奈良時代の713年(和銅6)に、元明天皇により「運脚の労苦に対する詔」が出された日ですが、新暦では4月18日となります。
「運脚の労苦に対する詔」(うんきゃくのろうくにたいするみことのり)は、元明天皇によって出された運脚に関する詔でした。当時は、全国から平城京(奈良)に、調・庸の品物が駅路を使って運ばれていましたが、それを担ったのは村の中から選ばれた一部の人たちで、運脚と呼ばれ、村人たちは旅の費用として米や塩などを出しています。
地方から平城京までは国司が引率することになっていたので、運脚の人たちは無事に都にたどり着き、都の造営工事でも働かされました。しかし、帰途は自分たちだけで歩いて帰らなければならず、その途中で食糧が窮乏し、病気で倒れ、帰国することのできないものがしばしばみられます。そこで、この詔により、「各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と命じました。
〇運脚(うんきゃく)とは?
奈良・平安時代の律令制の下で、国司などの指導で綱領(ごうりょう)、綱丁(ごうちょう)に率いられて庸、調などの貢物を徒歩で運搬した人夫です。
村々で選ばれた正丁 (せいてい) がその任にあたり、往復の食糧は自己負担であり、上京後も都で駆使されることがあるなど過酷であって、帰国の途中で餓死する者も出ました。その中で、712年(和銅5年1月16日)に、 元明天皇は「役民の労苦に対する処置」につていて詔を出し、運脚等に関して「国司らはよく憐み養い、状況に応じて救済するように。もし死んでしまう者があれば、とりあえず埋葬し、その姓名を記録して本籍地のある国に報告せよ。」と命じます。
さらに同年10月29日に、詔を再出し、諸国の役夫と運脚が、「郷里へ戻る時に、食糧が無くなっても調達することが容易ではない。そこで各郡におかれた官稲から稲を支出して便利な場所に貯えておき、役夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭(和同開珎)を持って費用とし、重い荷物のために苦労することを癒し。そして銭を使用することの、便利なことを分からせよ。」と命じました。しかし、平城京から離れた地では、銭(和同開珎)は通用せず、実状にあっていなかったと思われ、翌年3月19日に、「運脚の労苦に対する詔」が出され、「各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と命じています。
律令制下での運脚という労役の負担は、とても重いもので、古代の農民の疲弊の一因ともなっています。
以下に、和銅5年1月16日と10月29日、翌年3月19日に、元明天皇より出された運脚に関する詔の『続日本紀』の記述を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「役民の労苦に対する処置の詔」712年(和銅5年1月16日)
<原文>
五年春正月乙酉、詔曰。諸国役民。還郷之日。食糧絶乏。多饉道路。転填溝壑。其類不少。国司等宜勤加撫養、量賑恤。如有死者。且加埋葬。録其姓名、報本属也。
<読み下し文>
五年春正月乙酉。詔して日く、「諸国の役民[1]、郷に還るの日、食糧へ乏しくして、多く道路に饉ゑて、溝壑[2]に転填する[3]こと、其の類少なからず。国司等宜しく勤めて撫養[4]を加へ、量りて賑恤[5]すべし。如し死する者有らば、且つ埋葬を加へ、其の姓名を録して、本属[6]に報ぜよ。」と。
【注釈】
[1]役民:えきみん=公の労役に服する人。税を都まで運んだ人たち。[2]溝壑:こうがく=みぞや谷間。貧困などのために路傍で倒れ死ぬ場合などに用いる。
[3]転填する:てんてんする=転がり落ちてつまる。
[4]撫養:ぶよう=憐み養う。
[5]賑恤:しんじゅつ=貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること。救済すること。
[6]本属:ほんぞく=本籍地。
<現代語訳>
和銅5年春正月16日。詔して言うことには、「諸国の税を都まで運んだ人たちが郷里に戻る時に、食糧が無くなって、多くが帰路で飢えて、溝や谷に転がり落ち、埋もれて死んでしまうといったことが少なくない。国司らはよく憐み養い、状況に応じて救済するように。もし死んでしまう者があれば、とりあえず埋葬し、その姓名を記録して本籍地のある国に報告せよ。」と。
『続日本紀』卷第五(元明紀二)より
〇「役夫・運脚に関する詔」712年(和銅5年10月29日)
<原文>
乙丑。詔曰。諸国役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稲別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。
<読み下し文>
乙丑。詔して曰く。「諸国の役夫[7]及ひ運脚[8]の者。郷に還るの日。粮食[9]乏少にして。達することを得るに由無し。郡稲[10]を割て別に便地に貯へ役夫[7]の到るに隨て交易[11]せ令むるに任かす宜く。又行旅の人をして令して必す錢を齎て資と爲さしむ。因て重擔[12]の勞を息め。亦錢を用るの便なることを知らしむ。」と。
【注釈】
[7]役夫:えきふ=徭役(ようえき)にかり出された公民。[8]運脚:うんきゃく=綱領(ごうりょう)、綱丁(ごうちょう)に率いられて庸、調などの貢物を都に運ぶ人夫。運夫。
[9]粮食:りょうしょく=食糧。特に、備蓄・携行した食糧。
[10]郡稲:ぐんとう=令制で、各郡におかれた官稲。出挙(すいこ)してその利を郡の雑用にあてる。
[11]交易:こうえき=品物を交換しあって通商すること。
[12]重擔:じゅうたん=重い荷物。重荷(おもに)。また、重い負担。
<現代語訳>
29日、詔して言うことには、「諸国の労役の人夫と庸、調などの貢物を都に運ぶ人夫が、郷里へ戻る時に、食糧が無くなっても調達することが容易ではない。そこで各郡におかれた官稲から稲を支出して便利な場所に貯えておき、役夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭(和同開珎)を持って費用とし、重い荷物のために苦労することを癒し。そして銭を使用することの、便利なことを分からせよ。」と。
〇「運脚の労苦に対する詔」713年(和銅6年3月19日)
<原文>
又詔。諸国之地。江山遐阻。負担之輩。久苦行役。具備資糧。闕納貢之恒数。減損重負。恐饉路之不少。宜各持一嚢銭。作当炉給。永省労費。往還得便。宜国郡司等。募豪富家。置米路側。任其売買。一年之内。売米一百斛以上者。以名奏聞。又売買田。以銭為価。若以他物為価。田并其物、共為没官。或有糺告者。則給告人。売及買人、並科違勅罪。郡司不加検校。違十事以上。即解其任。九事以下、量降考第。国司者式部監察。計違附考。或雖非用銭。而情願通商者聴之。
<読み下し文>
又詔すらく、「諸国の地、江山[13]遐かに阻たって、負担の輩[14]、久しく行役に苦しむ。資粮[15]を具へ備へむとすれば、納貢の恒数[16]を闕き重負を減損[17]せむとすれば路に饉るの少なからざることを恐る。宜しく各一嚢[18]の銭持ちて、当炉の給[19]と作し、永く労費を省き、往還[20]便りを得しむべし。宣しく国郡司等、豪富の家に募って、米を路の側に置て、其の売買に任ぜしむべし。」と。
『続日本紀』卷第五(元明紀二)より
【注釈】
[13]江山:こうざん=川と山。山川。[14]負担の輩:ふたんのともがら=調・庸などの運搬に当たる人々。
[15]資粮:しろう=物資と食料。
[16]納貢の恒数:のうぐのこうすう=調・庸の規定納入数。
[17]減損:げんそん=物や財産などが減ること。また、減らすこと。
[18]一嚢:いちのう=一袋。
[19]当炉の給:とうろのきゅう=食事をするための費用。
[20]往還:おうかん=行き帰り。ゆきき。往来。往復。
<現代語訳>
また詔して言うことには、「諸国の地は、河や山によって遠く隔てられ、調・庸などの運搬に当たる人々は、長期にわたって行旅の負担に苦しめられている。行旅のための物資と食料を充分に用意しようとすれば、調・庸の規定納入数が欠けることになり、重い荷物を減らそうとすると、道中での飢えることが少なくないのではと恐れる。そこで各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労費を省き、往復の便を増すようにしたい。国司や郡司らは、富豪の家から募って米を路傍に置いて、その売買を行わせよ。」と。
『続日本紀』卷第六(元明紀三)より
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