ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年12月

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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、「保安条例」が公布・施行された日です。
 「保安条例(ほあんじょうれい)」は、自由民権運動の弾圧を意図した治安維持のための勅令(明治20年勅令第67号)でした。第一次伊藤博文内閣の井上馨外相の下で進められた条約改正交渉は、外国人犯罪裁判に外国人裁判官を採用するなどの条件で1887年(明治20)にいちおうの妥結をみましたが、日本の法権を侵害する屈辱的なものとして、自由民権派の政府攻撃が高まります。
 その中で、大同団結運動(自由民権運動各派による統一運動)がおこり、三大事件建白(言論集会の自由、地租軽減、外交挽回)運動が展開され、倒閣運動へと激化するのを恐れた山県有朋内相、三島通庸警視総監の下で突如、この勅令が制定されました。全7条からなり、 (1) 秘密結社や秘密集会の禁止、(2) 屋外での集会に対する警察官の集会禁止権、(3) 内乱陰謀、治安妨害に供される文書・図書の出版用機器の全般的没収、(4) 内乱を陰謀、教唆し、または治安を妨害するおそれのある者の皇居ないしは行在所外3里 (11.8km) の地への退去、(5) 一定地域での全般的な集会禁止、旅行、移動の自由を制限する権限を警察官に与えることなどを規定しています。
 これが公布・施行された日から数日間に、星亨、尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民、林有造ら自由民権派の論客570名に退去命令が出て、片岡ら抵抗者は投獄されました。これらのことから、「治安警察法」や「治安維持法」と共に、戦前日本における弾圧法の一つとされています。
 その後も発動されましたが、1898年(明治31)6月25日の「保安条例廃止法律」(明治31年法律第16号)により廃止となりました。
 以下に、「保安条例」全文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「保安条例」 (全文) 1887年(明治20)12月25日裁可、翌日公布・施行 全7条

朕惟フニ今ノ時ニ当リ大政ノ進路ヲ開通シ臣民ノ幸福ヲ保護スル為ニ妨害ヲ除去シ安寧ヲ維持スルノ必要ヲ認メ茲ニ左ノ条例ヲ裁可シテ之ヲ公布セシム

第一条 凡ソ秘密ノ結社又ハ集会ハ之ヲ禁ス犯ス者ハ一月以上二年以下ノ軽禁錮ニ処シ十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス其首魁及教唆者ハ二等ヲ加フ
2 内務大臣ハ前項ノ秘密結社又ハ集会又ハ集会条例第八条ニ載スル結社集会ノ聯結通信ヲ阻遏スル為ニ必要ナル予防処分ヲ施スコトヲ得其処分ニ対シ其命令ニ違犯スル者罰前項ニ同シ

第二条 屋外ノ集会又ハ群集ハ予メ許可ヲ経タルト否トヲ問ハス警察官ニ於テ必要ト認ムルトキハ之ヲ禁スルコトヲ得其命令ニ違フ者首魁教唆者及情ヲ知リテ参会シ勢ヲ助ケタル者ハ三月以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス其附和随行シタル者ハ二円以上二十円以下ノ罰金ニ処ス
2 集会者ニ兵器ヲ携帯セシメタル者又ハ各自ニ携帯シタル者ハ各本刑ニ二等ヲ加フ

第三条 内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ目的ヲ以テ文書又ハ図書ヲ印刷又ハ板刻シタル者ハ刑法又ハ出版条例ニ依リ処分スルノ外仍其犯罪ノ用ニ供シタル一切ノ器械ヲ没収スヘシ
2 印刷者ハ其情ヲ知ラサルノ故ヲ以テ前項ノ処分ヲ免ルルコトヲ得ス

第四条 皇居又ハ行在所ヲ距ル三里以内ノ地ニ住居又ハ寄宿スル者ニシテ内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキハ警視総監又ハ地方長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経期日又ハ時間ヲ限リ退去ヲ命シ三年以内同一ノ距離内ニ出入寄宿又ハ住居ヲ禁スルコトヲ得
2 退去ノ命ヲ受ケテ期日又ハ時間内ニ退去セサル者又ハ退去シタルノ後更ニ禁ヲ犯ス者ハ一年以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ仍五年以下ノ監視ニ付ス
3 監視ハ本籍ノ地ニ於テ之ヲ執行ス

第五条 人心ノ動乱ニ由リ又ハ内乱ノ予備又ハ陰謀ヲ為ス者アルニ由リ治安ヲ妨害スルノ虞アル地方ニ対シ内閣ハ臨時必要ナリト認ムル場合ニ於テ其一地方ニ限リ期限ヲ定メ左ノ各項ノ全部又ハ一部ヲ命令スルコトヲ得
 一 凡ソ公衆ノ集会ハ屋内屋外ヲ問ハス及何等ノ名義ヲ以テスルニ拘ラス予メ警察官ノ許可ヲ経サルモノハ総テ之ヲ禁スル事
 二 新聞紙及其他ノ印刷物ハ予メ警察官ノ検閲ヲ経スシテ発行スルヲ禁スル事
 三 特別ノ理由ニ因リ官庁ノ許可ヲ得タル者ヲ除ク外銃器短銃火薬刀剣仕込杖ノ類総テ携帯運搬販売ヲ禁スル事
 四 旅人ノ出入ヲ検査シ旅券ノ制ヲ設クル事

第六条 前条ノ命令ニ対スル違犯者ハ一月以上二年以下ノ軽禁錮又ハ五円以上二百円以下ノ罰金ニ処ス其刑法又ハ其他特別ノ法律ヲ併セ犯シタルノ場合ニ於テハ各本法ニ照シ重キニ従ヒ処断ス

第七条 本条例ハ発布ノ日ヨリ施行ス

   「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
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 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、小説家・文芸評論家・詩人中村真一郎の亡くなった日です。
 中村真一郎(なかむら しんいちろう)は、1918年(大正7)3月5日に、東京市日本橋区箱崎町(現在の東京都中央区)で生まれましたが、幼くして母を失い、幼少期は静岡県周智郡森町の母方の祖父母の家で育ちました。開成中学校時代に、終生の友となる福永武彦と知り合い、卒業後第一高等学校を経て、1938年(昭和13)に東京帝国大学仏文科へ入学します。
 在学中に同人誌「山の樹」に加わり、1941年(昭和16)に卒業後、卒業論文に選んだネルヴァルの翻訳『火の娘』を刊行しました。1942年(昭和17)に加藤周一、福永武彦らと文学グループ「マチネ・ポエティク」を組織、1947年(昭和22)加藤周一、福永武彦との共著で、『1946-文学的考察』を刊行します。
 同年にプルースト流の手法を駆使した長編小説『死の影の下(した)に』も刊行して注目され、戦後派作家としての位置を確立、「近代文学」の同人ともなりました。以下、『シオンの娘等』(1948年)、『愛神と死神と』(1950年)、『魂の夜の中を』(1951年)、『長い旅の終り』(1952年)と刊行し、長編5部作となります。
 その後は本格ロマンの創造に向い、『回転木馬』(1957年)、『空中庭園』(1963年)、『雲のゆき来』(1965年)などの小説を書きました。一方で、『王朝物語』(1957年)、『芥川龍之介の世界』(1968年)などの評論を著し、1971年(昭和46)には、評伝『頼山陽とその時代』で第22回芸術選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞します。
 その後も、1974年(昭和49)の評論『この百年の小説』で毎日出版文化賞、1978年(昭和53)の小説『夏』で第14回谷崎潤一郎賞、1985年(昭和60)の小説『冬』で第17回日本文学大賞、1989年(平成元)の評伝『蠣崎波響の生涯』で第27回藤村記念歴程賞・第41回読売文学賞(評論・伝記部門賞)を受賞するなどしました。1991年(平成3)に日本芸術院会員となり、1993年(平成5)には、日本近代文学館理事長にも就任します。
 1994年(平成6)に勲三等瑞宝章を受章、全国文学館協議会の初代会長となったものの、1997年(平成9)12月25日に、静岡県熱海市において、79歳で亡くなりました。

〇中村真一郎の主要な著作

・『1946-文学的考察』加藤周一、福永武彦との共著(1946年)
・小説『死の影の下に』(1946~47年)
・小説『シオンの娘等』(1948年)
・小説『愛神と死神と』(1950年)
・小説『魂の夜の中を』(1951年)
・小説『長い旅の終り』(1952年)
・小説『回転木馬』(1957年)
・評論『王朝物語』(1957年)
・小説『空中庭園』(1963年)
・小説『雲のゆき来』(1965年)
・評論『芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の世界』(1968年)
・小説『火の祭り』(1969年)
・評論『近代文学への疑問』(1970年)
・評伝『頼山陽とその時代』(1971年)第22回芸術選奨文部大臣賞(文学・評論部門)受賞
・評論『この百年の小説』(1974年)毎日出版文化賞受賞
・小説『四季』(1975年)
・小説『夏』(1978年)第14回谷崎潤一郎賞受賞
・小説『秋』(1981年)
・小説『冬』(1984年)第17回日本文学大賞受賞
・評論『蠣崎波響の生涯』(1989年)第41回読売文学賞(評論・伝記部門賞)・第27回藤村記念歴程賞受賞
・評論『眼の快楽』(1996年)

☆中村真一郎関係略年表

・1918年(大正7)3月5日 東京市日本橋区箱崎町(現在の東京都中央区)で生まれる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学仏文科へ入学する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学仏文科卒業、ネルヴァルの『火の娘』を翻訳して刊行する
・1942年(昭和17) 加藤周一、福永武彦らと文学グループ「マチネ・ポエティク」を組織する
・1946年(昭和21) 加藤周一、福永武彦との共著『1946-文学的考察』を書く
・1947年(昭和22) 長編小説『死の影の下(した)に』を刊行して注目され、戦後派作家としての位置を確立、「近代文学」の同人となる
・1957年(昭和32) 小説『回転木馬』、評論『王朝物語』を刊行する
・1963年(昭和38) 小説『空中庭園』を刊行する
・1965年(昭和40) 小説『雲のゆき来』を刊行する
・1968年(昭和43) 評論『芥川龍之介の世界』を刊行する
・1971年(昭和46) 評伝『頼山陽とその時代』で第22回芸術選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞する
・1974年(昭和49) 評論『この百年の小説』で毎日出版文化賞を受賞する
・1978年(昭和53) 『四季』四部作の『夏』で第14回谷崎潤一郎賞受賞する
・1985年(昭和60) 『四季』四部作の『冬』で第17回日本文学大賞を受賞する
・1989年(平成元) 評伝『蠣崎波響の生涯』で第27回藤村記念歴程賞を受賞する
・1990年(平成2) 評伝『蠣崎波響の生涯』で第41回読売文学賞(評論・伝記部門賞)を受賞する
・1991年(平成3) 日本芸術院会員となる
・1993年(平成5) 日本近代文学館理事長に就任する
・1994年(平成6) 勲三等瑞宝章を受章、全国文学館協議会の初代会長となる
・1997年(平成9)12月25日 静岡県熱海市において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1899年(明治32)小説家尾崎一雄の誕生日詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、言語学者・国語学者橋本進吉が生まれた日です。
 橋本進吉(はしもと しんきち)は、福井県敦賀郡敦賀町(現在の敦賀市)で、代々の医家であった家の長男として生まれましたが、5歳の時に父を亡くしました。京都府第一中学校(現在の洛北高校)、第三高等学校(現在の京都大学)を経て、東京帝国大学文科大学へ入学します。
 言語学科で学び、「係り結びの起源」を卒業論文として、1906年(明治39)に卒業、国語調査委員会補助委員となり、1909年(明治42)には、東京帝国大学文科大学助手に任ぜられました。日本語の歴史的研究に力をそそぎ、1916年(大正5)に、上田万年との共著『古本節用集の研究』を刊行します。
 1927年(昭和2)に東京帝国大学助教授となり、室町時代末の音韻体系をキリシタン資料によって再構し、1928年(昭和3)には、『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』を出しました。1929年(昭和4)に東京帝国大学教授に昇任し、1931年(昭和6)には、中等学校の文法教科書として『新文典初年級用』を著し、橋本文法として知られます。
 1934年(昭和9)に「文禄元年天草版吉利支丹教義の研究」で文学博士となり、その文法学説を著した『国語法要説』を刊行しました。1942年(昭和17)に日本文学報国会国文学部会長となり、天津教の不敬罪裁判で、いわゆる竹内文書について、上代特殊仮名遣の観点から竹内文書の神代文字を否定、1943年(昭和18)に東京帝国大学を定年退官します。
 1944年(昭和19)に、国語学会発足と同時に初代会長となりましたが、翌年1月30日に、東京において、64歳で亡くなりました。

〇橋本進吉の主要な著作

・『古本節用集の研究』上田万年との共著(1916年)
・『校本万葉集』 (佐佐木信綱らと共編)
・『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』(1928年)
・『新文典初年級用』(1931年)
・『国語法要説』(1934年)
・『古代国語の音韻について』(1942年)
・『国語学概論』
・『国語音韻の研究』
・『古本節用集の研究』
・『新文典別記』
・『文字及び仮名遣の研究』
・『国語音韻史』
・『上代語の研究』

☆橋本進吉関係略年表

・1882年(明治15)12月24日 福井県敦賀郡敦賀町(現在の敦賀市)で、代々の医家であった家の長男に生まれる
・1887年(明治20) 5歳の時、父を失う
・1906年(明治39) 東京帝国大学文科大学言語学科を卒業、国語調査委員会補助委員となる
・1909年(明治42) 東京帝国大学文科大学助手となる
・1916年(大正5) 上田万年との共著『古本節用集の研究』を刊行する
・1927年(昭和2) 東京帝国大学助教授となる
・1928年(昭和3) 『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』を出す
・1929年(昭和4) 東京帝国大学教授となる
・1931年(昭和6) 中等学校の文法教科書として『新文典初年級用』を著し、橋本文法として知られる
・1934年(昭和9) 「文禄元年天草版吉利支丹教義の研究」で文学博士となる
・1942年(昭和17) 日本文学報国会国文学部会長となる
・1943年(昭和18) 東京帝国大学を定年退官する
・1944年(昭和19) 国語学会発足と同時に初代会長となる
・1945年(昭和20)1月30日 東京において、64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)文芸評論家・思想家高山樗牛の命日詳細
1953年(昭和28)日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する詳細
1975年(昭和50)国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が設立された日です。
 大日本言論報国会(だいにほんげんろんほうこくかい)は、大政翼賛会の一翼を担って、内閣情報局の指導・監督のもとに組織された思想家・評論家の国策協力団体でした。当初は、大日本思想報国会の名称で計画されましたが、その後大日本言論報国会に改められ、この日に創立されます。
 会長は徳富蘇峰、専務理事は鹿子木員信、理事は津久井竜雄、大串兎代夫、大熊信行、高山岩男、高坂正顕、市川房枝ら27名で、会員は、1940年(昭和15)創立の日本評論家協会(代表者津久井竜雄)を中核に、一般評論家をも糾合しました。幹部には天皇制国家主義の支持者が多く、「国体ノ本義ニ基キ聖戦完遂ノタメ会員相互ノ錬成ヲ図リ日本世界観ヲ確立シテ大東亜新秩序建設ノ原理ト構想トヲ闡明大成シ進ンデ皇国内外ノ思想戦ニ挺身スルコト」(定款3条)を目的に掲げ、「正会員ハ本会ノ目的達成ニ挺身セントスル者ヨリ理事会ノ議ヲ経テ会長之ヲ選定ス」(定款第6条)とし、「総会ノ決議ハ主務官庁ノ認可ヲ経ルニ非ザレバ其効力ヲ生ゼザルモノトス」(第15条)、「会長ハ情報局総裁ノ推薦シタル者ヲ以テ之ニ充ツ」(第17条)、「理事及監事ノ選任及解任並ニ事務局長及事務局部長ノ補職及解散ハ情報局総裁ノ承認ヲ経ルコトヲ要ス」(第23条)とされるなど、情報局の統制が強く働いた団体となります。
 翌年9月に『日本思想叢書』を刊行、10月1日に機関誌『言論報国』を創刊、1944年(昭和19)1月に『思想戦大学講座』を刊行、また、米英撃滅思想戦大講演会を開催するなどして、日本文学報国会、日本美術報国会、日本音楽文化協会等と並んで戦争協力体制の一翼を担いました。会員数は、1943年(昭和18)3月末で847名でしたが、徐々に増えて翌年3月末時点で969名に達したものの、一方で思想的理由により勧誘されなかった人(真下信一、三木清、見田石介など)や入会を勧められながら拒否した人(田邊元など)もいます。
 西田哲学・京都学派へは、なまぬるいと批判、また『中央公論』などにも攻撃を加え、戦争遂行のための思想戦を遂行しましたが、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)8月31日に解散しました。尚、その後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が超国家主義団体として解散対象に指定、役員は公職追放の対象となります。

〇大政翼賛会とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。
 国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。
 それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。
 このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。

☆大政翼賛会のもとに結成された文化・思想・宗教関係の報国会

・日本文学報国会 1942年(昭和17)5月26日設立
・大日本言論報国会 1942年(昭和17)12月23日設立
・日本美術報国会 1943年(昭和18)5月18日設立
・大日本戦時宗教報国会 1944年(昭和19)9月30日設立

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、近衛文麿首相が「日支国交調整方針に関する声明」(近衛三原則)を発表した日です。
 「日支国交調整方針に関する声明」(近衛三原則)は、近衛文麿首相の発表した対中国政策で、同年1月16日の第一次近衛声明、11月3日の「東亜新秩序建設」の声明(第二次近衛声明)に次ぐ、第三次近衛声明とも呼ばれてきました。これは、同年11月30日の昭和天皇臨席の御前会議の「日支新関係調整方針」決定を受け、その三原則(善隣友好・日中防共協定締結・経済提携)に基づいて声明したものです。
 日中戦争解決の条件を提示し、「同憂具眼の士」(汪をさす)と東亜新秩序建設に邁進するとしたもので、日本陸軍の支援で汪兆銘(おうちょうめい)が重慶政府から離脱しハノイに到着した直後に発表されました。これに呼応して、1週間後の12月29日に汪兆銘は脱出先のハノイで、国民党へ対日和平の決断を促す通電を公表しましたが、国民政府内で汪に呼応するものは少数で、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪、国民政府の分裂、屈服を期待した汪兆銘工作は失敗します。
 この結果、声明発表2週間後の翌年1月5日に、近衛内閣は総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれることになりました。
 以下に、第一次から第三次の近衛声明と「日支新関係調整方針」(11月30日御前会議決定)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇第一次近衛声明 1938年(昭和13)1月16日

 昭和十三年一月十六日帝国政府声明

 帝国政府は南京攻略後尚ほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふるため今日に及べり。然るに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し、内民人塗炭の苦みを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。仍て帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政權の成立発展を期待し、是と兩国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。元より帝国が支那の領土及主權並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫もかはる所なし。今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し。政府は国民が此の重大なる任務遂行のため一層の発奮を冀望して止まず。

     『日本外交年表並主要文書』より

〇近衛文麿首相の「東亜新秩序建設」声明(第二次近衛声明) 1938年(昭和13)11月3日

 東亜新秩序建設の声明

 昭和十三年十一月三日付

 今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。
 帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。
 この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。
 帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。
 帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑はず。就中、盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。
 惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。
 茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す。

     『日本外交年表竝主要文書』より

〇「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明) 1938年(昭和13)12月22日

 日支国交調整方針に関する声明

 (昭和十三年十二月二十二日内閣総理大臣談)

 政府は本年再度の声明に於て明かにしたる如く、終始一貫、抗日国民政府の徹底的武力掃蕩を期すると共に、支那に於ける同憂具眼の士と相携へて東亜新秩序の建設に向つて邁進せんとするものである。今や支那各地に於ては更生の勢澎湃として起り、建設の気運愈々高まれるを感得せしむるものがある。是に於て政府は、更生新支那との関係を調整すべき根本方針を中外に闡明し、以て帝国の真意徹底を期するものである。
 日満支三国は東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである。之が為には支那は先づ何よりも旧来の偏狭なる観念を清算して抗日の愚と満洲国に対する拘泥の情とを一擲することが必要である。即ち日本は支那が進んで満洲国と完全なる国交を修めんことを率直に要望するものである。
 次に東亜の天地にはコミンテルン勢力の存在を許すべからざるが故に、日本は日独伊防共協定の精神に則り、日支防共協定の締結を以て日支国交調整上喫緊の要件とするものである。而して支那に現存する実情に鑑み、この防共の目的に対する十分なる保障を挙ぐる為には、同協定継続期間中、特定地点に日本軍の防共駐屯を認むること及び内蒙地方を特殊防共地域とすべきことを要求するものである。
 日支経済関係に就いては、日本は何等支那に於て経済的独占を行はんとするものに非ず、又新しき東亜を理解しこれに即応して行動せんとする善意の第三国の利益を制限するが如きことを支那に求むるものにも非ず、唯飽く迄日支の提携と合作とをして実効あらしめんことを期するものである。即ち日支平等の原則に立つて、支那は帝国臣民に支那内地に於ける居住営業の自由を容認して日支両国民の経済的利益を促進し、且つ日支間の歴史的経済的関係に鑑み、特に北支及内蒙地域に於てはその資源の開発利用上、日本に対し積極的に便宜を与ふることを要求するものである。
 日本の支那に求むるものが区々たる領土に非ず、又戦費の賠償に非ざることは自ら明かである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保障を要求せんとするものである。日本は支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払ふに吝ならざるものである。

     『外務大臣(其ノ他)ノ演説及声明集 第三巻』より

〇(参考)「日支新関係調整方針」 1938年(昭和13)11月30日御前会議決定 

日満支三国は東亜に於ける新秩序建設の理想の下に相互に善隣として結合し東洋平和の枢軸たることを共同の目標と為す之が為基礎たるべき事項左の如し

一、互恵を基調とする日満支一般提携就中善隣友好、防共共同防衛、経済提携原則の設定
二、北支及び蒙彊に於ける国防上竝経済上(特に資源の開発利用)日支強度結合地帯の設定
   蒙彊地方は前項の外特に防共の為軍事上竝政治上特殊地位の設定
三、揚子江下流地域に於ける経済上日支強度結合地帯の設定
四、南支沿岸特定島嶼に於ける特殊地位の設定
   之が具体的事項に関しては別紙要項に準拠す

別紙

 日支新関係調整要項

  第一 善隣友好の原則に関する事項

日満支三国は相互に本然の特質を尊重し渾然相提携して東洋の平和を確保し善隣友好の実を挙ぐる為各般に亘り互助連環有効促進の手段を講ずること

一、支那は満洲帝国を承認し日本及び満洲は支那の領土及び主権を尊重し日満支三国は新国交を修復す
二、日満支三国は政治、外交、教育、宣伝、交易等諸般に亙り相互に好誼を破壊するが如き措置及び原因を撤廃し且将来に亙り之を禁絶す
三、日満支三国は相互提携を基調とする外交を行い之に反するが如き一切の措置を第三国との関係に於いて執らざるものとす
四、日満支三国は文化の融合、創造及び発展に協力す
五、新支那の政治形態は分治合作主義に則り施策す
  蒙彊は高度の防共自治区域とす
  上海、青島、厦門は各々既定方針に基づく特別行政区域とす
六、日本は新中央政府に少数の顧問を派遣し新建設に協力す特に強度結合地帯其の他特定の地域に在りては所要の機関に顧問を配置す
七、日満支善隣関係の具現に伴い日本は漸次租界、治外法権等の返還を考慮す

 第二 共同防衛の原則に関する事項

日満支三国は協同して防共に当たると共に共通の治安安寧の維持に関し協力すること

一、日満支三国は各々其の領域内に於ける共産分子及び組織を芟除すると共に防共に関する情報宣伝等に関し提携協力す
二、日支協同して防共を実行す
  之が為日本は所要の軍隊を北支及び蒙彊の要地に駐屯す
三、別に日支防共軍事同盟を締結す
四、第二項以外の日本軍隊は全般竝局地の情勢に即応し成るべく早急に之を撤収す
  但し保障の為北支及び南京、上海、杭州三角地帯に於けるものは治安の確立する迄之を駐屯せしむ
  共通の治安安寧維持の為揚子江沿岸特定の地点及び南支沿岸特定の島嶼及び之に関連する地点に若干の艦船部隊を駐屯す尚揚子江及び支那沿岸に於ける艦船の航泊は自由とす
五、支那は前項治安協力のための日本の駐兵に対し財政的協力の義務を負う
六、日本は概ね駐兵地域に存在する鉄道、航空、通信竝主要港湾水路に対し軍事上の要求権及び監督権を保留す
七、支那は警察隊及び軍隊を改善整理すると共に之が日本軍駐屯地域の配置竝軍事施設は当分治安及び国防上必要の最小限とす
  日本は支那の軍隊警察隊建設に関し顧問の派遣、武器の供給等に依り協力す

 第三 経済提携の原則に関する事項

日満支三国は互助連環及び共同防衛の実を挙ぐるため産業経済等に関し長短相補有無相通の趣旨に基づき共同互恵を旨とすること

一、日満支三国は資源の開発、関税、交易、航空、交通、通信、気象、測量等に関し前記主旨竝以下各項の要旨を具現する如く所要の協定を締結す
二、資源の開発利用に関しては北支蒙彊に於いて日満の不足資源就中埋蔵資源を求むるを以て施策の重点とし支那は共同防衛竝経済的結合の見地より之に特別の便益を供与し其の他の地域に於いても特定資源の開発に関し経済的結合の見地より必要なる便益を供与す
三、一般産業に就ては努めて支那側の事業を尊重し日本は之に必要なる援助を与う
  農業に関しては所要原料資源の培養を図る
四、支那の財政経済政策の確立に関し日本は所要の援助をなす
五、交易に関しては妥当なる関税竝海関制度を採用し日満支間の一般通商を振興すると共に日満支就中北支間の物資需給を便宜且合理的ならしむ
六、支那に於ける交通、通信、気象竝測量の発達に関しては日本は所要の援助乃至協力を与う
  全支に於ける航空の発達、北支に於ける鉄道(隴海線を含む)、日支間及び支那沿岸に於ける主要海運、揚子江に於ける水運竝北支及び揚子江下流に於ける通信は日支交通協力の重点とす
七、日支協力に依り新上海を建設す

一、支那は事変勃発以来支那に於いて日本国民の蒙りたる権利利益の損害を補償す
二、第三国の支那に於ける経済活動乃至権益が日満支経済提携強化の為自然に制限せらるるは当然なるも右強化は主として国防及び国家存立の必要に立脚せる範囲のものたるべく右目的の範囲を超えて第三国の活動乃至権益を不当に排除制限せんとするものに非ず

アジア歴史センター「日支新関係調整方針」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1902年(明治35)年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1945年(昭和20)労働組合法」が制定される詳細
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