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 今日は、幕末・明治維新期の1869年(明治2)に、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が版籍奉還を上奏した日ですが、新暦では3月2日となります。
 版籍奉還(はんせきほうかん)は、各藩主が土地 (版) と人民 (籍) に対する支配権を朝廷に返還する中央集権化の政治改革で、まず、長州・薩摩・土佐・肥前の4藩主が、天皇に対して「長薩土肥四藩上表」を行ったのが先駆けとなりました。
 先行して、同年1月14日に、京都円山端寮において、薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助がで、薩摩藩の吉井友実が集まり、友実が持参した草稿を元に版籍奉還についての相談します。それに、肥前藩を加えた薩長土肥4藩の藩主、島津忠義(薩摩藩)、毛利敬親(長州藩)、山内豊範(土佐藩)、鍋島直大(肥前藩)の連名で朝廷に対して、同月20日に「版籍奉還の上表」を提出しました。
 その後、それにならって、諸藩主も続々と建白を朝廷に提出、5月3日までにその数は、わずかの藩を除く262藩主となります。明治新政府は5月21日、旧江戸城大広間に五等官以上の官員や親王、公卿などを集め、上局会議を開催、皇道興隆、蝦夷地開拓とともに、知藩事被任の件が諮詢され、版籍奉還の意見交換が行われました。
 その結果、同年6月17日には主要大藩を含む諸藩の奉還聴許に決すると共に、旧藩主をそのまま政府の任命する知藩事とし、同月25日までに262藩の奉還が聴許されます。また、6月17日には、太政官達「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」を公布して、公卿や諸藩主を華族としました。
 当初は藩主の封建的諸特権はほぼ従来どおりとされ、形式的な面もありましたが、6月25日には藩知事に「諸務変革のための十一ヶ条」を命令、これにより諸藩は、石高・物産・税高・人口・戸数などの統計を取り報告し、知藩事の家禄を藩歳入の1割とする義務を負う禄制改革を実施されます。さらに、1871年(明治4年2月2日)には、薩摩・長州・土佐の3藩から藩兵を献上させ、御親兵を設けることを決定、7月14日の廃藩置県へと至りました。
 以下に、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主の「版籍奉還の上表」を全文、現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「版籍奉還の上表」 (全文) 1869年(明治2年1月20日)

長薩土肥四藩上表  

臣某等頓首再拝[1]謹テ案スルニ、朝廷一日モ失フ可ラサルモノハ大体ナリ。一日モ仮ス可ラサル者ハ大権ナリ。天祖肇テ国を開キ基ヲ建玉ヒシヨリ、皇統一系、万世無窮[2]、普天率土[3]、其ノ有ニ非サルハナク、其臣ニ非サルハナシ。是レ大体トス。且ツ与ヘ且ツ奪ヒ、爵禄[4]以テ下ヲ維持シ、尺土[5]モ私ニ有スルコト能はす、一民モ私ニ攘ムコト能ハス。是大権トス。在昔朝廷海内[6]ヲ統馭[7]スル一ニコレニヨリ、聖躬[8]之ヲ親ラス[9]。故ニ名実並ヒ立チテ、天下無事ナリ。中葉以降、綱維[10]一タヒ弛ヒ、権ヲ弄シ、柄ヲ争フ者、踵[11]ヲ朝廷ニ接シ、ソノ民ヲ私シ、ソノ土ヲ攘ムモノ、天下ニ半シ、遂ニ搏噬[12]攘奪ノ勢成リ、朝廷守ル所ノ体ナク、トル所ノ権ナクシテ、是レヲ制馭[13]スルコト能ハス。姦雄[14]タカヒニ乗シ、弱ノ肉ハ強ノ食トナリ、ソノ大ナル者ハ十数州ヲ併セ、ソノ小ナル者ハ猶士ヲ養フ数千。所謂幕府ナル者ノ如キハ、土地人民擅ニソノ私スル所ニ分チ、以テソノ勢権ヲ扶植[15]ス。是ニオイテカ、朝廷徒ニ虚器[16]ヲ擁シ、ソノ視息ヲ窺ヒテ、喜戚[17]ヲナスニ至ル。横流[18]ノ極ミ、滔天[19]回ラサルモノ、茲ニ六百有余年。然レトモソノ間往々天子ノ名爵ヲ假リテ、ソノ土地人民ヲ私スルノ跡ヲ蔽フ。是固ヨリ君臣ノ大義上下ノ名分、万古不抜[20]ノモノ有ニ由ナリ。方今[21]大政新ニ復し、万機之ヲ親ラス[9]、実ニ千歳ノ一機、其名アツテ其実ナカル可ラス。其実ヲ挙ルハ大義ヲ明ニシ名分ヲ正スヨリ先ナルハナシ。嚮ニ徳川氏ニ起コル、古家旧族天下ニ半ス、依テ家ヲ興スモノ亦多シ、而シテ其土地人民、之ヲ朝廷ニ受ルト否トヲ問ハス、因襲ノ久シキ以テ今日ニ至ル。世或ハ謂ラク、是祖先鋒鏑[22]ノ経始[23]スル所ト、吁何ソ兵を擁シテ官庫ニ入リ、其貨ヲ奪ヒ、是死ヲ犯シテ獲所ノモノ云ニ異ナランヤ、庫ニ入ルモノハ人其賊タルヲ知ル、土地人民ヲ攘医奪スルニ至ツテハ、天下コレヲ怪シマス甚哉名義ノ紊攘[24]スル事。今也丕新[25]ノ治ヲ求ム、宜シク大体ノ在ル所、大権ノ繋ル所、毫モ仮スヘカラス。抑臣等居ル所ハ、即チ天子ノ土、臣等牧スル[26]所ハ、即チ天子ノ民ナリ。安ンソ私有スヘケンヤ。今謹ミテ其版籍[27]ヲ収メテ之ヲ上ル。願クハ朝廷其宜ニ処シ、其与フ可キハ之ヲ与ヘ、其奪フ可キハ之ヲ奪ヒ、凡列藩ノ封土[28]更ニ宜シク詔命ヲ下シ、コレヲ改メ定ムヘシ。而シテ制度、典型[29]、軍旅[30]ノ政ヨリ戎腹[31]、器機[32]ノ制ニ至ルマテ、悉ク朝廷ヨリ出テ、天下ノ事大小トナク皆一ニ帰セシムヘシ。然后ニ名実相得、始テ海外各国ト並立へし。故ニ臣某等不肖謭劣[33]ヲ顧ミス、敢テ鄙衷[34]ヲ献ス。天日ノ明、幸ニ照臨[35]ヲ賜へ。臣某等誠恐誠惶、頓首再拝[1]、以表。

毛利宰相中将
島津少将  
鍋島少将  
山内少将  

      「公文録・明治二年・第五十六巻・己巳・版籍奉還(一)」より
【注釈】

[1]頓首再拝:とんしゅさいはい=手紙文などに書き、相手に対して敬意を表す語。
[2]万世無窮:ばんせいむきゅう=いつまでも永遠に続くこと。
[3]普天率土:ふてんそっと=天のおおうかぎり、地のつづくかぎり。
[4]爵禄:しゃくろく= 爵位と俸禄。
[5]尺土:せきど=わずかの土地。寸土。
[6]海内:かいだい=国内、天下。
[7]統馭:とうぎょ=全体をまとめて支配すること。思い通りに扱うこと。
[8]聖躬:せいきゅう=天子の御身、玉体。
[9]親ラス:みずからす=天皇親政。
[10]綱維:こうい=国家の法律。
[11]踵:きびす=足の裏の後ろの部分。かかと。
[12]搏噬:はくぜい=つかみ捕らえて食らうこと。
[13]制馭:せいぎょ=おさえつけて自分の意のままにすること。
[14]姦雄:かんゆう=悪知恵にたけた英雄。
[15]扶植:ふしょく=勢力などを、植えつけ拡大すること。
[16]虚器:きょき=名ばかりの地位。
[17]喜戚:きせき=喜びと心配。
[18]横流:おうりゅう=勝手な方向に流れ出ること。
[19]滔天:とうてん=天をしのぐこと。勢いの激しいこと。
[20]万古不抜:ばんこふばつ=いつまでも変わることのないもの。
[21]方今:ほうこん=ただ今。
[22]鋒鏑:ほうてき=ほこ先とやじり、武器。
[23]経始:けいし=物事をし始めること。
[24]紊壊:びんかい=もつれこわす。
[25]丕新:ひしん=大きく新しい。
[26]牧する:ぼくする=治める。
[27]版籍:はんせき=版土(領土)と戸籍(人民)。
[28]封土:ほうど=大名の領地。
[29]典型:てんけい=法律。おきて。
[30]軍旅:ぐんりょ=軍隊に関する政務。軍政。
[31]戎服:じゅうふく=軍服。
[32]器機:きき=道具、武器。
[33]謭劣:せんれつ=才能が浅くて劣っていること。
[34]鄙衷:ひちゅう=鄙は謙遜語、衷は真心。
[35]照臨:しょうりん=君主が国土、人民を統治すること。 

<現代語訳>  

長薩土肥四藩上表

臣某等、頓首再拝
かしこんで心配するのは、朝廷が一日も失ってはならないもの、天皇国家としての体制である。一日も仮借することができないのは、天皇の統治権である。天がはじめて国を開き、基礎を築かれてから、皇室の系統はいつまでも永遠に続き、天が覆い、地の続く限り、その所有でないものはなく、その臣下でないものはいない、これが天皇国家としての体制である。一方では与え、一方では奪い、爵位と俸禄によって臣下を維持し、わずかの土地も私有することはできないし、一人の民も私有することはできない、これが天皇の統治権である。
昔は朝廷が天下を統一支配することにより、天子の御身によって親政を行ってきた。だから、名も実もならび立って、天下は何事もなかった。中葉以降、国家の法が一たびゆるみ、権力をもてあそび、柄を争ふ者が次々と続いて朝廷に起こる。その民を私し、その土地をぬすむもの、天下の半分くらいになり、ついにつかみ捕らえて食らい力づくで奪う勢力がまさり、朝廷は守る所の体制もなく、とる所の権力もなくして、これをおさえつけて自分に従わせることができなくなった。
悪知恵にたけたものが互いに勢いに乗り、弱肉強食となり、その大きな者は十数州を併せ持ち、その小なる者でもなお士を養うこと数千にもなった。いわゆる幕府というような者は、土地人民をほしいままにその私する所に分ち、もってその勢力や権威を拡大した。これにおいて、朝廷はいたづらに名ばかりの地位を持たされ、幕府の顔色をうかがって、杞憂をなすに至ってしまった。誤まった流れは極まって、天をしのいではならないものが、ここに六百有余年も続いている。とはいうものの、その間たびたび天皇の権威を借りて、その土地人民を私するの跡を覆い隠していた。これはもとより君臣の大義上下の名分といった、変えることができない理由によるものである。
今や政治は新しく天皇の元に戻って、すべての政治が天皇の親政となった。じつに千載一遇の好機なので、改革は名目のみではなく、実質のあるものでなければならない。その実をあげるには、大義名分をはっきりさせることが先決である。
先に徳川氏が起り、古家や旧族は天下の半分くらいになった。それに依拠して家を興したものもまた多い。そのようにしてその土地人民これを朝廷に授与されたか否かを問はないで、古くからの風習が長く続いて今日に至っている。世間でまた考えるには、これ祖先の武力によるものだと。ああどうして兵を従えて官有の庫に入り、その財物を略奪し、これ人を殺して、奪った人のものと言うのと異なるだろうか、いや異ならない。倉庫に侵入するものは、人は盗賊であることを知っている。しかし、土地人民を略奪するに至っては、天下はこれを怪しいとは思わず、はなはだししいときは、名分も損壊することとなる。今や偉大で新しい政治が求められている。よろしく天皇国家としての体制の在る所、天皇の統治権の及ぶ所、少しでも仮にしてはいけない。
そもそも私たちがいる所は、端的には天皇の土地、治めているのは天皇の臣民である。どうして私有することができようか。今つつしんで私たちの土地・人民を奉還する。どうか朝廷のよろしいように措置されて、与えるべきものには与え、奪うべきものは奪い、諸藩の領地については天皇の命令によって改めて決定すべきである。そして制度・法律・軍制から軍服・兵器の制度に至るまで、すべて朝廷で定めて天下の政治は大小となく朝廷に一元化すべきである。そうすれば、名実ともに備わり、海外の列強と並び立つことができよう。これこそ朝廷の急務であり、私たち臣下の責務である。だから臣下の者等、未熟で才能が浅くて劣っていることを顧みず、あえて真心を以て上表する。天日の明、幸にも君主の国土、人民の統治について下賜いただきたい。
臣某等 誠恐誠惶 頓首再拝以表。

毛利宰相中将
島津少将  
鍋島少将  
山内少将

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