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 今日は、江戸時代前期の1638年1月1日(寛永14年11月16日)に、第111代の天皇とされる後西天皇が生まれた日です。
 後西天皇(ごさいてんのう)は、京都において、後水尾天皇の第八皇子(母は贈左大臣櫛笥隆致の女隆子)として生まれましたが、名は良仁(ながひと)と言いました。1647年(正保4)に叔父にあたる高松宮好仁親王の遺跡を継ぎ、桃園宮・花町宮を称し、1648年(慶安元)に親王宣下され、その後式部卿に任ぜられ、ついで一品に叙せられます。
 1651年(慶安4)に元服に伴い、明子女王と婚儀が行われ、1654年(承応3)に後光明天皇が亡くなると同天皇の養子となった皇弟識仁親王(霊元天皇)の成長までしばらく皇位を継ぐこととなりました。1655年1月5日(承応3年11月28日)に践祚し、明暦2年1月23日に、第111代とされる天皇として即位、同年に明子女王が女御宣下されています。
 1657年(明暦3)に江戸で明暦の大火が起こって江戸城天守が焼失、地方の地震、水害などが多発しました。1661年(寛文元)には、皇居炎上により大半の御府蔵書が焼失しましたが、侍臣をして御府の記録類を謄写させ、副本を作成していたので、それを基に京都御所東山御文庫蔵書が成ったとされています。
 しかし、在位期に天変地異が多く幕府から退位を迫られ、1663年(寛文3)に、10歳に成長した識仁親王(霊元天皇)に譲位したとされてきました。退位後も記録類の謄写につとめ、文芸に秀で、茶華や香道に練達し、特に和歌・連歌に堪能であり、古典の造詣も深かったことで知られています。
 歌集『水日集』、日記『後西院御記』、御撰『集外歌仙』、『源氏聞書』、『百人一首聞書』などを残し、1685年(貞享2年2月22日)に京都において、数え年49歳で亡くなり、墓所は月輪陵(現在の京都市東山区)とされました。

<代表的な歌>

・「へだてじな人の恵は春とともによにみちのくも花のみやこも」(水日集)

〇後西天皇の主要な著作

・歌集『水日集』
・日記『後西院御記』
・御撰『集外歌仙』
・『源氏聞書』
・『百人一首聞書』

☆後西天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1638年1月1日(寛永14年11月16日) 京都において、後水尾天皇の第八皇子(母は贈左大臣櫛笥隆致の女隆子)として生まれる
・1647年(正保4年11月) 叔父にあたる高松宮好仁親王の遺跡を継ぎ、桃園宮・花町宮を称する
・1648年(慶安元年7月) 親王宣下される
・1651年(慶安4年) 元服に伴い、明子女王と婚儀が行われる
・1654年(承応3年9月) 後光明天皇が亡くなる
・1655年1月5日(承応3年11月28日) 後光明天皇に後嗣がなかったため、践祚する
・1655年(明暦2年1月23日) 第111代とされる天皇として即位する
・1656年(明暦2年) 明子女王が女御宣下される
・1657年(明暦3年1月18日) 江戸で明暦の大火が起こり、江戸城天守が焼失する
・1661年(寛文元年) 皇居炎上により大半の御府蔵書が焼失する
・1663年(寛文3年1月26日) 10歳に成長した識仁親王(霊元天皇)に譲位する
・1680年(延宝8年7月8日) 明子女王が病が元で数え年43歳で亡くなる
・1685年(貞享2年2月22日) 京都において、数え年49歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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