今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、近衛文麿首相が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を発表した日です。
「第一次近衛声明(だいいちじこのえせいめい)」は、1938年(昭和13)1月11日の御前会議決定「支那事変処理根本方針」を受けて、同月15日に発表された政府声明でした。「支那事変処理根本方針」では、中国の現在の中央政府(国民政府)の対応如何によっては、支那事変(日中戦争)解決を同政府に期待せず、新興支那政権の成立を助長するとしたものです。
その講和条件は、①満州国の正式承認、②排日・反満政策の放棄、③華北地方、内モンゴル地方への非武装地帯の設定、④華北地方に共存共栄を実現する機構の設立、⑤内モンゴル地方への防共自治政府の設立、⑥中国は防共政策を確立し日本・満州両国の同政策遂行に協力、⑦華中地方の占領地域に非武裝地帶の設定等、⑧日本・満州・中国の三国は資源の開発、関税、交易、航空、交通、通信等に関する所要の協定の締結、⑨中国による所要の賠償、としていましたが、これに対する国民政府の回答は、1月14日にドイツを通じて日本へ伝えられたものの、講和条件の詳細な内容を照会しただけに留まりました。そこで、日本政府は、これを遷延策と判断し、交渉の打ち切りを決定、1月16日にドイツ大使を通じて和平交渉の打ち切りを通告、それと共に発表されたのが、この「第一次近衛声明」です。
それによって、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」とし、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発し、これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定しました。その後、10月21日に中国南部では広東が陥落し、10月26日には、中国中部では武漢三鎮が陥落したものの、支那事変解決の目途は立たず、日中戦争が長期化していきました。その中で、英米との対立が激化し、欧米帝国主義および共産主義排撃を口実として、抗戦を続ける中国の切り崩しと日本・満州・支那の3国を通じる戦時経済統制の強化を目指し、11月3日には、「東亜新秩序建設」の声明(第二次近衛声明)を発表します。
さらに、11月30日の昭和天皇臨席の御前会議の「日支新関係調整方針」決定を受け、その三原則(善隣友好・日中防共協定締結・経済提携)に基づいて、日本陸軍の支援で、重慶の国民政府から離脱した汪兆銘(おうちょうめい)による傀儡政権を樹立させ、これを交渉相手にしていこうとし、12月22日に「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を発表しました。これに呼応して、1週間後の12月29日に汪兆銘は脱出先のハノイで、国民党へ対日和平の決断を促す通電を公表したものの、国民政府内で汪に呼応するものは少数で、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪、国民政府の分裂、屈服を期待した汪兆銘工作は失敗します。
この結果、第三次声明発表2週間後の翌年1月5日に、近衛内閣は総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれることになりました。
以下に、第一次から第三次の近衛声明と「支那事変処理根本方針」(1月11日御前会議決定)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇第一次近衛声明 1938年(昭和13)1月16日
昭和十三年一月十六日帝国政府声明
帝国政府は南京攻略後尚ほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふるため今日に及べり。然るに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し、内民人塗炭の苦みを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。仍て帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政權の成立発展を期待し、是と兩国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。元より帝国が支那の領土及主權並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫もかはる所なし。今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し。政府は国民が此の重大なる任務遂行のため一層の発奮を冀望して止まず。
『日本外交年表並主要文書』より
〇近衛文麿首相の「東亜新秩序建設」声明(第二次近衛声明) 1938年(昭和13)11月3日
東亜新秩序建設の声明
昭和十三年十一月三日付
今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。
帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。
この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。
帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。
帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑はず。就中、盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。
惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。
茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す。
『日本外交年表竝主要文書』より
〇「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明) 1938年(昭和13)12月22日
日支国交調整方針に関する声明
(昭和十三年十二月二十二日内閣総理大臣談)
政府は本年再度の声明に於て明かにしたる如く、終始一貫、抗日国民政府の徹底的武力掃蕩を期すると共に、支那に於ける同憂具眼の士と相携へて東亜新秩序の建設に向つて邁進せんとするものである。今や支那各地に於ては更生の勢澎湃として起り、建設の気運愈々高まれるを感得せしむるものがある。是に於て政府は、更生新支那との関係を調整すべき根本方針を中外に闡明し、以て帝国の真意徹底を期するものである。
日満支三国は東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである。之が為には支那は先づ何よりも旧来の偏狭なる観念を清算して抗日の愚と満洲国に対する拘泥の情とを一擲することが必要である。即ち日本は支那が進んで満洲国と完全なる国交を修めんことを率直に要望するものである。
次に東亜の天地にはコミンテルン勢力の存在を許すべからざるが故に、日本は日独伊防共協定の精神に則り、日支防共協定の締結を以て日支国交調整上喫緊の要件とするものである。而して支那に現存する実情に鑑み、この防共の目的に対する十分なる保障を挙ぐる為には、同協定継続期間中、特定地点に日本軍の防共駐屯を認むること及び内蒙地方を特殊防共地域とすべきことを要求するものである。
日支経済関係に就いては、日本は何等支那に於て経済的独占を行はんとするものに非ず、又新しき東亜を理解しこれに即応して行動せんとする善意の第三国の利益を制限するが如きことを支那に求むるものにも非ず、唯飽く迄日支の提携と合作とをして実効あらしめんことを期するものである。即ち日支平等の原則に立つて、支那は帝国臣民に支那内地に於ける居住営業の自由を容認して日支両国民の経済的利益を促進し、且つ日支間の歴史的経済的関係に鑑み、特に北支及内蒙地域に於てはその資源の開発利用上、日本に対し積極的に便宜を与ふることを要求するものである。
日本の支那に求むるものが区々たる領土に非ず、又戦費の賠償に非ざることは自ら明かである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保障を要求せんとするものである。日本は支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払ふに吝ならざるものである。
『外務大臣(其ノ他)ノ演説及声明集 第三巻』より
〇(参考)「支那事変処理根本方針」 1938年(昭和13)1月11日御前会議決定
帝國不動ノ國是ハ滿洲國及ヒ支那ト提携シテ東洋平和ノ樞軸ヲ形成シ、之ヲ核心トシテ世界ノ平和ニ貢献スルニアリ、右ノ國是ニ基キ今次ノ支那事變處理ニ關シテハ、日支兩國間過去一切ノ相剋ヲ一掃シ、兩國國交ヲ大乘的基礎ノ上ニ再建シ、互ニ主權及ヒ領土ヲ尊重シツツ、渾然融和ノ實ヲ擧クルヲ以テ窮極ノ目途トシ、先ツ事變ノ再起防遏ニ必要ナル保障ヲ確立スルト共ニ左記諸項ヲ兩國間ニ確約ス
(一)日滿支三國ハ相互ノ好誼ヲ破壞スルカ如キ政策、敎育、交易其他凡ユル手段ヲ全廢スルト共ニ右種ノ惡果ヲ招來スル虞アル行動ヲ禁絶スルコト
(二)日滿支三國ハ互ニ相共同シテ文化ノ提携防共政策ノ實現ヲ期スルコト
(三)日滿支三國ハ産業經濟等ニ關シ長短相補有無相通ノ趣旨ニ基キ共同互惠ヲ約定スルコト
右ノ方針ニ基キ帝國ハ特ニ政戰兩略ノ緊密ナル運用ニ依リ左記各項ノ適切ナル實行ヲ期ス
(一)支那現中央政府ニシテ此際反省飜意シ、誠意ヲ以テ和ヲ求ムルニ於テハ、別紙(甲)日支媾和交渉條件ニ準據シテ交渉ス。
帝國ハ將來支那側ノ媾和條項實行ヲ確認スルニ至ラハ、右條件中ノ保障條項別紙(乙)ヲ解除スルノミナラス、更ニ進ンテ支那ノ復興發展ニ衷心協力スルモノトス
(二)支那現中央政府カ和ヲ求メ來ラサル場合ニ於テハ、帝國ハ爾後之ヲ相手トスル事變解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政權ノ成立ヲ助長シ、コレト兩國國交ノ調整ヲ協定シ、更生新支那ノ建設ニ協力ス、支那現中央政府ニ對シテハ、帝國ハ之カ潰滅ヲ圖リ、又ハ新興中央政權ノ傘下ニ收容セラルル如ク施策ス
(三)本事變ニ對處シ、國際情勢ノ變轉ニ備ヘ、前記方針ノ貫徹ヲ期スル爲、國家總力就中國防力ノ急速ナル培養整備ヲ促進シ、第三國トノ友好關係ノ保持改善ヲ計ルモノトス
(四)第三國ノ權益ハ之ヲ尊重シ專ラ自由競爭ニヨリ對支經濟發展ニ優位ヲ獲得スルコトヲ期ス
(五)國民ノ間ニ事變處理根本方針ノ趣旨ヲ徹底セシムル樣國論ヲ指導ス
對外啓發ニツキテモ亦同シ
別紙 甲
日支媾和交渉條件細目
一、支那ハ滿洲國ヲ正式承認スルコト
二、支那ハ排日及反滿政策ヲ放棄スルコト
三、北支及内蒙ニ非武裝地帶ヲ設定スルコト
四、北支ハ支那主權ノ下ニ於テ日滿支三國ノ共存共榮ヲ實現スルニ適當ナル機構ヲ設定シ之ニ廣汎ナル權限ヲ賦與シ、特ニ日滿支經濟合作ノ實ヲ擧クルコト
五、内蒙古ニハ防共自治政府ヲ設立スルコト、其ノ國際的地位ハ現在ノ外蒙ニ同シ
六、支那ハ防共政策ヲ確立シ日滿兩國ノ同政策遂行ニ協力スルコト
七、中支占據地域ニ非武裝地帶ヲ設定シ、又大上海市區域ニ就テハ日支協力シテ之カ治安ノ維持及經濟發展ニ當ルコト
八、日滿支三國ハ資源ノ開發、關税、交易、航空、交通、通信等ニ關シ所要ノ協定ヲ締結スルコト
九、支那ハ帝國ニ對シ所要ノ賠償ヲナスコト
附記
(一)北支内蒙及中支ノ一定地域ニ保障ノ目的ヲ以テ必要ナル期間日本軍ノ駐屯ヲナスコト
(二)前諸項ニ關スル日支間ノ協定成立後休戰協定ヲ開始ス
支那政府カ前記各項ノ約定ヲ誠意ヲ以テ實行シ、日支兩國提携共助ノ我方理想ニ眞ニ協力シ來ルニ於テハ、帝國ハ單ニ右約定中ノ保障的條項ヲ解消スルノミナラス、進ンテ支那ノ復興及其ノ國家的發展、國民的要望ニ衷心協力スルノ用意アリ
別紙 乙
(一)別紙(甲)中保障條項タルモノ左ノ如シ
一、第三項ノ非武裝地帶
二、第四項ノ折衝ニ當リ保障ノ目的ヲ以テ設定セラルヘキ特殊權益及之カ爲存置ヲ必要トスル機關
三、第七項ノ非武裝地帶
四、附記(一)及之ニ伴フ軍事施設、主要交通ノ管理擴充ニ關スル權益
(二)媾和ニ關連シテ廢棄スヘキ約定
一、梅津何應欽協定、塘沽停戰協定、土肥原秦德純協定、上海停戰協定
二、保障事項ノ解消ト同時ニ從來ヨリ有スル對支特殊權益(例ヘハ治外法權、租界、駐兵權等ノ如シ)ノ廢棄ヲ考慮ス
「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1103年(康和5) | 第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日) | 詳細 | |||||
1905年(明治38) | 小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日 | 詳細 | |||||
1986年(昭和61) | 洋画家梅原龍三郎の命日 | 詳細 | |||||