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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、神武天皇即位2600年とされる「紀元二千六百年記念行事」が始まった日です。
 「紀元二千六百年記念行事(きげんにせんろっぴゃくねんきねんぎょうじ)」は、『日本書紀』の記述に基づくと、神武天皇が即位して2600年に当たることから、これを祝賀して行われた一連の記念行事のことで、11月10日~14日まで関連行事が繰り広げられました。1935年(昭和10)10月1日に「紀元二千六百年祝典準備委員会」(会長:内閣総理大臣岡田啓介)が発足し、翌年7月1日には、官制を以て「紀元二千六百年祝典評議委員会」が設けられ、本格的にその審議に当り、①橿原神宮境域竝びに畝傍山東北陵参道の拡張整備、②宮崎神宮境域の拡張整備、③神武天皇聖蹟の調査保存顕彰、④御陵参拝道路の改良、⑤国史館(仮称)の建設、⑥日本文化大観の編纂出版の6事業を決定(この他に紀元二千六百年記念日本万国博覧会の開設など)します。
 その中で、皇紀2600年とされる1940年(昭和15)の11月10日に宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后臨席の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催されました。その内容は、参列者一同整列(式典中全員起立)する中、天皇と皇后が入場、国家「君が代」の奏楽、内閣総理大臣近衛文麿の寿詞奏上、昭和天皇による勅語、東京音楽学校生徒、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊による「紀元二千六百年頌歌」斉唱、参列者一同による万歳奉唱「三声」、諸員最敬礼、「君が代」奏楽の中で天皇と皇后が退場して、散会となります。
 翌11日午後2時からは、宮城外苑において、天皇、皇后も出席の上、「紀元二千六百年奉祝会」が行われました。そこでは、内閣総理大臣近衛文麿が奉祝会開始の旨を奏上、天皇・皇后が立ち、諸員最敬礼して君が代奉唱の後、高松宮が奉祝の詞を奏上、外国使臣首席グルー米国大使の奉祝の詞の奏上、昭和天皇による勅語、その後開宴となりましたが、同時に正面の舞台では紀元二千六百年奉祝舞楽「悠久」が奏され、陸海軍軍楽隊の奉祝音楽「大歓喜」と「紀元二千六百年頌歌行進曲」及び吹奏集「奉祝頌歌」の演奏、最後に全国学生生徒代表二千余名の奉祝国民歌「紀元二千六百年」の斉唱後、万歳を三唱、内閣総理大臣近衛文麿が奉祝会終了の旨を奏上、天皇・皇后が退場、午後3時過に祝典は滞りなく終了しています。
 それからも、11月14日まで関連行事が繰り広げられ、外地を含む全国各地でも、展覧会、体育大会など様々な記念行事が催されました。

<紀元二千六百年式典>1940年(昭和15)11月10日

〇紀元二千六百年式典の式次第

一.整列(式典中全員起立) 参列者一同
一.天皇皇后両陛下出御
   奏楽「君が代」    陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊
一.諸員最敬礼
一.国歌「君が代」奉唱   参列者一同、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊
一.寿詞(よごと)奏上   内閣総理大臣(近衛文麿)
一.勅語を賜ふ
一.「紀元二千六百年頌歌」斉唱 東京音楽学校生徒、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊
一.万歳奉唱「三声」    参列者一同
一.諸員最敬礼
一.天皇皇后両陛下入御
   奏楽「君が代」    陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊
一.散会

〇内閣総理大臣近衛文麿の寿詞

臣文麿謹ミテ言ス伏シテ惟ミルニ
皇祖国ヲ肇メ統ヲ垂レ 皇孫ヲシテ八洲ニ君臨セシメ錫フニ 神勅ヲ以テシ授クルニ 神器ヲ以テシタマフ
宝祚ノ隆天壌ト窮リ無ク以テ 神武天皇ノ聖世ニ及ブ乃チ 天業ヲ恢弘シテ 皇都ヲ橿原ニ奠メ 宸極ニ光登シテ 徳化ヲ六合ニ敷キタマヒ 歴朝相承ケテ益々 天基ヲ鞏クシ 洪猷ヲ壮ニシ一系 連綿正ニ紀元二千六百年ヲ迎フ國體ノ尊厳万邦固ヨリ比類ナシ
皇謨ノ宏遠四海豈匹儔アランヤ臣文麿誠 懽誠慶頓首頓首恭シク惟ミルニ 天皇陛下聡明聖哲允ニ允ニ武夙ニ 祖宗ノ丕績ヲ紹ギタマヒ宵旰治ヲ図リ文教ヲ弘メ武備ヲ整ヘ 威烈ノ光被スル所昭明ノ化普率ニ洽ク億兆臣民皆雨露ノ恵沢ニ浴ス方今世局ノ変急ナルニ臨ミ或ハ 六師ヲ異域ニ出シ或ハ盟約ヲ友邦ニ結ビ以テ東亜ノ安定ヲ確立シ以テ世界ノ平和ヲ促進ツタマハントス
洵ニ絶代ノ盛徳曠古ノ大業ニシテ 皇祖肇國ノ宸意ト神武天皇創業ノ 皇謨トニ契合セザルハナシ臣等生ヲ昭代ニ享ケ此ノ隆運ヲ仰ギ感激抃躍ノ至リニ堪ヘズ曩ニ光輝アル紀元ノ佳節ニ当リ優渥ナル 聖詔ヲ拝シ恐懼措ク能ハズ臣等協心、戮力誓ツテ大訓ニ率由シ益々國體ノ精華ヲ発揮シテ非常ノ時艱ヲ克服シ八紘一宇ノ 皇謨ヲ翼賛シテ宏大無辺ノ 聖恩ニ奉対センコトヲ期ス
本日此ノ式典ヲ挙クルニ際シ天皇陛下皇后陛下ノ臨御ヲ辱クス臣等更ニ遠ク心ヲ肇國ノ淵源二馳セ思ヲ創業ノ雄図ニ致シ感激益々深シ臣文麿乏シキヲ承ケテ台閣ノ首班ニ居リ
茲ニ帝国臣民ニ代リ叨リニ 天顔ニ咫尺シテ恭シク 聖寿ノ万歳ヲ祝シ 宝祚ノ無窮ヲ頌シ奉ル
臣文麿誠懽誠慶頓首頓首

〇紀元二千六百年式典での昭和天皇の勅語

茲ニ紀元二千六百年ニ膺リ百僚衆庶相会シ之レカ慶祝ノ典ヲ挙ケ以テ肇国ノ精神ヲ昂揚セントスルハ朕深ク焉レヲ嘉尚ス
今ヤ世局ノ激変ハ実ニ国運隆替ノ由リテ以テ判カルル所ナリ
爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ体シ我カ惟神ノ大道ヲ中外ニ顕揚シ以テ人類ノ福祉ト万邦ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ

〇「紀元二千六百年頌歌」の歌詞

一. 遠(とほ)皇(すめろぎ)の かしこくも はじめたまひし 大(おほ)大和(やまと) 天(あま)つ日嗣(ひつぎ)の つぎつぎに 御代(みよ)しろしめす 尊(たふと)さよ 仰(あふ)げば遠し 皇国の 紀元は 二千六百年
二. 青(あを)一草(ひとくさ)に 射照(いて)る日の 光あまねき 大八洲(おほやしま) 春のさかりを 咲く花の 薫(にほ)ふが如き 豊かさよ 仰げば遠し 皇国の 紀元は 二千六百年
三. 大海神(おほわたつみ)の 八潮路(やしほぢ)の めぐり行きあふ 八紘(あめのした) 聖(ひじり)の御業(みわざ) うけもちて 宇(いえ)と掩(おほ)はん かしこさよ 仰げば遠し 皇国の 紀元は 二千六百年

<紀元二千六百年奉祝会>1940年(昭和15)11月11日

〇紀元二千六百年奉祝総裁代理高松宮の奉祝詞

紀元二千六百年奉祝会総裁代理臣宣仁謹ミテ言ス伏シテ惟ミルニ
神武天皇皇祖ノ神勅ヲ奉シ天壌無窮ノ 宝祚ヲ践ミ給ヒシヨリ列聖相承ケテ陛下ノ御宇ニ逮ヒ今年恰モ紀元二千六百年ニ当レリ
陛下斯ノ盛時ニ際シ特ニ 宮中ニ於ケル紀元節ノ祭典ヲ重クシ 明詔ヲ発シテ臣民率由ノ大道ヲ示シ 恩赦ノ令ヲ下シテ遍ク仁沢ヲ布キ又神宮山陵ヲ 親拝シテ孝敬ヲ申へ陸海ノ軍容ヲ 親閲シテ士気ヲ励マシ給へリ 聖慮深厚洵ニ惶懼ニ勝へス臣等茲ニ令辰ヲトシ恭シク
天皇陛下 皇后陛下ノ臨御ヲ仰キ紀元二千六百年奉祝ノ会ヲ行フ瑞雲靄靄トシテ宸闕ノ上ヲ繞リ和気洋洋トシテ禁苑ノ外ニl溢ル普天率土手ヲ額ニシ声ヲ同シウシテ此ノ盛事ヲ謳歌セサルナシ顧レハ世界ハ今曠古ノ変局ニ臨メリ
陛下武ヲ異城ニ用ヒテ東亜永遠ノ安定ヲ冀図シ盟ヲ友邦ニ結ヒテ宇内恒久ノ平和ニ寄与シ給ハントス聖謨宏遠洵ニ感激ニ勝へス臣等和衷協同 皇猷ヲ賛襄シ時艱ヲ匡済シ以テ天恩ノ万一ニ報イ奉ランコトヲ期ス臣等生ヲ昭代ニ享ケテ此ノ昌期ニ遭ヒ歓天喜地ノ至ニ勝フルナシ恭シク表ヲ上リ賀ヲ陳へ以テ 聞ス臣宣仁謹ミテ言ス

〇紀元二千六百年奉祝会での昭和天皇の勅語

爰ニ紀元二千六百年慶祝ノ讌ニ臨ミ各国代表者竝ニ朝野ノ代表者ト歓ヲクシ楽ヲ偕ニスルハ朕ノ深ク懌フ所ナリ今ヤ一大世変ニ際会スルモ平和ノ日ナラスシテ恢復セラレ万邦卜倶ニ其ノ慶ニ頼ランコトヲ望ム

〇外国使臣首席グルー米国大使の奉祝詞

陛下
大日本帝国建国ノ歴史的記念日ノ荘重森厳ナル祝典ニ参列スルノ光栄ニ浴シ諸外国使臣ハ感激措ク能ハズ茲ニ一同ヲ代表シ謹ミテ深厚ナル謝意ヲ表シ奉ル今次祝典ハ誠ニ大日本帝国ノ光輝アル歴史卜伝統ノ悠久性ヲ象徴シ之ヲ四海ニ昂揚スルモノナリ
本日此ノ曠古無此ノ盛典ニ際シ在京外交団員ハ陛下及大日本国民ニ封シ最モ恭敬ニツテ誠実ナル祝意ヲ表スルト共ニ 陛下、皇后陛下、皇太后陛下及皇室ノ康寧ト繁栄ヲ悃祷ツ大日本帝国ノ国運愈々隆昌ヲ加へ益々人類ノ文化ト福祉ノ増進ニ貢献スル所アランコトヲ祈願シテ已マザルモノナリ
謹ミテ奏ス

<紀元二千六百年奉祝記念事業の概況>

 光輝ある紀元二千六百年を奉祝する国家的な記念事業を行ふため、昭和十年十月内閣組理大臣の諮問機関として紀元二千六百年祝典準備委員会が設けられ、次いで、昭和十一年七月一日官制を以て紀元二千六百年祝典評議委員会が設けられ、本格的にその審議に当り、左の事業を決定したのであつた。
一、橿原神宮境域竝びに畝傍山東北陵参道の拡張整備
二、宮崎神宮境域の拡張整備
三、神武天皇聖蹟の調査保存顕彰
四、御陵参拝道路の改良
五、国史館(仮称)の建設
六、日本文化大観の編纂出版
 この外に、紀元二千六百年記念日本万国博覧会の開設があつた。
 しかして日本万国博覧会は、事業の特殊性に基づき、社団法人日本万国博覧会協会にその計画と経営とを担当させしめ、他の六大事業は、官民協力、挙国一致施行に当ることとなり、昭和十二年七月七日、財団法人紀元二千六百年奉祝会の設立を見た。
 紀元二千六百年奉祝会は、畏くも秩父宮殿下を総裁に仰ぎ、政府より五百万円の補助金を受け、国民より八百万円を拠出し、総額千三百万円の巨費を投じて、この六大事兼を行ふための挙国一致の団体である。設立と時を同じうして、今次支那事変の勃発を見たのであるが、紀元二千六百年奉祝記念事業に対する国民的関心はいよいよ昂揚し、寄附の募集は非常に順調に進み、各種事業もとゞこほりなく進行したのである。
 畏くも、皇室に於かせられては、本記念事業を助成し給ふ厚い思召から、御内帑金百万円を下賜あらせられ、関係者一同、恐懼感激、所期の目的達成のために努力を重ね、国民また金品の寄附に、献木運動、或ひは勤労奉仕に、その赤誠を捧げ、事業の完成に邁進し工事は意想外に早く進捗した。たゞ文部省にその実施を委嘱した国史館触は、資材等の関係から急速に建設は困難なため、着工が遅れてゐるのは遺憾であるが、これとても、出来るだけ早く、着工したい希望を以て、目下内容等について、国史館造営委員会を設けて研究中である。
  以下、各種記念事業の経過と進捗状況について概要を述べよう。

一 橿原神宮境域並びに畝傍山東北陵参道の拡張整備
 神武天皇及び皇后媛蹈鞴五十鈴媛命を祭神とする官幣大社橿原神宮の境域及び神武天皇御陵の参道は、従来、聊か狭隘の感があり、且つ御陵及び神宮の尊厳を保持する点について遺憾な点があつたので、まづ第一に、これが拡張整備をして、我が国創業の英主の神鎮まります聖地に相応しい森厳幽遠なる地域にしようと計画された。拡張地域は十万坪でこの工費総額は四百万円を予定し、工事は宮内省、内務省、奈良県、及び大阪電気軌道株式会社、大阪鉄道黴式会社に委嘱し、慎重なる工事設計を終つて、昭和十三年五月八日、浄雨けむる畝傍山裾の畝傍公園に厳かなる起工祭を行つて着工したのである。
 御陵と神宮の尊厳を維持する上に遺憾の点のあつた大阪電気軌道株式会社の軌道を約三百米東方へ移設する大工事も、関係会社の協力により容易に解決し、墳域と参道の拡張にともなふ民有地の買上、民家の移設等の問題も、地元民の誠意で、順調に進み、地元奈良県始め、京都府、大阪府、和歌山県等近接府県民はもとより、全国からの建国奉仕隊の汗と脂の勤労奉仕は、涙ぐましい努力を以て続けられ、拡張された地域の造苑に要する植樹の献木は、日を次いで全国より申込殺到し、去る九月三十日の締切日までの献木数は、実に二万三千本の多数に上つた。幸ひに、これらの献木類は、しつかと、聖地に根を下ろし、すくすくと成長してゐる。目下のところ、参差(しんし)たる樹林を見るといふわけには行かぬが、十年二十年後には、境域の森厳静謐の保持に遺憾なきに至るであらう。
 既に橿原神宮附属建物の建築も、省線畝傍駅と大軌(だいき)、大鉄(だいてつ)の橿原綜合駅とをつなぐ延長約二千六百米の参拝道路工事も竣工し、膨大な地域の造苑工事も殆んど完成を見てゐるので、来る十一月十九日を期して、これが、竣工奉献式及び奉献奉告祭を橿原神宮で行ふ予定である。

二 宮崎神宮境域の拡張整備
 官幣大社宮崎神宮は、神武天皇が大和御東征以前に、日向に在しまして、国民を綏撫し給うた御徳を慕つて、日向の国民が、天皇を斎(いつ)きまつつた由緒深い神社であり、宮崎県民の崇敬の中心をなしてゐるのであるが、この宮崎神宮境域拡張の計画成りその工事を宮崎県に委嘱するや、宮崎県民を以て組織された祖国振興隊々員は、この事業に動員され、拡張地一万六千坪の地均(ぢなら)しに、或ひは全国からの献木一万二千本の植栽に、労力を奉仕し、工事は昭和十三年十一月二十五日起工祭を施行してから、一瀉千里の勢で進行し、境域内に建築中の肇古館の落成を待つて、十一月二十五日竣工奉献式及び奉献奉告祭を行ふことになつてゐる。

三 神武天皇聖蹟の調査保存顕彰
 既に文部省では、歴代天皇聖蹟の調査保存の事業が計画されてゐたのであるが、紀元二千六百年奉祝の意味から、神武天皇聖蹟の調査保存顕彰の事は、奉祝紀念事業として行ふを適当とするので、紀元二千六百年奉祝会がこれに当ることになり、聖蹟調査に関する事務を十万円の予算を以て文部省に委嘱した。
  文部省では、神武天皇聖蹟調査委員会を設け、筑波藤麿侯爵を会長に、学界各方面の権威を網羅した委員により、古事記、日本書紀所載の聖蹟につき調査を進め、この研究審議の結果、先きに「週報」その他で報告した通り左記の十八ケ所を聖蹟と決定した。
     名     称            所  在  地
 神武天皇聖蹟菟狹(うさ)推考地   大分県宇佐郡
 神武天皇聖蹟崗水門(をかのみなと)   福岡県遠賀郡蘆屋町
 神武天皇聖蹟埃宮(えのみや)・多祁理宮(たけりのみや)伝説地 広島県安芸郡府中町
 神武天皇聖蹟高嶋宮(たかしまのみや)伝説地  岡山児島郡甲浦村
 神武天皇聖蹟難波之碕(なにはのみさき)    大阪府大阪市
 神武天臭聖蹟盾津推考地   大阪府中河内郡孔舎衙村
 神武天皇聖蹟孔舎衛坂(くさゑのさか)伝説地 大阪府中河内郡孔舎衙村
 神武天皇聖蹟雄水門(をのみなと)伝説地   大阪府泉南郡樽井町、雄信達村
 神武天皇聖蹟男水門(をのみなと)伝説地  和歌山県和歌山市
 神武天皇聖蹟名草邑(なくさのむら)推考地  和歌山県海草郡、和歌山市
 神武天皇聖蹟狹野(さぬ)          和歌山県新宮市
 神武天皇聖蹟熊野神邑(くまぬのかみのむら)   和歌山県新宮市
 神武天皇聖蹟菟田穿邑(うだのうかちのむら)  奈良県宇陀郡宇賀志村
 神武天皇聖蹟菟田高倉山(うだのたかくらやま)伝説地 奈良県宇陀郡政始村、神戸村
 神武天皇聖蹟丹生川上(にぶのかはかみ)   奈良県吉野郡小川村
 神武天皇聖蹟鵄邑(とびのむら)    奈良県生駒郡
 神武天皇聖蹟磐余邑(いわれのむら)推考地 奈良県磯城郡桜井町、安倍村、香具山村
 神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつりのには)伝説地 奈良県磯城郡城島村、桜井町
 神武天皇聖蹟狹井河之上(さゐがはのほとり)推考地 奈良県磯城郡三輪町、織田村
 右の外、橿原宮(奈良県高市郡畝傍町)及び竈山(和秋山県海草郡三田村)の聖蹟は、既に国家的に確認されてゐるものと認められ、今回の調査に於ては更めて聖蹟の決定をしなかつたのである。
 この聖蹟調査委員会の答申に基づき、紀元二千六百年奉祝会で町は、それぞれの地について保存顕彰の施設を行ふこととなつた。顕彰施設は、花崗岩の標柱を建設することとし、この設計も定つたので、総工費二十五万円を以て実施すもこととなり、聖蹟所在の大阪府、福岡県、広島県、岡山県、和歌山県、奈良県、大分県にそれぞれ工事を委嘱し、本年七月十日、神武天皇聖蹟難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑建設地たる大阪市天満宮境内に於て全聖蹟地の顕彰施設起工祭を執行(とりおこな)つたのである。本工事は、大体本年中に完成の見込であるが、遅(おそ)くも、来年早春の期には全部竣工するであらう。

四 御陵参拝道路の改良
 近時皇陵尊崇の熱誠祓は、いよいよ昂まり、御陵参拝者の数は、非常に増加してゐるのに鑑み、御陵参拝道路中、近代交通に不適当なもの或ひは狭隘なもの等を改良し、御陵参拝者の便利を計り、皇陵尊崇の国民的要望に応へようと、総経費五十万円の予算を以て之を改良することとし、昭和十四年五月十七日、安寧天皇陵他三十九陵の参拝道路改良工事起工祭を京都府乙訓郡大原野村石作尋常小学校々庭に於て厳かに執り行ひ、淳和天皇大原野西嶺上陵参拝道路拡張工事現場に鍬入(くはいれ)の儀を行ひ、次いで本年六月十二日鹿児島県新田神社境内に於て、可愛山陵(えのみさゝぎ)及び高屋山上陵の参拝道路改良工事起工祭を行ひ、最後に去る九月十一日後醍醐天皇陵の参拝道路改良工事の起工祭が吉野国立公園に於て行はれ、それぞれ直ちに着工された。大工事であつた大原野西嶺上陵参道も京都府民の勤労奉仕と委嘱を受けた京都府土木関係掛員の努力により、御陵の拝所の近くまで自動車が登り得る程度の道路が竣工し、次いで奈良県及び京都市に委嘱した各御陵の参拝道路も着々竣工を見、難工事である清和天皇陵及び後醍醐天皇陵参拝道路を除いては、全部本年中には完成する予定である。
  なほ参拝道路改良工事実施の御陵名は次の通りである

京都府委嘱
  淳和天皇  大原野西嶺上陵(おほはらのにしのみねのへのみささぎ)
奈良席委嘱
  安寧天皇  畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのゐのへのみささぎ)
  懿徳天皇  畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまさごのたのにへのみささぎ)
  孝昭天皇  掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのへのみささぎ)
  孝安天皇  玉手丘上陵(たまてのをかのへのみささぎ)
  孝霊天皇  片丘馬坂陵(かたをかのうまさかのみささぎ)
  孝元天皇  剣池島上陵(つるぎのいけのしまのへのみささぎ)
  崇神天皇  山辺道勾岡上陵(やまべのみちのまがりのをかのへのみささぎ)
  垂仁天皇  菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ)
  景行天皇  山辺道上陵(やまのべのみちのへのみささぎ)
  成務天皇  狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)
  安康天皇  菅原伏見西陵(すがはらふしみのにしのみささぎ)
  顕宗天皇  傍丘磐坏丘南陵(かたをかのいはつきのをかのみなみのみささぎ)
  武烈天皇  傍丘磐坏丘北陵(かたをかのいはつきのをかのきたのみささぎ)
  宣化天皇  身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのへのみささぎ)  
  欽明天皇  檜隈坂合陵(ひのくまのさかあひのみささぎ)
  村上天皇  村上陵(むらかみのみささぎ)
  光孝天皇  後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)
  後宇多天皇  蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)
  後亀山天皇  嵯峨小倉陵(さがをぐらのみささぎ)
  宇多天皇  大内山陵(おほうちやまのみささぎ)
  嵯峨天皇  嵯峨山上陵(さがのやまのへのみささぎ)
  清和天皇  水尾山陵(みづのをやまのみささぎ)
鹿児島県委嘱
  瓊瓊杵尊  可愛山陵(えのみささぎ)
  彦火火出見尊  高屋山上陵(たかやのやまのへのみささぎ)
  崇峻天皇  倉梯岡上陵(くらはしのをかのへのみささぎ)
  舒明天皇  押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)
  斉明天皇  越智崗上陵(をちのをかのへのみささぎ)
  天武天皇  檜隈大内陵(ひのくまのおほうちのみささぎ)
  持統天皇  檜隈大内陵(ひのくまのおほうちのみささぎ)
  文武天皇  檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのへのみささぎ)
  元明天皇  奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)
  元正天皇  奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)
  聖武天皇  佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)
  称徳天皇  高野陵(たかゐのみささぎ)
  光仁天皇  田原東陵(たはらのひがしのみささぎ)
  平城天皇  揚梅陵(やまもものみささぎ)
  後醍醐天皇  塔尾陵(たふのをのみささぎ)
京都市委嘱
  白河天皇  成菩提院陵(じやうぼだいゐんのみささぎ)
  鳥羽天皇  安楽寿院陵(あんらくじゆゐんのみささぎ)
  仁明天皇  深草陵(ふかくさのみささぎ)
  醍醐天皇  後山科陵(のちのやましなのみささぎ)
  六條天皇  清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)
  後深草天皇  深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)
   外十一方

五 国史館(仮称)の建設
 我が國體の精華と国史の成跡とを展示し、国民精神の作興を計(はか)る意味に於て、東京に建設すべき国史館(仮称)については、当初、予算三百万円を計上してゐたが、資材の価格昂騰等により、予算も六百万円に増額し、この建設を、昭和十三年二月文部省に委嘱した。
 文部省では、国史館造営委員会を設け会長(文部次官)始め委員、幹事約二十五名の任命を見たが、資材等の入手難から、その建設が遅延してゐるが、その内容について目下研究が進められてゐることは前述の通りである。

六 日本文化大観の編纂出版

〇「紀元二千六百年」の歌詞(皇紀2600年を祝して1940年(昭和15)作曲の奉祝国民歌)

一. 金鵄(きんし)輝く 日本の 栄(はえ)ある光 身にうけて いまこそ祝へ この朝(あした) 紀元は二千六百年 ああ一億の 胸はなる
二. 歓喜あふるる この土を  しつかと我等 ふみしめて はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと) 紀元は二千六百年 ああ肇国(ちょうこく)の 雲青し
三. 荒(すさ)ぶ世界に 唯一つ ゆるがぬ御代(みよ)に 生立ちし 感謝は清き 火と燃えて 紀元は二千六百年 ああ報国の 血は勇む
四. 潮ゆたけき 海原に 桜と富士の 影織りて 世紀の文化 また新た 紀元は二千六百年 ああ燦爛(さんらん)の この国威
五. 正義凛(りん)たる 旗の下 明朗アジア うち建てん 力と意気を 示せ今 紀元は二千六百年 ああ弥栄(いやさか)の 日はのぼる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1696年(元禄9)第109代とされる明正天皇(女帝)の命日(新暦12月4日)詳細
1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細