今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、言語学者・国語学者橋本進吉が生まれた日です。
橋本進吉(はしもと しんきち)は、福井県敦賀郡敦賀町(現在の敦賀市)で、代々の医家であった家の長男として生まれましたが、5歳の時に父を亡くしました。京都府第一中学校(現在の洛北高校)、第三高等学校(現在の京都大学)を経て、東京帝国大学文科大学へ入学します。
言語学科で学び、「係り結びの起源」を卒業論文として、1906年(明治39)に卒業、国語調査委員会補助委員となり、1909年(明治42)には、東京帝国大学文科大学助手に任ぜられました。日本語の歴史的研究に力をそそぎ、1916年(大正5)に、上田万年との共著『古本節用集の研究』を刊行します。
1927年(昭和2)に東京帝国大学助教授となり、室町時代末の音韻体系をキリシタン資料によって再構し、1928年(昭和3)には、『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』を出しました。1929年(昭和4)に東京帝国大学教授に昇任し、1931年(昭和6)には、中等学校の文法教科書として『新文典初年級用』を著し、橋本文法として知られます。
1934年(昭和9)に「文禄元年天草版吉利支丹教義の研究」で文学博士となり、その文法学説を著した『国語法要説』を刊行しました。1942年(昭和17)に日本文学報国会国文学部会長となり、天津教の不敬罪裁判で、いわゆる竹内文書について、上代特殊仮名遣の観点から竹内文書の神代文字を否定、1943年(昭和18)に東京帝国大学を定年退官します。
1944年(昭和19)に、国語学会発足と同時に初代会長となりましたが、翌年1月30日に、東京において、64歳で亡くなりました。
〇橋本進吉の主要な著作
・『古本節用集の研究』上田万年との共著(1916年)
・『校本万葉集』 (佐佐木信綱らと共編)
・『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』(1928年)
・『新文典初年級用』(1931年)
・『国語法要説』(1934年)
・『古代国語の音韻について』(1942年)
・『国語学概論』
・『国語音韻の研究』
・『古本節用集の研究』
・『新文典別記』
・『文字及び仮名遣の研究』
・『国語音韻史』
・『上代語の研究』
☆橋本進吉関係略年表
・1882年(明治15)12月24日 福井県敦賀郡敦賀町(現在の敦賀市)で、代々の医家であった家の長男に生まれる
・1887年(明治20) 5歳の時、父を失う
・1906年(明治39) 東京帝国大学文科大学言語学科を卒業、国語調査委員会補助委員となる
・1909年(明治42) 東京帝国大学文科大学助手となる
・1916年(大正5) 上田万年との共著『古本節用集の研究』を刊行する
・1927年(昭和2) 東京帝国大学助教授となる
・1928年(昭和3) 『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』を出す
・1929年(昭和4) 東京帝国大学教授となる
・1931年(昭和6) 中等学校の文法教科書として『新文典初年級用』を著し、橋本文法として知られる
・1934年(昭和9) 「文禄元年天草版吉利支丹教義の研究」で文学博士となる
・1942年(昭和17) 日本文学報国会国文学部会長となる
・1943年(昭和18) 東京帝国大学を定年退官する
・1944年(昭和19) 国語学会発足と同時に初代会長となる
・1945年(昭和20)1月30日 東京において、64歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1902年(明治35) | 文芸評論家・思想家高山樗牛の命日 | 詳細 |
1953年(昭和28) | 日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する | 詳細 |
1975年(昭和50) | 国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される | 詳細 |