今日は、江戸時代後期の1859年(安政6)に、労働運動家・社会主義者・思想家・社会事業家片山潜が生まれた日ですが、新暦では12月26日となります。
片山潜(かたやま せん)は、美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)で、庄屋藪木家の次男として生まれましたが、幼名は菅太郎(すがたろう)と言いました。1877年(明治10)に神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となり、1880年(明治13)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学したものの、翌年には退学して上京、攻玉社で塾僕として勤務します。
1884年(明治17)にアメリカ合衆国へ渡り、1886年(明治19)にキリスト教の洗礼を受け、苦学して、1892年(明治25年)にグリンネル大学を卒業後、大学院に進み文学修士となり、エール大学でも学び、学位(神学士)を取得して、1896年(明治29)に帰国しました。東京専門学校の主任講師として英語を教えるも、3ヶ月で解職となり、「六合雑誌」に「米国に於ける社会学の進歩」等を寄稿しています。
1897年(明治30)に東京・神田に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を開いて、セツルメント事業を行い、中村太八郎の社会問題研究会結成に加わり、社会政策学会への加入も認められ、「労働世界」を創刊し主筆も務めました。1898年(明治31)に村井知至、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成、1901年(明治34)には、日本最初の社会主義政党の社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らと共に参加します。
1903年(明治36)に「都市社会主義」を刊行、再度渡米して、翌年には、アムステルダムの第二インター第6回大会に日本代表として出席、安部磯雄と共に本部員に選ばれました。帰国後、1906年(明治39)に日本社会党結成に参加、議会政策を巡って、直接行動論の幸徳秋水と対立、翌年に「社会新聞」を発刊、田添鉄二らと日本社会平民党を結成しましたが、2日後に結社禁止となります。
1910年(明治43)に大逆事件が起き、翌年に幸徳秋水らが処刑される中、東京市電ストを指導して検挙されました。1912年(大正元)に大正天皇即位の大赦によって出獄、1914年(大正3)にアメリカへ亡命し、1917年(大正6)のロシア革命に影響を受け、共産主義運動に共感、アメリカを中心に北米各地で活動、1921年(大正10)には、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となります。
1922年(大正11)にモスクワで開催された極東民族会議に高瀬清、徳田球一らと出席しましたが、1933年(昭和8)11月5日に、モスクワの病院において、敗血症のため74歳で亡くなり、クレムリンの壁に葬られました。
〇片山潜の主要な著作
・『日本の労働運動』(1901年)
・『我社会主義』(1903年)
・『自伝』(1922年)
・『搾取なき社会への熱情』
☆片山潜関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
・1859年(安政6年12月3日) 美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)で、庄屋藪木家の次男として生まれる
・1877年(明治10年)10月 神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる
・1880年(明治13年) 岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学する
・1881年(明治14年) 岡山師範学校を退学して上京、攻玉社にて塾僕として勤務する
・1884年(明治17年) 友人岩崎清七に続いてアメリカ合衆国へ渡る
・1886年(明治19年)11月 組合教会の教会でキリスト教の洗礼を受ける
・1892年(明治25年) アイオワ州のグリンネル大学を卒業後、大学院に進む
・1896年(明治29年) 学位を取得して帰国し、京専門学校の主任講師として英語を教えるものの、3ヶ月で解職となる
・1896年(明治29年)5月 「六合雑誌」第185号に「米国に於ける社会学の進歩」を寄稿する
・1897年(明治30年)3月1日 東京・神田に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を開いて、セツルメント事業を行う
・1897年(明治30年)4月 中村太八郎の社会問題研究会(後の社会主義研究会)結成に加わる
・1897年(明治30年)10月3日 社会政策学会加入を認められる
・1897年(明治30年)12月1日 「労働世界」を創刊し主筆を務める
・1898年(明治31年) 村井知至、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成する
・1899年(明治32年)7月9日 活版工同志懇話会主催演説会で、高野房太郎・金井延との対立が明確化する
・1901年(明治34年)5月20日 社会主義研究会を改組した日本最初の社会主義政党の社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らと共に参加する
・1901年(明治34年)9月21日 大日本労働団体連合本部の労資協調論を批判し脱退する
・1903年(明治36年)4月19日 「都市社会主義」を刊行する
・1903年(明治36年)12月 再度渡米する
・1904年(明治37年) アムステルダムの第二インター第6回大会に日本代表として出席、安部磯雄と共に本部員に選ばれる
・1906年(明治39年) 日本社会党結成に参加。議会政策を巡って幸徳秋水と対立する
・1907年(明治40年) 「社会新聞」を発刊する
・1907年(明治40年)6月25日 田添鉄二らと日本社会平民党を結成する
・1907年(明治40年)6月27日 日本社会平民党が結社禁止となる
・1910年(明治43年) 大逆事件が起き、幸徳秋水らが検挙される
・1911年(明治44年) 東京市電ストを指導して検挙される
・1912年(大正元年)9月 大正天皇即位の大赦によって出獄する
・1914年(大正3年)9月9日 アメリカへ亡命する
・1917年(大正6年) ロシア革命に影響を受け、共産主義運動に共感、アメリカを中心に北米各地で活動する
・1921年(大正10年) ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる
・1922年(大正11年)1月22日 モスクワで開催の極東民族会議に高瀬清、徳田球一らと出席する
・1933年(昭和8)11月5日 モスクワの病院において、敗血症のため74歳で亡くなり、クレムリンの壁に葬られる
・1990年(平成2年) 岡山県久米南町に記念館が建てられる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
671年(天智天皇10) | 第38代の天皇とされる天智天皇の命日(新暦672年1月7日) | 詳細 |
1879年(明治12) | 小説家・随筆家永井荷風の誕生日 | 詳細 |
1926年(大正15) | 最初の「円本」となる『現代日本文学全集』が、改造社から1冊1円で刊行開始 | 詳細 |