ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年03月

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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、福沢諭吉が執筆したとされる「脱亜論」が『時事新報』に掲載された日です。
 「脱亜論(だつあろん)」は、福沢諭吉が書いたとされる、『時事新報』社説(無署名)でした。その内容は、「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、(略)亜細亜東方の悪友を謝絶する」と論じ、日本は「未開野蛮」なアジア諸国との連帯は考えず、「文明」国である西欧諸国の近代文明を積極的に摂取し、西洋の文明国と進退を共にすることが歩むべき道だとの主張です。
 その後、アジア主義(興亜論)に対し、国民意識は次第に脱亜意識が強まっていき、西洋最新の文明を基礎として、国際政治の中でも欧米列強と肩を並べるべき、国権論への傾斜を強めることになっていきました。
 以下に、「脱亜論」の全文と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇福沢諭吉とは?

 幕末から明治時代の思想家・教育者です。1835年(天保5)に豊前国中津藩士福沢百助の五男として、大坂藩邸で生まれました。1854年(安政元)に長崎で蘭学を学び、翌年大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾に学び、塾頭にまでなりです。
 1858年(安政5)藩命によって江戸へ出府し、鉄砲洲の中津藩邸内に蘭学塾を開きました。その後、英学を独修し、1860年(万延元)には幕府の軍艦咸臨丸の艦長の従僕を志願して渡米することになります。以後、1861年(文久元)~翌年、1867年(慶応3)と都合3回幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。
 その経験をもとに1866年(慶応2)『西洋事情』初編、1868年(慶応4)『西洋事情』外編、1869年(明治2)『世界国尽』(1869)などを刊行して大衆の啓蒙に寄与します。また、1868年(慶応4)蘭学塾の名を慶応義塾と改め。今日の慶應義塾大学の礎を築きました。そして、1872年(明治5)から1876年(明治9)にわたって出版した『学問のすゝめ』は、人間平等宣言と「一身の独立」「一国の独立」の主張により、ベストセラーとなります。
 このように、教育と啓蒙活動に専念し、1873年(明治6)に明六社を設立、1875年(明治8)『文明論之概略』を出版、(1875)1882年(明治15)「時事新報」を創刊するなどしてきましたが、1901年(明治34)年2月3日に68歳で死去しました。

〇「脱亜論」 初出:『時事新報』1885年(明治18)3月16日付

 世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木もこの風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖ども、その挙動の古に遅鈍にして今に活潑なるは、唯交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今東洋に国するものゝ為に謀るに、この文明東漸の勢に激して之を防ぎ了るべきの覚悟あれば則ち可なりと雖ども、苟も世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦楽を与にするの外あるべからざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。この時に当りこの流行病の害を悪て之を防がんとするも、果してその手段あるべきや。我輩断じてその術なきを証す。有害一偏の流行病にても尚且その勢には激すべからず。況や利害相伴なうて常に利益多き文明に於てをや。啻に之を防がざるのみならず、力めてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは智者の事なるべし。西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸やくその採るべきを知り、漸次に活潑の気風を催うしたれども、進歩の道に橫わるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立すべからずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅すべければなり。然ば則ち文明を防てその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。是に於てか我日本の士人は国を重しとし政府を輕しとするの大義に基き、又幸に帝室の神聖尊厳に依賴して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事、西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ。
 我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、その国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。この二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に養わるゝこと、我日本国民に異ならずと雖ども、その人種の由来を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものあるか、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、この二国の者共は一身に就つき又一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非あらざれども、耳目の聞見は以もつて心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず、この文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如ごとし。我輩を以てこの二国を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚もその独立を維持するの道あるべからず。幸にしてその国中に志士の出現して、先ず国事開進の手始めとして、大にその政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若しも然らざるに於ては、今より数年を出でずして亡国と為り、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑あることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭いながら、支韓両国はその伝染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室內に閉居し、空気の流通を絶て窒塞するものなればなり。輔車唇齒とは隣国相助くるの喩なれども、今の支那、朝鮮は我日本国のために一毫の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの値を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例えば支那、朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃むべきものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑い、支那、朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽五行の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義俠も之がために掩われ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば枚挙に遑あらず。之を喩えばこの隣軒を並べたる一村一町內の者共が、愚にして無法にして然かも残忍無情なるときは、稀にその町村內の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩われて堙沒するものに異ならず。その影響の事実に現われて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云うべし。左ば今日の謀ごとを為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

   「ウィキソース」より

<現代語訳>

 世界の交通手段は便利になり、西洋文明の影響は東に進み、到るところで草も木もこの風になびかずにはいられない。ただし、西洋の人物、昔と今では大に異るわけではないといっても、その挙動は昔は遅鈍であったものの、今では活発になったのは、ただ交通機関を利用して勢に乗っているだけである。従って、最近東洋に国がある者のために考えてみると、この文明が東進してくる勢いは激しくて、これを防ぎ切るべき覚悟があれば、それでも良いとは言っても、仮にも世界中の現状を視察して事実上それが出来ないことを知る者は、世界の推移と共に文明の海に浮き沈みし、共に文明の波に乗り、共に文明の苦楽をともにする以外ないのである。文明はなお麻疹(はしか)の流行のようでもある。ただいまは東京の麻疹(はしか)は西国の長崎の地方より東進して、春の暖かな陽気と共に次第に蔓延するもののようでもある。この時に当り、この流行病の害を憎んで、これを防がんとしても、果してその手段はあるのであろうか。私は断じてその手段がないことを証明する。有害なだけの流行病だとしても、それでもなお、その勢は激しくなるばかりである。まして利害相伴なって常に利益多き文明においてはなおさらである。単にこれを防がないだけでなく、努めてその蔓延を助け、国民を早くその気風をよいものとして受け入れることは知恵ある者の課題である。西洋の近代文明がわが日本に入ってきたのは、嘉永年間(1843~53年)の開国を発端として、国民はようやくそれを受け入れるべきことを知り、次第に活発の気風が生じたけれども、進歩の道の障害になる旧態たる老害の江戸幕府なるものがあって、これをどうすることもできなかった。幕府をそのままにしておくと、文明は決して入ってくることが出来なかった。なぜならば、近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を脱却すれば、同時に江戸幕府もまた廃絶しなければならなかったからである。それだからといって、文明を防いでその侵入を止めようとすれば、日本国の独立維持は難しかった。なぜならば、世界文明の騒乱が非常にはげしいことは、東洋の孤島がひとり眠っているのを許すものではなかったからだ。ここにおいて、わが日本の人士は国の独立を重んじ、江戸幕府を軽いとする大義に基づいて、また、幸に皇室の神聖尊厳を頼みとして、断固として旧江戸幕府を倒して、明治新政府を立て、国中において政府も民間も区別なく総ての事に、西洋の近代文明を採用し、ただ日本の古くからの形式や慣習を脱しただけでなく、アジア全域の中にあって、新機軸を打ち出し、主義としたことは、ただ脱亜の二字にあるのみである。
 わが日本の国土はアジアの東の端にあるといっても、その国民の精神はすでにアジアの狭い見識から脱して西洋の文明に移行している。ところがここに不幸なのは近隣の国のことであり、一つを中国といい、一つを朝鮮という。この二国の人民も昔から、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異なっていないといっても、その人種の由来が特別なのか、同じく同様の政治・宗教・風俗の中にいながらも、遺伝した教育の趣旨に同じでないものがあるのか、日本・中国・朝鮮三国を並べると、中国と朝鮮と相似ている状態は、中国・朝鮮の日本に於けるよりも近いものであって、この二国の者たちは自分自身についても、また自国に関しても、古いものを改めて文明に進ませる道を知らない。交通が非常に便利になった世の中に文明の事物を見聞きしないわけではないけれども、耳・目の見聞では心を動かすには足らないで、その昔ながらの旧習に未練が残る様は百千年の昔と異なっていない。この文明が日々新しくなっていく活劇の場に、教育の事を論ずれば儒教主義といい、学校の教えの趣旨は仁義礼智と称し、一から十に至るまで外見の虚飾だけにこだわって、その実際においては真理・原則の知見がないばかりか、道徳さえ地を掃いたように残酷で恥知らずを極め、なおおごり高ぶって尊大に振る舞うように自省の念などない者のようである。私からこの二国をみれば、今の文明が東進してくる状況に際しては、とてもその独立を維持する道はないのである。幸にしてその国の中に国家・社会のために献身しようとする人が出現して、先ず国家の開明政策の手始めとして、大いにその政府を改革するために日本の明治維新のような大規模な行動を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するような活動があったならば事態が異なるのであろうが、もしもそうならない時においては、今より数年を経ないで国を亡ぼすことなり、その国土は世界の文明諸国に分割されてしまうことは一点の疑いもない。なぜならば麻疹(はしか)と同じような文明開化の流行に遭遇しながら、中国・朝鮮両国はその伝染の自然の摂理に背き、無理にこれを避けようとして一室內に閉じこもり、空気の流通を遮断して窒塞するものであるからだ。「輔車唇歯」とは、『春秋左伝‐僖公五年』の中にある一方が滅べば他方も立ちゆかなくなるような、利害が密接で離れられない関係の喩えではあるが、今の中国・朝鮮はわが日本国のためにほんの少しの援助ともならないだけでなく、西洋文明人の眼で見れば、三国が地理的に近接しているために、時にあるいはこれを同一視し、中国・朝鮮を評価する尺度でもってわが日本に対処する向きがないわけではない。例えば中国・朝鮮の政府が昔のままの専制政治であって、法律の信頼するべきものがないならば、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑い、中国・朝鮮の人士が迷信深くて科学が何であるかを知らなかったならば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思い、中国人が卑屈にして恥を知らなかったならば、日本人の義俠もこのために影に隠れ、朝鮮国に人に刑罰を科すのに惨酷なるものがあれば、日本人もまた共に無情であるかと推量せられるように、これらの事例を数えれば枚挙にいとまがない。これを喩えれば、この軒を並べている一村内や一町內の者たちが、おろかにして無法にしてしかも残忍無情であるときは、まれにその町村內の一つの家人が正当なふるまいに注意していても、他の醜悪に覆い隠されて埋没することに他ならない。その影響が現実のものとなって、間接的にわが外交上の障害となっていることは決して少なくはない、わが日本国の一大不幸と言うべきである。
 そうであるならば、今日の日本の計画を作るにおいて、我国は隣国の開明を待って共同してアジアを勃興させる猶予はない。むしろ、その仲間を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その中国・朝鮮に対処する方法も隣国であるという理由で、特別の思いやりにに及ぶものでなく、正に西洋人がこれに接するのと同様のやり方に従って、処分すべきである。悪友と親しくする者は、共に悪名を避けることはできない。私は心の中において、アジア東方の悪友(中国・朝鮮)を謝絶するものである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1934年(昭和9)初めて国立公園(.瀬戸内海国立公園・霧島国立公園・雲仙国立公園)が誕生する詳細
1983年(昭和58)千葉県佐倉市に「国立歴史民俗博物館」が開館する詳細
2005年(平成17)財団法人ダム水源地環境整備センター(現在の水源地環境センター)が「ダム湖百選」を選定する詳細
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、「地租改正条例」が廃止されて、「地租条例」(明治17年太政官布告第7号)が公布された日です。
 「地租条例(ちそじょうれい)」は、近代的土地制度を確立するために1873年(明治6)に公布された「地租改正条例」を廃して、地租及びその税率の法的根拠とした、全29条からなる太政官布告でした。それまでの「地租改正条例」第6章には、営業税・印紙税などの増加に随って、将来的には地租を地価の1%にまで引き下げるという規定と追加された第8章には改租後、売買により地価に変動があっても、地価を5年間は据え置くとしたものがありました。
 また、その後の地租改正反対一揆や士族反乱、自由民権運動などに対応するために同条例の改正や太政官布告によって地価や地租の引き上げが事実上できない事態に陥ります。このため、「地租改正条例」で規定されていた1885年(明治18)の地価改訂の実施もままならない状況でした。
 明治政府はそれを打開するために、諸規定の整理を名目に、翌年に迫った地価改訂実施と「地租改正条例」第6章以下の廃止(物品税の増加とともに地租率をやがて100分の1にまで引き下げるという公約と5年ごとに地価改訂を行うという規定の撤廃)を目的として制定され、地租をそのまま固定したものです。1889年(明治22)には土地台帳制度の見直しに伴って改正が行われ、地租に関する法的整備は一応完成したことになりました。
 これによって、地租は明治政府を支える主要財源となりますが、高額地租を不満とする地租軽減運動は継続され、帝国議会開設(1890年)から日清戦争(1894~95年)までの初期議会において、自由党や改進党などは、「政費節減・民力休養」のスローガンを掲げ、政府予算の削減による地租軽減を唱えることとなります。その後、他の近代的租税が導入されると共にその割合は徐々に低下し、1911年(明治44)には17.8%となりました。
 そこで、1931年(昭和6)3月31日には、税制改革に伴って「地租法」が公布、翌年4月1日の施行によって「地租条例」は廃止され、課税基準が地価から賃貸価格に改められることになります。
 以下に、「地租条例」(明治17年太政官布告第7号)の大正15年法律第6号による改正後の条文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「地租条例」(明治17年太政官布告第7号) 1884年(明治17)3月15日公布

地租条例別冊ノ通制定シ明治六年七月第弐百七拾弐号布告地租改正条例及地租改正ニ関スル条規其他本条例ニ抵触スルモノハ廃止ス
 但東京府管轄伊豆七島小笠原島函館県沖縄県札幌県根室県ハ当分従前ノ通タルヘシ
右奉 勅旨布告候事

地租条例

第一条 地租ハ左ノ税率ニ依リ毎年之ヲ賦課ス
  宅地 地価百分ノ二箇半
  田畑 地価百分ノ四箇五
  其他ノ土地 地価百分ノ五箇半
2 北海道ニ於ケル宅地以外ノ土地ノ地租ハ当分左ノ税率ニ依ル
  田畑 地価百分ノ三箇二
  其他ノ土地 地価百分ノ四箇
3 本条例ニ於テ地価ト称スルハ土地台帳ニ掲ケタル価額ヲ謂フ

第二条 地租ハ年ノ豊凶ニ由リテ増減セス

第三条 有租地ヲ区別シテ二類ト為ス
  第一類 田、畑、宅地、塩田、鉱泉地
  第二類 池沼、山林、牧場、原野、雑種地
2 第一類中又ハ第二類中ノ各地目変換スルモノヲ地目変換ト謂フ
3 第一類地ヲ第二類地ニ変換スルモノヲ地類変換ト謂フ
4 第二類地ニ労費ヲ加ヘ第一類地ト為スモノヲ開墾ト謂フ
5 第一類地又ハ第二類地ノ山崩、川欠、押掘、石砂入、川成、海成、湖水成、等ノ如キ天災ニ罹リ地形ヲ変シタルモノヲ荒地ト謂フ

第四条 左ニ掲クル土地ニ付テハ其地租ヲ免ス
 一 国府県市町村其他勅令ヲ以テ指定スル公共団体ニ於テ公用又ハ公共ノ用ニ供スル土地但有料借地ハ此限ニ在ラス
 二 府県市町村其他勅令ヲ以テ指定スル公共団体カ公用又ハ公共ノ用ニ供スヘキモノト定メタル其所有地但命令ノ定ムル期間内ニ公用又ハ公共ノ用ニ供セサルトキハ此限ニ在ラス
 三 府県社地、郷村社地、招魂社地但有料借地ハ此限ニ在ラス
 四 墳墓地
 五 用悪水路、溜池、*塘、井溝
 六 鉄道用地、軌道用地、運河用地
 七 保安林
 八 公衆ノ用ニ供スル道路
2 府県市町村其他ノ公共団体ハ前項ノ土地ニ租税其他ノ公課ヲ課スルコトヲ得ス但所有者以外ノ者前項第一号又ハ第二号ノ土地ヲ使用収益スル場合ニ於テ其土地ニ対シ使用者ニ租税其他ノ公課ヲ課スルハ此限ニ在ラス

第五条 土地ノ丈量ハ曲尺ヲ用ヒ六尺ヲ間ト為シ方壱間ヲ以テ歩ト為シ三拾歩ヲ畝ト為シ拾畝ヲ段ト為シ拾段ヲ町ト為ス但宅地ハ方壱間ヲ以テ坪ト為シ坪ノ拾分壱ヲ合ト為シ合ノ拾分壱ヲ勺ト為ス

第六条 地価ヲ定メ又ハ地価ヲ修正スルトキハ地盤ヲ丈量ス

第七条 地価ハ左ノ場合ニ該当スルニ非サレハ之ヲ修正セス
 一 地目又ハ地類ヲ変換シタルトキ
 二 開墾シタルトキ
 三 開拓鍬下年期明ニ至リタルトキ
 四 荒地免租年期明ニ至リ原地価ニ復シ難ク若クハ他ノ地目ニ変シタルトキ又ハ低価年期明ニ至リ原地価ニ復シ難キトキ

第八条 一般ニ地価ノ改正ヲ要スルトキハ前以テ其旨ヲ布告スヘシ

第九条 地価ハ其地ノ品位等級ヲ詮定シ其所得ヲ審査シ尚ホ其土地ノ情況ニ応シ之ヲ定ム

第十条 地目ヲ変換シ又ハ地類ヲ変換シタルトキハ政府ニ届出ヘシ
2 地目ヲ変換シ又ハ地類ヲ変換シタルトキハ直ニ其地価ヲ修正ス但第十六条第六項ノ場合ハ此限ニ在ラス

第十一条 地租ヲ課スル土地ヲ地租ヲ課セサル土地ト為シ又ハ地租ヲ課セサル土地ヲ地租ヲ課スル土地ト為シタルトキハ政府ニ届出ヘシ但之ニ関シ予メ政府ノ許可ヲ受ケ又ハ届出ヲ為シタルモノニ付テハ此限ニ在ラス
2 地租ヲ課セサル土地ヲ地租ヲ課スル土地ト為シタルトキハ其地ノ現況ニ依リ直ニ其土地ノ地価ヲ定ム但第十六条第四項ノ場合ハ此限ニ在ラス

第十二条 地租ハ左ノ期限ニ依リ之ヲ徴収ス
 一 宅地
  第一期 其年七月一日ヨリ同七月三十一日限 地租額二分ノ一
  第二期 翌年一月一日ヨリ同一月三十一日限 地租額二分ノ一
 二 田
  第一期 其年十二月十六日ヨリ翌年一月十五日限 地租額四分ノ一
  第二期 翌年二月一日ヨリ同二月末日限 地租額四分ノ一
  第三期 翌年三月一日ヨリ同三月三十一日限 地租額四分ノ一
  第四期 翌年五月一日ヨリ同五月三十一日限 地租額四分ノ一
 三 其他ノ土地
  第一期 其年九月一日ヨリ同九月三十日限 地租額二分ノ一
  第二期 其年十一月一日ヨリ同十一月三十日限 地租額二分ノ一
2 特殊ノ事情アル地方ニシテ前項ノ納期ニ依リ難キモノニ付テハ命令ヲ以テ特別ノ納期ヲ設クルコトヲ得

第十三条 地租ハ左ニ掲クル者ヨリ之ヲ徴収ス
 一 質権ノ目的タル土地ニ付テハ質権者
 二 百年ヨリ長キ存続期間ノ定アル地上権ノ目的タル土地ニ付テハ地上権者
 三 其他ノ土地ニ付テハ所有者
2 前項ニ於テ質権者、地上権者、所有者ト称スルハ土地台帳ニ質権者、地上権者、所有者トシテ登録セラレタル者ヲ謂フ

第十三条ノ二 前条ノ規定ニ依リ地租ヲ納ムヘキ者(法人ヲ除ク)ノ住所地市町村及其隣接市町村内ニ於ケル田畑地価ノ合計金額其同居家族ノ分ト合算シ二百円未満ナルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ其田畑ノ地租ヲ徴収セス但小作ニ付シタル田畑ニ付テハ此限ニ在ラス

第十四条 地価ヲ修正シタル土地ニ付テハ其年ヨリ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収ス但其年ニ係ル地租ノ全部又ハ一部ノ納期開始後地価ヲ修正シタルトキハ翌年分地租ヨリ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収ス

第十五条 地租ヲ課スル土地ニシテ地租ヲ課セサル土地トナリタルトキハ其届出アリタル後又ハ其事実ヲ認メタル後ニ開始スル納期ヨリ地租ヲ徴収セス
2 地租ヲ課セサル土地ニシテ地租ヲ課スル土地トナリタルトキハ地価設定後ニ開始スル納期ヨリ地租ヲ徴収ス但地価設定後ニ開始スル納期ニ於テ前年分地租ヲ徴収スヘキ場合ニ於テハ其納期分ノ地租ハ之ヲ徴収セス
3 前二項ノ規定ハ荒地免租年期若クハ低価年期許可ノ場合又ハ荒地免租年期明若クハ新開免租年期明ノ場合ニ之ヲ準用ス

第十六条 開墾ヲ為サントスルトキハ政府ニ届出ヘシ
2 前項ノ開墾地ハ開墾著手ノ年ヨリ二十一年目ニ其成功ノ部分ニ対シ地価ヲ修正ス但地類変換ヲ為シタル後五年以内ニ開墾シタルモノニ在リテハ其成功ノ部分ニ対シ直ニ其地価ヲ修正ス
3 十年以内ニ成功シ能ハサル開墾ヲ為サントスルトキハ政府ニ願出鍬下年期ノ許可ヲ受クヘシ鍬下年期ハ四十年トス但年期中ハ原地価ニ依リ地租ヲ徴収ス
4 官有地ヲ開拓シテ民有ニ帰セシ土地ハ其素地相当ト認ムル所ノ地価ヲ定メ尚ホ二十年ノ鍬下年期ヲ許可ス但年期中ハ現定地価ニ依リ地租ヲ徴収ス
5 官有ノ水面ヲ埋立テ又ハ干拓シ民有ニ帰セシ土地ハ六十年ノ新開免租年期ヲ許可ス
6 地目ヲ変換スル為メ開墾ニ等シキ労費ヲ要スルモノハ本条第三項ニ準シ四十年ノ地価据置年期ヲ許可スルコトアルヘシ

第十七条 前条ニ依リ開墾ノ届出ヲ為シタル土地又ハ開墾鍬下年期若クハ地価据置年期ノ許可ヲ受ケタル土地ニシテ開墾成功シ又ハ地目変換シタルトキハ其旨政府ニ届出ヘツ此場合ニ於テハ其年ヨリ開墾又ハ変換シタル地目ニ依リ其地租ヲ徴収ス但其年ニ係ル地租ノ全部又ハ一部ノ納期開始後届出アリタルトキハ翌年分地租ヨリ開墾又ハ変換シタル地目ニ依リ其地租ヲ徴収ス
3 前項ノ場合ニ於テ開墾又ハ変換地目ノ税率カ旧地目ノ税率ト同一ナラサルトキハ旧地目ニ対スル地租額ヲ開墾又ハ変換地目ノ税率ヲ以テ除シ之ヲ開墾又ハ変換地目ニ対スル地価トシ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収スルニ至ル迄其地価ニ依リ地租ヲ徴収ス

第十八条 廃止

第十九条 鍬下年期明地価据置年期明新開免租年期明ノトキ其地価ヲ定メ又ハ修正ス

第二十条 荒地ハ其被害ノ年ヨリ十五年以内免租年期ヲ定メ年期明ニ至リ原地価ニ復ス
2 海嘯ノ為メ潮水侵入シ作土ヲ損害シタルモノハ其状況ニ依リ前項ニ準拠スルコトアルヘシ

第二十一条 荒地免租年期明ニ至リ其地ノ現況原地価ニ復シ難キモノハ十五年以内七割以下ノ低価年期ヲ定メ年期明ニ至リ原地価ニ復ス

第二十二条 低価年期明ニ至リ尚ホ原地価ニ復シ難キモノ及ヒ荒地免租年期明ニ至リ原地目ニ復セス他ノ地目ニ変スルモノハ地価ヲ修正ス

第二十三条 免租年期明ニ至リ尚ホ荒地ノ形状ヲ存スルモノハ更ニ十五年以内免租継年期ヲ定ム其年期明ニ至リ原地価ニ復シ難キモノハ第二十一条第二十二条ニ依リ処分ス

第二十四条 川成、海成、湖水成ニシテ免租年期明ニ至リ原形ニ復シ難キモノハ更ニ二十年以内免租継年期ヲ許可ス其年期明ニ至リ尚ホ原地目ニ復セス他ノ地目ニ変セサルモノハ川、海、湖ニ帰スルモノトス

第二十四条ノ二 収税官吏ハ土地ノ検査ヲ為シ又ハ納税義務者若クハ所有者ニ対シ必要ノ事項ヲ尋問スルコトヲ得

第二十五条 土地ヲ欺隠シ地租ヲ逋脱スル者ハ四円以上四十円以下ノ罰金又ハ科料ニ処シ現地目ニ依リ地価ヲ定メ欺隠年間ノ地租ヲ追徴ス但発覚ノ日ヨリ三年以前ニ遡ルコトヲ得ス

第二十六条 第十一条ニ違犯スル者ハ三円以上三十円以下ノ罰金又ハ科料ニ処シ且現地目ニ依リ地価ヲ定メ其地租ヲ追徴ス但発覚ノ日ヨリ三年以前ニ遡ルコトヲ得ス

第二十七条 第十条第一項第十六条第一項ニ違犯スル者ハ一円以上一円九十五銭以下ノ科料ニ処ス其開墾ノ届出ヲ為ササルモノハ現地目ニ依リ地価ヲ定メ其地租増額ヲ追徴ス但発覚ノ日ヨリ三年以前ニ遡ルコトヲ得ス

第二十八条 第二十五条以下ノ所犯借地人、小作人ノ所為ニ係リ所有主其情ヲ知ラサルトキハ其借地人、小作人ヲ罰シ地租ハ所有主ヨリ追徴ス

第二十九条 第二十五条第二十六条第二十七条第二十八条ノ刑ニ当ル者自首スルトキハ其罰金科料ヲ免ス但其追徴スヘキ地租ハ仍ホ之ヲ納メシム

  附 則 (明治四十三年法律第二号)

1 本法ハ明治四十四年一月一日ヨリ之ヲ施行ス但シ明治四十三年分地租ノ徴収ニ関シテハ仍旧法ヲ適用ス
2 宅地以外ノ土地ノ税率ハ明治四十三年分地租ヨリ之ヲ適用ス
3 非常特別税法中地租ニ関スル規定ハ宅地ニ付テハ明治四十三年分地租限其ノ他ノ土地ニ付テハ明治四十二年分地租限之ヲ廃止ス
4 本法施行前地目ヲ変換シ又ハ地価ヲ変換シタル土地ニシテ地価ヲ修正セサルモノハ本法施行ノ際其ノ地価ヲ修正シ明治四十四年分地租ヨリ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収ス
5 本法施行前地目ヲ変換シ地価ヲ修正シタル土地ニシテ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収スルニ至ラサルモノニ付テハ明治四十四年分地租ヨリ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収ス
6 明治二十四年法律第二号、明治三十年法律第五号及宅地組換法ハ之ヲ廃止ス

  附 則 (大正八年法律第四十六号)

1 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
2 本法施行前第十六条第一項ノ届出ヲ為シ又ハ同条第三項乃至第六項ノ許可ヲ受ケタル土地ニ関シテハ仍ホ従前ノ例ニ依ル

     「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)明治政府が、民政方針を示す「五榜の掲示」の高札を設置する(新暦4月7日)詳細
1875年(明治8)詩人蒲原有明の誕生日詳細
1890年(明治23)琵琶湖疎水の第一期工事が完成し、全線通水が完了する詳細
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 今日は、平安時代前期の800年(延暦19)に、富士山延暦噴火が始まった日ですが、新暦では4月11日となります。
 富士山延暦噴火(ふじさんえんりゃくふんか)は、800年(延暦19)から802年(延暦21)にかけての一連の富士山噴火とされ、記録に残る中でも規模が大きく、貞観噴火(864~866年)、宝永噴火(1707年)と共に、富士山三大噴火の一つとされてきました。史書の『日本紀略』には、延暦十九年六月の癸酉(6日)、駿河国言として、「自去三月十四日迄四月十八日、富士山巓自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火花照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也」と記され、駿河国からの6月6日付報告として、3月14日~4月18日にかけて富士山が噴火し、噴煙のために昼でも暗くなり、夜は噴火の火柱が天を照らし、鳴動が雷のように聞こえ、雨のように火山灰が降って、ふもとの川が紅色に染まったことがわかります。
 また、同書の延暦二十一年正月の乙丑(8日)、駿河相模国言として、「駿河国富士山、晝夜燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘殃」と再び記され、駿河国・相模国からの1月8日付報告として、再度富士山が噴火して砂礫があられのように降ったことと噴火を沈めるための祈祷が行われたことがわかり、さらに、「五月(中略)甲戌、廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也」と記され、同年五月甲戌(5月19日)に、富士山の噴火による砕石によってふさがれた相模国へ至る足柄路を閉鎖し、筥荷(箱根)路を開いたことがわかりました。しかし、同書の延暦二十二年(803年)五月丁巳(5月8日)の記述として、「廃相模国筥荷路、復足柄舊路」と記され、箱根路は約1年後に廃され、足柄路が復旧されたことがわかります。
 その後、9世紀後半に、平安朝廷に仕えた都良香が著した『富士山記』には、「山東脚下有小山、土俗謂之新山、本平地也、延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日而後成山、蓋神造也」と記され、延暦二十一年三月に富士山の東斜面において異常が生じ、10日後までに新山が誕生したことを伝え聞いたとし、これは富士山東斜面にある「西小富士」ではないかとされてきました。その他に、『宮下文書』にも詳細で膨大な記述がありますが、明らかな地質学的誤りや大幅な誇張があるのではないかとされています。
 以下に、『日本紀略』と『富士山記』の中の該当の記述を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本紀略』の中の富士山延暦噴火の部分の抜粋

・延暦十九年六月の条
 「癸酉、駿河国言、自去三月十四日、迄四月十八日、富士山嶺自焼、晝則烟気暗瞑、夜則火光照天、其聲若雷、灰下如雨。山下川水皆紅色也」

・延暦廿一年正月の条
 「乙丑(中略)駿河相模国言、駿河国富士山、晝夜燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘殃」

・延暦廿一年五月の条
 「甲戊、廃相模国足柄路、開筥荷途、以富士焼碎石塞道也」

・延暦廿二年五月の条
 「丁巳、廃相模国筥荷路、復足柄舊路」

〇『富士山記』からの抜粋

 「山東脚下有小山、土俗謂之新山、本平地也,延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日而後成山、蓋神造也」

  ※縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付して、旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1789年(寛政元)哲学者・経済学者・思想家三浦梅園の命日(新暦4月9日)詳細
1868年(慶応4)五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細


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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、日本初のプラネタリウムが設置された「大阪市立電気科学館」(のちの大阪市立科学館)が開館した日です。
 「大阪市立電気科学館(おおさかしりつでんきかがくかん)」は、大阪市電気局が電気供給事業10周年の記念事業として、大阪府大阪市西区に建設した日本初の科学館で、通称は電館(でんかん)と言いました。全館冷房・電光サインなどがある近代的なビルディングで、開館時の施設は、1階は電気設備・製品のショールーム、2階は弱電無電館(テレビ電話や真空管類などを陳列)、3階は電力電熱館(発電所模型や電熱乾燥機模型など展示)、4階は照明館(各種照明装置を展示)、5階は電気原理館(電気の原理を解説する展示)、6階はプラネタリウムとなっています。
 特にプラネタリウムは、アジアで最初に設置(世界で25番目)されたものとされ、18メートルの丸型天井(ドーム)を持ち、カール・ツァイス・イェーナ社製「ツァイスII型」によって、約9,000個の星を投影していました。太平洋戦争の戦災を乗り越え、展示内容も変えながら、52年余営業し、老朽化に伴って1989年(平成元)5月に閉館、その後建物も壊されています。
 代替施設として、同年に北区中之島に「大阪市立科学館」が開業、プラネタリウム機器は、ここに収蔵資料として移管され、2000年(平成12)12月に大阪市指定文化財となりました。

〇プラネタリウムとは?

 投影機から発した光を丸天井に投影し、星空を映し出し、月・惑星・太陽などの運行や、四季の星座の配置などを示す装置および施設です。ドイツ博物館のO.vonミラーとハイデルベルク天文台のM.ウォルフが相談してツァイス社に製作を依頼し、同社のW.バウエルスフェルトが1923年(大正12)に完成させたのが最初とされてきました。
 日本では、1937年(昭和12)3月13日に日本初の科学館とされる「大阪市立電気科学館」(のちの大阪市立科学館)のオープン時に、6階に18メートルの丸型天井(ドーム)を設置、カール・ツァイス・イェーナ社製「ツァイスII型」によって開始されたのが最初(世界25番目でアジア初)とされます。同型機を用いて、1938年(昭和13)に有楽町の「東日天文館」にも設置されましたが、1945年(昭和20)に太平洋戦争下の空襲により焼失しました。
 戦後は、1957年(昭和32)に東京・渋谷の「天文博物館五島プラネタリウム」(2001年閉館)、1960年(昭和35)には、兵庫県明石市に「明石市立天文科学館」、1962年(昭和37)には、名古屋市に「名古屋市科学館」が開館し、プラネタリウムが設置されています。その後は、全国各地の児童館、科学館などにプラネタリウムが設置されるようになりました。

☆日本のプラネタリウム一覧

<北海道地方>

・札幌市青少年科学館(札幌市厚別区)
・サッポロスターライトドーム(札幌市手稲区)
・札幌もいわ山ロープウェイ スターホール(札幌市南区)
・岩見沢郷土科学館(岩見沢市)
・小樽市総合博物館(小樽市)
・室蘭市青少年科学館(室蘭市)
・苫小牧市科学センター(苫小牧市)
・旭川市科学館 サイパル(旭川市)
・なよろ市立天文台きたすばる(名寄市)
・稚内市青少年科学館(稚内市)
・北網圏北見文化センター(北見市)
・帯広市児童会館(帯広市)
・釧路市こども遊学館(釧路市)
・りくべつ宇宙地球科学館(足寄郡陸別町)
・厚岸町海事記念館(厚岸郡厚岸町)
・厚真町青少年センター(勇払郡厚真町)

<東北地方>

・青森市中央市民センター(青森県青森市)
・十和田市生涯学習センター(青森県十和田市)
・八戸市児童科学館(青森県八戸市)
・弘前文化センター(青森県弘前市)
・盛岡市子ども科学館(岩手県盛岡市)
・仙台市天文台(宮城県仙台市青葉区)
・大崎生涯学習センター[パレットおおさき](宮城県大崎市)
・秋田県児童会館 みらいあ(秋田県秋田市)
・能代市子ども館(秋田県能代市)
・秋田ふるさと村 星空探検館スペーシア(秋田県横手市)
・由利本荘市文化交流館 カダーレ(秋田県由利本荘市)
・由利本荘市スターハウス コスモワールド(秋田県由利本荘市)
・鶴岡市中央公民館(山形県鶴岡市)
・最上広域市町村圏事務組合教育研究センター(山形県新庄市)
・北村山視聴覚教育センター(山形県村山市)
・米沢市児童会館(山形県米沢市)
・山形県朝日少年自然の家(山形県西村山郡大江町)
・福島市子どもの夢を育む施設[こむこむ](福島県福島市)
・郡山市ふれあい科学館(福島県郡山市)
・いわき市文化センタ(福島県いわき市)
・滝根町星の村天文台(福島県田村市)

<関東地方>

・けんしん天体研修館プラネタリウム (茨城県水戸市)
・つくばエキスポセンター (茨城県つくば市)
・日立シビックセンター科学館 (茨城県日立市)
・大野潮騒はまなす公園 (茨城県鹿嶋市)
・パークアルカディアプラネタリウム館 (茨城県常陸大宮市)
・わくわくグランディ科学ランド(栃木県宇都宮市)
・鹿沼市民文化センター(栃木県鹿沼市)
・真岡市科学教育センター(栃木県真岡市)
・前橋市児童文化センター(群馬県前橋市)
・群馬県生涯学習センター少年科学館(群馬県前橋市)
・みかぼみらい館(群馬県藤岡市)
・ぐんまこどもの国(群馬県太田市)
・桐生市立図書館(群馬県桐生市)
・高崎市少年科学館(群馬県高崎市)
・向井千秋記念子ども科学館(群馬県館林市)
・利根沼田文化会館(群馬県沼田市)
・伊勢崎市児童センター(群馬県伊勢崎市)
・さいたま市青少年宇宙科学館(埼玉県さいたま市浦和区)
・さいたま市宇宙劇場(埼玉県さいたま市大宮区)
・朝霞市中央公民館(埼玉県朝霞市)
・入間市児童センター(埼玉県入間市)
・加須未来館(埼玉県加須市)
・川口市立科学館(埼玉県川口市)
・川越市児童センター(埼玉県川越市)
・北本市文化センター(埼玉県北本市)
・久喜市総合文化会館(埼玉県久喜市)
・熊谷市立文化センター(埼玉県熊谷市)
・鴻巣児童センター(埼玉県鴻巣市)
・越谷市立児童館コスモス(埼玉県越谷市)
・狭山市立中央児童館(埼玉県狭山市)
・戸田市こどもの国(埼玉県戸田市)
・新座市児童センター(埼玉県新座市)
・埼玉県立名栗げんきプラザ(埼玉県飯能市)
・吉川市児童館ワンダーランド(埼玉県吉川市)
・埼玉県立小川げんきプラザ(埼玉県比企郡小川町)
・寄居町総合社会福祉センター・かわせみ荘(埼玉県大里郡寄居町)
・千葉市科学館[Qiball](千葉県千葉市中央区)
・千葉県手賀沼親水広場「水の館」(千葉県我孫子市)
・市川市少年自然の家(千葉県市川市)
・柏市立図書館プラネタリウム室(千葉県柏市)
・千葉県立手賀の丘少年自然の家(千葉県柏市)
・千葉県立水郷小見川少年自然の家(千葉県香取市)
・千葉県立君津亀山少年自然の家(千葉県君津市)
・白井市文化センタープラネタリウム(千葉県白井市)
・銚子市青少年文化会館(千葉県銚子市)
・船橋市総合教育センター(千葉県船橋市)
・松戸市民会館プラネタリウム室(千葉県松戸市)
・千葉県立大房岬少年自然の家(千葉県南房総市)
・八千代市少年自然の家(千葉県八千代市)
・長生村文化会館(千葉県長生郡長生村)
・ギャラクシティまるちたいけんドーム(東京都足立区)
・板橋区立教育科学館(東京都板橋区)
・葛飾区郷土と天文の博物館(東京都葛飾区)
・プラネターリアム銀河座[證願寺内](東京都葛飾区)
・日本科学未来館(東京都江東区)
・品川区立五反田文化センター(東京都品川区)
・渋谷区文化総合センター大和田(東京都渋谷区)
・新宿区立教育センター(東京都新宿区)
・コニカミノルタプラネタリウム天空 in 東京スカイツリータウン(東京都墨田区)
・世田谷区立教育センター(東京都世田谷区)
・中央区立郷土天文館(東京都中央区)
・科学技術館(東京都千代田区)
・コニカミノルタプラネタリウム満天 in Sunshine city(東京都豊島区)
・なかのZERO(東京都中野区)
・ベネッセ・スター・ドーム(東京都多摩市)
・多摩六都科学館(東京都西東京市)
・コニカミノルタ サイエンスドーム(東京都八王子市)
・東大和市立郷土博物館(東京都東大和市)
・府中市郷土の森博物館(東京都府中市)
・はまぎんこども宇宙科学館(神奈川県横浜市磯子区)
・神奈川工科大学厚木市子ども科学館(神奈川県厚木市)
・伊勢原市立こども科学館(神奈川県横浜市伊勢原市)
・かわさき宙と緑の科学館(神奈川県川崎市多摩区)
・相模原市立博物館(神奈川県相模原市中央区)
・湘南台文化センターこども館(神奈川県藤沢市)
・平塚市博物館(神奈川県平塚市)

<中部地方>

・新潟県立自然科学館(新潟県新潟市)
・長岡市青少年文化センター(新潟県長岡市)
・柏崎市立博物館(新潟県柏崎市)
・ドーム中里きらら(新潟県十日町市)
・村上市教育情報センター(新潟県村上市)
・上越青少年文化センター(新潟県上越市)
・上越清里星のふるさと館(新潟県上越市)
・堀之内公民館(新潟県魚沼市)
・富山市科学博物館(富山県富山市)
・黒部市吉田科学館(富山県黒部市)
・国立立山青少年自然の家(富山県中新川郡立山町)
・いしかわ子ども交流センター(石川県金沢市)
・金沢市キゴ山天体観察センター(石川県金沢市)
・加賀市立山中児童センター(石川県加賀市)
・世界のガラス館(石川県加賀市)
・根上学習センター(石川県能美市)
・コスモアイル羽咋(石川県羽咋市)
・石川県柳田星の観察館「満天星」(石川県鳳珠郡能登町)
・福井運動公園こどもの国(福井県福井市)
・福井市自然史博物館分館[セーレンプラネット、ハピリン内](福井県福井市)
・福井県自然保護センター(福井県大野市)
・福井県児童科学館(福井県坂井市)
・敦賀市立児童文化センター(福井県敦賀市)
・山梨県立科学館(山梨県甲府市)
・長野市立博物館(長野県長野市)
・松本市教育文化センター(長野県松本市)
・上田創造館(長野県上田市)
・飯田市美術博物館(長野県飯田市)
・長野県伊那文化会館(長野県伊那市)
・中野市立博物館(長野県中野市)
・大町エネルギー博物館(長野県大町市)
・佐久市子ども未来館(長野県佐久市)
・南牧村農村文化情報交流館[ベジタボール・ウィズ](長野県南佐久郡南牧村)
・八ヶ岳自然文化園(長野県諏訪郡原村)
・小川プラネタリウム館(長野県上水内郡小川村)
・岐阜市科学館(岐阜県岐阜市)
・スイトピアセンター(岐阜県大垣市)
・各務原少年自然の家(岐阜県各務原市)
・下呂温泉合掌村ドリーム館(岐阜県下呂市)
・関市まなびセンター(岐阜県関市)
・飛騨プラネタリウム(岐阜県高山市)
・安八郡安八町ハートピア安八(岐阜県岐阜市)
・西美濃プラネタリウム(岐阜県揖斐郡揖斐川町)
・宇宙美術館(静岡県伊東市)
・浜松科学館(静岡県浜松市)
・道の駅富士川楽座(静岡県富士市)
・静岡県立朝霧野外活動センター(静岡県富士宮市)
・三島市立箱根の里(静岡県三島市)
・ディスカバリーパーク焼津(静岡県焼津市)
・月光天文台…デジタリウム カッパー[デジタリス](静岡県田方郡函南町)
・名古屋市科学館(愛知県名古屋市中区)
・安城市文化センター(愛知県安城市)
・一宮地域文化広場(愛知県一宮市)
・夢と学びの科学体験館(愛知県刈谷市)
・小牧中部公民館(愛知県小牧市)
・津島市児童科学館(愛知県津島市)
・豊川市中央図書館 ジオスペース館(愛知県豊川市)
・とよた科学体験館(愛知県豊田市)
・豊橋市視聴覚教育センター(愛知県豊橋市)
・半田空の科学館(愛知県半田市)
・東栄町森林体験交流センター「スターフォレスト御園」(愛知県北設楽郡東栄町)

<近畿地方>​

・岡三デジタルドームシアター 神楽洞夢[かぐらどうむ](三重県津市)
・みえこどもの城(三重県松阪市)
・鈴鹿市文化会館(三重県鈴鹿市)
・四日市市立博物館(三重県四日市市)
・長島ふれあい学習館(三重県桑名市)
・東員町総合文化センター(三重県員弁郡東員町)
・大津市科学館(滋賀県大津市)
・大津市比良げんき村 星の博物館(滋賀県大津市)
・琵琶湖マリオットホテル デジタルスタードーム ほたる(滋賀県守山市)
・京都市青少年科学センター(京都府京都市)
・向日市天文館(京都府向日市)
・きっづ光科学館ふぉとん(京都府木津川市)
・文化パルク城陽(京都府城陽市)
・るり渓温泉 遊星館(京都府南丹市)
・福知山市児童科学館(京都府福知山市)
・エル・マールまいづる(京都府舞鶴市)
・京丹後市星空体験学習室 童夢[ドーム](京都府京丹後市)
・大阪市立科学館(大阪府大阪市北区)
・五月山児童文化センター(大阪府池田市)
・茨木市立中央公民館天文観覧室(大阪府茨木市)
・ドリーム21[東大阪市立児童文化スポーツセンター](大阪府東大阪市)
・ソフィア・堺[堺星空館](大阪府堺市中区)
・大阪狭山市立公民館(大阪府大阪狭山市)
・すばるホール(大阪府富田林市)
・バンドー神戸青少年科学館(兵庫県神戸市中央区)
・伊丹市立こども文化科学館(兵庫県伊丹市)
・明石市立天文科学館(兵庫県神戸市中央区)
・加古川総合文化センター プラネタリウム館(兵庫県加古川市)
・姫路科学館(兵庫県姫路市)
・にしわき経緯度地球科学館 テラ・ドーム(兵庫県西脇市)
・猪名川天文台(兵庫県川辺郡猪名川町)
・奈良市教育センター(奈良県奈良市)
・大塔コスミックパーク 星のくに(奈良県五條市)
・和歌山市立こども科学館(和歌山県和歌山市)
・紀美野町みさと天文台(和歌山県海草郡紀美野町)

<中国地方>

・鳥取市さじアストロパーク(鳥取県鳥取市)
・米子市児童文化センター(鳥取県米子市)
・出雲科学館(島根県出雲市)
・島根県立三瓶自然館サヒメル(島根県大田市)
・安野光雅美術館(島根県鹿足郡津和野町)
・人と科学の未来館サイピア[岡山県生涯学習センター](岡山県岡山市)
・岡山天文博物館(岡山県浅口市)
・ライフパーク倉敷科学センター(岡山県倉敷市)
・広島市こども文化科学館(広島県広島市中区)
・山陽スペースファンタジープラネタリウム(広島県廿日市市)
・府中市こどもの国(広島県府中市)
・宇根山天文台(広島県三原市)
・ジミー・カーターシビックセンター(広島県三次市)
・山口県児童センター(山口県山口市)
・宇部市視聴覚教育センター(山口県宇部市)
・山陽小野田市青年の家(山陽小野田市)

<四国地方>

・徳島県立あすたむらんど(徳島県板野郡板野町)
・さぬきこどもの国(香川県高松市)
・松山市総合コミュニティセンターコスモシアター(愛媛県松山市)
・西条市こどもの国(愛媛県西条市)
・三瓶文化会館(愛媛県西予市)
・愛媛県総合科学博物館(愛媛県新居浜市)
・新居浜市市民文化センター(愛媛県新居浜市)
・久万高原天体観測館(愛媛県上浮穴郡久万高原町)

<九州・沖縄地方>

・福岡市立少年科学文化会館(福岡県福岡市中央区)
・北九州市立児童文化科学館(福岡県北九州市八幡東区)
・福岡県青少年科学館(福岡県久留米市)
・宗像ユリックスプラネタリウム(福岡県宗像市)
・大牟田文化会館(福岡県大牟田市)
・星の文化館(福岡県八女市)
・佐賀県立宇宙科学館(佐賀県武雄市)
・唐津市少年科学館(佐賀県唐津市)
・長崎市科学館(長崎県長崎市)
・佐世保市児童文化館(長崎県佐世保市)
・大分県香々地青少年の家(大分県豊後高田市)
・大分県マリンカルチャーセンター(大分県佐伯市)
・九重青少年の家(大分県玖珠郡九重町)
・熊本市立熊本博物館(熊本県熊本市)
・南阿蘇ルナ天文台(熊本県南阿蘇村)
・ミューイ天文台(熊本県上天草市)
・カルチャーパレス(熊本県人吉市)
・宮崎科学技術館(宮崎県宮崎市)
・たちばな天文台(宮崎県都城市)
・北きりしまコスモドーム(宮崎県小林市)
・鹿児島市立科学館(鹿児島県鹿児島市)
・鹿児島県立博物館(鹿児島県鹿児島市)
・スターランドAIRA(鹿児島県姶良市)
・リナシティかのや 情報プラザ(鹿児島県鹿屋市)
・薩摩川内市立少年自然の家(鹿児島県薩摩川内市)
・牧志駅前ほしぞら公民館(沖縄県那覇市)
・美ら星ゲート いしがき島星ノ海プラネタリウム(沖縄県石垣市)
・国営沖縄記念公園・海洋文化館(沖縄県国頭郡本部町)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1192年(建久3)第77代の天皇とされる後白河天皇の命日(新暦4月26日)詳細
1868年(慶応4)江戸開城を巡って、西郷隆盛勝海舟が江戸で会談を始める(新暦4月5日)詳細
1988年(昭和63)青函トンネルが開通する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、日本労働運動の先駆的指導者・政治家鈴木文治の亡くなった日です。
 鈴木文治(すずき ぶんじ)は、1885年(明治18)9月4日に、宮城県栗原郡金成村(現在の栗原市)の酒造業を営む旧家鈴木益治の長男として生まれました。10歳の頃に父親と共にキリスト教に入信、宮城県尋常中学校志田郡立分校(現在の古川高等学校)を経て、1902年(明治35)に旧制山口高等学校に入学します。1905年(明治38)に旧制山口高等学校卒業後、東京帝国大学法科に入学、同郷の先輩である吉野作造と共に、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属、社会問題に関心を持ちました。
 1909年(明治42)に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、秀英社に入社、翌年に東京朝日新聞に移り、貧民問題の取材に取り組みます。1911年(明治44)にユニテリアン派の統一基督教弘道会(会長安部磯雄)に幹事として就職、翌年には、労働者の地位向上を目指して、14名の賛同者とともに「友愛会」を発足させ会長となりました。
 労働者の修養、共済を目的とし労使協調主義を取りましたが、1915年(大正4)と翌年の2度にわたり、渡米して米国の労働組合事情を学び、ゴンパースの知己を得て、AFL(アメリカ労働総同盟)大会にも出席、次第に団結権、ストライキ権を主張するようになります。この頃より「友愛会」は全国的労働組合に成長していき、1919年(大正8)に「大日本労働総同盟友愛会」と改称され、アメリカのワシントンでの第1回国際労働会議にも参加し、ILO創設にも参画しました。
 労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導したりするようになり、1921年(大正10)には「日本労働総同盟」と改称されます。一方で農民運動にも関わり、1923年(大正12)に『農村問題講話』、『農村問題早わかり』を刊行、翌年には、日本農民組合関東同盟会長となりました。
 1925年(大正14)には、日本労働総同盟(総同盟)を除名された左派系労働組合が「日本労働組合評議会」を結成して分裂しましたが、会長職にとどまります。1926年(大正15)に社会民衆党の結成に参加し中央執行委員となり、1928年(昭和3)の第1回目の男子普通選挙となる第16回衆議院議員総選挙に旧大阪4区から立候補し当選しました。
 しかし、1930年(昭和5)の総選挙で落選、「日本労働総同盟」会長も退任します。1932年(昭和7)の無産政党合同により社会大衆党顧問に就任、1936年(昭和11)の総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選、1937年(昭和12)にも再選を果たしました。ところが、1940年(昭和15)に反軍演説を行った民政党代議士斎藤隆夫の除名問題で、党議に反して採決に対し棄権すると、除名処分となり、勤労国民党の結成を準備しましたが禁止され、戦時中は憲兵隊の監視下におかれます。
 太平洋戦争後、1945年(昭和20)の日本社会党の結成に参加し、翌年の総選挙に出馬、その選挙運動中に、宮城県仙台市において、心臓喘息により、60歳で急逝しました。

〇鈴木文治の主要な著作

・『日本の労働問題』(1919年)
・『農村問題講話』(1923年)
・『農村問題早わかり』(1923年)
・『民衆政治講座』(1929年)
・『労働運動二十年』(1931年)
・『米國勞働界現状と其の對日風潮』(1938年)
・『国際労働問題』

☆鈴木文治関係略年表

・1885年(明治18)9月4日 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる
・1902年(明治35) 旧制山口高等学校に入学する
・1905年(明治38) 旧制山口高等学校卒業後、東京帝国大学法科に入学する 
・1909年(明治42) 東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、秀英社に入社する
・1910年(明治43) 東京朝日新聞に入社、貧民問題の取材に取り組む
・1911年(明治44) ユニテリアン派の統一基督教弘道会(会長安部磯雄)に幹事として就職する
・1912年(大正元) 労働者の地位向上を目指して、14名の賛同者とともに「友愛会」を発足させ会長となる
・1915年(大正4) 渡米して米国の労働組合事情を学ぶ
・1916年(大正5) 2度目の渡米をして米国の労働組合事情を学ぶ
・1919年(大正8) 「友愛会」が「大日本労働総同盟友愛会」と改称される、ILO創設に参画する、『日本の労働問題』を刊行する
・1921年(大正10) 「大日本労働総同盟友愛会」が「日本労働総同盟」と改称される
・1923年(大正12) 『農村問題講話』、『農村問題早わかり』を刊行する
・1924年(大正13) 日本農民組合関東同盟会長となる
・1926年(大正15) 社会民衆党の結成に参加し中央執行委員となる
・1928年(昭和3) 第1回目の男子普通選挙となる第16回衆議院議員総選挙に旧大阪4区から立候補し当選する
・1929年(昭和4) 『民衆政治講座』を刊行する 
・1930年(昭和5) 第17回衆議院議員総選挙で落選、「日本労働総同盟」会長を退任する
・1931年(昭和6) 『労働運動二十年』を刊行する
・1932年(昭和7) 無産政党合同により社会大衆党顧問に就任する
・1936年(昭和11) 第18回衆議院議員総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選する
・1937年(昭和12) 第19回衆議院議員総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選する
・1940年(昭和15) 反軍演説を行った民政党代議士斎藤隆夫の除名問題で、党議に反して採決に対し棄権すると、除名処分となる
・1945年(昭和20) 日本社会党の結成に参加する
・1946年(昭和21)3月12日 宮城県仙台市において、心臓喘息により60歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1633年(寛永10)第110代の天皇とされる後光明天皇の誕生日(新暦4月20日)詳細
1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
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