至ったのは、編者の満足これに及ぶものはない。
 それら諸彦の助力を跋文中に銘記するに先だって、特に今記すべき一事は、畏友大野晋氏が、語法と基本語詞につき、更にその同窓板坂元・同美智子両氏の協力をも得て、応急適切な援助を寄せられたことである。
 斯業行程の始終に関しては、一に岩波書店前店主故岩波茂雄氏の宏量と、現社長同雄二郎氏の寛厚に感謝すると共に、事業の進行上絶えず店内の練達者諸賢から、啓発激励を蒙ったことを肝銘する。さかのぼっては、前行『辞苑』の出版改訂時代の、博文館の上局諸氏と、忠実なる編集主任たりし溝江八男太翁と内助の一老友をも想起せざるを得ない。曽て「私の信条」(本全集第十三巻二九七頁)として書いた如く、老至って益々四恩のありがたきを感ずるのみである。
(昭和三十年一月一日)

〇『広辞苑』後記  新村出

 昭和十年の初頭以来、粒々の辛苦を積んで完成を急ぎつつあった『改訂辞苑』の原稿も組版も、二十年四月二十九日の戦火に跡形もなく焼け失せ、茫然たる編者の手許にはただ一束の校正刷のみが残された。しかも戦火に続く敗戦と戦後の混乱とは、如何に辞典に妄執を抱く編者を以てしても、直ちに復興を企図し得べき底のものではなかった。焦土の余熱は、容易に冷ゆべくもなかったのである。
 然るに倖なる哉、同年十二月、当時元気に活躍せられつつあった岩波書店主故岩波茂雄氏と編者との間に、早くも『辞苑』の改訂に関する協定成り、一陽来復、編者として欣快のこれに過ぐるものはなかった。
 他面、当時の国内情勢は、恐らく開闢以来最悪の事態におかれて居た。餓※(「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90)路に横り、怨嗟の声巷に満つるを見聞しては、辞典改修のごとき迂遠なる事業の、未だその時機に非ざるを観念せざるを得なかった。更に翌二十一年四月、岩波茂雄氏の突如たる訃音に接しては、出版界の先覚を喪弔するの悲しみと共に、本事業の前途も亦多難なるべきを秘かに憂慮したのである。
 併し、越えて二十三年季春、先考の志を襲いで岩波書店を継承せられた岩波雄二郎氏を始め幹部の各位は、文化の再建途上における辞典の重要な役割を認識して『辞苑』改修の促進方針を決定せられ、編者はこれに基き、同年九月十三日、書店内の一室を借りて新編集部を開設し、茲に事業の再発足を見得るに至ったのである。
 ただその当初にあっては、危く烏有をまぬかれた校正刷を唯一のたよりとしてのことではあっても、ともかくも校正刷がある以上、改修の事業は比較的簡単に進め得るものと我も人も思考したが、その予想は実は甚だ甘かった。戦塵の鎮まりゆくにつれて、日本は一大転換を開始して居たのである。即ち昨日まで国を動かす大きな原動力であった陸海軍は廃止され、日本国憲法は公布せられた。この憲法の改正を軸として、法律は勿論、文物制度のあらゆるものがめまぐるしく改廃され、創建されて行った。民主化への巨大な歩みは、古いもの一切の存続を拒むごとき世相を展開した。この事は辞典編纂の上に細大となく影響する。甞ての重要項目は今は多く削除すべきものとなり、或は評価が急変して増補または縮小を余儀なくされた。存続すべき項目に対しても、その見方が著しく違ってきた。加之、新たに採るべき項目は日に月に続出し、応接に暇なからしめると共に、忽ち現れ忽ち消え去る社会百般の事象が編集部を困惑せしめたのも、混乱期の自然なる姿であった。兵を廃した国に警察予備隊ができ、これが忽ちにして保安隊と変り、三転して自衛隊となる。編集部はその都度、前稿を捨てて新稿を草するのである。この辞典が単純な国語辞典ではなく、百科の語彙、固有名詞をも収録してあまさぬものであるだけに、かかる現象から被むる編纂上の困難は、当初の予想を裏切ってこれを数倍化した。
 困難はそれのみには止まらなかった。新事項は遠慮なく発生するが、これを正確に解説するに資料とすべきものは、これに伴っては出て来ない。否、編集部開設の当初には、新項目採集に使用する新聞などの入手すらできなかった。紙がない、鉛がない――資材の欠乏が新資料の出現を固く阻んで居たのである。今ならば年鑑を繰れば容易に知り得ることも、重い兵隊靴をはいた部員が、役所や新聞社を訪ねて聞いて回った。信憑すべき戦後の資料がぽつぽつ出て来たのは二十六、七年頃からである。
 かかる状況の中にあっては、当初二、三年でと予想されたこの改修事業も、恰もこの国の河川改修工事のごとく四年と延び五年と後れざるを得なかった。小規模の改修のつもりで始めたこの仕事は、日本そのものの大革新を偽らずに反映するためには、全面的な大改修に突入せねばならなかった。
 斯様に改修の規模は拡大され、収載語彙は二十万を超えるに至り、時日は遷延しつつも、二十八年三月に至り、六年に及んだ業を終り、爾後の推移転変には組版の過程において対応する方針の下に、尨大なる原稿の集積を書店側の手に委ねたのである。
 ともあれ、「やっと出来た」安心と満足の中に今年元朝八十の春光に浴することを得た。この辞典が昭代の文化遺産として後世に伝存するに足るべきか否かは、大方の批判を仰ぎ、時の篩に俟つ外はないが、少くとも現在最も新しく、当用を弁ずるに甚だ好適な辞書たらしめ得たことの自負を持つ。併し、この功たるや、自己一身に帰すべきでないのはもとよりである。この編纂事業に協力を惜しまれなかった数十百氏もしくはそれ以上の方々の心血の凝り固まってこの辞典をなしたものと、編者は回想し且感謝する。今、序文中に誌して謝意を表明した方々以外、編集に執筆に製作に、老来諸事にものうい編者を扶けてこの難事業を達成せしめられた方々の芳名を掲げながら、日頃抱懐する四恩感謝の念をも新たにしたいのである。
 昭和二十三年九月十三日に開設した編集部は、主任を市村宏氏に依嘱し、部員に関宦市・猪場毅・横地章子・長谷川八重子・藤井譲・佐藤鏡子・木村美和子諸氏の参加があり、協力一致、直接に編者を扶けて如上の難関に当面し、本辞典のためその全力を傾倒された。また大野晋氏は特に国語部門の校閲と語法に関する事項の改新とに、終始繁忙の時を割いて協力を惜しまれなかったし、松山貞夫氏は法律部門、稲沼瑞穂氏は理科部門において編集部を指導された。
 昭和二十八年三月、前後六カ年にわたり、改修と称するよりもむしろ新修の業を了って編集部を解いたのちは、仕事は製作の過程に入り、岩波書店編集部における担当各位の、有形無形、真に昼夜を分たぬ努力によって業務は進行せられたのであるが、一々芳名の列挙を省くの失儀をお宥しありたい。尚、前記の市村・佐藤両氏にも引続いてこの仕上げ過程に参加を煩した。
 二十八年六月、大日本印刷株式会社市ヶ谷工場にトラックで搬入された累々たる苦心の原稿が、やがて校正刷になって返って来る。それを校正して四校五校に及ぶのであるが、その間にも新事項は次々と発生し、新学説も現出する。最後のみがきもかけねばならない。このためには書店の方々の並々ならぬ尽瘁は勿論、また外部から来援せられた市古貞次・板坂元・同美智子等諸氏の熱心な協力があった。かくして三年にわたる製作期間中に生ずべきずれを除き、誤謬を人力の及ぶ限りにおいて少なからしめようとの編者及び書店の意図は、ほぼ全きを得たと信ぜられる。これらの方々の努力に対し、編者は衷心の謝意を表するものである。
 尚、本辞典は前後二回にわたる改修において、それぞれの専門項目につき、当代一流の学者、新進の学人に執筆・修訂を委ねて居り、ために本辞典の内容につき自信を深め、権威を高め得たること幾許なるかを知らないが、今その主なる方々の芳名を記せば、会津晃・青山秀夫・浅山哲二・有賀鉄太郎・粟田賢三・飯島篤信・池上禎造・今西錦司・大築邦雄・岡山泰四・小野和・河鰭実英・岸春雄・木下法也・小島六郎・小林恵之助・小林行雄・駒井卓・斎藤秋男・阪倉篤義・坂田昌一・佐藤芳彦・鎮目和夫・島村福太郎・新村猛・末永雅雄・高木公明・高木貞二・千野光茂・塚本洋太郎・暉峻衆三・徳田御稔・朝永振一郎・長尾雅人・仲新・中村誠太郎・中村幸彦・南条正明・橋浦泰雄・林雄次郎・原光雄・土方克法・日高敏隆・平野宣紀・福田正・古川久・堀喜望・本城市次郎・牧野亥之助・真下信一・松山貞夫・三ヶ尻浩・宮地伝三郎・都留重人・都城秋穂・宮原誠一・森鹿三・森龍吉・大和一夫・山内太郎・湯浅明・湯川秀樹・依田新等の諸家である。また本辞典に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵の筆を執られた牧野四子吉・佐藤義郎の両氏、及び煩雑極まりない本辞典の組版・製版・印刷に従事せられ、書店側とよく協調を保ちつつ、我印刷術が到達し得たる最高の技術と能力とを惜しみなく発揮せられた大日本印刷株式会社の関係各位に感謝し、更に個人的にではあったが、この事業の前後を通じてなにくれとなく編者の相談相手となり、不断の友情を表せられた岡茂雄氏に本辞典の成るを告げて、その喜びを頒ちたい。
 更に、我洋画壇の巨擘安井曽太郎画伯が親しく装幀の労を執られ、巧みに『広辞苑』の書格を表現せられたことに対し、編者として深い感銘を禁じ難い。
 思うてここに至れば、四恩の広大にして無辺際なる、早春の陽光と共に老身を包むの感を覚えるのである。
(昭和三十年三月)

(昭和三十年五月初版『広辞苑』)

  「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日)詳細
1336年(建武3)湊川の戦い足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日)詳細
1654年(承応3)第112代の天皇とされる霊元天皇の誕生日(新暦7月9日)詳細
1885年(明治18)詩人・歌人平野万里の誕生日詳細