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 今日は、奈良時代の765年(天平神護元)に、墾田永年私財法の停止(加墾禁止令)が出された日ですが、新暦では3月30日となります。
 「加墾禁止令(かこんきんしれい)」は、称徳天皇の寵愛をうけた僧の道鏡が政治の実権を握る中で、寺領を除く王臣貴族の無制限の土地開墾を抑圧するため、「墾田永年私財法」を停止する旨の太政官符の発布で、「墾田禁止令」とも呼ばれました。743年(天平15)の聖武天皇の治世に「三世一身法」を改めて、一定の条件つきで墾田の永世私有を認めた「墾田永年私財法」が出されましたが、勢力を持っている家では、人々を追い立てるように開墾に従事させ、貧窮している人々は生計を立てる余裕がない状態となったとして、寺院の定められた土地や当地の人々の一~二町の開墾を除いて、王臣貴族の無制限の土地開墾を抑圧したものです。
 しかし、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位したことで道鏡が失脚すると、772年(宝亀3年10月14日)に墾田私有を許可(百姓を苦しませない限り)すると言う旨の太政官符が発布されました。これは、藤原氏ら富豪や大寺院などの圧力によるものと考えられています。
 以下に、このことを記述した『続日本紀』巻第二十六(称徳紀一)天平神護元年三月の条を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「続日本紀」巻第二十六(称徳紀一)天平神護元年三月の条

<原文>

丙申。勅。今聞。墾田縁天平十六年格。自今以後。任爲私財。無論三世一身。咸悉永年莫取。由是。天下諸人競爲墾田。勢力之家駈役百姓。貧窮百姓無暇自存。自今以後。一切禁斷。勿令加墾。但寺先來定地開墾之次不在禁限。又當土百姓一二町者亦宜許之。

<読み下し文>

丙申[1]。勅すらく、「今聞く、墾田[2]は天平十六年格[3]に縁る。今より以後は、任に私財と爲し、三世一身[4]を論ずること無く、咸悉くに永年取る莫れ。」と。是に由りて、天下の諸人競ひて墾田[2]を爲し、勢力の家は百姓を駈役し、貧窮の百姓は自存するに暇無し[5]。今より以後は、一切禁斷[6]して加墾[7]せしむること勿れ。但し寺は、先來の定地開墾の次[8]は禁ずる限に在らず。又、當土の百姓[9]、一二町はまた宜しくこれを許すべし。

【注釈】

[1]丙申:へいしん=ここでは、(天平神護元年三月)五日のこと。
[2]墾田:こんでん=新たに開墾した田。
[3]天平十六年格:てんぴょうじゅうろくねんきゃく=墾田永年私財法のこと。
[4]三世一身:さんぜいっしん=本人・子・孫の代まで受け継ぐこと。
[5]自存するに暇無し:じぞんするにいとまなし=生計を立てる余裕がない。
[6]禁斷:きんだん=ある行為をしてはいけないと厳重に禁止すること。さしとめること。禁制。禁止。
[7]加墾:かこん=開墾を行うこと。
[8]先來の定地開墾の次:せんらいのていちかいこんのついで=かつて定められた土地を開墾すること。
[9]當土の百姓:とうどのひゃくしょう=その土地の人々。

<現代語訳>

(天平神護元年三月)五日、(称徳天皇は)勅した。「今聞くところでは、新たに開墾した田は、墾田永年私財法によって、任意に開墾者の私有財産と為し、本人・子・孫の代まで受け継ぐ(三世一身法)という制限なく、すべて永久に収公されないことになった。」と、これによって、天下の人々は競い合って新たに開田するようになり、勢力を持っている家では、人々を追い立てるように開墾に従事させ、貧窮している人々は生計を立てる余裕がない状態である。今後は、一切禁止するので開墾を行ってはならない。ただし、寺はかつて定められた土地を開墾することについてはこの限りではない。また、その土地の人々が一~二町を開墾するのはこれを許可する。

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