ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年03月

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 今日は、昭和時代前期の1939年(唱和14)に、「国家総動員法」に基づいて、「賃金統制令」(昭和14年勅令第128号)が公布(施行は同年4月10日)された日です。
 「賃金統制令(ちんぎんとうせいれい)」は、1938年(昭和13)に制定された「国家総動員法」の第6条に基づく勅令で、「従業者雇入制限令」と共に、軍需企業の賃金抑制のため従業員50人以上の事業場を対象に出されました。戦時下の労働力不足に伴い、賃金上昇の傾向があった時で、これを抑制するために、賃金規則の作成とその届出を義務づけ、未経験工採用の際の初給賃金を公定し、その諮問機関として中央および道府県に賃金委員会を設けたものです。
 この勅令で、軍需関係工業の初任給の1年間固定措置が臨時的にとられましたが、かえって賃金の部門間不均衡を生じさせたため、7月には指定工場の適用を鉱工業全部門に拡大、9月に女子の初給賃金も公定、10月には、「賃金臨時措置令」で9月18日現在の賃金で1年間凍結しました。翌年には、同令も10月20日に「賃金臨時措置令」を統合して全面改訂されます。
 これによって、政府は賃金決定権を全面的に留保し、以降は、地域別・男女別・職業別・業種別・年齢別・経験別の賃金の公定が進み、年功序列賃金制度の確立を促進しました。太平洋戦争敗戦後の「国家総動員法」廃止により、1946年(唱和21)9月30日に失効しています。
 以下に、制定当初の「賃金統制令」(昭和14年勅令第128号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「賃金統制令」(昭和14年勅令第128号)1939年(唱和14)3月31日公布、4月10日施行

第一条 国家総動員法第六条ノ規定ニ基ク労働者ノ賃金ノ統制ハ別ニ定ムルモノヲ除クノ外本令ノ定ムル所ニ依ル

第二条 本令ハ左ノ各号ノ一ニ該当スル事業ニ之ヲ適用ス
 一 工場法ノ適用ヲ受クル工場ニシテ厚生大臣ノ指定スル事業ヲ営ムモノ
 二 鉱業法ノ適用ヲ受クル事業
 三 其ノ他厚生大臣ノ指定スル事業

第三条 本令ニ於テ賃金ト称スルハ労働者ガ労務ノ対償トシテ事業主ヨリ受クル給与其ノ他ノ利益ヲ謂フ
2 賃金ノ範囲及評価ニ関シテハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第四条 常時五十人以上ノ労働者ヲ使用スル工場又ハ事業場ノ事業主ハ賃金規則ヲ作成シ地方長官(東京府ニ在リテハ警視総監以下之ニ同ジ)ニ届出ヅベシ之ヲ変更シタルトキ亦同ジ
2 賃金規則ニ定ムベキ事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
3 地方長官不適当ト認ムルトキハ賃金規則ノ変更ヲ命ズルコトヲ得

第五条 厚生大臣又ハ地方長官ハ命令ノ定ムル所ニ依リ未経験労働者ノ初給賃金ヲ定ムルコトヲ得
2 事業主未経験労働者ヲ雇入レタルトキハ命令ヲ以テ定ムル期間前項ノ規定ニ依ル初給賃金ニ準拠シ賃金ヲ支払フベシ但シ命令ニ別段ノ定アル場合ハ此ノ限ニ在ラズ

第六条 前条ノ場合ノ外地方長官労働者ニ支払ハレタル賃金ノ額又ハ其ノ支給方法著シク不適当ト認ムルトキハ事業主ニ対シ将来ニ向ツテ之ヲ変更スベキコトヲ命ズルコトヲ得

第七条 第二条第三号ノ規定ニ依ル事業ノ指定、第五条第一項ノ規定ニ依ル初給賃金ノ決定並ニ第四条第三項及前条ノ規定ニ依ル命令ハ賃金委員会ニ諮問シテ之ヲ為ス
2 賃金委員会ニ関スル規程ハ別ニ之ヲ定ム

第八条 厚生大臣又ハ地方長官必要アリト認ムルトキハ賃金ノ統制ニ関シ国家総動員法第三十一条ノ規定ニ基キ事業主ヨリ報告ヲ徴シ又ハ当該官吏ヲシテ工場、事業場、事務所其ノ他ノ場所ニ臨検シ帳簿書類ヲ検査セシムルコトヲ得
2 前項ノ規定ニ依リ当該官吏ヲシテ臨検検査セシムル場合ニ於テハ其ノ身分ヲ示ス証票ヲ携帯セシムベシ

第九条 本令ハ国又ハ道府県ノ事業ニハ之ヲ適用セズ

第十条 本令中地方長官トアルハ内地ニ於ケル鉱業法ノ適用ヲ受クル事業ニ付テハ鉱山監督局長トス

第十一条 本令中工場法ノ適用ヲ受クル工場トアルハ朝鮮、台湾又ハ南洋群島ニ在リテハ常時十人以上ノ労働者ヲ使用スル工場、樺太ニ在リテハ工場取締規則ノ適用ヲ受クル工場トシ鉱業法トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮鉱業令、台湾ニ在リテハ台湾鉱業規則、南洋群島ニ在リテハ南洋群島鉱業令トス
2 本令中厚生大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮総督、台湾ニ在リテハ台湾総督、樺太ニ在リテハ樺太庁長官、南洋群島ニ在リテハ南洋庁長官トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在リテハ道知事、台湾ニ在リテハ台湾鉱業規則ノ適用ヲ受クル事業ニ付テハ台湾総督、其ノ他ノ事業ニ付テハ州知事又ハ庁長、樺太ニ在リテハ樺太庁長官、南洋群島ニ在リテハ南洋庁長官トシ道府県トアルハ朝鮮ニ在リテハ道、台湾ニ在リテハ州又ハ庁、南洋群島ニ在リテハ南洋群島地方費トス

  附 則

本令ハ昭和十四年四月十日ヨリ之ヲ施行ス但シ朝鮮、台湾、樺太及南洋群島ニ在リテハ昭和十四年八月一日ヨリ之ヲ施行ス

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)政府が全国17の私鉄を買収することを定めた「鉄道国有法」を公布する詳細
物理学者朝永振一郎の誕生日詳細
1947年(昭和22)旧「教育基本法」が公布・施行される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1959年(昭和34)に、砂川事件に対して、第1審の東京地方裁判所の判決(伊達判決)で、「日米安全保障条約に基づく駐留米軍の存在は、憲法前文と第9条の戦力保持禁止に違反し違憲である」として無罪判決となった日です。
 「砂川事件の第1審判決」(伊達判決)は、在日米軍立川基地の拡張計画に対し反対する砂川闘争(1955~69年)に関わり、1957年(昭和32)7月8日に東京都下砂川町で米軍立川基地の立入禁止区域に入った基地拡張反対闘争の7人が、刑事特別法第2条違反で起訴された、砂川事件の東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)の第1審判決でした。内容は、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条(デュー・プロセス・オブ・ロー規定)に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下したものです。
 しかし、検察側はこれを不服として、直ちに最高裁判所へ跳躍上告しました。同年12月に、最高裁判所は、「駐留米軍は憲法にいう日本の戦力には該当しない。また安保条約のような高度の政治性を帯びた問題は司法審査権になじまない」としていわゆる統治行為論により、原判決を破棄し、地方裁判所に差し戻します。
 再度審理を行った東京地方裁判所は、1961年(昭和36年)3月27日に罰金2,000円の有罪判決を言い渡しました。この判決につき上告を受けた最高裁は1963年(昭和38年)12月7日、上告棄却を決定し、この有罪判決が確定しています。
 以下に、「砂川事件の第1審判決」(伊達判決)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇砂川闘争とは?

 在日米軍立川基地の拡張計画に対し、昭和時代中期の1955年(昭和30)から1969年(昭和44)まで、住民中心に闘われた反対運動です。
 1955年(昭和30)に在日米軍は日本政府に対し、ジェット爆撃機の発着のためとして、在日米軍立川基地の飛行場拡張を要求しました。それに対し、拡張予定地内関係者は、砂川基地拡張反対同盟を結成して反対運動を展開、労働組合や学生団体、政党の中にも支援する動きが広まります。
 1955年(昭和30)9月13日に、立川基地拡張の為の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊、あわせて5,000人が衝突、負傷者100人を出したのをはじめ、拡張予定地の測量をめぐり警官隊とたびたび衝突することになり、1956年(昭和31)には1,000人超の負傷者を出すに至りました。また、翌年には、デモ隊の一部が立川基地内に侵入したとして、学生や労働組合員が検挙され、その内7人が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪に問われ起訴される砂川事件が起こります。
 一審では、1959年(昭和34)に、米軍駐留は憲法違反であり被告全員無罪との判断が示された「伊達判決」が出て、注目されました。しかし、その後の上告審では、逆転して、1963年(昭和38)に有罪(罰金2,000円)が確定しています。
 予定地の地権者のうち23人が最後まで買収を拒否していましたが、米軍は1968年(昭和43)に滑走路延長を取り止め、翌年には日本政府も閣議で計画中止を決めることに至りました。その後、1977年(昭和52)に、米軍立川基地は全面返還されています。

〇「砂川事件の第1審判決」(伊達判決)1959年(昭和34)3月30日

一 日本国とアメリカ合衆国との間における安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法第二条と憲法第三一条

二 日本国とアメリカ合衆国との間における安全保障条約第一条に基くアメリカ合衆国軍隊の駐留と憲法第九条

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反

(三二(特わ)第三六七 三六八号 三四・三・三◯ 東京地裁判決)

被告人 坂田茂 外六名

参照 日米安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法第二条・日米安全保障条約第一条・第二条・憲法第三一条・第九条

主文

 本件各公訴事実につき、被告人坂田茂、同菅野勝之、同高野保太郎、同江田文雄、同土屋源太郎、同武藤軍一郎、同椎野徳蔵はいずれも無罪。

理由

 本件公訴事実の要旨は、東京調達局においては日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法及び土地収用法により内閣総理大臣の使用認定を得て、昭和三十二年七月八日午前五時十五分頃からアメリカ合衆国空軍の使用する東京都北多摩郡砂川町所在の立川飛行場内民有地の測量を開始したが、この測量に反対する砂川町基地拡張反対同盟員及びこれを支援する各種労働組合員、学生団体員等千余名の集団は同日早朝から右飛行場北側境界柵外に集合して反対の気勢をあげ、その中の一部の者により滑走路北端附近の境界柵は数十米に亘つて破壊された。被告人坂田茂、同菅野勝之、同高野保太郎、同江田文雄、同土屋源太郎、同武藤軍一郎は右集団に参加していたものであるが、他の参加者三百名位と意思相通じて同日午前十時四十分頃から同十一時三十分頃までの間に、正当な理由がないのに、右境界柵の破壊された箇所からアメリカ合衆国軍隊が使用する区域であつて入ることを禁じた場所である前記立川飛行場内に深さ四・五米に亘つて立入り、被告人椎野徳蔵は国鉄労働組合の一員として右集団に参加していたものであるが、同日午前十時三十分頃から同十一時五十分頃までの間に、正当な理由がないのに、右境界柵の破壊された箇所から合衆国軍隊が使用する区域であつて入ることを禁じた場所である前記立川飛行場内に深さ二・三米に亘つて立入つたものであるというので、按ずるに、
 証人提英雄(第三回公判)、同奥田乙治郎(第十回公判)の当公廷における各供述、昭和二十七年七月二十六日附官報号外第七三号、証人青木市五郎(第十三回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)、同宮崎伝左エ門(第十四回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)、同井口久(第四回公判、被告人土屋については、同公判調書中の供述記載部分)の当公廷における各供述、井口久作成の実況見分調書(以上は「アメリカ合衆国軍隊が使用する区域であつて入ることを禁じた場所である」との事実の証拠)、証人森生新市蔵(第五回公判、被告人坂田、同江田については同公判調書中の供述記載部分)の当公廷における供述、米軍憲兵司令官作成の立川警察署長宛「立川空軍基地における日本警察使用要請」と題する書面(以上は「正当な理由がない」との事実の証拠)、証人提英雄(第三回公判)、同岩附忠宣(第六回公判)の当公廷における各供述、東京調達局不動産部管理第一課作成の立川飛行場既提供民有地実測地籍図、井口久作成の実況見分調書、公判準備における当裁判所の検証調書、証人山下健三(第五回公判、被告人坂田、同江田については同公判調書中の供述記載部分)、同小室欽二郎、同吉泉勇吉、同中山元次、同大沼孝太郎(以下第六回公判、被告人坂田、同江田については同公判調書中の供述記載部分)、同中川喜英、同福島清吾、同熊倉留吉、同坂本隆二、同池戸憲幸、同小暮乙丸(以上第七回公判、被告人土屋については同公判調書中の供述記載部分)、同石田登、同横瀬治利、同青木勝吉、同谷合精一、同小山覚造(以上第八回公判、被告人土屋については同公判調書中の供述記載部分)、同永広良弘、同福永敏雄、同多田隆之、同大津勇(以上第九回公判、被告人江田については同公判調書中の供述記載部分)、同古館昭一(第十一回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)、同飯島正則(第十二回公判、被告人江田については同公判調書中の供述記載部分)、同常山貫治、同中川喜英、同石塚通、同中山元次、同後藤広、同山本繁(第十八回公判、被告人土屋、同江田については同公判調書中の供述記載部分)、証人蕪野栄作(第十三回公判、被告人土屋については同公判調書中の供述記載部分)、同樋口徳次(第十四回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)、同島田浩一郎(第十五回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)同森田実(第十六回公判、被告人江田については同公判調書中の供述記載部分)、の当公廷における各供述、写真1乃至4、8乃至34、36乃至38、中山元次撮影の写真五十枚、押収に係る十六ミリフイルム(昭和三二年証第七三九号の一)、日記(同証号の三)、八ミリフイルム(同証号の四)(以上は爾余の事実の証拠)によれば
 被告人坂田茂、同菅野勝之、同高野保太郎、同江田文雄、同土屋源太郎、同武藤軍一郎は共同して昭和三十二年七月八日午前十時三、四十分頃から午前十一時頃迄の間に正当な理由がないのにアメリカ合衆国軍隊が使用する区域であつて入ることを禁じた場所である東京都北多摩郡砂川町所在立川飛行場内に深さ四・五米に亘つて立入り、被告人椎野徳蔵は同日午前十時三十分頃から午前十一時三十分頃迄の間に正当な理由がないのに前記立川飛行場内に深さ二・三米に亘つて立入つたことが認められる。
 右事実は日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法(以下刑事特別法と略称する。)第二条に該当するが、同法条は、日米安全保障条約に基いてわが国内に駐留する合衆国軍隊が使用する一定の施設又は区域内における合衆国軍隊及びその構成員等の行動、生活等の平穏を保護するため右施設又は区域にして入ることを禁止した場所に対する、正当な理由なき立入又は不退去を処罰するものであるところ、これに対応する一般刑罰法規としては、軽犯罪法第一条第三十二号の正当な理由なく立入禁止の場所等に入つた者に対する処罰規定を見出すことができ、従つて刑事特別法第二条は右の軽犯罪法の規定と特別法、一般法の関係にあるものと解することができる。しかして、両者間の刑の軽重をみるに、軽犯罪法は拘留又は科料(情状により刑を免除又は併科し得る。)を科し得るに止まるのに対し、刑事特別法第二条は一年以下の懲役又は二千円以下の罰金若しくは科料を科し得るのであつて、後者においては前者に比してより重刑をもつて臨んでいるのであるが、この差異は法が合衆国軍隊の施設又は区域内の平穏に関する法益を特に重要に考え、一般国民の同種法益よりも一層厚く保護しようとする趣旨に出たものとみるべきである。そこでもしこの合衆国軍隊の駐留がわが国の憲法に何等牴触するものでないならば、右の差別的取扱は敢えて問題とするに足りないけれども、もし合衆国軍隊の駐留がわが憲法の規定上許すべからざるものであるならば、刑事特別法第二条は国民に対して何等正当な理由なく軽犯罪法に規定された一般の場合よりも特に重い刑罰を以て臨む不当な規定となり、何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条及び右憲法の規定に違反する結果となるものといわざるを得ないのである。
そこで以下この点について検討を進めることとする。
 日本国憲法はその第九条において、国家の政策の手段としての戦争、武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄したのみならず、国家が戦争を行う権利を一切認めず、且つその実質的裏付けとして陸海空軍その他の戦力を一切保持しないと規定している。即ち同条は、自衛権を否定するものではないが、侵略的戦争は勿論のこと、自衛のための戦力を用いる戦争及び自衛のための戦力の保持をも許さないとするものであつて、この規定は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」(憲法前文第一段)しようとするわが国民が、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想(国際連合憲章もその目標としている世界平和のための国際協力の理想)を深く自覚」(憲法前文第二段)した結果、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しよう」(憲法前文第二段)とする、即ち戦争を国際平和団体に対する犯罪とし、その団体の国際警察軍による軍事的措置等、現実的にはいかに譲歩しても右のような国際平和団体を目ざしている国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等を最低線としてこれによつてわが国の安全と生存を維持しようとする決意に基くものであり、単に消極的に諸外国に対して、従来のわが国の軍国主義的、侵略主義的政策についての反省の実を示さんとするに止まらず、正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための先駆たらんとする高遠な理想と悲壮な決意を示すものだといわなければならない。従つて憲法第九条の解釈は、かような憲法の理念を十分考慮した上で為さるべきであつて、単に文言の形式的、概念的把握に止まつてはならないばかりでなく、合衆国軍隊のわが国への駐留は、平和条約が発効し連合国の占領軍が撤収した後の軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため必要であり、自衛上やむを得ないとする政策論によつて左右されてはならないことは当然である。
 「{前1文字ママ}そこで合衆国軍隊の駐留と憲法第九条の関係を考察するに、前記のようにわが国が現実的にはその安全と生存の維持を信託している国際連合の機関による勧告又は命令に基いて、わが国に対する武力攻撃を防禦するためにその軍隊を駐留せしめるということであればあるいは憲法第九条第二項前段によつて禁止されている戦力の保持に該当しないかもしれない。しかしながら合衆国軍隊の場合には、わが国に対する武力攻撃を防禦するためわが国がアメリカ合衆国に対して軍隊の配備を要請し、合衆国がこれを承諾した結果、極東における国際の平和と安全の維持及び外部からの武力攻撃に対するわが国の安全に寄与し、且つ一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起されたわが国内における大規模な内乱、騒じよう{前3文字強調}の鎮圧を援助する目的でわが国内に駐留するものであり(日米安全保障条約第一条)、わが国はアメリカ合衆国に対してこの目的に必要な国内の施設及び区域を提供しているのである(行政協定第二条第一項)。従つてわが国に駐留する合衆国軍隊はただ単にわが国に加えられる武力攻撃に対する防禦若しくは内乱等の鎮圧の援助にのみ使用されるものではなく、合衆国が極東における国際の平和と安全の維持のために事態が武力攻撃に発展する場合であるとして、戦略上必要と判断した際にも当然日本区域外にその軍隊を出動し得るのであつて、その際にはわが国が提供した国内の施設、区域は勿論この合衆国軍隊の軍事行動のために使用されるわけであり、わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ虞は必ずしも絶無ではなく、従つて日米安全保障条約によつてかかる危険をもたらす可能性を包蔵する合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意」した日本国憲法の精神に悖るのではないかとする疑念も生ずるのである。
 しかしながらこの点はさて措き、わが国が安全保障条約において希望したところの、合衆国軍隊が外部からの武力攻撃に対してわが国の安全に寄与するため使用される場合を考えて見るに、わが国は合衆国軍隊に対して指揮権、管理権を有しないことは勿論、日米安全保障条約上合衆国軍隊は外部からのわが国に対する武力攻撃を防禦すべき法的義務を負担するものでないから、たとえ外部からの武力攻撃が為された場合にわが国がその出動を要請しても、必ずしもそれが容れられることの法的保障は存在しないのであるが、日米安全保障条約締結の動機、交渉の過程、更にはわが国とアメリカ合衆国との政治上、経済上、軍事上の密接なる協力関係、共通の利害関係等を考慮すれば、そのような場合に合衆国がわが国の要請に応じ、既にわが国防衛のため国内に駐留する軍隊を直ちに使用する現実的可能性は頗る大きいものと思料されるのである。而してこのことは行政協定第二十四条に「日本区域において敵対行為又は敵対行為の急迫した脅威が生じた場合には、日本国政府及び合衆国政府は、日本区域防衛のため必要な共同措置を執り、且つ安全保障条約第一条の目的を遂行するため、直ちに協議しなければならない。」と規定されていることに徴しても十分窺われるところである。
 ところでこのような実質を有する合衆国軍隊がわが国内に駐留するのは、勿論アメリカ合衆国の一方的な意思決定に基くものではなく、前述のようにわが国政府の要請と、合衆国政府の承諾という意思の合致があつたからであつて、従つて合衆国軍隊の駐留は一面わが国政府の行為によるものということを妨げない。蓋し合衆国軍隊の駐留は、わが国の要請とそれに対する施設、区域の提供、費用の分担その他の協力があつて始めて可能となるものであるからである。かようなことを実質的に考察するとき、わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無、合衆国軍隊の出動義務の有無に拘らず、日本国憲法第九条第二項前段によつて禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるを得ないのである。
 もとより、安全保障条約及び行政協定の存続する限り、わが国が合衆国に対しその軍隊を駐留させ、これに必要なる基地を提供しまたその施設等の平穏を保護しなければならない国際法上の義務を負担することは当然であるとしても、前記のように合衆国軍隊の駐留が憲法第九条第二項前段に違反し許すべからざるものである以上、合衆国軍隊の施設又は区域内の平穏に関する法益が一般国民の同種法益と同様の刑事上、民事上の保護を受けることは格別、特に後者以上の厚い保護を受ける合理的な理由は何等存在しないところであるから、国民に対して軽犯罪法の規定よりも特に重い刑罰をもつて臨む刑事特別法第二条の規定は、前に指摘したように何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効なものといわなければならない。
 よつて、被告人等に対する各公訴事実は起訴状に明示せられた訴因としては罪とならないものであるから、刑事訴訟法第三百三十六条により被告人等に対しいずれも無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 伊達秋雄 清水春三 松本一郎)

   「下級裁判所刑事裁判判例集 第1巻3号」最高裁判所事務総局編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、詩人・建築家立原道造の亡くなった日です。
 立原道造(たちはら みちぞう)は、大正時代の1914年(大正3)7月30日に、東京市日本橋区橘町で、荷造り用の木箱製造を家業とする父・立原貞治郎、母・トメの次男として生まれました。1919年(大正8)に父の死去により家督を相続しましたが、家業は母が取り仕切り、後に弟達夫が継ぎます。
 1921年(大正10)に久松小学校に入学しましたが、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で家が焼失し、一時千葉県東葛飾郡新川村(現流山市)豐島方に避難しました。1927年(昭和2)に久松小学校卒業後、東京府立第三中学校に入学、詩作等に興味を持ち、「學友會誌」に発表などしています。
 中学校卒業後、1931年(昭和6)に第一高等学校理科甲類へ入学、一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の『詩歌』に連続して投稿、堀辰雄の面識を得て、以後兄事しました。1932年(昭和7)に、同人誌『こかげ』を創刊、一高文芸部の編集委員に選任され、手づくり詩集『さふらん』、『日曜日』、『散歩詩集』を制作します。
 1934年(昭和9)に東京帝国大学工学部建築学科へ入学、同人雑誌「偽画」を創刊、小説『間奏曲』を発表、堀辰雄、三好達治らの詩誌「四季」の同人となり、詩を発表、また堀の紹介で室生犀星に教えを乞いました。この頃、初めて信州追分に滞在、この地の風光を愛し、詩の背景とするようになり、翌年同人誌「未青年」を創刊します。
 一方で、課題設計「小住宅」により辰野賞を受賞、以後卒業まで、3年連続して受賞し、建築家としての才能も示し、卒業後は石本建築事務所に入社し、建築家として将来を嘱望されます。同年に信州追分での恋愛体験をソネット形式でうたった第一詩集『萱草に寄す』、第二詩集『暁と夕の詩』を出し、音楽的美感に貫かれた繊細な神経で青春の痛みを歌いました。
 しかし、1938年(昭和13)夏に、肺尖カタルのため休職し、大森の室生犀星邸、信濃追分油屋で療養することになります。帰京後、東京市立療養所に入所、1939年(昭和14)に第1回中原中也賞を受賞しましたが、3月29日に病状急変し、24歳の若さで亡くなりました。
 尚、没後の1947年(昭和22)に堀辰雄により、第三詩集『優しき歌』が刊行されています。

〇立原道造の主要な著作

・第一詩集『萱草に寄す』(1937年)
・第二詩集『暁と夕の詩』(1937年)
・第三詩集『優しき歌』(1947年)
・初期作品集『詩人の出発』(1961年)

☆立原道造関係略年表

・1914年(大正3)7月30日 東京市日本橋区橘町で、荷造り用の木箱製造を家業とする父・立原貞治郎、母・トメの次男として生まれる
・1919年(大正8) 父の死去により家督を相続するが、家業は母が取り仕切り、後に弟達夫が継ぐ
・1921年(大正10) 東京市久松尋常小学校入学。在学中首席を通す
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災で家が焼失し、一時千葉県東葛飾郡新川村(現流山市)豐島方に避難する
・1924年(大正13) この夏から一高卒業まで、御岳山での避暑をほぼ恒例とする。
・1927年(昭和2) 東京府立第三中学校入学、作歌を始め、北原白秋を訪問し、口語自由律短歌を「学友会誌」に発表する
・1931年(昭和6) 第一高等学校理科甲類入学、一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の「詩歌」に投稿、秋に堀辰雄の面識を得、兄事する
・1932年(昭和7) 同人誌『こかげ』創刊、一高文芸部の編集委員となり活躍、手づくり詩集『さふらん』を制作する
・1933年(昭和8) 手づくり詩集『日曜日』、『散歩詩集』を制作する
・1934年(昭和9) 東京帝国大学工学部建築学科入学、同人誌「偽画」を創刊、室生犀星、萩原朔太郎を識る、第2次「四季」創刊参加、編集同人となり、組詩「村ぐらし」「詩は」を発表する
・1935年(昭和10)  課題設計「小住宅」により辰野賞を受賞、同人誌「未成年」を創刊、詩人として活躍する
・1936年(昭和11)  シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出し、処女出版する、卒業論文「方法論」を提出する
・1937年(昭和12)  東大卒業後、石本建築事務所に入社し、建築家として将来を嘱望される、第一詩集『萱草に寄す』、第二詩集『暁と夕の詩』を出版する
・1938年(昭和13)  夏、肺尖カタルのため休職し、大森の室生犀星邸、信濃追分油屋で療養する、帰京後、東京市立療養所に入所する
・1939年(昭和14)  第1回中原中也賞受賞、3月29日に病状急変し24歳で亡くなる

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 今日は、幕末維新期の1868年(慶応4)に、神祇官事務局達(いわゆる神仏判然令)が出された日です。
 神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)は、明治新政府が神道の国教化政策を行うため、1868年(慶応4/明治元年3月~10月)に、神社から仏教的な要素を排除しようとした太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の内、中心となるもので、神仏分離令ともいわれてきました。内容は、①神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、②仏像を神体としている神社は仏像を取り払うことと本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じたものです。
 その後、各地で仏教を排撃し、神道を極度に重んじようとする神仏分離や廃仏毀釈が行われ、神社に勤仕していた僧侶が還俗して神職となったり、失職したりしました。河内国の西琳寺が一堂も残さず破却されつくし、比叡山麓の日吉山王社では仏像、仏具などのはげしい破壊が行われるなど全国で混乱が起き、歴史的・文化的に価値のある多くの文化財が失われています。
 以下に、一連の神仏分離に関わる太政官布告、神祇官事務局達、太政官達などを掲載しておきましたのでご参照下さい。

〇「太政官布告」慶応4年3月13日(王政復古・祭政一致の宣言と神祇官再興の布告)

此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事
但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事  

〇「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」慶応4年3月17日(神社に於ける僧職の復飾の命令)

今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也

〇「神祇官事務局達」慶応4年3月28日(いわゆる神仏判然令)

一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被仰出候事

 『明治維新神仏分離史料』より

〇「太政官布告」慶応4年4月10日(神仏判然の主旨と「私憤ヲ斉シ候様之所業」、「粗暴ノ振舞等」への戒め)

諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早早取除相改可申旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事、
但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事、

〇「太政官達」慶応4年4月24日(八幡大菩薩号の停止の命令)

此度大政御一新ニ付、石清水、宇佐、筥崎等、八幡宮大菩薩之称号被為止、八幡大神ト奉称候様被.. 仰出候事

〇「太政官達」慶応4年閏4月4日

今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、
 但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、
是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、

〇「神祇事務局ヨリ諸国神職ヘ達」慶応4年閏4月19日

一、神職之者ハ、家内ニ至迄、以後神葬相改可申事、
一、今度別当社僧還俗之上者、神職ニ立交候節モ、神勤順席等、先是迄之通相心得可申事、

〇「太政官より法華宗諸本寺へ達」明治元年10月18日

王政御復古、更始維新之折柄、神仏混淆之儀御廃止被 仰出候処、於其宗ハ、従来三十番神ト称シ、皇祖太神ヲ奉始、其他之神祇ヲ配祠シ、且曼陀羅ト唱ヘ候内ハ、天照皇太神八幡太神等之御神号ヲ書加ヘ、剰ヘ死体ニ相著セ候経帷子等ニモ神号ヲ相認候事、実ニ不謂次第ニ付、向後禁止被仰出候間、総テ神祇之称号決テ相混ジ不申様、屹度相心得、宗派末々迄不洩様、可相達旨 御沙汰事、
 但是迄祭来候神像等、於其宗派設候分ハ、速ニ可致焼却候、若又由緒有之、往古ヨリ在来之分ヲ相祭候類ハ、夫々取調、神祇官ヘ可伺出候事、

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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に脱退の通告(1935年発効)を行った日です。
 国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)は、国際連盟創立以来の原加盟で、常任理事国となっていた日本が、1933年(昭和8)の国際連盟総会でのリットン調査団の報告書により、満州国を不承認としたことに反発、2月24日の対日勧告を含む報告案の票決の結果、42票対1票、棄権1票(タイ)によって可決されたことを不服として退場し、3月27日に国際連盟脱退を通告(1935年発効)したことでした。
 それ以前の1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件(関東軍の謀略による柳条湖付近の南満州鉄道線路爆破事件)の3日後、中国は国際連盟に日本を提訴し、日本は列国から問責非難される立場に立たされます。しかし、翌年3月に、関東軍は満州全土を占領し、清朝最後の皇帝溥儀を「執政」に迎えて、「満州国」の建国を宣言させました。
 リットン調査団は1932年(昭和8)2月29日に来日、3月から6月まで現地および日本を調査を行ないます。日本は、「満州国」を既成事実化しようとし、同年9月には、「日満議定書」を交わし、満州の独立を承認しました。
 同年10月には、リットン調査団はこの調査結果を「リットン報告書」として提出、その中で、日本の行為は侵略であると認定しましたが、満州に対する日本の権益は認め、日本軍に対しては満州からの撤退を勧告したものの、南満州鉄道沿線については除外されます。
 同年12月に開催された国際連盟総会では、日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託されました。翌年2月の国際連盟総会で、リットン調査団報告書を審議し、2月24日の票決の結果、42票対1票、棄権1票(タイ)によって可決され、日本の松岡洋右全権以下の代表団は抗議して、総会から退場します。次いで同年3月27日に、昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府は連盟事務局に脱退の通告(1935年発効)を行うとともに、同日脱退の声明を発表しました。
 以後、日本は国際的孤立の道を歩むことになり、やがてドイツ・イタリアとの提携の道へと進むこととなります。
 以下に、「国際連盟脱退ノ詔書」と「国連脱退通告文」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国際連盟脱退ノ詔書」1933年(昭和8)3月27日

国際聯盟脱退ノ詔書

朕惟フニ曩ニ世界ノ平和克復シテ国際聯盟ノ成立スルヤ皇考之ヲ懌ヒテ帝国ノ参加ヲ命シタマヒ朕亦遺緒ヲ継承シテ苟モ懈ラス前後十有三年其ノ協力ニ終始セリ
今次満洲国ノ新興ニ当リ帝国ハ其ノ独立ヲ尊重シ健全ナル発達ヲ促スヲ以テ東亜ノ禍根ヲ除キ世界ノ平和ヲ保ツノ基ナリト為ス然ルニ不幸ニシテ聯盟ノ所見之ヲ背馳スルモノアリ朕乃チ政府ヲシテ慎重審議遂ニ聯盟ヲ離脱スルノ措置ヲ採ラシムルニ至レリ
然リト雖国際平和ノ確立ハ朕常ニ之ヲ冀求シテ止マス是ヲ以テ平和各般ノ企図ハ向後亦協力シテ渝ルナシ今ヤ聯盟ト手ヲ分チ帝国ノ所信ニ是レ従フト雖固ヨリ東亜ニ偏シテ友邦ノ誼ヲ疎カニスルモノニアラス愈信ヲ国際ニ厚クシ大義ヲ宇内ニ顕揚スルハ夙夜朕カ念トスル所ナリ
方今列国ハ稀有ノ政変ニ際会シ帝国亦非常ノ時艱ニ遭遇ス是レ正ニ挙国振張ノ秋ナリ爾臣民克ク朕カ意ヲ体シ文武互ニ其ノ職分ニ恪循シ衆庶各其ノ業務ニ淬励シ嚮フ所正ヲ履ミ行フ所中ヲ執リ協戮邁往以テ此ノ世局ニ処シ進ミテ皇祖考ノ聖猷ヲ翼成シ普ク人類ノ福祉ニ貢献セムコトヲ期セヨ

<読み下し文>

朕[1]、惟う[2]に、曩に[3]世界の平和、克復[4]して、国際聯盟の成立するや、皇考[5]、これを懌び[6]て帝国の参加を命じたまい、朕[1]、また遺緒[7]を継承して、いやしくも懈らず[8]、前後十有三年、その協力に終始[9]せり。
今次[10]、満洲国の新興に当り、帝国はその独立を尊重し、健全なる発達を促すをもって、東亜[11]の禍根[12]を除き、世界の平和を保つの基なりと為す。しかるに不幸にして、聯盟の所見[13]、これを背馳[14]するものあり。朕[1]、すなわち政府をして慎重審議、遂に聯盟を離脱するの措置を採らしむるに至れり。
然り[15]といえども、国際平和の確立は、朕[1]、常にこれを冀求[16]してやまず、これをもって平和各般[17]の企図は、向後[18]また協力して渝る[19]なし。今や聯盟と手を分ち[20]、帝国の所信[21]にこれ従うといえども、もとより東亜[11]に偏して友邦[22]の誼[23]を疎か[24]にするものにあらず。いよいよ信を国際に厚くし、大義[25]を宇内[26]に顕揚[27]するは、夙夜[28]朕[1]が念とする所なり。
今まさに、列国は、稀有[29]の政変に際会[30]し、帝国また非常の時艱[31]に遭遇す。これ正に挙国振張[32]の秋[33]なり。爾[34]臣民[35]、よく朕[1]が意を体し[36]、文武、互いに、その職分に恪循[37]し、衆庶[38]、おのおのその業務に淬励[39]し、嚮う[40]所、正を履み[41]、行ふ所、中を執り、協戮[42]、邁往[43]もってこの世局[44]に処し、進みて皇祖考[45]の聖猷[46]を翼成[47]し、普く[48]人類の福祉に貢献せむことを期せよ。

【注釈】

[1]朕:ちん=天皇の自称。私。
[2]惟う:おもう=よく考えてみる。思い巡らす。
[3]曩に:さきに=以前に。前に。かつて。さきごろ。
[4]克復:こくふく=困難な事態を乗り越えて、もとの状態にもどすこと。
[5]皇考:こうこう=在位中の天皇が、なくなったよく考えてみる君をいう語。ここでは大正天皇を指す。
[6]懌び:えらび=よろこぶ。
[7]遺緒:いしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。
[8]懈らず:おこたらず=しなくてはならない事をする。なまけない。精を出す。
[9]終始:しゅうし=始めから終わりまで同じであること。態度・行動・状態などを変えないで通すこと。
[10]今次:こんじ=このたび。今度。今回。
[11]東亜:とうあ=アジア州の東部。東アジア。日本・中国・朝鮮などの地域の総称。
[12]禍根:かこん=わざわいの生ずる原因や源。禍源。
[13]所見:しょけん=考え。意見。所懐。
[14]背馳:はいち=行き違うこと。反対になること。そむき離れること。
[15]然り:しかり=そうである。そのとおりである。そのようである。
[16]冀求:ききゅう=強く願い求めること。希望。
[17]各般:かくはん=いろいろ。それぞれ。各方面。諸般。
[18]向後:きょうこう=今からのち。こののち。以後。今後。
[19]渝る:かわる=物事の状態や質が、前と別の物になること。変化、変遷すること。
[20]手を分ち:てをわかち=別れる。また、関係を断つ。
[21]所信:しょしん=信じている事柄。信ずるところ。
[22]友邦:ゆうほう=互いに親しい関係にある国。
[23]誼:よしみ=親しい関係。親しい交際。
[24]疎か:おろそか=いいかげんに扱うさま。思いやりが薄いさま。
[25]大義:たいぎ=重要な意義。大切な意味。要義。
[26]宇内:うだい=天下。世界。
[27]顕揚:けんよう=世間に威光や評判などを広め高めること。
[28]夙夜:しゅくや=朝早くから夜遅くまで。あけくれ。一日中。昼夜。
[29]稀有:けう=存在がまれであること。めったに出現しないこと。
[30]際会:さいかい=事件、時機などにたまたま出会うこと。偶然の出会い。
[31]時艱:じかん=その時代の世の中の難儀。その時代の当面している難問題。時難。
[32]振張:しんちょう=ふるい起こすこと。盛んにすること。また、盛んになること。
[33]秋:とき=年。年月。
[34]爾:なんじ=二人称の人代名詞。相手を卑しめていう。貴様。おのれ。
[35]臣民:しんみん=臣としての人民。君主国の人民。また、旧憲法のもとで、天皇、皇・公族以外の者。
[36]意を体し:いをたいし=人の意見や気持を理解し、それに従って行動する。
[37]恪循:かくじゅん=つつしんで守ること。うやうやしく従うこと。
[38]衆庶:しゅうしょ=一般の人々。庶民。
[39]淬励:さいれい=気をひきしめて、つとめはげむ。
[40]嚮う:むかう=ある方向に向かう。
[41]履み:ふみ=一歩一歩踏みしめる。着実に行う。
[42]協戮:きょうりく=ともに力を合わせる。協力。
[43]邁往:まいおう=ひたすら進むこと。邁進。
[44]世局:せきょく=世の中のなりゆき。時局。
[45]皇祖考:こうそこう=天子、天皇のなくなった祖父を敬っていう語。
[46]聖猷:せいゆう=天皇のはかりごと。天子の計画。尊い計画。
[47]翼成:よくせい=助けて事をなしとげさせること。力を添えて成就させること。
[48]普く:あまねく=もれなくすべてに及んでいるさま。広く。一般に。

<現代語訳>

 私(昭和天皇)が、よく考えてみるに、以前に世界の平和のため、戦争を乗り越えて、国際連盟が成立するに、父(大正天皇)は、これを喜んで大日本帝国の参加を命じられ、私(昭和天皇)は、またその遺業を継承して、いやしくも怠ることもなく、かれこれ十三年、その協力を同じように継続してきた。
 今度、満洲国の新たな建国に当り、大日本帝国はその独立を尊重し、健全なる発達を促すことで、東アジアのわざわいの生ずる原因を除き、世界の平和を保持するの基となした。しかし不幸にして、国際連盟の考えは、これこれに背くものである。私(昭和天皇)は、すなわち政府をして慎重に審議させ、ついに国際連盟を離脱するための措置を採らせることに至った。
 そうではあるが、国際平和の確立は、私(昭和天皇)が、常にこれを強く願い求めてやまず、これをもって平和に関する各方面の企図には、この後もまた協力することに変化はない。今や国際連盟と関係を断ち、大日本帝国の考えにこれ従うといっても、もとより東アジアに偏って、他の友好のための親しい関係をおろそかにするものではない。いよいよ信頼を国際的に厚くし、重要な意義を世界に広め高めることは、昼夜に渡って私(昭和天皇)が、祈念とする所である。
 今まさに、列国は、めったにない政変に遭遇し、大日本帝国もまた非常なる時代の難問にぶちあたっている。これまさに国を挙げてふるい起こす年である。おまえたち臣民は、よく私(昭和天皇)の意見や気持を理解し、それに従って行動し、文官・武官は、互いに、その職分を謹んで守り、庶民は、おのおのその業務に勉め励み、向かうところ、正義を一歩一歩踏みしめ、行うところ、中道を執り、協力して邁進することによってこの時局に対処し、進んで祖父(明治天皇)の尊い計画に力を添えて成就させ、広く人類の福祉に貢献するようにせよ。

〇「国連脱退通告文」1933年(昭和8)3月27日発表

 帝国政府は東洋平和を確保し延いて世界平和に貢献せんとする帝国の国是が、各国間の平和安寧を企図する国際連盟の使命とその精神を同じうする事を認め、過去十有三年に亙り連盟国として又常任理事国としてこの崇高なる目的の達成に協力し来たりたるを欣快とするものなり。而してその間帝国が常に他の如何なる国にも劣らざる熱誠を以って連盟に参画せるは厳として動かすべからざる事跡なると同時に、帝国政府は現下国際社会の情勢に鑑み世界諸地方に於ける平和の維持を計らんがためには此等各地方の現実の事態に即して連盟規約の運用を行うを要し、且斯くの如き公正なる方針により初めて連盟がその使命を全うしその権威の増進を期し得べきを確信せり。
 昭和6年9月日支事件の連盟付託を見るや帝国政府は終始右確信に基き連盟の諸会議その他の機会において連盟が本事件を処理するに公正妥当なる方法を以ってし、真に東洋平和の増進に寄与するとともにその威信を顕揚せんが為には同方面に於ける現実の事態を的確に把握し該事態に適応して規約の運用を為すの肝要なるを提唱し、就中支那が完全なる統一国家にあらずしてその国内事情及び国際関係は複雑難渋を極め変則、例外の得意特異性に富めることかつて一般国際関係の基準たる国際法の諸原則及び慣例は支那についてはこれが適用に関し著しき変更を加えられ、その結果現に特殊且つ異常なる国際慣行成立しいれることを考慮にいるるの絶対に必要なる旨、力説強調し来れり。
 然るに過去17箇月間連盟における審議の経過に徴するに、多数連盟国は東洋における現実の事態を把握せざるか、または之に直面し正当なる考慮を払わざるのみならず連盟規約其の他の諸条約及び国際法の原則の適用、殊にその解釈に付き帝国と此等連盟国との間にしばしば重大なる意見の相違あること明らかなれり。その結果本年2月24日臨時総会の採択せる報告書は帝国が東洋の平和を確保せんとする外何等異図なきの精神を顧みざると同時に、事実の認定及び此に基づく論断において甚だしき誤謬に陥り、就中9月18日事件当時及び其の後に於ける日本軍の行動を以って自衛権の発動に非ずと臆断し、また同事件前の緊張常態及び事件後に於ける事態の悪化が支那側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新なる紛糾の因を作れる一方、満州国成立の真相を無視し、且つ同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋における事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。 殊にその勧告中に掲げられたる条件が東洋の康寧確保に何等貢献し得ざるは、本年2月25日帝国政府陳述書に詳述せる所なり。
 之を要するに多数連盟国は日支事件の処理に当り、現実に平和を確保せんとするよりは適用不能なる方式の尊重を以っていっそう重要なりとし、また将来における紛争の禍根を芟除するよりは、 架空的なる理論の擁護を以って一段貴重なりとせるものと見る外なく、他面此等連盟国と帝国との間の規約その他の条約の解釈に付き重大なる意見の相違ある事前記の如くなるを以って、茲に帝国政府は平和維持の政策、殊に東洋平和確立の根本方針に付き連盟と全然其の所信を異にする事を確認せり。よって帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信じ、連盟規約第1条第3項に基き帝国が国際連盟より脱退することを通告するものなり。

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