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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、東京都砂川町(現在の立川市)で米軍立川基地の拡張反対総決起集会が開催され、砂川闘争が始まった日です。
 砂川闘争(すながわとうそう)は、在日米軍立川基地の拡張計画に対し、昭和時代中期の1955年(昭和30)から1969年(昭和44)まで、住民中心に闘われた反対運動です。1955年(昭和30)に在日米軍は日本政府に対し、ジェット爆撃機の発着のためとして、在日米軍立川基地の飛行場拡張を要求しました。それに対し、拡張予定地内関係者は、砂川基地拡張反対同盟を結成、同年5月8日に基地拡張反対総決起大会を開催して反対運動を展開、労働組合や学生団体、政党の中にも支援する動きが広まります。
 1955年(昭和30)9月13日に、立川基地拡張の為の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊、あわせて5,000人が衝突、負傷者100人を出したのをはじめ、拡張予定地の測量をめぐり警官隊とたびたび衝突することになり、1956年(昭和31)には1,000人超の負傷者を出すに至りました。また、翌年には、デモ隊の一部が立川基地内に侵入したとして、学生や労働組合員が検挙され、その内7人が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪に問われ起訴される砂川事件が起こります。
 一審では、1959年(昭和34)に、米軍駐留は憲法違反であり被告全員無罪との判断が示された「伊達判決」が出て、注目されました。しかし、その後の上告審では、逆転して、1963年(昭和38)に有罪(罰金2,000円)が確定しています。
 予定地の地権者のうち23人が最後まで買収を拒否していましたが、米軍は1968年(昭和43)に滑走路延長を取り止め、翌年には日本政府も閣議で計画中止を決めることに至りました。その後、1977年(昭和52)に、米軍立川基地は全面返還されています。

〇砂川闘争関係略年表

・1955年(昭和30)3月 在日米軍は日本政府に対し、ジェット爆撃機の発着のためとして小牧・横田・立川・木更津・新潟の5飛行場の拡張を要求する
・1955年(昭和30)5月4日 調達庁東京調達局立川事務所長は砂川町長・「宮伝」こと宮崎傳左衛門に対し立川基地拡張を通告する
・1955年(昭和30)5月6日 拡張予定地内関係者が集まリ協議して絶対反対を決定、砂川基地拡張反対同盟の結成を申し合わせる
・1955年(昭和30)5月8日 基地拡張反対総決起大会を開催する
・1955年(昭和30)5月12日 砂川町議会が基地拡張反対を決議し、全議員が闘争委員になる
・1955年(昭和30)8月2日 砂川町基地拡張反対共闘会議が発足する
・1955年(昭和30)9月5日 砂川町基地拡張反対労働組合支援協議会(砂川支援協)に改組、砂川勤労者組合・東京地評・三多摩労協など51の労働組合と社会党左派・社会党右派・労働者農民党が闘争を支援するまでになる
・1955年(昭和30)9月13日 立川基地拡張の為の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊、あわせて5000人が衝突、負傷者100人を出して砂川事件が始まる
・1956年(昭和31)9月 共産党、日本平和委員会、全学連を正式構成員に加えた21団体の砂川支援団体連絡会議が発足する
・1956年(昭和31)10月13日 砂川町の芋畑で地元農民らと武装警官隊が衝突、1,195人が負傷し13人が検挙される
・1956年(昭和31)10月14日 日本政府は測量中止を決定する
・1957年(昭和32)7月8日 測量阻止のデモ隊の一部が立ち入り禁止の境界柵を壊し基地内に数メートル立ち入る
・1957年(昭和32)9月22日 学生や労働組合員23人が検挙され、うち7人が「日米安全保障条約」に基づく刑事特別法違反の罪に問われ起訴される(砂川裁判)
・1959年(昭和34)3月30日 一審判決で、米軍駐留は憲法違反であり被告全員無罪との判断が示される(伊達判決)
・1959年(昭和34)12月16日 上告審で最高裁判所が統治行為論によって原判決を破棄する
・1961年(昭和36)3月27日 再びの地裁判決では、逆転してに7人の有罪(罰金2,000円)を言い渡す
・1963年(昭和38)12月7日 最高裁は上告棄却を決定し、有罪判決(罰金2,000円)が確定する
・1968年(昭和43)12月 米軍は立川基地の滑走路延長を取りやめる
・1969年(昭和44)10月 米軍は立川基地の横田飛行場(横田基地、東京都福生市)への移転を発表する
・1969年(昭和44)4月 日本政府も閣議で立川基地の滑走路延長計画中止を決める
・1973年(昭和48)1月 第14回日米安全保障協議委員会(SCC)は3年後の立川基地全面返還を決定する
・1977年(昭和52)11月30日 立川基地跡地は日本側に返還される

☆「砂川事件の第1審判決」(伊達判決)とは?

 在日米軍立川基地の拡張計画に対し反対する砂川闘争(1955~69年)に関わり、1957年(昭和32)7月8日に東京都下砂川町で米軍立川基地の立入禁止区域に入った基地拡張反対闘争の7人が、刑事特別法第2条違反で起訴された、砂川事件の東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)の第1審判決でした。内容は、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条(デュー・プロセス・オブ・ロー規定)に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下したものです。
 しかし、検察側はこれを不服として、直ちに最高裁判所へ跳躍上告しました。同年12月に、最高裁判所は、「駐留米軍は憲法にいう日本の戦力には該当しない。また安保条約のような高度の政治性を帯びた問題は司法審査権になじまない」としていわゆる統治行為論により、原判決を破棄し、地方裁判所に差し戻します。
 再度審理を行った東京地方裁判所は、1961年(昭和36年)3月27日に罰金2,000円の有罪判決を言い渡しました。この判決につき上告を受けた最高裁は1963年(昭和38年)12月7日、上告棄却を決定し、この有罪判決が確定しています。

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