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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の亡くなった日です。
 秋田雨雀(あきた うじゃく)は、明治時代前期の1883年(明治16)1月30日に、青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)で、産科医であった父・玄庵、母・まつの長男として生まれましたが、本名は徳三(とくぞう)と言いました。青森県立第一尋常中学校(現在の青森県立弘前高等学校)を経て、1902年(明治35)に東京専門学校(この年9月、早稲田大学と改称)英文科へ入学します。
 在学中の1904年(明治37)に詩集『黎明』を刊行、1906年(明治39)には、箭田きぬと結婚(正式な届出は明治44年9月19日)しました。1907年(明治40)に早稲田大学英文科を卒業、島村抱月に認められて1910年(明治43)の「早稲田文学」6月号に小説「同性の恋」を発表、新進小説家の一人として注目されます。
 1911年(明治44)に小山内薫の自由劇場に参加、同年に戯曲『第一の暁』が初めて上演され、翌年には戯曲『埋れた春』を発表し、劇作家としても認められました。1913年(大正2)に、島村抱月の芸術座創立に参加し、幹事となりましたが、翌年には脱退し、美術劇場を結成します。
 1915年(大正4)に来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んで、エスペラントを学ぶようになり、1921年(大正10)には、小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』を出版しました。また、同年に「種蒔く人」の寄稿者となり、日本社会主義同盟に加わり、1923年(大正11)に先駆座を興してプロレタリア演劇運動を進め、1924年(大正13)には、フェビアン協会を設立します。
 1927年(昭和2)にロシア革命の十周年祭に国賓として招かれてソ連を訪問、1928年(昭和3)に帰国後、国際文化研究所長となり、翌年にはプロレタリア科学研究所所長に就任しました。1931年(昭和6)に日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加し委員長となり、1933年(昭和8)に学芸自由同盟の結成に参加、翌年には新協劇団結成に参画し事務長となり、「テアトロ」を創刊します。
 1940年(昭和15)に新協劇団、新築地劇団の総検挙に伴い、目白署に検挙され、翌年に童話集『太陽と花園』出版するも発売禁止、1942年(昭和17)には戯曲「埋れた春」が上演禁止となるなどし、太平洋戦争末期の1944年(昭和19)には故郷の青森県黒石に疎開しました。戦後は、1948年(昭和23)に舞台芸術学院院長となり、1950年(昭和25)には日本児童文学者協会会長に就任、1952年(昭和27)に童話集『一郎とにぎりめし』、翌年には『雨雀自伝』を出版するなど活躍します。
 1960年(昭和35)には黒石市名誉市民となりましたが、1962年(昭和37)5月12日に東京都板橋区の自宅において、79歳で亡くなりました。

〇秋田雨雀の主要な著作

・戯曲『紀念会前夜』(1909年)
・小説戯曲集『幻影と夜曲』(1911年)
・戯曲『第一の暁』(1911年)
・戯曲『埋れた春』(1912年)
・戯曲『土地』三部曲(1917~18年)
・戯曲『国境の夜』(1920年)
・童話集『東の子供へ』(1921年)
・童話集『太陽と花園』(1921年)
・戯曲『手投弾(てなげだま)』(1923年)
・戯曲『骸骨(がいこつ)の舞跳(ぶちょう)』(1924年)
・童話集『一郎とにぎりめし』(1952年)
・自伝『雨雀自伝』(1953年)
・日記『秋田雨雀日記』全5巻

☆秋田雨雀関係略年表

・1883年(明治16)1月30日 青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)で、産科医であった父・玄庵、母・まつの長男として生まれる
・1887年(明治20)9月8日 青森県南津軽郡第一学区公立黒石尋常小学校入学する
・1897年(明治30)4月8日 青森県立第一尋常中学校(現在の青森県立弘前高等学校)へ入学する
・1902年(明治35)4月 東京専門学校(この年9月、早稲田大学と改称)英文科へ入学する
・1903年(明治36) 堺枯川や幸徳秋水ら社会主義者の演説を聴き影響を受ける
・1904年(明治37) 詩集『黎明』を刊行する
・1906年(明治39) 箭田きぬと結婚(正式な届出は明治44年9月19日)する
・1907年(明治40) 早稲田大学英文科を卒業する
・1910年(明治43) 島村抱月に認められて、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表、新進小説家の一人として注目される
・1911年(明治44) 小山内薫の自由劇場に参加、戯曲「第一の暁」が有楽座で上演される
・1912年(明治45) 戯曲「埋れた春」を発表し、劇作家としても認められる
・1913年(大正2) 芸術座創立に参加する
・1914年(大正3) 芸術座を脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成する
・1915年(大正4) エロシェンコを知り、エスペラントを学ぶ
・1918年(大正7) 芸術座に復帰、脚本研究会を始める
・1919年(大正8)頃 童話を試みるようになる
・1920年(大正9) 戯曲集『仏陀と幼児の死』を出版する
・1921年(大正10) 「種蒔く人」の寄稿者となり、日本社会主義同盟に加わる、小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』を出版する
・1923年(大正11) 佐々木孝丸らと先駆座を興してプロレタリア演劇運動を進める
・1924年(大正13) フェビアン協会を設立する
・1927年(昭和2) ロシア革命の十周年祭に国賓として招かれてソ連を訪問する
・1928年(昭和3) 帰国後、国際文化研究所を創立、所長となる
・1929年(昭和4) プロレタリア科学研究所所長に就任する
・1931年(昭和6) 日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加、委員長となる
・1933年(昭和8) 学芸自由同盟の結成に参加する
・1934年(昭和9) 新協劇団結成に参画し事務長となり、「テアトロ」を創刊する
・1940年(昭和15) 新協劇団、新築地劇団の総検挙に伴い、目白署に検挙される
・1941年(昭和16) 童話集『太陽と花園』を出版するも、発売禁止となる
・1942年(昭和17) 戯曲「埋れた春」が上演禁止となる
・1944年(昭和19) 故郷の青森県黒石に疎開する
・1946年(昭和21) 青森県労働委員長となる
・1948年(昭和23) 舞台芸術学院院長となる
・1950年(昭和25) 日本児童文学者協会会長に就任する
・1952年(昭和27) 童話集『一郎とにぎりめし』を出版する
・1953年(昭和28) 『雨雀自伝』を出版、黒石市御幸公園内蝦夷館に雨雀歌碑が建立される
・1960年(昭和35)1月1日 黒石市名誉市民となる
・1962年(昭和37)5月12日 東京都板橋区の自宅において、79歳で亡くなる
・1962年(昭和37)6月10日 黒石市黒森山の浄仙寺に歌碑が建立される
・1972年(昭和47)11月5日 黒石市山形町の法眼寺に句碑が建立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1925年(大正14)治安維持法」が施行される

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1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する

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