今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、太平洋戦争下での言論弾圧(竹槍事件)の原因となった、「毎日新聞」朝刊第一面の戦局解説記事が掲載された日です。
竹槍事件(たけやりじけん)は、この日の「毎日新聞」朝刊第一面に掲載された新名丈夫記者の「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ。海洋航空機だ」の記事が、時の東條英機陸相兼首相の怒りに触れ、掲載紙の発禁および編集責任者と筆者の処分を命じられた事件でした。この一面記事では、まず「勝利か滅亡か、戦局は茲まで来た 眦(まなじり)決して見よ敵の鋏状侵寇」、「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋航空機だ」と大見出しを載せ、「太平洋の攻防の決戦は、日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻してくるにおいては最早万事休すである。・・・・・敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍をもっては戦い得ない。問題は戦力の結集である。帝国の存亡を決するものはわが海洋航空兵力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかって存するのではないか」と書いています。
戦局解説記事の中で、本土決戦で、女性から子供まで竹槍主義で一億玉砕を唱えていた陸軍のアナクロニズムを批判し、精神主義だけでは勝利できないと揶揄したものでした。時の東條英機首相兼陸相は反戦思想だと激怒し、毎日新聞は松村秀逸大本営報道部長から、掲載紙の発禁および編集責任者と筆者の処分を命じられました。しかし、毎日新聞社は編集責任者は処分しましたが、筆者である新名記者の処分は行わなかったため、急遽、陸軍は37歳の新名記者を2等兵として懲罰徴収を行い丸亀連隊に入営させます。
当時、その世代は1人も召集されていなかったため、海軍が露骨な懲罰徴収だと批判したところ、陸軍は高齢の兵役免除者250名の徴収を急遽実施し、その批判をかわそうとしました。そして、丸亀連隊に入営させられた250名は、激戦地硫黄島に送られ、全員が玉砕・戦死しています。ただし、新名記者だけは、海軍の計らいで、海軍報道班員として別に従軍させられたため、戦後まで生き延びました。以下に、竹槍事件のきっかけとなった1944年(昭和19)2月22日付「毎日新聞」朝刊の一面記事を抜粋して載せておきますので、ご参照下さい。
〇『毎日新聞』朝刊 1944年(昭和19)2月23日付の一面記事(抜粋)
・新名の執筆記事は「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と題して、
「国家存亡の岐路に立つの事態が、開戦以来2年2ケ月、緒戦の赫々たるわが進攻に対する敵の盛り返しにより、勝利か滅亡かの現実とならんとしつつあるのだ。大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である。われらの最大の敵は太平洋より来寇しつつあるのだ。海洋戦の攻防は海上において決せられることはいうまでもない。しかも太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻し来(きた)るにおいては最早万事休すである。
今こそわれらは戦勢の実相を直視しなけれぱならない。戦争は果たして勝っているか。ガダルカナル以来、過去一年半余、わが忠勇なる陸海将士の血戦死闘にもかかわらず、太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来った血涙の事実をわれわれは深省しなけれぱならない。
空中戦闘と海上の艦隊決戦において、如何に勝利を獲得するとも、海上補給に際して敵航空機の網に罹っては補給はできないのである。敵航空機の海上補給攻撃に対してこれを防衛するには、わが航空兵力をもって対抗するほかなきは勿論である。
太平洋の攻防ともに航空兵力こそ勝敗の鍵を握るものなのである。敵の戦法に対してわれらの戦法を対抗せしめなければならない。敵が飛行機で攻めに来るのに、竹槍をもっては戦い得ないのだ。問題は戦力の結集である。帝国の存亡を決するものは、わが海洋航空兵力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかって存するのではないか。」
「ガダルカナル以来の我が戦線が次第に後退のやむなきに至ったのも、アッツの玉砕も、ギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空戦力が量において敵に劣勢であったためではなかろうか」
・社説の「今ぞ深思の時である」でも精神主義についての批判が行われた。
「我らは敵の侵攻を食い止められるのはただ飛行機と鉄量とを敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るにこの戦局は右の要求が一向に満たされないことを示す」「勝利の条件にまず信念があることに相違はないが、それは他の条件も整った上でのことであって、必勝の信念だけでは戦争に勝たれない」
・また、記事には陥落したばかりのマーシャル・ギルバート諸島から日本本土や台湾・フィリピンへ至る米軍の予想侵攻路が添えられていた。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1576年(天正4) | 織田信長が岐阜から近江の安土城へ移る(新暦3月23日) | 詳細 |
1784年(天明4) | 筑前志賀島の百姓甚兵衛により、「漢倭奴國王」の金印発見される(新暦4月12日) | 詳細 |
1904年(明治37) | 「日韓議定書」に調印する | 詳細 |