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 今日は、江戸時代前期の1636年(寛永13)に、江戸幕府により「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令)が出され、通商に無関係なポルトガル人の追放などがなされた日ですが、新暦では6月22日となります。
 寛永十三年五月令(かんえいじゅうごねんごがつれい)は、江戸幕府の鎖国政策の一環をなす法令の四番目のもので、「第四次鎖国令」とも呼ばれています。内容は、貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移すなど全18条から成り、老中から長崎奉行に通達されたものでした。
 それ以前の1633年(寛永10年2月28日)に、「第一次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止など)、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)、1635年(寛永12)に「第三次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出されていて、この後、1639年(寛永16年7月5日)に「第五次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出され、1641年(寛永18年4月)の平戸オランダ商館の出島移転によって整います。これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなりました。
 この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなります。
 以下に、「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令)全18条の内、主要な4条だけ抜粋して、現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令) 1636年(寛永13年5月19日)

一、伴天連訴人褒美の事
  伴天連の訴人は、其品ニ寄、或ハ三百枚、或ハ弐百枚たるべし。其外ハ此以前の如く相計申すべき事。

一、異国船申分これ有り而江戸江言上の間、番船の事、此以前大村方江申し 越すべき事。

一、南蛮人子孫残し置かず、詳ニ堅く申し付くべき事。若違背せしめ、残置族これ有るニおゐてハ其者ハ死罪、一類の者ハ科の軽重ニより申し付くべ き事。

一、南蛮人、長崎にて持候子并右の子共の内、養子に仕る族の父母等、悉死罪為りと雖も、身命を助ケ南蛮人江遣され候間、自然彼の者共の内、重て日本江来ル歟又は書通これ有るに於てハ、本人は勿論死罪、親類以下迄科の軽重に随ひ申付くべき事。

   寛永十三年五月十九日

<現代語訳>

一、バテレンを密告した者にはほうびを与えること。
  バテレンを密告した者には、その地位により、あるいは銀三百枚、あるいは二百枚とする、その他は従前のようにはかるべきこと。

一、外国船について言い分があって、江戸へ言上する場合は、番船の事については、これ以前のように大村藩の方へ申し入れること。

一、南蛮人(ポルトガル人)の子孫は日本に残り置かないように詳細に厳しく申し付けること。もし、違反して残り置く者がいたならばその者は死罪、それに手を貸した者は、その罪の重さにより、処罰を申し付けること。

一、南蛮人(ポルトガル人)、長崎にてもうけた子供ならびにその子供を養子にした父母等、ことごとく死罪にするといえども、身命を助け、南蛮人のもとへ遣わすことにしたので、もしも、かの者たちの内、再び日本へ来るとか、または文通が有った場合は、本人はもちろん死罪、親類以下まで罪の重さに従って、処罰すべきこと。

   寛永13年(1636年)5月19日

☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

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