ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年03月

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 今日は、平安時代前期の850年(嘉祥3)に、第54代の天皇とされる仁明天皇の亡くなった日ですが、新暦では5月4日となります。
 仁明天皇(にんみょうてんのう)は、平安時代前期の810年(弘仁元年)に、京都において、嵯峨天皇の第二皇子(母は橘清友の娘)として生まれましたが、名は正良(まさら)と言いました。823年(弘仁14年2月)に立太子し、827年(天長4年8月)には、藤原順子を母として、第一皇子の道康親王(後の文徳天皇)が生まれています。
 また、藤原沢子を母として、828年(天長5)に第二皇子の宗康親王、830年(天長7)には、第三皇子の時康親王(後の光孝天皇)が生まれました。833年(天長10年2月28日)に、叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位し、第54代とされる天皇となり、同年11月には、道康親王の母、藤原順子を女御としています。
 嵯峨上皇の家父長的権威の下、政情は安定していましたが、嵯峨・淳和両上皇没後の842年(承和9年7月)には、伴健岑らの謀反が発覚、皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)が廃され(承和の変)、藤原北家の政権独占の端を開くこととなりました。生来病弱なこともあって医学に詳しく、経史にも造詣が深く、また詩文、書法、管弦などを能くし、『経国集』に詩1首が入集しています。
 『令義解』の施行や『日本後紀』40巻の編修などもこの時代に行われました。天皇40歳の算賀行事は盛大を極めましたが、850年(嘉祥3年3月19日)に病により出家し、3日後の21日には京都において、数え年41歳で亡くなり、陵墓は深草陵(現在の京都市伏見区深草東伊達町)とされています。

〇仁明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・810年(弘仁元年) 京都において、嵯峨天皇の第二皇子(母は橘清友の娘)として生まれる
・823年(弘仁14年2月) 立太子する
・827年(天長4年8月) 藤原順子を母として、第一皇子の道康親王(後の文徳天皇)が生まれる
・828年(天長5年) 藤原沢子を母として、第二皇子の宗康親王が生まれる
・830年(天長7年) 藤原沢子を母として、第三皇子の時康親王(後の光孝天皇)が生まれる
・833年(天長10年2月28日) 叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位する
・833年(天長10年11月) 道康親王の母、藤原順子が女御となる
・842年(承和9年7月) 嵯峨上皇の死に際して、伴健岑らの謀反が発覚、皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)が廃される(承和の変)
・842年(承和9年8月) 第一皇子道康親王(後の文徳天皇)が皇太子に立てられる
・843年(承和10年) 文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂一族を流罪に処する
・845年(承和12年) 自身の更衣三国町と女御藤原貞子の弟で自身の幼少期からの側近の藤原有貞の密通を疑い、地方官に左遷する
・849年(嘉祥2年) 天皇40歳の算賀行事が盛大に催される
・850年(嘉祥3年3月19日) 病により出家する
・850年(嘉祥3年3月21日) 京都において、数え年41歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

835年(承和2)真言宗の開祖空海(弘法大師)の命日(新暦4月22日)詳細
1934年(昭和9)函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出す詳細
1972年(昭和47)奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画を発見する詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、自由民権運動に対する政府の弾圧事件の一つである高田事件が発生した日です。
 高田事件(たかだじけん)は、新潟県高田・頸城地方(現在の新潟県上越市)の頸城自由党の主要党員が、内乱陰謀(政府高官暗殺計画)を口実に一斉検挙された事件でした。1881年(明治14)11月に結成された頸城自由党は、穏健派とたもとを分かって、急進的となり、官憲が警戒するところとなります。
 1883年(明治16)3月10日から富山県高岡で開催された北陸七州有志懇親会はとても盛会で、北陸地方の自由民権運動は大きく発展しようとしていました。これに対し、潜入捜査をしていた新潟始審裁判所高田支庁検事補堀小太郎の密偵長谷川三郎は、大臣暗殺・内乱の陰謀があると密告、家宅捜査で発見された「天誅党主意書」を口実に、同年3月20日に政府転覆を計画したとして頸城自由党員20数名をいっせいに検挙します。
 続いて5月初旬にかけて、北辰自由党員も含めて新潟県下で党員や支持者らを逮捕し、計37名に及びました。しかし、「天誅党旨意書」と頸城自由党との関係が立証できず、旨意書の作成者赤井とその協力者とされた井上平三郎、風間安太郎の3名を除き、他は釈放されたものの、北陸地方の自由民権運動は挫折させられます。
 尚、赤井は国事犯とされ重禁獄9年となり、のち脱獄しましたが、逃走中に車夫を殺したため、捕らえられて死刑となったものの、井上、風間の2名は明確な物的証拠がなかったことから、高等法院における予審で免訴となりました。

〇自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・2月22日 板垣退助らが大阪で自由民権運動の政治団体愛国社を結成する
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される
・9月14日 大阪で愛国社再興大会が始まる
・9月20日 「愛国社再興合議書」を採択する

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
  このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
  このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する 

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)上野公園に博物館(現在の東京国立博物館)が開館する詳細
上野公園に博物館附属動物園(上野動物園)が開館する詳細
1935年(昭和10)日本画家速水御舟の命日詳細
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 奈良時代の713年(和銅6)に、元明天皇により「運脚の労苦に対する詔」が出された日ですが、新暦では4月18日となります。
 「運脚の労苦に対する詔」(うんきゃくのろうくにたいするみことのり)は、元明天皇によって出された運脚に関する詔でした。当時は、全国から平城京(奈良)に、調・庸の品物が駅路を使って運ばれていましたが、それを担ったのは村の中から選ばれた一部の人たちで、運脚と呼ばれ、村人たちは旅の費用として米や塩などを出しています。
 地方から平城京までは国司が引率することになっていたので、運脚の人たちは無事に都にたどり着き、都の造営工事でも働かされました。しかし、帰途は自分たちだけで歩いて帰らなければならず、その途中で食糧が窮乏し、病気で倒れ、帰国することのできないものがしばしばみられます。そこで、この詔により、「各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と命じました。

〇運脚(うんきゃく)とは?

 奈良・平安時代の律令制の下で、国司などの指導で綱領(ごうりょう)、綱丁(ごうちょう)に率いられて庸、調などの貢物を徒歩で運搬した人夫です。
 村々で選ばれた正丁 (せいてい) がその任にあたり、往復の食糧は自己負担であり、上京後も都で駆使されることがあるなど過酷であって、帰国の途中で餓死する者も出ました。その中で、712年(和銅5年1月16日)に、 元明天皇は「役民の労苦に対する処置」につていて詔を出し、運脚等に関して「国司らはよく憐み養い、状況に応じて救済するように。もし死んでしまう者があれば、とりあえず埋葬し、その姓名を記録して本籍地のある国に報告せよ。」と命じます。
 さらに同年10月29日に、詔を再出し、諸国の役夫と運脚が、「郷里へ戻る時に、食糧が無くなっても調達することが容易ではない。そこで各郡におかれた官稲から稲を支出して便利な場所に貯えておき、役夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭(和同開珎)を持って費用とし、重い荷物のために苦労することを癒し。そして銭を使用することの、便利なことを分からせよ。」と命じました。しかし、平城京から離れた地では、銭(和同開珎)は通用せず、実状にあっていなかったと思われ、翌年3月19日に、「運脚の労苦に対する詔」が出され、「各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と命じています。
 律令制下での運脚という労役の負担は、とても重いもので、古代の農民の疲弊の一因ともなっています。
 以下に、和銅5年1月16日と10月29日、翌年3月19日に、元明天皇より出された運脚に関する詔の『続日本紀』の記述を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「役民の労苦に対する処置の詔」712年(和銅5年1月16日)

<原文>
五年春正月乙酉、詔曰。諸国役民。還郷之日。食糧絶乏。多饉道路。転填溝壑。其類不少。国司等宜勤加撫養、量賑恤。如有死者。且加埋葬。録其姓名、報本属也。

<読み下し文>
五年春正月乙酉。詔して日く、「諸国の役民[1]、郷に還るの日、食糧へ乏しくして、多く道路に饉ゑて、溝壑[2]に転填する[3]こと、其の類少なからず。国司等宜しく勤めて撫養[4]を加へ、量りて賑恤[5]すべし。如し死する者有らば、且つ埋葬を加へ、其の姓名を録して、本属[6]に報ぜよ。」と。

【注釈】

[1]役民:えきみん=公の労役に服する人。税を都まで運んだ人たち。
[2]溝壑:こうがく=みぞや谷間。貧困などのために路傍で倒れ死ぬ場合などに用いる。
[3]転填する:てんてんする=転がり落ちてつまる。
[4]撫養:ぶよう=憐み養う。
[5]賑恤:しんじゅつ=貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること。救済すること。
[6]本属:ほんぞく=本籍地。

<現代語訳>
和銅5年春正月16日。詔して言うことには、「諸国の税を都まで運んだ人たちが郷里に戻る時に、食糧が無くなって、多くが帰路で飢えて、溝や谷に転がり落ち、埋もれて死んでしまうといったことが少なくない。国司らはよく憐み養い、状況に応じて救済するように。もし死んでしまう者があれば、とりあえず埋葬し、その姓名を記録して本籍地のある国に報告せよ。」と。

   『続日本紀』卷第五(元明紀二)より

〇「役夫・運脚に関する詔」712年(和銅5年10月29日)

<原文>
乙丑。詔曰。諸国役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稲別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。

<読み下し文>
乙丑。詔して曰く。「諸国の役夫[7]及ひ運脚[8]の者。郷に還るの日。粮食[9]乏少にして。達することを得るに由無し。郡稲[10]を割て別に便地に貯へ役夫[7]の到るに隨て交易[11]せ令むるに任かす宜く。又行旅の人をして令して必す錢を齎て資と爲さしむ。因て重擔[12]の勞を息め。亦錢を用るの便なることを知らしむ。」と。

【注釈】

[7]役夫:えきふ=徭役(ようえき)にかり出された公民。
[8]運脚:うんきゃく=綱領(ごうりょう)、綱丁(ごうちょう)に率いられて庸、調などの貢物を都に運ぶ人夫。運夫。
[9]粮食:りょうしょく=食糧。特に、備蓄・携行した食糧。
[10]郡稲:ぐんとう=令制で、各郡におかれた官稲。出挙(すいこ)してその利を郡の雑用にあてる。
[11]交易:こうえき=品物を交換しあって通商すること。
[12]重擔:じゅうたん=重い荷物。重荷(おもに)。また、重い負担。

<現代語訳>
29日、詔して言うことには、「諸国の労役の人夫と庸、調などの貢物を都に運ぶ人夫が、郷里へ戻る時に、食糧が無くなっても調達することが容易ではない。そこで各郡におかれた官稲から稲を支出して便利な場所に貯えておき、役夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭(和同開珎)を持って費用とし、重い荷物のために苦労することを癒し。そして銭を使用することの、便利なことを分からせよ。」と。

〇「運脚の労苦に対する詔」713年(和銅6年3月19日)

<原文>
又詔。諸国之地。江山遐阻。負担之輩。久苦行役。具備資糧。闕納貢之恒数。減損重負。恐饉路之不少。宜各持一嚢銭。作当炉給。永省労費。往還得便。宜国郡司等。募豪富家。置米路側。任其売買。一年之内。売米一百斛以上者。以名奏聞。又売買田。以銭為価。若以他物為価。田并其物、共為没官。或有糺告者。則給告人。売及買人、並科違勅罪。郡司不加検校。違十事以上。即解其任。九事以下、量降考第。国司者式部監察。計違附考。或雖非用銭。而情願通商者聴之。

<読み下し文>
又詔すらく、「諸国の地、江山[13]遐かに阻たって、負担の輩[14]、久しく行役に苦しむ。資粮[15]を具へ備へむとすれば、納貢の恒数[16]を闕き重負を減損[17]せむとすれば路に饉るの少なからざることを恐る。宜しく各一嚢[18]の銭持ちて、当炉の給[19]と作し、永く労費を省き、往還[20]便りを得しむべし。宣しく国郡司等、豪富の家に募って、米を路の側に置て、其の売買に任ぜしむべし。」と。

   『続日本紀』卷第五(元明紀二)より

【注釈】

[13]江山:こうざん=川と山。山川。
[14]負担の輩:ふたんのともがら=調・庸などの運搬に当たる人々。
[15]資粮:しろう=物資と食料。
[16]納貢の恒数:のうぐのこうすう=調・庸の規定納入数。
[17]減損:げんそん=物や財産などが減ること。また、減らすこと。
[18]一嚢:いちのう=一袋。
[19]当炉の給:とうろのきゅう=食事をするための費用。
[20]往還:おうかん=行き帰り。ゆきき。往来。往復。

<現代語訳>
また詔して言うことには、「諸国の地は、河や山によって遠く隔てられ、調・庸などの運搬に当たる人々は、長期にわたって行旅の負担に苦しめられている。行旅のための物資と食料を充分に用意しようとすれば、調・庸の規定納入数が欠けることになり、重い荷物を減らそうとすると、道中での飢えることが少なくないのではと恐れる。そこで各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と。

   『続日本紀』卷第六(元明紀三)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)江戸幕府が最初の貿易統制令である「五品江戸廻送令」を発令する詳細
1943年(昭和18)洋画家藤島武二の命日詳細
1950年(昭和25)世界平和擁護大会で原爆禁止の「ストックホルム・アピール」が採択される詳細
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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、自由民権派の日刊新聞『東洋自由新聞』が創刊された日です。
 『東洋自由新聞(とうようじゆうしんぶん)』は、東京で創刊された、フランス帰りの西園寺公望を社長とし、中江兆民を主筆に据えた、自由民権派の日刊新聞でした。フランス的な自由民権と君民共治を主張、社員に松田正久、相田正文、松沢求策、林正明らがいて、内外の報道記事も充実し、自由民権運動の中心的言論機関になろうとします。
 しかし、華族出身の西園寺が中心となったことに驚いた政府は、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視を通して新聞との絶縁を迫ったものの拒否され、4月8日には、明治天皇から退社せよという内勅が出されて、ついに屈服し、翌日辞任に至りました。このいきさつを檄文にして配布した松沢は、逮捕されて懲役70日に刑に処され、資金提供者である稲田が手を引くと資金が欠乏します。
 その結果、同紙は4月30日「東洋自由新聞顛覆す」の社説を掲げて、第34号で休刊となり、廃刊に至りました。
 以下に、中江兆民が書いた『東洋自由新聞』第一号社説を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇『東洋自由新聞』第一号社説 中江兆民 1881年(明治14)3月18日付

吾儕[1]のこの新聞紙を発兌[2]するや、まさに以て海内[3]三千五百万の兄弟とともに共に向上の真理を講求[4]して、以て国家に報効[5]するあらんと欲せんとするなり。乃ち尋常紙上に記載する事件の首において次を逐ふて我儕[1]の所見を叙述し、以てあまねく可否を江湖[6]の君子に問んとし、ここにその目を掲するに左の数項の外に出でず。曰く自由の説、曰く君民共治[7]の説、曰く地方分権の説、曰く外交平和の説、曰く教育、曰く経済、曰く法律、曰く貿易、曰く兵制なり。これ固より一朝一夕の能よく尽す所にあらず、まさに日を積み月を累ねてまさに始て自ら尽して余りなきことを得べし。今や第一号を発するに臨み、先づ吾儕[1]社名の義を取る所の自由の説を述べて以て端を啓くといふ。
 自由の旨趣その目二、曰くリベルテーモラル(即ち心神の自由)、曰くリベルテーポリチック(即ち行為の自由)なり。請ふ先づひろく自由の本義を説き、しかる後二者の自由に及ばむ。
 それリベルテーの語はこれを訳して自主、自由、不羈独立[8]等といふ。しかれどもその意義の深微[9]に至りてはこの数語の能く尽す所にあらず。けだし古昔[10]羅馬[11]にありては政権を有する士君子即ちいはゆる良家子に当つるにこの称を以てして、以為らくわが天然に得る所の情性に従ふてその真を保つことを得る者独り以てこの称に当るべしと。意けだし此を以てその束縛[12]箝制[13]を受けたる奴隷囚虜[14]の属に別たんと欲するなり。
 第一、リベルテーモラルとは我が精神心思の絶ゑて他物の束縛[12]を受けず、完然発達して余力なきを得るをいふこれなり。古人いはゆる義と道とに配する浩然[15]の一気は即ちこの物なり。内に省みて疚し[16]からず、自ら反して縮きもまたこの物にして、乃ち天地に俯仰[17]して愧怍[18]するなく、これを外にしては政府教門の箝制[13]する所とならず、これを内にしては五慾六悪の妨碍[19]する所とならず、活溌々[20]転轆々[21]として凡そその馳驁[22]するを得る所はこれに馳驁[22]し、いよいよ進みて少しも撓まざる[23]者なり。故に心思[24]の自由は我が本有[25]の根基[26]なるを以て、第二目行為の自由より始めその他百般自由の類は皆此ここより出で、凡そ人生の行為、福祉、学芸皆此より出づ。けだし吾人[27]の最もまさに心を留めて涵養[28]すべき所この物より尚なるはなし。
 第二、リベルテーポリチックは即ち行為の自由にして人々の自らその処する所以の者、及びその他人とともにする所以の者皆この中にあり。その目を挙ぐ、曰く一身の自由、曰く思想の自由、曰く言論の自由、曰く集会の自由、曰く出版の自由、曰く結社の自由、曰く民事の自由、曰く従政の自由なり。
 心思[24]の自由は天地を極め古今を窮めて一毫[29]増損[30]なき者なり。しかれども文物の盛否と人の賢愚[31]とに因り、その及ぶ所あるいは少差異なきこと能はず。行為の自由に至りては気候の寒熱、土壌の肥硬、風俗の淑慝[32]等に因り、その差異更に甚しき者あり。ああ心思[24]の自由なり行為の自由なりこれ豈少差異あるべけんや。しかして古より今に及ぶまで差異なきこと能はず。これ正に我儕の慷慨悲憤[33]する所以にしてこの新紙の設くる所以なり。けだし自由の物たる、これを草木に譬ふればなほ膏液の如し。故に人の干渉を恃み人の束縛を受るの人民は、なほ窖養[34]の花、盆栽の樹のその天性の香色を放ち、その天稟[35]十分の枝葉を繁茂暢達[36]せしむること能はずして、遽かに[37]これを見れば美なるが如きも、迫りてこれを眂る[38]ときは生気索然[39]として、かつて観るべき者あることなきが如し。もしそれ山花野艸[40]に至りてはこれに異なり、その香馥郁[41]としてその色蓊鬱[42]たり。隻弁[43]単葉といへども皆尽く霊活[44]ならざるなし。自由の人におけるその貴ぶべきことけだしかくの如し。
 凡そこの二個の自由は見今[45]衣冠[46]文物の最と夸称[47]する欧米諸国にありては、これを保有すること果して何らの層に至れるや。またその諸国の中いづれか最も高層に至れるや。いづれか最も下層に居るや。また本邦を把りてこれを比するときはそのいづれに擬するを得るや。これ皆我儕のまさに号を逐ふて論述せんと欲する所なり。古徳[48]言ふあり、任重ふして道遠しと。また曰く、斃れて後已む[49]と。我儕の任ずる所もまた甚重からずや。斃れて後已む[49]に至りては固より我儕の薺甘[50]する所なりといへども、独り恐らくは真理の終に獲べからざることを。切に冀くは世の閎覧[51]博物の君子、指教[52]を吝まず[53]我儕の足らざるを補ひ、以て世に益するあらば幸甚。

【注釈】

[1]吾儕:わがせい=自称。対等の相手に対して自身をいう場合に用いる。
[2]発兌:はつだ=書籍・新聞などを発行すること。
[3]海内:かいない=四海の内。国内。
[4]講求:こうきゅう=物事を深く調べ求めること。十分に研究すること。
[5]報効:ほうこう=功を立てて、恩にむくいること。
[6]江湖:こうこ=世の中。世間。一般社会。
[7]君民共治:くんみんきょうち=君主と、人民の代表者である議会とが、共同で国の政務に当たること。君民同治。
[8]不羈独立:ふきどくりつ=他の束縛を受けず、自力で物事を行なうこと。
[9]深微:しんび=奥深く微妙なこと。また、そのさま。
[10]古昔:こせき=むかし。いにしえ。往昔。
[11]羅馬:ろーま=ローマ。
[12]束縛:そくばく=まとめてしばること。しばり捕らえること。
[13]箝制:かんせい=自由にさせないこと。自由を奪うこと。
[14]囚虜:しゅうりょ=敵にとらわれること。また、その人。虜囚。捕虜。
[15]浩然:こうぜん=心などが広くゆったりとしているさま。
[16]疚し:やまし=良心がとがめる。後ろめたい。
[17]俯仰:ふぎょう=うつむくことと仰ぐこと。転じて、たちいふるまい。起居動作。
[18]愧怍:きさく=罪をおそれ恥じる。
[19]五慾六悪の妨碍:ごよくろくあくのぼうがい=人間の欲望による妨害の意味。
[20]活溌々:かっぱつぱつ=魚がはねるように勢いのよいさま。気力にあふれ、きわめて勢いのよいこと。また、そのさま。
[21]転轆々:てんろくろく=車がスムーズに回転するさま。
[22]馳驁:ちぶ=馳せりおごる。
[23]撓まざる:たわまざる=飽きて疲れない。心がくじけない。
[24]心思:しんし=こころ。思い。考え。
[25]本有:ほんゆう=生まれながらに備えていること。固有。生得。
[26]根基:こんき=ねもと。根底。
[27]吾人:ごじん=わたくし、我々。
[28]涵養:かんよう=水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること。
[29]一毫:いちごう=1本の細い毛すじ。転じて、わずか。寸毫。
[30]増損:ぞうそん=ますこととへらすこと。増減。
[31]賢愚:けんぐ=かしこいこととおろかなこと。かしこい人とおろかな人。
[32]淑慝:しゅくとく=よいことと悪いこと。よしあし。善悪。
[33]慷慨悲憤:こうがいひふん=世の有様や、自己の運命などについていきどおり、嘆き悲しむこと。悲憤慷慨。
[34]窖養:こうよう=あなぐらで養う。
[35]天稟:てんぴん=生まれつきの才能。天性。てんりん。
[36]暢達:ちょうたつ=のびのびしていること。また、そのさま。
[37]遽かに:にわかに=急にあわてふためいて。あわただしく。また、すみやかに。すばやく。
[38]眂る:みる=見る。まっすぐと視線を向けて見る。
[39]索然:さくぜん=心ひかれるものがなくて興ざめするさま。空虚なさま。
[40]野艸:やそう=山野に自生する草。野の草。
[41]馥郁:ふくいく=香気の盛んにかおるさま。よいかおりのいっぱいに漂っているさま。
[42]蓊鬱:おううつ=草木が盛んに茂るさま。
[43]隻弁:せきべん=一つの花びら。
[44]霊活:れいかつ=活気のあること。機敏なこと。また、そのさま。
[45]見今:げんこん=今の時代。
[46]衣冠:いかん=衣服と冠。
[47]夸称:こしょう=誇張して言う。
[48]古徳:ことく=昔の徳の高い人。いにしえのひじり。
[49]斃れて後已む:たおれてのちやむ=死んだあとでやっと終わる。死ぬまで、けんめいに努力して途中でくじけない。
[50]薺甘:せいかん=なずなに甘んじる。
[51]閎覧:こうらん=広くみる。
[52]指教:しきょう=さし示して教えること。指導。
[53]吝まず:おしまず=もの惜しみをしない。けちらない。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1473年(文明5)武将・守護大名山名持豊(宗全)の命日(新暦4月15日)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣で「決戦教育措置要綱」が閣議決定される詳細
1965年(昭和40)愛知県犬山市に「博物館明治村」が開村する詳細
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kokusaikagakugijyutsuhakura

 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、筑波研究学園都市(現在の茨城県つくば市)で、国際科学技術博覧会(略称:科学万博、つくば '85)が開幕した日です。 
 国際科学技術博覧会(こくさいかがくぎじゅつはくらんかい)は、昭和時代後期の1985年(昭和60)3月17日~9月16日までの184日間、筑波研究学園都市(現在の茨城県つくば市)で開催された国際博覧会でした。1978年(昭和53)に科学技術庁がエネルギー問題を中心とした科学技術博覧会構想を立案、同年9月22日にコンセプトプランを発表します。1981年(昭和56)1月にテーマや基本構想原案がまとまり、同年4月22日に「国際博覧会に関する条約」に基づく特別博覧会として登録されて開催が決定しました。
 財団法人国際科学技術博覧会協会が主催となって行われ、テーマは「人間・居住・環境と科学技術」とされ、101.6haの会場敷地に、48ヶ国と37の国際機関、国内から 28の民間企業・団体が参加してパビリオンなどが建てられ、入場者数は2,033万4,727人となります。立体映像やコンピュータ・グラフィックス、全天映像、マルチ・巨大画面などの映像展示が多く、コミュニケーションロボットや産業用ロボットなど様々なロボットも話題を集めました。
 博覧会終了後、メイン会場跡地は工業団地になり、Dブロック跡地には、「科学万博記念公園」が設立され、旧桜村(現つくば市)吾妻の第二会場は、翌年にメモリアル施設である「つくばエキスポセンター」として整備・開設されています。

〇国際博覧会(こくさいはくらんかい)とは?

 「国際博覧会条約(BIE条約)」に基づいて行われる複数の国が参加する博覧会で、一般博・特別博の区分がありましたが、1988年(昭和63)に改定され、登録博・認定博の区分となります。一般博・登録博のほうが大規模となっていて、日本では今までに5回の国際博覧会が開催されてきました。尚、 2025年には、大阪市において、日本国際博覧会(登録博)の開催が予定されています。

☆日本で開催された国際博覧会一覧

・日本万国博覧会(大阪万博)1970年(昭和45)開催 於:大阪府吹田市
・沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)1975年(昭和50)~76年開催 於:沖縄県国頭郡本部町
・国際科学技術博覧会(つくば万博)1985年(昭和60)開催 於:茨城県つくば市
・国際花と緑の博覧会(花の万博)1990年(平成2)開催 於:大阪府大阪市鶴見区・守口市
・2005年日本国際博覧会(愛知万博)2005年(平成17)開催 於:愛知県長久手市・豊田市・瀬戸市
※2025年に、大阪市において、日本国際博覧会(登録博)の開催予定

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

806年(延暦25)第50代天皇である桓武天皇の命日(新暦4月9日)詳細
1880年(明治13)国会期成同盟が発足する詳細
1898年(明治31)小説家・俳人・評論家横光利一の誕生日詳細
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