今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し、乗員乗客167名全員が死亡・行方不明(南海丸遭難事故)となった日です。
南海丸遭難事故(なんかいまるそうなんじこ)は、紀阿連絡航路(小松島港~和歌山港)の南海汽船(後の南海フェリー)所属の旅客船「南海丸」(494総トン、乗客定員444名)が、小松島港(徳島県)から和歌山港に向かって、乗客139名と乗組員28名の計167名を乗せて航行中、この日の午後6時28分頃に無線電話で危険を知らせる連絡をしたのち消息を絶った事故でした。当時、海上付近では、平均風速17~20m/sの風が吹いており、強風注意報が発令されていて、波高は平均4~5mの悪天候だったと推定されています。
ただちに救難活動が行われたものの、なかなか船体を発見できず、ようやく2日後の28日午後4時、紀伊水道の沼島の南西端沖海底の水深約40m地点に沈没しているのが見つかり、乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる大惨事となりました。この船は、1956年(昭和31年)3月に竣工し、まだ2年という新しい船で、船体および機関に沈没原因になるような欠陥は無く、生存者がいなかったため事故の詳細は明らかではありませんが、台風並みに発達した低気圧による時化で沈没したのではないかとされています。
その頃は、1954年(昭和29)9月26日の青函連絡船「洞爺丸」事故(乗員乗客1,155名死亡)、1955年(昭和30)5月11日の宇高連絡船「紫雲丸」事故(死者166名、負傷者122名)、1957年(昭和32)4月12日の瀬戸内海定期客船「第5北川丸」事故(死者・行方不明113名)と重大海難事故が続いていたので、社会的関心が集まりました。
〇太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)
・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者166名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1997年(平成9) | 小説家藤沢周平の命日 | 詳細 | |||||
2006年(平成18) | 「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される | 詳細 | |||||
2013年(平成25) | 小説家安岡章太郎の命日 | 詳細 |