今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、福沢諭吉が執筆したとされる「脱亜論」が『時事新報』に掲載された日です。
「脱亜論(だつあろん)」は、福沢諭吉が書いたとされる、『時事新報』社説(無署名)でした。その内容は、「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、(略)亜細亜東方の悪友を謝絶する」と論じ、日本は「未開野蛮」なアジア諸国との連帯は考えず、「文明」国である西欧諸国の近代文明を積極的に摂取し、西洋の文明国と進退を共にすることが歩むべき道だとの主張です。
その後、アジア主義(興亜論)に対し、国民意識は次第に脱亜意識が強まっていき、西洋最新の文明を基礎として、国際政治の中でも欧米列強と肩を並べるべき、国権論への傾斜を強めることになっていきました。
以下に、「脱亜論」の全文と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇福沢諭吉とは?
幕末から明治時代の思想家・教育者です。1835年(天保5)に豊前国中津藩士福沢百助の五男として、大坂藩邸で生まれました。1854年(安政元)に長崎で蘭学を学び、翌年大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾に学び、塾頭にまでなりです。
1858年(安政5)藩命によって江戸へ出府し、鉄砲洲の中津藩邸内に蘭学塾を開きました。その後、英学を独修し、1860年(万延元)には幕府の軍艦咸臨丸の艦長の従僕を志願して渡米することになります。以後、1861年(文久元)~翌年、1867年(慶応3)と都合3回幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。
その経験をもとに1866年(慶応2)『西洋事情』初編、1868年(慶応4)『西洋事情』外編、1869年(明治2)『世界国尽』(1869)などを刊行して大衆の啓蒙に寄与します。また、1868年(慶応4)蘭学塾の名を慶応義塾と改め。今日の慶應義塾大学の礎を築きました。そして、1872年(明治5)から1876年(明治9)にわたって出版した『学問のすゝめ』は、人間平等宣言と「一身の独立」「一国の独立」の主張により、ベストセラーとなります。
このように、教育と啓蒙活動に専念し、1873年(明治6)に明六社を設立、1875年(明治8)『文明論之概略』を出版、(1875)1882年(明治15)「時事新報」を創刊するなどしてきましたが、1901年(明治34)年2月3日に68歳で死去しました。
〇「脱亜論」 初出:『時事新報』1885年(明治18)3月16日付
世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木もこの風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖ども、その挙動の古に遅鈍にして今に活潑なるは、唯交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今東洋に国するものゝ為に謀るに、この文明東漸の勢に激して之を防ぎ了るべきの覚悟あれば則ち可なりと雖ども、苟も世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦楽を与にするの外あるべからざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。この時に当りこの流行病の害を悪て之を防がんとするも、果してその手段あるべきや。我輩断じてその術なきを証す。有害一偏の流行病にても尚且その勢には激すべからず。況や利害相伴なうて常に利益多き文明に於てをや。啻に之を防がざるのみならず、力めてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは智者の事なるべし。西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸やくその採るべきを知り、漸次に活潑の気風を催うしたれども、進歩の道に橫わるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立すべからずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅すべければなり。然ば則ち文明を防てその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。是に於てか我日本の士人は国を重しとし政府を輕しとするの大義に基き、又幸に帝室の神聖尊厳に依賴して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事、西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ。
我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、その国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。この二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に養わるゝこと、我日本国民に異ならずと雖ども、その人種の由来を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものあるか、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、この二国の者共は一身に就つき又一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非あらざれども、耳目の聞見は以もつて心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず、この文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如ごとし。我輩を以てこの二国を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚もその独立を維持するの道あるべからず。幸にしてその国中に志士の出現して、先ず国事開進の手始めとして、大にその政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若しも然らざるに於ては、今より数年を出でずして亡国と為り、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑あることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭いながら、支韓両国はその伝染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室內に閉居し、空気の流通を絶て窒塞するものなればなり。輔車唇齒とは隣国相助くるの喩なれども、今の支那、朝鮮は我日本国のために一毫の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの値を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例えば支那、朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃むべきものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑い、支那、朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽五行の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義俠も之がために掩われ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば枚挙に遑あらず。之を喩えばこの隣軒を並べたる一村一町內の者共が、愚にして無法にして然かも残忍無情なるときは、稀にその町村內の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩われて堙沒するものに異ならず。その影響の事実に現われて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云うべし。左ば今日の謀ごとを為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
「ウィキソース」より
<現代語訳>
世界の交通手段は便利になり、西洋文明の影響は東に進み、到るところで草も木もこの風になびかずにはいられない。ただし、西洋の人物、昔と今では大に異るわけではないといっても、その挙動は昔は遅鈍であったものの、今では活発になったのは、ただ交通機関を利用して勢に乗っているだけである。従って、最近東洋に国がある者のために考えてみると、この文明が東進してくる勢いは激しくて、これを防ぎ切るべき覚悟があれば、それでも良いとは言っても、仮にも世界中の現状を視察して事実上それが出来ないことを知る者は、世界の推移と共に文明の海に浮き沈みし、共に文明の波に乗り、共に文明の苦楽をともにする以外ないのである。文明はなお麻疹(はしか)の流行のようでもある。ただいまは東京の麻疹(はしか)は西国の長崎の地方より東進して、春の暖かな陽気と共に次第に蔓延するもののようでもある。この時に当り、この流行病の害を憎んで、これを防がんとしても、果してその手段はあるのであろうか。私は断じてその手段がないことを証明する。有害なだけの流行病だとしても、それでもなお、その勢は激しくなるばかりである。まして利害相伴なって常に利益多き文明においてはなおさらである。単にこれを防がないだけでなく、努めてその蔓延を助け、国民を早くその気風をよいものとして受け入れることは知恵ある者の課題である。西洋の近代文明がわが日本に入ってきたのは、嘉永年間(1843~53年)の開国を発端として、国民はようやくそれを受け入れるべきことを知り、次第に活発の気風が生じたけれども、進歩の道の障害になる旧態たる老害の江戸幕府なるものがあって、これをどうすることもできなかった。幕府をそのままにしておくと、文明は決して入ってくることが出来なかった。なぜならば、近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を脱却すれば、同時に江戸幕府もまた廃絶しなければならなかったからである。それだからといって、文明を防いでその侵入を止めようとすれば、日本国の独立維持は難しかった。なぜならば、世界文明の騒乱が非常にはげしいことは、東洋の孤島がひとり眠っているのを許すものではなかったからだ。ここにおいて、わが日本の人士は国の独立を重んじ、江戸幕府を軽いとする大義に基づいて、また、幸に皇室の神聖尊厳を頼みとして、断固として旧江戸幕府を倒して、明治新政府を立て、国中において政府も民間も区別なく総ての事に、西洋の近代文明を採用し、ただ日本の古くからの形式や慣習を脱しただけでなく、アジア全域の中にあって、新機軸を打ち出し、主義としたことは、ただ脱亜の二字にあるのみである。
わが日本の国土はアジアの東の端にあるといっても、その国民の精神はすでにアジアの狭い見識から脱して西洋の文明に移行している。ところがここに不幸なのは近隣の国のことであり、一つを中国といい、一つを朝鮮という。この二国の人民も昔から、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異なっていないといっても、その人種の由来が特別なのか、同じく同様の政治・宗教・風俗の中にいながらも、遺伝した教育の趣旨に同じでないものがあるのか、日本・中国・朝鮮三国を並べると、中国と朝鮮と相似ている状態は、中国・朝鮮の日本に於けるよりも近いものであって、この二国の者たちは自分自身についても、また自国に関しても、古いものを改めて文明に進ませる道を知らない。交通が非常に便利になった世の中に文明の事物を見聞きしないわけではないけれども、耳・目の見聞では心を動かすには足らないで、その昔ながらの旧習に未練が残る様は百千年の昔と異なっていない。この文明が日々新しくなっていく活劇の場に、教育の事を論ずれば儒教主義といい、学校の教えの趣旨は仁義礼智と称し、一から十に至るまで外見の虚飾だけにこだわって、その実際においては真理・原則の知見がないばかりか、道徳さえ地を掃いたように残酷で恥知らずを極め、なおおごり高ぶって尊大に振る舞うように自省の念などない者のようである。私からこの二国をみれば、今の文明が東進してくる状況に際しては、とてもその独立を維持する道はないのである。幸にしてその国の中に国家・社会のために献身しようとする人が出現して、先ず国家の開明政策の手始めとして、大いにその政府を改革するために日本の明治維新のような大規模な行動を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するような活動があったならば事態が異なるのであろうが、もしもそうならない時においては、今より数年を経ないで国を亡ぼすことなり、その国土は世界の文明諸国に分割されてしまうことは一点の疑いもない。なぜならば麻疹(はしか)と同じような文明開化の流行に遭遇しながら、中国・朝鮮両国はその伝染の自然の摂理に背き、無理にこれを避けようとして一室內に閉じこもり、空気の流通を遮断して窒塞するものであるからだ。「輔車唇歯」とは、『春秋左伝‐僖公五年』の中にある一方が滅べば他方も立ちゆかなくなるような、利害が密接で離れられない関係の喩えではあるが、今の中国・朝鮮はわが日本国のためにほんの少しの援助ともならないだけでなく、西洋文明人の眼で見れば、三国が地理的に近接しているために、時にあるいはこれを同一視し、中国・朝鮮を評価する尺度でもってわが日本に対処する向きがないわけではない。例えば中国・朝鮮の政府が昔のままの専制政治であって、法律の信頼するべきものがないならば、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑い、中国・朝鮮の人士が迷信深くて科学が何であるかを知らなかったならば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思い、中国人が卑屈にして恥を知らなかったならば、日本人の義俠もこのために影に隠れ、朝鮮国に人に刑罰を科すのに惨酷なるものがあれば、日本人もまた共に無情であるかと推量せられるように、これらの事例を数えれば枚挙にいとまがない。これを喩えれば、この軒を並べている一村内や一町內の者たちが、おろかにして無法にしてしかも残忍無情であるときは、まれにその町村內の一つの家人が正当なふるまいに注意していても、他の醜悪に覆い隠されて埋没することに他ならない。その影響が現実のものとなって、間接的にわが外交上の障害となっていることは決して少なくはない、わが日本国の一大不幸と言うべきである。
そうであるならば、今日の日本の計画を作るにおいて、我国は隣国の開明を待って共同してアジアを勃興させる猶予はない。むしろ、その仲間を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その中国・朝鮮に対処する方法も隣国であるという理由で、特別の思いやりにに及ぶものでなく、正に西洋人がこれに接するのと同様のやり方に従って、処分すべきである。悪友と親しくする者は、共に悪名を避けることはできない。私は心の中において、アジア東方の悪友(中国・朝鮮)を謝絶するものである。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1934年(昭和9) | 初めて国立公園(.瀬戸内海国立公園・霧島国立公園・雲仙国立公園)が誕生する | 詳細 |
1983年(昭和58) | 千葉県佐倉市に「国立歴史民俗博物館」が開館する | 詳細 |
2005年(平成17) | 財団法人ダム水源地環境整備センター(現在の水源地環境センター)が「ダム湖百選」を選定する | 詳細 |