今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出した日です。
この事故は、北海道炭礦汽船(北炭)が経営する天竜坑の第二・六尺ロングで起きたもので、発破(ダイナマイトの爆発による掘削)により炭じん爆発が誘発され、ロング切羽(採掘場)だけでなくロング周辺の坑道から幹線坑道にまで及ぶ大災害となりました。被害は、死者161人、負傷者21人にも及び、これによって天竜坑は閉鎖されます。
事故原因は、第二鉱で採用されていた運搬方式が、上下二つの切羽からの出炭を一本の坑道で運ぶもので、岩盤下の坑道に循環機を設置し、ロープによって運搬機を運転する方法だったのですが、保安上の通気対策や炭じん防止対策を無視していたため、爆発事故を引き起こしたとされ、以後この方式は中止されています。
尚、その後は模擬坑道として鉱員養成の場として残され、さらに後に一般市民も見学可能な施設となりました。市民や小学生の社会科見学にも使用され、1980年(昭和55)に「夕張石炭の歴史村」計画の一環で博物館が開館、この時に模擬坑道も整備され、公開されています。
しかし、2006年(平成18)6月20日に夕張市長が「財政再建団体」申請を行ったことなどにより、運営していた夕張市の第3セクター「石炭の歴史村観光」が自己破産して、閉館しました。2018年(平成30)4月28日に2年に渡る改修工事を終え、リニューアルオープンしたものの、翌年4月18日に模擬坑道で火災が発生し、現在は再び閉鎖されています。
〇北炭夕張炭鉱とは?
北海道夕張市北西部にあった北海道炭礦汽船(北炭)が経営する炭鉱でした。1874年(明治7)お雇い外国人のベンジャミン・スミス・ライマン(アメリカ人地質学者)が、夕張川上流に石炭層の存在を推定し、1888年(明治21)に坂市太郎がシホロカベツ川上流で石炭の大露頭を発見します。翌年、堀基(もとい)により、北海道炭礦鉄道会社が発足、夕張採炭所創設され、1890年(明治23)から夕張炭鉱の開発に着手、第一鉱を開坑(以後第二鉱、第三鉱、清水沢鉱も開坑)しました。
2年後には採炭が開始され、追分駅~夕張駅間に鉄道も敷設されます。1896年(明治29)に北海道炭礦鉄道株式会社に社名変更、1906年(明治39)の「鉄道国有法」公布に伴い、北海道の幹線鉄道約200kmを国に売却し、北海道炭礦汽船株式会社となりました。優良な鉄鋼コークス用原料炭を産出しましたが、1912年(明治45)4月に爆発事故(死者267人)を起こして以後、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。
1960年代の最盛期には、年間100~150万tの出炭量を誇りましたが、採炭条件の悪化などにより、1971年(昭和46)に第二鉱閉山、1973年(昭和48)に第一鉱閉山に追い込まれました。しかし、1975年(昭和50)に、東部地区に開発された北炭夕張新炭鉱の営業出炭を開始して挽回しつつ、1977年(昭和52)北炭夕張新第二炭鉱が閉山します。
ところが、1981年(昭和56)10月16日に、夕張新鉱でのガス突出事故で死者93人を出す惨事を招いて経営が悪化、同年12月に「会社更生法」を申請して事実上倒産、この夕張新鉱も翌年10月に閉山して従業員約 2,000人全員が解雇されるに至りました。
☆北炭夕張炭鉱の主要な爆発事故
・1912年(明治45)4月29日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者267人
・1912年(大正元)12月23日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者216人
・1920年(大正9)6月14日 北炭夕張炭鉱(北上坑)にて爆発事故で死者209人
・1938年(昭和13)10月6日 北炭夕張炭鉱(天竜坑)にて爆発事故で死者161人
・1960年(昭和35)2月1日 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者42人
・1965年(昭和40)2月22日 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者62人
・1981年(昭和56)10月16日 夕張新鉱でのガス突出・爆発事故で死者93人
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1937年(昭和12) | 「日独伊防共協定」が調印される | 詳細 |
1945年(昭和20) | 「GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する | 詳細 |
1975年(昭和50) | 俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌) | 詳細 |