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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、小説家橋本英吉の亡くなった日です。
 橋本英吉(はしもと えいきち)は、1898年(明治31)11月1日に、福岡県築上郡東吉富村(現在の吉富町)において、製材所に勤める父と小作田を耕す母の子として生まれましたが、本名は白石亀吉と言いました。父の急死後、豆腐屋を家業とする白石家の養子となり、高等小学校卒業後は、郵便局員を経て三井田川鉱業所に入り支柱夫を8年ほどします。
 1923年(大正12)に上京して、モノタイプの技術を身に着け、1925年(大正14)には、博文館印刷(後の共同印刷)のモノタイプ工となり、徳永直を知りましたが、翌年の争議で解雇され、その後労働運動のオルグ活動をしました。『炭脈の昼』を発表し、1927年(昭和2)に文芸春秋社社員となり、横光利一の影響をうけます。
 翌年に前衛芸術家同盟に参加、「戦旗」に『棺と赤旗』を発表し、プロレタリア作家として認められ、1929年(昭和4)には文芸春秋社を退社しました。1931年(昭和6)に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)書記長となり、日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成のために尽力したものの、1932年(昭和7)に検挙され転向のやむなきに至ります。
 1934年(昭和9)にリアリズムに徹した長編小説『炭坑』を発表、1936年(昭和11)に『欅の芽立』で第5回文学界賞を受賞、1942年(昭和17)には、『柿の木と毛虫』が第16回芥川賞の候補となりましたが、入選しませんでした。1943年(昭和18)に『筑豊炭田』が第1回歴史文学賞の候補となり、戦時下では農民文学で活動しましたが、太平洋戦争末期の空襲下で、静岡県田方郡大仁町(現在の伊豆の国市)へ疎開します。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に富士山での気象観測に苦闘する野中至夫妻を描いた『富士山頂』を刊行、これは佐伯清によって映画化されました。その後、『星の夜の広場にて』(1948年)、『マルクスの微笑』(1948年)などを刊行しています。
 1971年(昭和46)に日本民主主義文学同盟に加盟、「文化評論」に『三脚の鼎』を発表、1976年(昭和51)には、「文化評論」に、自伝的作品『若き坑夫の像』を連載しましたが、1978年(昭和53)4月20日に、静岡県田方郡大仁町(現在の伊豆の国市)において、79歳で亡くなりました。

〇橋本英吉の主要な著作

・『炭脈の昼』 (1926年)
・『棺と赤旗』 (1928年)
・『市街戦』(1930年)
・『労働市場』(1930年)
・『炭坑』(1934年)
・『欅の芽立』(1936年)第5回文学界賞受賞
・『衣食住その他 短篇集』(1939年)
・『坑道』(1939年)
・『草上の饗宴』(1940年)
・『四季の感情』(1940年)
・『富士』(1941年)
・『食欲と情熱』(1941年)
・『系図』(1942年)
・『柿の木と毛虫』(1942年)第16回芥川賞候補
・『金づちの富士登山』(1943年)
・『柿の木』(1943年)
・『筑豊炭田』(1943年)第1回歴史文学賞候補
・『東方の種族』(1943年)
・『忠義』(1943年)
・『小鳥峠』(1944年)
・『賭ける女』(1946年)
・『富士山頂』(1946年)
・『星の夜の広場にて』(1948年)
・『マルクスの微笑』(1948年)
・『黒い掌』(1955年)
・『ぼたん雪』(1955年)
・『三脚の鼎』(1971年)
・『若き坑夫の像』(1976年)

☆橋本英吉関係略年表

・1898年(明治31)11月1日 福岡県築上郡東吉富村(現在の吉富町)に生まれる
・1923年(大正12) 上京して、モノタイプの技術を身に着ける
・1925年(大正14) 共同印刷のモノタイプ工となり、徳永直を知る
・1926年(大正15) 共同印刷争議で解雇される、『炭脈の昼』を発表する
・1927年(昭和2) 文芸春秋社社員となる
・1928年(昭和3) 前衛芸術家同盟に参加、「戦旗」に『棺と赤旗』を発表し、プロレタリア作家として認められる
・1929年(昭和4) 文芸春秋社を退社する
・1931年(昭和6) 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)書記長となり、日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成のために尽力する
・1932年(昭和7) 検挙され転向する
・1934年(昭和9) リアリズムに徹した長編小説『炭坑』を発表する
・1936年(昭和11) 東京へ移住、『欅の芽立』で第5回文学界賞を受賞する
・1942年(昭和17) 『柿の木と毛虫』が第16回芥川賞の候補となるも、入選しなかった
・1943年(昭和18) 『筑豊炭田』が第1回歴史文学賞の候補となる
・1945年(昭和20) 太平洋戦争末期の空襲下で、静岡県田方郡大仁町へ疎開する
・1946年(昭和21) 富士山での気象観測に苦闘する野中至夫妻を描いた『富士山頂』を刊行する
・1971年(昭和46) 日本民主主義文学同盟に加盟、「文化評論」に『三脚の鼎』を発表する
・1976年(昭和51) 「文化評論」に、自伝的作品『若き坑夫の像』を連載する
・1978年(昭和53)4月20日 静岡県田方郡大仁町(現在の伊豆の国市)において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1546年(天文15)河越城の戦いで北条氏康が河越城包囲の上杉方を夜襲し勝利する(新暦5月19日)詳細
1651年(慶安4)江戸幕府三代将軍徳川家光の命日(新暦6月8日)詳細
1947年(昭和22)飯田大火で4,010戸が焼失する詳細