ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年10月

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 今日は、平安時代中期の968年(安和元)に、第65代の天皇とされる花山天皇が生まれた日ですが、新暦では11月29日となります。
 花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう)は、京都において、冷泉天皇の第一皇子(母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子)として生まれましたが、名は師貞(もろさだ)と言いました。969年(安和2)の2歳の時、父の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になります。
 975年(天延3)に母の藤原懐子が亡くなり、982年(天元5)に元服、984年(永観2)には、円融天皇の譲位を受けて、第65代とされる天皇として即位しました。藤原頼忠が関白となりましたが、外戚でなかったことから実権をもたず、外戚の藤原義懐と惟成を重用し、饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引締めを図り、902年(延喜2)に出されて以来布告されていなかった荘園)整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出します。
 ところが、985年(寛和元)に深く寵愛した女御の忯子(藤原為光の娘)が懐妊後、17歳で死去すると、翌年の19歳の時、突然に宮中を出て東山の花山寺(現在の元慶寺)に入って剃髪して退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられるようになりました。出家後は、播磨国に赴いて書写山円教寺の性空に結縁、さらに比叡山、熊野などに赴き仏道修行に励み、すぐれた法力を身につけたとされます。
 993年(正暦4年)頃に、帰京して東院に住みましたが、邸宅には数寄を凝らし、風雅の暮らしを送る一方、悪僧を周囲に侍らせて様々な奇行をなしたとされ、藤原為光女に通ったことから、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件が起きました。一方、絵や和歌に巧みで、在位中の寛和元年と2年に内裏で歌合を主催、退位後もたびたび歌合を催し、自らも詠出、1005~06年(寛弘2~3)頃 藤原公任撰の『拾遺抄』を増補し、第三勅撰和歌集『拾遺和歌集』を親撰したとされます。
 しかし、1008年(寛弘5年2月8日)に京都において、病により数え年41歳で亡くなり、御陵は紙屋川上陵(現在の京都市帰宅衣笠)とされました。尚、『花山院御集』も中世頃まで伝存して散逸したものの、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集には68首が入集しています。
 以下に、『大鏡』第一巻の「第六十五代 花山院」を載せておきましたので、ご参照下さい。

<代表的な歌>

・「あしひきの山に入り日の時しもぞあまたの花は照りまさりける」(風雅和歌集)
・「今年だにまづ初声をほととぎす世にはふるさで我に聞かせよ」(詞花和歌集)
・「朝ぼらけおきつる霜の消えかへり暮待つほどの袖を見せばや」(新古今和歌集)
・「つらければかくてやみなむと思へども物忘れせぬ恋にもあるかな」(玉葉和歌集)
・「旅の空夜半のけぶりとのぼりなば海人の藻塩火たくかとや見む」(後拾遺和歌集)
・「長き夜のはじめをはりもしらぬまに幾世のことを夢に見つらむ」(続拾遺和歌集)

〇花山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・968年(安和元年10月26日) 京都において、冷泉天皇の第一皇子(母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子)として生まれる
・969年(安和2年) 2歳の時、父冷泉帝の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になる
・975年(天延3年4月3日) 母の藤原懐子が亡くなる
・982年(天元5年2月19日) 元服する
・984年(永観2年8月27日) 円融天皇の譲位を受ける
・984年(永観2年10月10日) 第65代とされる天皇として即位する
・985年(寛和元年) 内裏で歌合を主催する
・985年(寛和元年7月18日) 深く寵愛した女御の忯子(藤原為光の娘)が懐妊後、17歳で死去する
・986年(寛和2年) 内裏で歌合を主催する
・986年(寛和2年6月22日) 19歳の時、宮中を出て剃髪し、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられる
・991年(正暦2年2月12日) 円融院(円融天皇)が亡くなる
・993年(正暦4年)頃 帰京して東院に住む
・996年(長徳2年) 29歳の時、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件が起きる
・1005~06年(寛弘2~3年)頃 藤原公任撰の『拾遺抄』を増補し、第三勅撰和歌集『拾遺和歌集』を親撰したとされる
・1008年(寛弘5年2月8日) 京都において、病により数え年41歳で亡くなる

☆『大鏡』第一巻の「第六十五代 花山院」より

<原文>

一 六十五代 花山院

次の帝、花山院天皇と申しき。冷泉院第一皇子なり。御母、贈皇后宮懐子と申す。太政大臣伊尹のおとどの第一御女なり。この帝、安和元年戊辰十月二十六日丙子、母方の御祖父の一条の家にて生まれさせたまふとあるは、世尊寺のことにや。その日は、冷泉院御時の大嘗会御禊あり。同二年八月十三日、春宮にたちたまふ。御年二歳。天元五年二月十九日、御元服。御年十五。永観二年八月二十八日、位につかせたまふ。御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にも知らせさせたまはで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせたまへりしこそ。御年十九。世をたもたせたまふこと二年。その後二十二年おはしましき。あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壷の上の御局の子戸より出でさせたまひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせたまふべきやうはべらず。神璽・宝剣わたりたまひぬるには」と、粟田殿のさわがし申したまひけるは、まだ、帝出でさせおはしまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたしたてまつりたまひてければ、かへり入らせたまはむことはあるまじく思して、しか申させたまひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせたまふはどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃破り残して御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうできなむ」と、そら泣きしたまひけるは。さて、土御門より東ざまに率て出だしまゐらせたまふに、晴明が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏せむ。車に装束とうせよ」といふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且、式神一人内裏にまゐれ」と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後をや見まゐらせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。花山寺におはしまし着きて、御髪おろさせたまひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、かならずまゐりはべらむ」と申したまひければ、「朕をば謀るなりけり」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にてさぶらはむ」と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。東三条殿は、「もしさることやしたまふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤の辺よりぞうち出でまゐりける。寺などにては、「もし、おして人などやなしたてまつる」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。

 小学館刊日本古典文学全集『大鏡』(底本は、京都大学付属図書館蔵平松家旧蔵の古本系三巻本)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、戦後最初の国内民間航空会社として設立された日本航空が、一番機の「もく星号」で東京~大阪~福岡間の運航を開始した日で、「民間航空記念日」ともされています。
 太平洋戦争後の占領下において、1945年(昭和20)9月に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) により、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止されていましたが、1950年(昭和25)6月に、GHQにより日本の航空会社による運航禁止期間が解除されました。そこで、翌年1月17日に日本航空創立準備事務所が開設され、3月に国内航空運送事業の免許を申請、5月22日に国内定期航空運送事業の営業免許を取得します。
 8月1日に「日本航空株式会社」が設立され、8月27日~29日にフィリピン航空からチャーターしたダグラス DC-3型機(金星号)で、運航関係者や報道関係者を対象にした試験招待飛行を実施、9月には、羽田空港や大阪、福岡、札幌などの当初の就航予定地に支所や出張所を開設しました。そして、10月21日にアメリカのノースウエスト航空と運行契約を締結、10月25日には、戦後初の国内民間航空定期便としてアメリカのノースウエスト航空から乗員とともにリースしたマーチン2-0-2型機「もく星号」で羽田空港~伊丹空港~板付空港間の定期旅客運航を開始、この日が「民間航空記念日」とされています。
 また、11月1日には、正規ダイヤの運航に移り、羽田空港~千歳空港間の運航も開始されました。尚、一番機の「もく星号」は、1952年(昭和27)4月9日に、伊豆大島で墜落事故(もく星号墜落事故)を起こし、乗客乗員全員37名が死亡する大惨事を起こしています。

〇マーチン2-0-2型機とは?

 太平洋戦争後の連合国による占領下、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) により軍民問わず航空機を運用することを禁止されていましたが、1950年(昭和25)6月に、GHQにより日本の航空会社による運航禁止期間が解除ます。翌年8月1日に日本航空株式会社が設立され、10月21日にアメリカのノースウエスト航空と運行契約が締結され、民間旅客機による定期路線が就航することになりました。しかし、実際にはアメリカのノースウエスト航空から乗員とともにリースした飛行機による羽田空港-伊丹空港-板付空港間の運航となります。このときに使用されたのがマーチン2-0-2型機5機で、それぞれの機体に太陽系の惑星に由来する愛称、「きん星」(機体記号:N93041)、「もく星」(機体記号:N93043)、「すい星」(機体記号:N93049)、「ど星」(機体記号N93060)、「か星」(機体記号N93061) が付けられました。その機体は、全幅:28.4m、全長:22.8m、高さ:8.70m、操縦乗員:3名、乗客:40名(最大)、エンジン:プラット・アンド・ホイットニー R-2800-CB16双発、総重量:30,367kg、最大巡航速度:450km/h、航続距離:4,184kmとなっています。しかし、1952年(昭和27)4月9日に、ノースウエスト航空の乗務員が運航していた「もく星号」が伊豆大島で墜落事故(もく星号墜落事故)を起こし、乗客乗員全員37名が死亡する大惨事となります。その後、1953年(昭和28)10月1日の日本航空株式会社(特殊会社)設立に伴う自主運航開始と共に、全てノースウエスト航空に返却され、日本の空から姿を消しました。

☆太平洋戦争後民間航空機運行の歩み

<1945年(昭和20)>
・9月 戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) により、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止される

<1950年(昭和25)>
・6月 GHQにより日本の航空会社による運航禁止期間が解除される

<1951年(昭和26)>
・1月17日 日本航空創立準備事務所が開設される
・3月 国内航空運送事業の免許を申請
・5月22日 国内定期航空運送事業の営業免許を取得する
・8月1日 「日本航空株式会社」として設立される
・8月27日~29日 フィリピン航空からチャーターしたダグラス DC-3型機(金星号)で、運航関係者や報道関係者を対象にした試験招待飛行を実施する
・9月 羽田空港や大阪、福岡、札幌などの当初の就航予定地に支所や出張所を開設する
・10月21日 アメリカのノースウエスト航空と運行契約を締結する
・10月25日 戦後初の国内民間航空定期便としてアメリカのノースウエスト航空から乗員とともにリースしたマーチン2-0-2型機「もく星号」で羽田空港-伊丹空港-板付空港間の定期旅客運航を開始する
・11月1日 正規ダイヤの運航に移り、羽田空港-千歳空港間の運航も開始する

<1952年(昭和27)>
・4月9日 ノースウエスト航空の乗務員が運航していた「もく星号」が伊豆大島で墜落事故を起こす
・6月 国内ローカル線用にイギリス製の近距離向けプロペラ機のデ・ハビランド製DH.114 ヘロン型機を発注する
・7月 本格的な国際線運航に向けて、イギリス製の最新鋭ジェット旅客機であるDH.106 コメット型機の最新型であるコメットIIを2機発注する
・9月 ダグラスDC-4B型機に代わる国際線主力機として、DC-4Bを大型化しエンジンも改良、更に客室を与圧化し快適性を増した[6]ダグラスDC-6B型機も相次いで発注する
・10月 ノースウエスト航空との運航委託契約が切れ、新たに購入したダグラスDC-4B型機「高千穂号」によって自主運航を開始する

<1953年(昭和28)>
・8月 「日本航空株式会社法」(昭和28年法律第154号)が公布・施行される
・10月1日 特殊会社である新しい「日本航空株式会社」が誕生する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)島原の乱(島原・天草一揆)が起きる(新暦12月11日)詳細
1907年(明治40)第1回文部省美術展覧会(通称:文展)が東京上野で開催される詳細
1909年(明治42)写真家土門拳の誕生日詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、小説家・詩人・評論家山田美妙の亡くなった日です。
 山田美妙(やまだ びみょう)は、1868年(慶応4年7月8日)に、江戸の神田柳町(現在の東京都千代田区)で、旧南部藩士山田吉雄の長男として生まれましたが、本名は武太郎と言いました。3歳の時、父が地方に赴任し、母よし、その養母海保ますと芝神明前(浜松町)に、桶屋を家業として住み、1874年(明治7)に私立烏森学校へ入学、この頃尾崎徳太郎(尾崎紅葉)と知り合います。
 1875年(明治8)に公立巴学校(後の港区立鞆絵小学校)に転校、1879年(明治12)には、東京府第二中学(1881年に府第一中と統合し東京府中学)へ入学、幼友達の紅葉と再会しました。1884年(明治17)に、大学予備門(現在の東京大学教養学部)へ入学。翌年には友人の尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成、雑誌「我楽多文庫」を編集・刊行、処女作『竪琴草紙』を発表します。
 1886年(明治19)に尾崎紅葉、丸岡九華との共著で、新体詩集『新体詞選』を刊行、翌年には、帝国大学進学を断念して文筆業に専念、読売新聞に『武蔵野』を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となりました。1888年(明治21)に短篇集『夏木立』を刊行、小説雑誌「都の花」(金港堂)を主宰、1889年(明治22)には、徳富蘇峰の「国民之友」誌で初めて小説を掲載した特別付録に、坪内逍遥と並んで『蝴蝶』を執筆します。
 1890年(明治23)に小説雑誌「都の花」(金港堂)を主宰を辞め、改進新聞社へ入社、1891~92年(明治24~25年)頃には、「国民新聞」紙上に小説、詩などを発表しました。1892年(明治25)に、日本初のアクセント付国語辞書『日本大辞書』を発行、1894年(明治27)頃に、浅草の茶店の女に子を産ませていたが籍は入れないなどの性行があり、作品の題材を実体験で得るためと称したことなどが、『万朝報』、『毎日新聞』などで指弾され、坪内逍遥も『早稲田文学』誌上で批判します。
 1895年(明治28年)に『阿千代』を発表し好評でしたが、同年に弟子の女流作家田澤稲舟と結婚、翌年に稲舟との合作『峯の残月』を「文芸倶楽部」に発表したものの、離婚後の稲舟の死をめぐる稲舟事件によって世間から排斥されました。1899年(明治32)にやまと新聞社に一時在籍、本郷から王子村に移り、王子義塾を開きましたが、1901年(明治34)には、脳充血で倒れ、以後禁酒します。
 その後、『比律賓独立戦話 あぎなるど』、『政治小説桃いろぎぬ』、『言文一致文例』、『新体詩歌作法』などを刊行、1907年(明治40)に『大辞典』の刊行に着手したものの、1910年(明治43)に耳下腺癌腫と診断され、同年10月24日に東京において、数え年43歳で亡くなりました。

〇山田美妙の主要な著作

・『花ぐるま』
・『竪琴草紙』(1885年)
・新体詩集『新体詞選』尾崎紅葉、丸岡九華との共著(1886年)
・『嘲戒小説天狗』(1886~87年)
・『武蔵野(むさしの)』(1887年)
・『蝴蝶(こちょう)』(1889年)
・『いちご姫』(1889~90年)
・詩論集『日本韻文論』(1890~91年)
・辞書『日本大辞書』(1892年)
・『阿千代』(1895年)
・『比律賓独立戦話 あぎなるど』(1902年)
・『政治小説桃いろぎぬ』(1902年)
・『言文一致文例』(1902年)
・『新体詩歌作法』(1902年)
・『平清盛』(1910年)
・『平重衡』

☆山田美妙関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年(慶応4年7月8日) 江戸の神田柳町(現在の東京都千代田区)で、旧南部藩士山田吉雄の長男として生まれる
・1870年(明治3年) 3歳の時、父が地方に赴任し、母よし、その養母海保ますと芝神明前(浜松町)に、桶屋を家業として住む
・1874年(明治7年) 私立烏森学校入学、この頃尾崎徳太郎(尾崎紅葉)と知り合う
・1875年(明治8年) 公立巴学校(後の港区立鞆絵小学校)に転校する
・1879年(明治12年) 東京府第二中学(1881年に府第一中と統合し東京府中学)へ入学、幼友達の紅葉と再会する
・1884年(明治17年) 大学予備門(現在の東京大学教養学部)へ入学する
・1885年(明治18年) 友人の尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成、雑誌「我楽多文庫」を編集・刊行、処女作『竪琴草紙』を発表する
・1886年(明治19年) 尾崎紅葉、丸岡九華との共著で、新体詩集『新体詞選』を刊行する
・1887年(明治20年) 帝国大学進学を断念して文筆業に専念、読売新聞に「武蔵野」を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となる
・1888年(明治21年) 短篇集『夏木立』を刊行、小説雑誌「都の花」(金港堂)を主宰する
・1889年(明治22年) 徳富蘇峰の「国民之友」誌で初めて小説を掲載した特別付録に、坪内逍遥と並んで、『蝴蝶』を執筆する
・1890年(明治23年) 小説雑誌「都の花」(金港堂)を主宰を辞め、改進新聞社へ入社する
・1891~92年(明治24~25年)頃 「国民新聞」紙上に小説、詩などを発表する
・1892年(明治25年) 日本初のアクセント付国語辞書『日本大辞書』を発行する
・1894年(明治27年)頃 浅草の茶店の女に子を産ませていたが籍は入れないなどの性行があり、作品の題材を実体験で得るためと称したことなどが、『万朝報』、『毎日新聞』などで指弾され、坪内逍遥も『早稲田文学』誌上で批判する
・1895年(明治28年) 『阿千代』を発表し好評となる
・1896年(明治29年) 田澤稲舟との合作『峯の残月』を「文芸倶楽部」に発表、稲舟の死をめぐる稲舟事件によって世間から排斥される
・1897年(明治30年) 『魔界天女』を「やまと琴」に連載する
・1899年(明治32年) やまと新聞社に一時在籍、本郷から王子村に移り、王子義塾を開く
・1901年(明治34年)9月 脳充血で倒れ、以後禁酒する
・1902年(明治35年) 『比律賓独立戦話 あぎなるど』、『政治小説桃いろぎぬ』、『言文一致文例』、『新体詩歌作法』を刊行する
・1907年(明治40年) 『大辞典』の刊行に着手する
・1909年(明治42年) 東京の本郷区上富士前町に移転する
・1910年(明治43年)6月 耳下腺癌腫と診断される
・1910年(明治43年)10月24日 東京において、数え年43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件詳細
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 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人(うち災害関連死が52人)、重軽傷者4,805人を出した日です。
 新潟県中越地震(にいがたけんちゅうえつじしん)は、午後5時56分に発生したマグニチュード6.8の地震で、震源は新潟県北魚沼郡川口町(北緯37°17.3′、東経 138°52.2′)で、深さは約13kmとされました。内陸直下型地震で、1995年(平成7)1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)以来、当時観測史上2回目の最大震度7を記録、新潟県を中心に東北地方から近畿地方にかけての広い範囲で揺れを感じ、その後マグニチュード6級の大きな余震が続いています。
 この結果、地震発生前の長雨による地盤の緩みと重なって、地滑りなどの被害が多発し、死者68人(うち災害関連死が52人)、負傷者4,805人、全壊した住家3,175棟、半壊した住家13,810棟などの被害が生じました。また、交通では走行中の上越新幹線が脱線、関越自動車道が不通となるなど県内の道路網は100ヶ所以上で寸断されて山間地の多数の集落が孤立、地場産業のニシキゴイや闘牛用の牛の被害も出ています。避難者はピーク時で10万人を超え、自動車内での避難生活でエコノミークラス症候群とみられる死者が出ました。

〇平成時代に日本周辺で起きた主要な地震一覧(被害が大きかったもの)

・1993年(平成5)7月12日 北海道南西沖地震 (Mj7.8) 死者・行方不明者230人、奥尻島などへの巨大津波で甚大な被害
・1995年(平成7)1月17日 兵庫県南部地震[阪神・淡路大震災](Mj7.3) 死者・行方不明者6,437人
・2004年(平成16)10月23日 新潟県中越地震[新潟県中越大震災](Mj6.8) 死者68人(うち災害関連死が52人)
・2007年(平成19)7月16日 新潟県中越沖地震(Mj6.8) 死者15人、局所的に最大1 mの津波を観測
・2008年(平成20)6月14日 岩手・宮城内陸地震(Mj7.2) 死者・行方不明者23人
・2011年(平成23)3月11日 東北地方太平洋沖地震[東日本大震災] (Mj8.4) 死者・行方不明者約2万2000人(うち災害関連死が約3500人)、戦後最悪の震災
・2016年(平成28)4月16日 熊本地震(Mj7.3) 2日前の前震を含めて死者273人(うち災害関連死が218人、豪雨による土砂災害の死者で地震との関連が認められた死者が5人)
・2018年(平成30)9月6日 北海道胆振東部地震(Mj6.7) 死者42人

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
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 今日は、明治時代後期の1894年(明治27)に、庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人を出した日です。
 庄内地震(しょうないじしん)は、午後5時35分35秒に発生したマグニチュード7.0の大地震で、震源は山形県庄内平野北部(北緯38.9度、東経139.9度)で、深さはごく浅いとされました。東北地方の内陸部が震源の地震としては最大規模の内陸直下型地震で、震源地付近で震度6、一部では震度7の揺れがあったのではないかと推定され、庄内平野を中心に東北地方で中心に揺れを感じ、庄内平野東縁断層帯が活動した可能性が指摘されています。
 この結果、土地の亀裂や陥没、土砂の噴出などが多く生じ、酒田では大火災が発生(酒田地震大火)して総戸数の8割が焼失するなど、庄内地方中心に、死者726人、負傷者8,403人、全壊家屋:3,858戸(山形県内)、半壊家屋:2,397戸(山形県内)、焼失家屋:2,148戸(山形県内)、破損家屋:7,863戸(山形県内)の被害が出ました。この地震を契機に 和式木造建物の耐震性がとりあげられて詳しい調査が行われ、震災予防調査会が「木造建築改良仕様書」を発表するなど、その対策が提言されています。

〇日本付近で明治時代に起きたマグニチュード7.0以上の大地震一覧

・1872年3月14日(明治5年2月6日) 浜田地震(島根県沖) M7.1
・1881年(明治14)10月25日 国後島 M7.0
・1891年(明治24)10月28日 濃尾地震(岐阜県) M8.0
・1983年(明治26)6月4日 色丹島沖地震 M7.7
・1894年(明治27)3月22日 根室半島沖地震 M7.9
・1894年(明治27)6月20日 明治東京地震 M7.0
・1894年(明治27)10月22日 庄内地震 M7.0
・1895年(明治28)1月18日 霞ヶ浦 M7.2
・1896年(明治29)1月9日 茨城県沖 M7.3
・1896年(明治29)6月15日 明治三陸地震 M8.2
・1896年(明治29)6月16日 三陸沖 M7.5
・1896年(明治29)8月31日 陸羽地震 M7.2
・1897年(明治30)2月20日 宮城県沖 M7.4
・1897年(明治30)8月5日 三陸沖 M7.7
・1898年(明治31)4月23日 宮城県沖 M7.2
・1898年(明治31)9月1日 石垣島東方沖 M7.0
・1899年(明治32)3月7日 紀伊大和地震(奈良・三重) M7.0
・1900年(明治33)5月12日 宮城県北部 M7.0
・1901年(明治34)8月9日 青森県東方沖 M7.2
・1901年(明治34)8月10日 青森県東方沖 M7.4
・1902年(明治35)1月30日 青森県三八上北地方地震 M7.0
・1905年(明治38)6月2日 芸予地震(瀬戸内海) M7.2
・1905年(明治38)7月7日 福島県沖 M7.1
・1911年(明治44)6月15日 喜界島地震 M8.0

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細


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