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 今日は、江戸時代中期の1771年(明和8)に、八重山地震(推定M7.4)が起き、大津波(明和の大津波)により先島諸島に大きな被害を与えた日ですが、新暦では4月24日となります。
 八重山地震(やえやまじしん)は、午前8時頃に八重山列島近海の石垣島南東沖(北緯24.0度、東経124.3度)を震源として発生した大地震(推定M7.4)で、地震の直接的な揺れ(八重山での震度は4程度)による被害はほとんどなかったとされますが、まもなく宮古・八重山諸島に、大津波が三波に渡って襲来しました。石垣島の南部や東部では高さ約30mにも達したとされ、壊滅的な被害を与え、死者行方不明者合計11,861人(八重山群島9,313人、宮古群島2,548人など)、家屋流出約2,000戸に及びます。
 当時の記録『大波之時各村之形行(なりゆき)書』では、「この地震がやんですぐに東の方が雷のように轟いた。間もなく外の瀬(リーフ)まで潮が引き、所々で波が立ち、その潮が一つになり、特に東北・東南の方に大波が黒雲のように躍り上がって立ち、一時に村々へ三度も寄せ揚がった。」という異常現象のあったことを伝え、「村は跡形も残さずに引き崩されて石原になった」とも記されました。
 以下に、石垣市宮良タフナー原にある「明和大津波遭難者慰霊之塔」刻文と古文書『大波之時各村之形行書』(抜粋)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「明和大津波遭難者慰霊之塔」刻文 1983年(昭和58)4月24日建立 

 碑文(右側)

 八重山の古記録「大波之時各村之形行書(おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ)」によれば、乾隆36年(日本年号明和8年)3月10日(1771年4月24日)午前8時ごろ大地震があり、それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき、間もなく外の瀬まで潮が干き、東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち、たちまち島島村村を襲った。波は三度もくりかえした。
 史上有名な八重山の明和大津波である。
 津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ、全半潰あわせて13村、ほかに黒島、新城2村が半壊し、遭難死亡者は9313人に達した。
 こうして群島の政治、経済、文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ、加えてその後の凶作、飢饉、伝染病などによる餓死者、病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり、人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし、その影響はまことに計り難いものがあった。
 この天災から212年、狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき、いまなお断腸の念を禁ずることができない。
 このたび有志相謀り、群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り、あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し、島内外各面の浄財と、石垣市、竹富町、与那国町並びに諸機関、団体の御協力を仰いで、ここにこの塔を建立した。
 1983年(昭和58)4月24日
      明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

 明和大津波災害関係諸記録抜粋(左側)

地震の規模と位置(東京天文台編理科年表による)
 M(マグニチュード)7.4
 震源地 東経124.3度 北緯24度 「八重山地震津波」と記録 (石垣島白保崎南南東40キロメートルと測定される)
津波の状況(大波之時各村之形行書による)
 石垣島で 「潮揚高貮拾8丈(84.8メートル)或貮拾丈(60.6メートル) 或貮拾五 六丈(75.7~78.7メートル)或貮 参文(6~9メートル) 沖ノ石陸へ寄揚 陸ノ石並大木根乍被引流」 とある
災害の状況(大波之時各村之形行書 御手形写御間合控等による)
 全壊した村 石垣島の真栄里・大浜・宮良・白保・仲与銘・伊原間・安良・屋良部の計8村
 半壊した村 石垣島の大川・石垣・新川・登野城・平得、離島の黒島、新城の計7村
 遭難死亡者 総計9,313人(群島人口の32.22%に当る)
内 石垣島8815人(94.7% 在番 頭職等の公職者88人及び蔵元の公用で離島からきて遭難死亡した376人を含む) 
    黒島293人(3.1%)
    新城島205人(2.2%)
 住家の全潰 総計2176戸、浸水1003戸
 田畑の流出 総計1642町4反5畝12歩
 作物被害 田畑総計1795町2反6畝10歩
 その他の流潰流出 蔵元庁舎、村番所13棟、会所4棟、御嶽14棟、橋梁6座、桃林寺及び同寺の仁王像二体、権現宮、貢納米等

〇『大波之時各村之形行書』(抜粋)

 大波揚候次第

一、八重山島之儀惣頭男女弐万八千九百九拾弐人罷居候処。乾隆三十六年三月十日辛亥五ッ時分大地震有之、右地震相止則東方鳴神ノ様轟き。間モ無ク外ノ瀬迄潮干所々潮群立右潮一ツ打合、以之外東北東南ニ大波黒雲ノ様翻立、一時ニ村々へ三度迄寄揚。潮揚高、貳拾丈、或貳拾五・六丈、或貳・参丈、沖ノ石陸へ寄揚、陸ノ石並大木根乍被引流。石垣・登野城・大川・新川四カ村宮鳥御嶽前並坂下り東西村長通被引流、 ・・・

<現代語訳>

一、八重山には男女28,992人がいた。乾隆36辛卯年(1771年)3月10日(新暦4月24日)五ツ時分(午前8時頃)に大地震があり、この地震がやんですぐに東の方が雷のように轟いた。間もなく外の瀬(リーフ)まで潮が引き、所々で波が立ち、その潮が一つになり、特に東北・東南の方に大波が黒雲のように躍り上がって立ち、一時に村々へ三度も寄せ揚がった。潮の揚がった所の高さは、或いは28丈(84.8m)、或いは20丈(60.6m)、或いは25.6丈(75.7~78.7m)、或いは2、3丈(6~9m)で、沖の石を陸へ寄せ揚げ、陸の石や大木を根こそぎ引き流した。石垣・登野城・大川・新川の四カ村は宮鳥御嶽前の坂下の東西の線までが引き流され、・・・

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