ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年01月

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 今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の生まれた日です。
 尾崎喜八(おざき きはち)は、東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区京橋)南小田原町で、裕福な回漕店を営む父・尾崎喜三郎の長男として生まれました。1909年(明治42)に京華商業学校(現在の学校法人京華学園)を卒業し、中井銀行に就職、この頃から文学を愛好するようになります。
 1911年(明治44)に銀行を退職して三省堂器械標本部に就職、「文章世界」、「スバル」などで高村光太郎を知りました。翌年に高村を本郷駒込のアトリエに訪問し、文学志望の気持ちをうちあけ、1913年(大正2)に三省堂を退職し、年末に高田商会へ入社、1914年(大正3)には、武者小路実篤を識り、白樺派の理想主義の影響下に詩作を始めます。
 1915年(大正4)に父との仲が不和となり、尾崎家を廃嫡となり、高田商会を退社、翌年には、ロマン・ロラン「今日の音楽家」を翻訳して雑誌「白樺」に連載したものを『近代音樂家評傅』として刊行しました。1920年(大正9)に朝鮮銀行に就職し京城に渡り、本店に入るものの、病気を理由として辞職し、東京に戻り、翌年には、「詩聖」、「新詩人」に詩や文章を毎号寄稿するようになります。
 1922年(大正11)に第一詩集『空と樹木』で詩壇に登場、30歳を過ぎてから山へ登るようになり、1924年(大正13)に詩集『高層雲の下』、1927年(昭和2)に詩集『曠野の火』を刊行、“山と高原の詩人”と称されました。1928年(昭和3)に家督を相続し、東京都京橋区新川の実家へ転居、1933年(昭和8)に詩集『旅と滞在』、1938年(昭和13)には散文集『雲と草原』を刊行しています。
 1945年(昭和20)に太平洋戦争下の空襲で、東京の青山南町の家を焼かれ、戦後の1946年(昭和21)には、妻子と共に長野県諏訪郡富士見町にあった渡辺千秋の別荘「分水荘」の一部を借り、移り住みました。その中で、1948年(昭和23)に詩集『残花抄 尾崎喜八集』、散文集『高原暦日』、散文集『美しき視野 自然隨筆集』、1951年(昭和26)には散文集『碧い遠方』を刊行しています。
 1952年(昭和27)に東京都世田谷区玉川上野毛の多摩川台上の新居へ転居、1955年(昭和30)に詩集『花咲ける孤獨』、『新譯ヘッセ詩集』を刊行、1958年(昭和33)には、串田孫一らと「アルプ」を創刊しました。1966年(昭和41)に神奈川県鎌倉市山ノ内明月谷の新居へ転居、晩年は鎌倉で過ごすこととし、翌年には紫綬褒章を受章します。
 それからも独自の詩境を深め、1969年(昭和44)に随筆集『夕べの旋律』、1970年(昭和45)に詩集『その空の下で』を刊行するなどしましたが、1974年(昭和49)2月4日に、神奈川県鎌倉市大町額田病院で、急性心不全のため82歳で亡くなりました。

〇尾崎喜八の主要な著作

・翻訳『近代音楽家評伝』(1916年)
・詩集『空と樹木』(1922年)
・詩集『高層雲の下』(1924年)
・詩集『曠野の火』(1927年)
・詩集『旅と滞在』(1933年)
・随想集『山の絵本』(1935年)
・詩集『行人の歌』(1940年)
・詩集『高原詩抄』(1942年)
・詩集『花咲ける孤独』(1955年)
・詩集『田舎(いなか)のモーツアルト』(1966年)

☆尾崎喜八関係略年表

・1892年(明治25)1月31日 東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区京橋)南小田原町で、裕福な回漕(かいそう)店を営む父・尾崎喜三郎の長男として生まれる
・1898年(明治31) 新港町の築地小学校に入学する
・1904年(明治37) 京華商業学校(現在の学校法人京華学園)へ入学する
・1909年(明治42) 京華商業学校を卒業し、中井銀行に就職する
・1911年(明治44) 「文章世界」、「スバル」などで高村光太郎を知り、銀行を退職して三省堂器械標本部に就職する
・1912年(明治45) 高村を本郷駒込のアトリエに訪問し、文学志望の気持ちをうちあける
・1913年(大正2) 三省堂を退職し、年末に高田商会へ入社する
・1914年(大正3) 武者小路実篤を識り、白樺派の理想主義の影響下に詩作を始める
・1915年(大正4) 父との仲が不和となり、尾崎家を廃嫡となり、高田商会を退社する
・1916年(大正5) ロマン・ロラン「今日の音楽家」を翻訳して雑誌「白樺」に連載、『近代音樂家評傅』として刊行する
・1920年(大正9) 朝鮮銀行に就職し京城に渡り、本店に入るが、病気を理由として辞職し、東京に戻る
・1921年(大正10) 「詩聖」、「新詩人」に詩や文章を毎号寄稿する
・1922年(大正11) 第一詩集『空と樹木』で詩壇に登場する
・1924年(大正13) 詩集『高層雲の下』を刊行する
・1927年(昭和2) 詩集『曠野の火』を刊行する
・1928年(昭和3) 家督を相続し東京都京橋区新川の実家へ転居する
・1933年(昭和8) 詩集『旅と滞在』を刊行する
・1938年(昭和13) 散文集『雲と草原』を刊行する
・1945年(昭和20) 東京の青山南町の家を空襲で焼かれる
・1946年(昭和21) 『麥刈の月』を刊行、妻子とともに長野県諏訪郡富士見町にあった渡辺千秋の別荘「分水荘」の一部を借り、移り住む
・1948年(昭和23) 詩集『残花抄 尾崎喜八集』、散文集『高原暦日』、散文集『美しき視野 自然隨筆集』を刊行する
・1951年(昭和26) 散文集『碧い遠方』を刊行する
・1952年(昭和27) 東京都世田谷区玉川上野毛の多摩川台上の新居へ転居する
・1955年(昭和30) 詩集『花咲ける孤獨』、『新譯ヘッセ詩集』を刊行する
・1958年(昭和33) 串田孫一らと「アルプ」を創刊する
・1966年(昭和41) 詩集『田舎のモーツァルト』刊行、神奈川県鎌倉市山ノ内明月谷の新居へ転居する
・1967年(昭和42) 紫綬褒章を受章する
・1969年(昭和44) 随筆集『夕べの旋律』を刊行する
・1970年(昭和45) 詩集『その空の下で』を刊行する
・1974年(昭和49)2月4日 神奈川県鎌倉市大町額田病院で、急性心不全のため82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細


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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、小磯国昭内閣で、「藷類増産対策要綱」が閣議決定された日です。
 「藷類増産対策要綱(いもるいぞうさんたいさくようこう)」は、太平洋戦争末期に戦況が悪化し、食糧不足が深刻となる中で、甘藷27億貫(101.25億kg)、馬鈴薯8億5千貫(31.875億kg)を目標とする増産を促す閣議決定でした。同年1月25日に、「決戦非常措置要綱」が同内閣で閣議決定されましたが、その第三条の七(食糧)で、1「内地ニ於ケル食糧ノ増産及管理ノ徹底的強化ヲ図ル」とされ、「(イ)米麦ノ外此ノ際補填食糧並アルコール原料トシテ藷類ノ画期的増産ヲ図ル、(ロ)麦類及藷類ノ集荷確保並処理加工ニ付特段ノ措置ヲ講ス」とされ、藷類増産が強調され、それに伴って、出された藷類増産対策の数値目標です。
 その内容は、①昭和20年度に於て、甘藷27億貫(101.25億kg)、馬鈴薯8億5千貫(31.875億kg)を生産目標とする、②作付面積に付ては既耕地に付これを優先確保すると共に未耕地と軍用地等の開墾利用によりこれを確保する、③種苗の確保又種苗の育成に付格段の措置を講ずる、④甘藷の腐敗防止ならびに処理加工の増強を図る、⑤藷類の増産ならびに処理加工等に要する資材又労力に付ては優先的確保を図る、⑥昭和20年度産藷類の価格に付適正なる改訂を加えると共に藷類の供出確保に関し買入方法等に有効適切な措置を講ずる、⑦生藷又種苗の輸送に関してはその特殊性を考えて適期優先輸送の実施を図る、⑧本計画の完遂を期するため戦時食糧増産推進中央本部に藷類緊急増産部を設置し全国的増産運動を強力に推進すると共に急速に指導組織を強化シ諸施策の末端への徹底を期すると、されました。
 しかし、戦況の悪化とともに満洲雑穀の輸入も輸送船の沈没や船舶不足によって次第に難しくなり、7月11日には、主食の配給が1割減の1日1人2合1勺(約301g)となり、遅配や欠配もあって、栄養不足が深刻となります。これは、太平洋戦争敗戦後もしばらく続き、国民の食糧不足は深刻で、餓死者も出る状況となりました。
 以下に、「藷類増産対策要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「藷類増産対策要綱」1945年(昭和20)1月30日閣議決定

一 方針

 主要食糧及液体燃料確保ニ関スル甘藷、馬鈴薯ノ緊急性ニ鑑ミ昭和二十年度ニ於テ之ガ飛躍的増産ヲ図ル為左ノ施策ヲ強力ニ推進スルモノトス

二 要領

 (一)昭和二十年度ニ於テ甘藷約二七億貫、馬鈴薯八億五、〇〇〇万貫ノ生産目標ヲ樹立シ其ノ完遂ニ邁進スルモノトス
 (二)作付面積ニ付テハ既耕地ニ付之ヲ優先確保スルト共ニ未耕地及軍用地等ノ開墾利用ニ依リ之ヲ確保スルモノトス、之ガ為要スレバ臨時農地等管理令第八条又第九条ノ規定ノ適用ヲ図ルモノトス
 (三)種苗ノ確保又種苗ノ育成ニ付格段ノ措置ヲ講ズルコトトシ甘藷特設育苗圃馬鈴薯採種保護地並ニ貯蔵設備ノ拡充ヲ図ルモノトス
 (四)甘藷ノ腐敗防止並ニ処理加工ノ増強ヲ図ル為切干機械乾繰設備等ノ拡充又燃料用摺込澱粉工場ノ増設ヲ行フト共ニ地方ノ事情ニ即シ甘藷ノ早掘又貯蔵ヲ計画的ニ実施スルモノトス
 (五)藷類ノ増産並ニ処理加工等ニ要スル資材又労力ニ付テハ優先的確保ヲ図ルモノトス
 (六)昭和二十年度産藷類ノ価格ニ付適正ナル改訂ヲ加フルト共ニ藷類ノ供出確保ニ関シ買入方法等ニ付有効適切ナル措置ヲ講ズルモノトス
 (七)生藷又種苗ノ輸送ニ関シテハ其ノ特殊性ニ鑑ミ適期優先輸送ノ実施ヲ図ルモノトス
 (八)本計画ノ完遂ヲ期スル為戦時食糧増産推進中央本部ニ藷類緊急増産部ヲ設置シ中央及地方ニ於ケル関係官庁又団体協力ノ下ニ全国的増産運動ヲ強力ニ推進スルト共ニ急速ニ指導組織ヲ強化シ諸施策ノ末端ヘノ徹底ヲ期スルモノトス

  備考

   本計画遂行ノ為資材、労力、輸送等ニツイテハ陸海軍省、軍需省、運輸省、厚生省、文部省等各省ノ協カヲ期スルモノトス

     「農林行政史 第6巻」農林大臣官房総務課編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細


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 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、週刊「平民新聞」第64号が全紙赤刷りで発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となった日です。
 「平民新聞(へいみんしんぶん)」は、明治時代後期の1903年(明治36)11月15日に幸徳秋水、堺利彦等による平民社の設立後に、創刊された週刊新聞でした。日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えます。
 しかし、1904年11月6日付の第52号(教育特集号)が、社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、 幸徳秋水が禁錮五ヶ月、西川光二郎が同七ヶ月、罰金それぞれ50円の刑に処せられた上、 印刷機械も没収されました。次いで、11月13日付の第53号(新聞創刊1周年記念号)に「共産党宣言」を訳載したところ、これも発売禁止で没収されます。
 こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重くのしかかり、財政がひっ迫して、経営が困難となり、自発的廃刊が決定され、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。そこで、マルクス・エンゲルスの『新ライン新聞』の終刊にちなんで、全紙赤刷りとし、「終刊の辞」を掲載して終止符が打たれています。
 この間、1年2ヶ月にわたり、計64号で延べ20万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割を果たしたとされてきました。その2年後、日刊の「平民新聞」が創刊されたものの、再び政府による弾圧などにより、3ヶ月で廃刊せざるを得なくなっています。
 以下に、週刊平民新聞第64号(1905年1月29日付)に掲載された「終刊の辞」を全文載せておきますので、ご参照下さい。

〇平民社とは?

 明治時代後期の日露戦争開始の危機にあたり、非戦論を核心として結成された社会主義結社でした。日露戦争を前にして日刊新聞『万朝報』は非戦論を主張していましたが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社します。
 そして、1903年(明治36)10月27日に、幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成しました。社会主義・平民主義・平和主義の三主義を標榜し、安部磯雄、片山潜らの支持を得て、社会主義、反戦運動の拠点となります。
 11月15日には週刊『平民新聞』を発刊し、日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。
 しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。尚、社会主義協会とも提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、山口孤剣著『社会主義と婦人』、木下尚江著小説『火の柱』、幸徳秋水著『ラサール』など15冊の平民文庫も出版されました。
 ところが、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため1905年(明治38)10月9日解散することになります。その後、1907年(明治40)1月15日に再興され、日刊『平民新聞』も発刊されましたが、社内不和と政府の弾圧強化により、同年4月14日に廃刊となり、平民社も解散されました。

〇週刊平民新聞第64号「終刊の辞」1905年(明治38)1月29日付

 吾人[1]は涙を揮ふて[2]、茲に[3]平民新聞の廃刊を宣言す
 夫れ平民新聞が、天下同志の公有の機関たるは、久しく既に誓盟[4]せし所也、而して其命脉[5]の幾度か絶えんとして絶へず、能く今日に至れる者、亦天下同志が一致協同の力に依れるは、吾人[1]の深く銘肝[6]する所也、而も今や突如[7]として敢て廃刊の事を言ふ、吾人[1]が天下同志に負くの罪、甚だ軽からざるを覚ゆ
 然れども吾人[1]の目的は、元より一個平民新聞てふ名に非ずして、社会主義運動てふ実に在らざる可らず、而して今の平民新聞が実際如何[8]の境遇滾転[9]し、如何[8]の運命に翻弄[10]せられつゝあるかを見たるの同志は、必ずや社会主義運動が、最早平民新聞の舞台に限局[11]す可らずして、更に別個の方面に向つて、一展開を要するに至れることを悟らん、而して今日、本紙廃刊の事を以て、甚だ吾人[1]を責めざる可きを信ず、然り、微力なる平民新聞は既に刀折れ矢尽きて其守を失へり、又天下同志が活動の堡塞[12]たること能はざる也事此に至る、瓦燃せんよりは寧ろ玉砕[13]す可のみ
 回顧すれば本紙創刊以来一年と二個月吾人[1]の性迀[14]にして計拙[15]なる、所期の万一を達する能はざりしと雖も、而も猶ほ吾人[1]は吾人[1]の言ひ得る所を言へり、吾人[1]の為し得る所を為せり、即ち全力を之が為めに注ぎて一毫[16]も自ら欺く所なく、初志を点検して甚だ疚しき[17]所なきは、吾人[1]之を公言するに躊躇[18]せず、而して此間に於て自然[19]の気運[20]、世界の大勢は急転直下して、社会主義運動は、実に偉大の発展を為し、一年の前を想ふに殆ど隔世[21]の感あるは、吾人[1]の窃かに[22]愉快とする所也、嗚呼平民新聞は如此にして生き、如此にして死す、又憾み無る可き也、否な平民新聞の名は惜しからざるに非ず、社会主義運動は更に之よりも重きを奈何[23]せん、盖し聞く蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く[24]と、今は断ずべきの秋[25]也、故に吾人[1]は涙を揮ふて[2]茲に[3]廃刊を宣言す
 但だ平民新聞の刊行は廃すと雖も、社会主義の運動は是より益々活潑[26]ならしめざる可らず、壮烈[27]ならしめざる可らず、鞏固[28]ならしめざる可らず、有力ならしめざる可らず、平民新聞は一粒の麦種となつて死す、多くの麦は青々として此より萌出でざる可らず[29]、而て之を為すこと如何、同志の団結なかる可らず、中心の機関なかる可らず、運動の資金なかる可らず
 然らば則ち平民新聞廃刊の後、同志の団結は如何[8]にして保維[30]さる可き乎、中心の機関は何れの処に現出す可き乎、運動資金は如何[8]にして得らる可き乎、吾人[1]は同志諸君と別に講究[31]する所あらん、否な是れ諸君の既に黙会[32]する所也
 嗚呼、我平民新聞、短かくして且つ多事なりし生涯よ、誰か創刊の当時に於て爾く[33]多事にして爾く[33]短き生涯なるを想はんや、独座[34]燭を剪て[35]終刊の辞を艸すれば[36]天寒く夜長くして、風気[37]蕭索[38]たり

   「週刊平民新聞」第64号より

 ※縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に変換してあります。

【注釈】

[1]吾人:ごじん=わたくし。われわれ。
[2]揮ふて:ふるって=振ってすっかり出す。
[3]茲に:ここに=このときに。この場合に。目の前に。
[4]誓盟:せいめい=誓うこと。固く約束すること。また、その約束。
[5]命脉:めいみゃく=命脈。いのち。生命。生命のつながり。
[6]銘肝:めいかん=心に刻みつけて忘れないこと。銘記。
[7]突如:とつじょ=何の前触れもなく物事が起こるさま。だしぬけであるさま。突然。
[8]如何:いかが=疑わしい。おぼつかない。不安である。どうですか。どのよう。
[9]滾転:こんてん=ころがること。また、ころがすこと。
[10]翻弄:ほんろう=思うままにもてあそぶこと。手玉にとること。
[11]限局:げんきょく=内容や意味などを狭く限ること。局限。
[12]堡塞:ほうさい=要所に設けた敵を防ぐための小城やとりで。堡塁(ほうるい)。
[13]玉砕:ぎょくさい=玉のように美しくくだけ散ること。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと。
[14]迀:だぶ=ことば、文などがまわりくどいさまである。屈折する。また、動作などがものなれない。
[15]拙:せつ=つたないこと。へたなこと。巧者でないこと。また、そのさま。
[16]一毫:いちごう=一本の細い毛筋。転じて、わずかなもの。ほんの少し。寸毛。寸毫。
[17]疚しき:やましきところ=良心に恥じる。うしろぐらい。気がとがめる。うしろめたい。
[18]躊躇:ちゅうちょ=あれこれ迷って決心できないこと。ためらうこと。
[19]自然:じねん=おのずから。ひとりでに。
[20]気運:きうん=物事がある方向に進もうとする傾向。時のなりゆき。「
[21]隔世:かくせい=時代・世代がへだたっていること。時代が違うこと。かくせ。
[22]窃かに:ひそかに=自分の心の中で、人知れず、思ったり、考えたりするさま。内々。
[23]奈何:いかが=どう。どのように。どうして。どんなに。
[24]蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く:ふくだてをさせばそうしうでをとく=(故事)ぐずぐずしていれば、生命が危ないときには、害の他に及ぶことを憂えて、勇気をもってその本を断つの意味。
[25]秋:とき=特に重要なことのある時期。
[26]活潑:かっぱつ=活発。生き生きとしているさま。勢いのよいさま。
[27]壮烈:そうれつ=意気が盛んで激しいこと。勇ましくて立派なこと。また、そのさま。
[28]鞏固:きょうこ=強固。強くしっかりして、ゆるがないさま。
[29]一粒の麦種となつて死す、多くの麦は青々として此より萌出でざる可らず=新約聖書ヨハネ伝「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」に由来し、人を幸福にするためにみずからを犠牲にする行為の意味。
[30]保維:ほい=保って維持すること。
[31]講究:こうきゅう=物事を深く調べ、その意味や本質を説き明かすこと。
[32]黙会:もっかい=暗黙のうちに会得すること。ひそかに悟ること。
[33]爾く:しかく=そのように。さように。
[34]独座:どくざ=ひとりで座っていること。孤座。
[35]燭を剪て:しょくをきりて=蠟燭(ろうそく)の芯を切って明るくすること。
[36]艸すれば:そうすれば=下書きをつくれば。原稿を書けば。
[37]風気:ふうき=空気。また、吹く風。
[38]蕭索:しょうさく=もの寂しいさま。うらぶれた感じのするさま。蕭条。

<現代語訳>

 我々は涙を振り払って、ここに平民新聞の廃刊を宣言する。
 それ平民新聞が、天下同志の公有の機関であるのは、以前から既に固く約束した所である、そうして、その命脈が幾度か絶えようとして絶へず、よく今日に至ったのは、また天下同志の一致協同の力によるというのは、我々の深く銘記する所で、しかも今や突然としてあえて廃刊の事を言うのは、我々が天下同志に負うことの罪が、はなはだ軽くないことを自覚しているものである。
 けれども我々の目的は、元より一つの平民新聞という名にあるのではなく、社会主義運動という実にしなければならないことで、それに加えて今の平民新聞が実際不安な境遇をころがり、おぼつかない運命にもてあそばれつゝあるのを見た同志は、必ずや社会主義運動が、もはや平民新聞の舞台に限定されるものではなく、さらに別個の方面に向って、一展開を要するに至っていることを悟っているであろう、そうして今日、本紙廃刊の事実をもって、特に我々を責めないことを信じる、しかり、微力なる平民新聞は既に刀折れ矢尽きてそれを守ることを出来なくしてしまった、また天下同志が活動のとりでとなっていることができない状態に至ってしまった、瓦が燃えるよりはむしろ玉砕するだけだ。
 回顧してみれば本紙創刊以来一年と二ヶ月我々の性分がものなれず、計画が稚拙であり、所期の万分の一を達成することもできないと言っても、しかもなお我々は我々の言うべき事を言い、我々の出来得る事をやり、すなわち全力をこの為めに注力して少しも自ら欺く所がなく、初志を点検して特に良心に恥じる所がないのは、我々はこれを公言するにはばからない、そうしてこの間において自ずからの事の成り行き、世界の大勢は急転直下して、社会主義運動は実に偉大の発展をとげ、一年前を考えるとほとんど隔世の感があるのは、我々の密かに愉快とする所である、ああ平民新聞は同じようにここにして生き、同じようにここにして死ぬ、また恨みを言うべきである、いや平民新聞の名は惜しむべきものではなく、社会主義運動はさらにこれよりも重きを持つようになっていくであろう、まさしく聞く「蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く」の故事のようにぐずぐずしていれば、生命が危ないときには、害の他に及ぶことを憂えて、勇気をもってその本を断つと、今は断言すべき特に重要な時期である、従って我々は涙を振り払って、ここに平民新聞の廃刊を宣言する。
 ただ平民新聞は廃刊すると言っても、社会主義の運動はこれより益々活発になっていかなければならず、意気盛んになっていかなければならず、強固になっていかなければならず、有力になっていかなければならず、平民新聞は人を幸福にするためにみずからを犠牲にするものであり、そしてこれを行うことはどうであろう、同志の団結がなくてはならない、中心の機関がなくてはならない、運動の資金がなくてはならないのである。
 それならばすなわち平民新聞廃刊の後、同志の団結はどのようにして保って維持されるべきか、中心の機関は何れのところに作られるべきか、運動資金はどのようにして得られるべきか、我々は同志諸君と別に物事を深く調べ、その真実を解き明かしていかなければならない、いやこれは諸君の既に暗黙の内に了解していることであろう。
 ああ、わが平民新聞、短かくして色々なことがあった生涯であった、誰が創刊の当時においてこのように色々なことがあり、このように短き生涯なると考えたであろうか、一人で座って蠟燭(ろうそく)の芯を切って明るくし、終刊の辞の原稿を書けば、天寒く夜長くして、吹く風もうらぶれた感じのするものである。

☆週刊平民新聞の主要記事一覧

・第1号(1903年11月15日付)
 「平民社設立宣言」 
 「発刊の序」幸徳秋水、堺利彦
・第2号(1903年11月22日付)
 「労働問題の将来」片山潜
・第3号(1903年11月29日付)
 「君主観」 木下尚江
 「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる  
・第8号(1904年1月3日付)
 「歌碑の娯楽」幸徳秋水
・第10号(1904年1月17日付)
 「吾人は飽くまで戦争を非認す」(日露戦争への反戦論) 
・第11号(1904年1月24日付)
 「戦争と道徳」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「道徳の理想」  
・第13号(1904年2月7日付)
 社説「和戦を決する者」幸徳秋水
・第14号(1904年2月14日付)
 「戦争来」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「兵士を送る」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「戦争の結果」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
・第18号(1904年3月13日付)
 社説「与露国社会党書」(手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する)幸徳秋水
・第19号(1904年3月20日付)
 「戦争と小学児童」幸徳秋水
・第20号(1904年3月24日付) 発禁処分を受ける
 「嗚呼増税!」(日露戦争に反対し、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する)幸徳秋水
・第24号(1904年4月24日付)
 「バベフ氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
 「恋愛と教育」木下尚江
・第26号(1904年5月8日付)
 「フーリエー氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第28号(1904年5月22日付)
 「プルードン氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第31号(1904年6月11日付)
 「ラサーレ氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第33号(1904年6月25日付)
 「女学生に贈る」 
・第36号(1904年7月17日付)
 「朝鮮併呑論を評す」幸徳秋水
・第40号(1904年8月7日付)
 「トルストイ翁の非戦論を評す」幸徳秋水
・第52号(1904年11月6日付)<教育特集号>発禁処分を受ける
 「小学教師に告ぐ」石川三四郎
 「戦争に対する教育者の態度」無価珍子
 「小学修身書漫評」 堺利彦
 「社会主義者の教育観」西川光次郎
・第53号(1904年11月13日付)<新聞創刊1周年記念号>
 『共産党宣言』幸徳秋水・堺利彦共訳
・第64号(1905年1月29日付) この号で廃刊のため全紙面を赤字で印刷
 「終刊の辞」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の占領下の1946年(昭和21)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「映画検閲に関する覚書」(SCAPIN-658)を出した日です。
 「映画検閲に関する覚書」(えいがけんえつにかんするおぼえがき)は、太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、GHQによって発令された、連合国最高司令官指令第658号(SCAPIN-658)のことで、英語で「Motion Picture Censorship」と言いました。日本政府に対し、映画・幻燈画(物語、教育、漫画、ニュース映画の全編)のすべての所有者および製作者に、16mmまたは35mm、サイレントまたはサウンドの区別なく、1946年2月28日までに民間検閲局(CCD)に、すべての無修正映画の完全なリストを提出するよう指示したものです。また、これらの中で民間検閲識別番号を持たないものを聴衆に対して供覧することを禁止しました。
 これによって、GHQによる二重検閲が始動、英訳した企画書や脚本をCIE映画課に事前提出する〈民間検閲〉と完成後に民間諜報局傘下の民間検閲支隊(CCD)プレス・映画・放送部門から民間検閲認証番号を得る〈軍事検閲〉が行われるようになります。それは、新作だけでなく、旧作の再上映にも認証番号制を敷くことになりました。
 さらに、同年11月16日にGHQは、「非民主主義映画除去の指令に関する覚書」(SCAPIN-287)を発令、全455作品の中から選ばれた封建主義的・国家主義的・軍国主義的な236作品(日活映画「薩摩の密使」以下48篇、松竹映画「宮本武藏」以下53篇、大映「紅顏鼓笛隊」以下62篇、東宝映画「日本劍豪傳」以下51篇、日本映画「轟沈」以下11篇、興亜映画「菊水とはに」1篇、新興映画「熱血の道」1篇、朝鮮映画「若き姿」1篇、藝術映画「鬪ふ輸送船團」1篇、朝日映画「陸鷲誕生」以下2篇)の長編劇映画、そして戦中に製作されたほとんどすべてのニュース映画や文化記録映画の上映、交換、売買を禁止し、それらを地方自治体ごとの綿密な探索により没収しています。
 その後、1948年(昭和23)に、GHQは社団法人日本映画製作者連盟(映連)に対して自主的な審査機能を設置するよう促し、翌年には、映画倫理規程管理委員(映倫)が設置されました。これで、GHQの二重検閲は、CIEの事後検閲のみとなり、1952年(昭和27)4月28日の「サンフランシスコ平和条約」の発効まで続きました。
 以下に、「映画検閲に関する覚書」((SCAPIN-658)の英語原文と筆者による日本語訳を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「Motion Picture Censorship」(映画検閲に関する覚書)1946年1月28日にGHQ指令

GENERAL HEADQUARTERS
SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS

AG 000.76 (28 Jan 46) CIS        APO 500
 (SCAPIN-658)             28 January 1946

MEMORANDUM FOR:IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
THROUGH:Central Liaison Office, Tokyo.
Subject:Motion Picture Censorship.

1. The Japanese government will direct all owners and producers of motion pictures and lantern slides (full feature length, educational, cartoon or newsreel), 16 mm or 35 mm, silent or sound, to submit to the Civil Censorship Officer, SCAP, a complete list of all uncensored film not later than 28 February 1946.

2. The Japanese government will prohibit producers, distributors and exhibitors from showing any motion picture or lantern slide (full feature length, educational, cartoon or newsreel), 16 mm or 35 mm, silent or sound, not bearing Civil Censorship identification number, in the islands of Japan for public or private audiences in places of public entertainment.

    FOR THE SUPREME COMMANDER:
                H.W.Allen
              Colonel,A.G.D.
          Asst Adjutant General

    ※「国立国会図書館デジタルコレクション」より

<日本語訳>

連合国総本部最高司令官

覚書:大日本帝国政府。
経由:東京中央連絡事務所。
件名:映画の検閲。

1.日本政府は、映画および幻燈画(物語、教育、漫画、ニュース映画の全編)のすべての所有者および製作者に、16mmまたは35mm、サイレントまたはサウンドの区別なく、1946年2月28日までに民間検閲局(CCD)に、すべての無修正映画の完全なリストを提出するよう指示しなければならない。

2.日本政府は、映画および幻燈画(物語、教育、漫画、ニュース映画の全編)について、16mmまたは35mm、サイレントまたはサウンドの区別なく、製作者、配給業者、および映画関係者が、日本諸島の公共の娯楽の場所で、公的または私的な聴衆に対して、民間検閲識別番号を持たないものを供覧することを禁止しなければならない。

     最高司令官の代り:
           H.W.アレン
          大佐、A.G.D.
            副司令官

   ※英語原文より筆者が訳しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

712年(和銅5)太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上される(新暦3月9日)詳細
1582年(天正10)天正遣欧使節がローマに向かって長崎港を出港する(新暦2月20日)詳細
1948年(昭和23)関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で触雷して沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故詳細
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 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、小説家・放送作家・エッセイスト景山民夫の亡くなった日です。
 景山民夫(かげやま たみお)は、昭和時代中期の1947年(昭和22)3月20日に、東京都千代田区神田で、警察官僚(のち全日本剣道連盟会長)の景山二郎を父として生まれました。父の転任に伴い、広島市、山梨県と転居し、東京の武蔵中学校を経て慶應義塾大学の文学部へ進みます。
 ところが、成績不振で2年後に退学となり、武蔵野美術大学短期大学部デザイン学科に移ったものの、学生運動でキャンパスがロックアウトされるや、1969年(昭和44)に渡米し、ニューヨークでコーヒーショップシンガーとして生活しました。1年半後に帰国してからは、TBS系「ヤング720」の企画・演出担当を経て、日本テレビ「シャボン玉ホリデー」の放送作家となります。
 その後も、「クイズダービー」、「11PM」、「タモリ倶楽部」、「ウソップランド」などを手がけました。若者文化に精通し、タレントとしても活躍、また、エッセイ『普通の生活』を雑誌「ブルータス」に連載しエッセイストとしても注目され、1986年(昭和61)の随筆『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』で、第2回講談社エッセイ賞を受賞します。
 小説も書き始め、1987年(昭和62)の小説『虎口からの脱出』で、第8回吉川英治文学新人賞・第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞、1988年(昭和63)の小説『遠い海から来たCOO』で第99回直木賞を受賞しました。それからは、文筆業1本に絞ろうと考え、放送作家としての仕事を断り始めます。
 一方、1989年(平成元)に第18回ベストドレッサー賞を受賞したり、1991年(平成3)には、大川隆法主宰・幸福の科学の信者として、雑誌「フライデー」による同会批判記事に対する抗議行動の先頭に立ったりもしました。しかし、1998年(平成10)1月27日に、東京都世田谷区成城の自宅において、不慮の火災のため50歳で亡くなっています。
〇景山民夫の主要な著作

・随筆『普通の生活』(1984年)
・随筆『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』(1986年)第2回講談社エッセイ賞受賞
・小説『虎口からの脱出』(1987年)第8回吉川英治文学新人賞・第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞受賞
・小説『転がる石のように』(1987年 )
・小説『遠い海から来たCOO』(1988年)第99回直木賞受賞
・小説『ガラスの遊園地』(1988年)
・短編集『休暇の土地』(1988年)

☆景山民夫関係略年表

・1947年(昭和22)3月20日  東京都千代田区神田で、警察官僚(のち全日本剣道連盟会長)の景山二郎を父として生まれる
・1968年(昭和43) 放送作家となる
・1969年(昭和44) 渡米し、ニューヨークでコーヒーショップシンガーとして生活する
・1986年(昭和61) 随筆『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』で、第2回講談社エッセイ賞を受賞する
・1987年(昭和62) 小説『虎口からの脱出』で、第8回吉川英治文学新人賞・第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞を受賞する
・1988年(昭和63) 小説『遠い海から来たCOO』で第99回直木賞を受賞する
・1989年(平成元) 第18回ベストドレッサー賞を受賞する
・1991年(平成3) 大川隆法主宰・幸福の科学の信者として、雑誌「フライデー」による同会批判記事に対する抗議行動の先頭に立つ
・1998年(平成10)1月27日 東京都世田谷区成城の自宅において、火災のため50歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1219年(建保7)鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺される(新暦2月13日)詳細
1713年(正徳3)狩野派の絵師狩野常信の命日(新暦2月21日)詳細
1885年(明治18)日本画家前田青邨の誕生日詳細


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