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 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、週刊「平民新聞」第64号が全紙赤刷りで発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となった日です。
 「平民新聞(へいみんしんぶん)」は、明治時代後期の1903年(明治36)11月15日に幸徳秋水、堺利彦等による平民社の設立後に、創刊された週刊新聞でした。日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えます。
 しかし、1904年11月6日付の第52号(教育特集号)が、社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、 幸徳秋水が禁錮五ヶ月、西川光二郎が同七ヶ月、罰金それぞれ50円の刑に処せられた上、 印刷機械も没収されました。次いで、11月13日付の第53号(新聞創刊1周年記念号)に「共産党宣言」を訳載したところ、これも発売禁止で没収されます。
 こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重くのしかかり、財政がひっ迫して、経営が困難となり、自発的廃刊が決定され、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。そこで、マルクス・エンゲルスの『新ライン新聞』の終刊にちなんで、全紙赤刷りとし、「終刊の辞」を掲載して終止符が打たれています。
 この間、1年2ヶ月にわたり、計64号で延べ20万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割を果たしたとされてきました。その2年後、日刊の「平民新聞」が創刊されたものの、再び政府による弾圧などにより、3ヶ月で廃刊せざるを得なくなっています。
 以下に、週刊平民新聞第64号(1905年1月29日付)に掲載された「終刊の辞」を全文載せておきますので、ご参照下さい。

〇平民社とは?

 明治時代後期の日露戦争開始の危機にあたり、非戦論を核心として結成された社会主義結社でした。日露戦争を前にして日刊新聞『万朝報』は非戦論を主張していましたが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社します。
 そして、1903年(明治36)10月27日に、幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成しました。社会主義・平民主義・平和主義の三主義を標榜し、安部磯雄、片山潜らの支持を得て、社会主義、反戦運動の拠点となります。
 11月15日には週刊『平民新聞』を発刊し、日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。
 しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。尚、社会主義協会とも提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、山口孤剣著『社会主義と婦人』、木下尚江著小説『火の柱』、幸徳秋水著『ラサール』など15冊の平民文庫も出版されました。
 ところが、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため1905年(明治38)10月9日解散することになります。その後、1907年(明治40)1月15日に再興され、日刊『平民新聞』も発刊されましたが、社内不和と政府の弾圧強化により、同年4月14日に廃刊となり、平民社も解散されました。

〇週刊平民新聞第64号「終刊の辞」1905年(明治38)1月29日付

 吾人[1]は涙を揮ふて[2]、茲に[3]平民新聞の廃刊を宣言す
 夫れ平民新聞が、天下同志の公有の機関たるは、久しく既に誓盟[4]せし所也、而して其命脉[5]の幾度か絶えんとして絶へず、能く今日に至れる者、亦天下同志が一致協同の力に依れるは、吾人[1]の深く銘肝[6]する所也、而も今や突如[7]として敢て廃刊の事を言ふ、吾人[1]が天下同志に負くの罪、甚だ軽からざるを覚ゆ
 然れども吾人[1]の目的は、元より一個平民新聞てふ名に非ずして、社会主義運動てふ実に在らざる可らず、而して今の平民新聞が実際如何[8]の境遇滾転[9]し、如何[8]の運命に翻弄[10]せられつゝあるかを見たるの同志は、必ずや社会主義運動が、最早平民新聞の舞台に限局[11]す可らずして、更に別個の方面に向つて、一展開を要するに至れることを悟らん、而して今日、本紙廃刊の事を以て、甚だ吾人[1]を責めざる可きを信ず、然り、微力なる平民新聞は既に刀折れ矢尽きて其守を失へり、又天下同志が活動の堡塞[12]たること能はざる也事此に至る、瓦燃せんよりは寧ろ玉砕[13]す可のみ
 回顧すれば本紙創刊以来一年と二個月吾人[1]の性迀[14]にして計拙[15]なる、所期の万一を達する能はざりしと雖も、而も猶ほ吾人[1]は吾人[1]の言ひ得る所を言へり、吾人[1]の為し得る所を為せり、即ち全力を之が為めに注ぎて一毫[16]も自ら欺く所なく、初志を点検して甚だ疚しき[17]所なきは、吾人[1]之を公言するに躊躇[18]せず、而して此間に於て自然[19]の気運[20]、世界の大勢は急転直下して、社会主義運動は、実に偉大の発展を為し、一年の前を想ふに殆ど隔世[21]の感あるは、吾人[1]の窃かに[22]愉快とする所也、嗚呼平民新聞は如此にして生き、如此にして死す、又憾み無る可き也、否な平民新聞の名は惜しからざるに非ず、社会主義運動は更に之よりも重きを奈何[23]せん、盖し聞く蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く[24]と、今は断ずべきの秋[25]也、故に吾人[1]は涙を揮ふて[2]茲に[3]廃刊を宣言す
 但だ平民新聞の刊行は廃すと雖も、社会主義の運動は是より益々活潑[26]ならしめざる可らず、壮烈[27]ならしめざる可らず、鞏固[28]ならしめざる可らず、有力ならしめざる可らず、平民新聞は一粒の麦種となつて死す、多くの麦は青々として此より萌出でざる可らず[29]、而て之を為すこと如何、同志の団結なかる可らず、中心の機関なかる可らず、運動の資金なかる可らず
 然らば則ち平民新聞廃刊の後、同志の団結は如何[8]にして保維[30]さる可き乎、中心の機関は何れの処に現出す可き乎、運動資金は如何[8]にして得らる可き乎、吾人[1]は同志諸君と別に講究[31]する所あらん、否な是れ諸君の既に黙会[32]する所也
 嗚呼、我平民新聞、短かくして且つ多事なりし生涯よ、誰か創刊の当時に於て爾く[33]多事にして爾く[33]短き生涯なるを想はんや、独座[34]燭を剪て[35]終刊の辞を艸すれば[36]天寒く夜長くして、風気[37]蕭索[38]たり

   「週刊平民新聞」第64号より

 ※縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に変換してあります。

【注釈】

[1]吾人:ごじん=わたくし。われわれ。
[2]揮ふて:ふるって=振ってすっかり出す。
[3]茲に:ここに=このときに。この場合に。目の前に。
[4]誓盟:せいめい=誓うこと。固く約束すること。また、その約束。
[5]命脉:めいみゃく=命脈。いのち。生命。生命のつながり。
[6]銘肝:めいかん=心に刻みつけて忘れないこと。銘記。
[7]突如:とつじょ=何の前触れもなく物事が起こるさま。だしぬけであるさま。突然。
[8]如何:いかが=疑わしい。おぼつかない。不安である。どうですか。どのよう。
[9]滾転:こんてん=ころがること。また、ころがすこと。
[10]翻弄:ほんろう=思うままにもてあそぶこと。手玉にとること。
[11]限局:げんきょく=内容や意味などを狭く限ること。局限。
[12]堡塞:ほうさい=要所に設けた敵を防ぐための小城やとりで。堡塁(ほうるい)。
[13]玉砕:ぎょくさい=玉のように美しくくだけ散ること。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと。
[14]迀:だぶ=ことば、文などがまわりくどいさまである。屈折する。また、動作などがものなれない。
[15]拙:せつ=つたないこと。へたなこと。巧者でないこと。また、そのさま。
[16]一毫:いちごう=一本の細い毛筋。転じて、わずかなもの。ほんの少し。寸毛。寸毫。
[17]疚しき:やましきところ=良心に恥じる。うしろぐらい。気がとがめる。うしろめたい。
[18]躊躇:ちゅうちょ=あれこれ迷って決心できないこと。ためらうこと。
[19]自然:じねん=おのずから。ひとりでに。
[20]気運:きうん=物事がある方向に進もうとする傾向。時のなりゆき。「
[21]隔世:かくせい=時代・世代がへだたっていること。時代が違うこと。かくせ。
[22]窃かに:ひそかに=自分の心の中で、人知れず、思ったり、考えたりするさま。内々。
[23]奈何:いかが=どう。どのように。どうして。どんなに。
[24]蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く:ふくだてをさせばそうしうでをとく=(故事)ぐずぐずしていれば、生命が危ないときには、害の他に及ぶことを憂えて、勇気をもってその本を断つの意味。
[25]秋:とき=特に重要なことのある時期。
[26]活潑:かっぱつ=活発。生き生きとしているさま。勢いのよいさま。
[27]壮烈:そうれつ=意気が盛んで激しいこと。勇ましくて立派なこと。また、そのさま。
[28]鞏固:きょうこ=強固。強くしっかりして、ゆるがないさま。
[29]一粒の麦種となつて死す、多くの麦は青々として此より萌出でざる可らず=新約聖書ヨハネ伝「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」に由来し、人を幸福にするためにみずからを犠牲にする行為の意味。
[30]保維:ほい=保って維持すること。
[31]講究:こうきゅう=物事を深く調べ、その意味や本質を説き明かすこと。
[32]黙会:もっかい=暗黙のうちに会得すること。ひそかに悟ること。
[33]爾く:しかく=そのように。さように。
[34]独座:どくざ=ひとりで座っていること。孤座。
[35]燭を剪て:しょくをきりて=蠟燭(ろうそく)の芯を切って明るくすること。
[36]艸すれば:そうすれば=下書きをつくれば。原稿を書けば。
[37]風気:ふうき=空気。また、吹く風。
[38]蕭索:しょうさく=もの寂しいさま。うらぶれた感じのするさま。蕭条。

<現代語訳>

 我々は涙を振り払って、ここに平民新聞の廃刊を宣言する。
 それ平民新聞が、天下同志の公有の機関であるのは、以前から既に固く約束した所である、そうして、その命脈が幾度か絶えようとして絶へず、よく今日に至ったのは、また天下同志の一致協同の力によるというのは、我々の深く銘記する所で、しかも今や突然としてあえて廃刊の事を言うのは、我々が天下同志に負うことの罪が、はなはだ軽くないことを自覚しているものである。
 けれども我々の目的は、元より一つの平民新聞という名にあるのではなく、社会主義運動という実にしなければならないことで、それに加えて今の平民新聞が実際不安な境遇をころがり、おぼつかない運命にもてあそばれつゝあるのを見た同志は、必ずや社会主義運動が、もはや平民新聞の舞台に限定されるものではなく、さらに別個の方面に向って、一展開を要するに至っていることを悟っているであろう、そうして今日、本紙廃刊の事実をもって、特に我々を責めないことを信じる、しかり、微力なる平民新聞は既に刀折れ矢尽きてそれを守ることを出来なくしてしまった、また天下同志が活動のとりでとなっていることができない状態に至ってしまった、瓦が燃えるよりはむしろ玉砕するだけだ。
 回顧してみれば本紙創刊以来一年と二ヶ月我々の性分がものなれず、計画が稚拙であり、所期の万分の一を達成することもできないと言っても、しかもなお我々は我々の言うべき事を言い、我々の出来得る事をやり、すなわち全力をこの為めに注力して少しも自ら欺く所がなく、初志を点検して特に良心に恥じる所がないのは、我々はこれを公言するにはばからない、そうしてこの間において自ずからの事の成り行き、世界の大勢は急転直下して、社会主義運動は実に偉大の発展をとげ、一年前を考えるとほとんど隔世の感があるのは、我々の密かに愉快とする所である、ああ平民新聞は同じようにここにして生き、同じようにここにして死ぬ、また恨みを言うべきである、いや平民新聞の名は惜しむべきものではなく、社会主義運動はさらにこれよりも重きを持つようになっていくであろう、まさしく聞く「蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く」の故事のようにぐずぐずしていれば、生命が危ないときには、害の他に及ぶことを憂えて、勇気をもってその本を断つと、今は断言すべき特に重要な時期である、従って我々は涙を振り払って、ここに平民新聞の廃刊を宣言する。
 ただ平民新聞は廃刊すると言っても、社会主義の運動はこれより益々活発になっていかなければならず、意気盛んになっていかなければならず、強固になっていかなければならず、有力になっていかなければならず、平民新聞は人を幸福にするためにみずからを犠牲にするものであり、そしてこれを行うことはどうであろう、同志の団結がなくてはならない、中心の機関がなくてはならない、運動の資金がなくてはならないのである。
 それならばすなわち平民新聞廃刊の後、同志の団結はどのようにして保って維持されるべきか、中心の機関は何れのところに作られるべきか、運動資金はどのようにして得られるべきか、我々は同志諸君と別に物事を深く調べ、その真実を解き明かしていかなければならない、いやこれは諸君の既に暗黙の内に了解していることであろう。
 ああ、わが平民新聞、短かくして色々なことがあった生涯であった、誰が創刊の当時においてこのように色々なことがあり、このように短き生涯なると考えたであろうか、一人で座って蠟燭(ろうそく)の芯を切って明るくし、終刊の辞の原稿を書けば、天寒く夜長くして、吹く風もうらぶれた感じのするものである。

☆週刊平民新聞の主要記事一覧

・第1号(1903年11月15日付)
 「平民社設立宣言」 
 「発刊の序」幸徳秋水、堺利彦
・第2号(1903年11月22日付)
 「労働問題の将来」片山潜
・第3号(1903年11月29日付)
 「君主観」 木下尚江
 「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる  
・第8号(1904年1月3日付)
 「歌碑の娯楽」幸徳秋水
・第10号(1904年1月17日付)
 「吾人は飽くまで戦争を非認す」(日露戦争への反戦論) 
・第11号(1904年1月24日付)
 「戦争と道徳」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「道徳の理想」  
・第13号(1904年2月7日付)
 社説「和戦を決する者」幸徳秋水
・第14号(1904年2月14日付)
 「戦争来」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「兵士を送る」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「戦争の結果」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
・第18号(1904年3月13日付)
 社説「与露国社会党書」(手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する)幸徳秋水
・第19号(1904年3月20日付)
 「戦争と小学児童」幸徳秋水
・第20号(1904年3月24日付) 発禁処分を受ける
 「嗚呼増税!」(日露戦争に反対し、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する)幸徳秋水
・第24号(1904年4月24日付)
 「バベフ氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
 「恋愛と教育」木下尚江
・第26号(1904年5月8日付)
 「フーリエー氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第28号(1904年5月22日付)
 「プルードン氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第31号(1904年6月11日付)
 「ラサーレ氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第33号(1904年6月25日付)
 「女学生に贈る」 
・第36号(1904年7月17日付)
 「朝鮮併呑論を評す」幸徳秋水
・第40号(1904年8月7日付)
 「トルストイ翁の非戦論を評す」幸徳秋水
・第52号(1904年11月6日付)<教育特集号>発禁処分を受ける
 「小学教師に告ぐ」石川三四郎
 「戦争に対する教育者の態度」無価珍子
 「小学修身書漫評」 堺利彦
 「社会主義者の教育観」西川光次郎
・第53号(1904年11月13日付)<新聞創刊1周年記念号>
 『共産党宣言』幸徳秋水・堺利彦共訳
・第64号(1905年1月29日付) この号で廃刊のため全紙面を赤字で印刷
 「終刊の辞」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細