ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年10月

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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、医学者佐々木隆興が亡くなった日です。
 佐々木隆興(ささき たかおき)は、明治時代前期の1878年(明治11)5月5日に、東京・本所で、佐々木東溟の次男として生まれました。獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)を卒業後、東京帝国大学医科大学へ入学、1889年(明治22)には、帝国大学医科大学教授佐々木政吉の養嗣子となります。
 1892年(明治25)に東京帝国大学医科大学を卒業後、同大学教授隈川宗雄のもとで医化学を専攻、1895年(明治28)からドイツに自費留学、はじめシュトラスブルク大学で生化学、ついでベルリン大学に移って有機化学、実験病理学、内科学を学びました。帰国後、1912年(大正元)に医学博士を授与され、翌年には、京都帝国大学医科大学教授内科学担当として赴任します。
 1916年(大正5)に京大教授を辞任、第三代杏雲堂醫院院長に就任、翌年には金曜会(お茶の水界隈の医師・医学者の集会)を主催しました。1920年(大正9)に日本化学会の櫻井賞、1924年(大正13)に「蛋白質およびこれを構成するアミノ酸の細菌による分解とアミノ酸の合成に関する研究」により帝国学士院恩賜賞を受賞します。
 1927年(昭和2)に日本内科学会会頭となり、1935年(昭和10)に(財)癌研究会癌研究所長を兼任、1936年(昭和11)には、吉田富三と共に「オルト・アミノアゾトルオールの経口投与による肝臓癌発生の実験的研究」で、再度の帝国学士院恩賜賞を受賞しました。1939年(昭和14)に帝国学士院会員となり、(財)佐々木研究所を設立、理事長に就任して所長を兼務、翌年には文化勲章を受章します。
 1941年(昭和16)に(財)結核予防会結核研究所長を兼任、1951年(昭和26)には、最初の文化功労者となりました。独立独歩の研究生活を貫いて業績をあげ、一方で漢学の素養が深く、北辰一刀流の目録を授かった剣士でもありましたが、1966年(昭和41)10月31日に、東京において、88歳で亡くなっています。

〇佐々木隆興関係略年表

・1878年(明治11)5月5日 東京・本所で、佐々木東溟の次男として生まれる
・1882年(明治15) 佐々木東洋、杏雲堂醫院を創立 
・1889年(明治22) 佐々木政吉の養嗣子となる 
・1892年(明治25) 東京帝国大学医科大学を卒業する 
・1895年(明治28) ドイツに自費留学する 
・1900年(明治33) 帰国、杏雲堂醫院副院長となる 
・1912年(大正元) 医学博士を授与される 
・1913年(大正2) 京都帝国大学医科大学教授内科学担当として赴任する 
・1916年(大正5) 京大教授辞任、第三代杏雲堂醫院院長に就任する 
・1917年(大正6) 金曜会(お茶の水界隈の医師・医学者の集会)を主催する
・1920年(大正9) 日本化学会の櫻井賞を受賞する 
・1923年(大正12) 震災で杏雲堂醫院本院が全焼する 
・1924年(大正13) 「蛋白質およびこれを構成するアミノ酸の細菌による分解とアミノ酸の合成に関する研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞する 
・1927年(昭和2) 日本内科学会会頭となる 
・1929年(昭和4) 杏雲堂醫院が本建築で落成する 
・1935年(昭和10) (財)癌研究会癌研究所長兼任する 
・1936年(昭和11) 吉田富三と共に「オルト・アミノアゾトルオールの経口投与による肝臓癌発生の実験的研究」で、再度の帝国学士院恩賜賞を受賞する 
・1938年(昭和13) 病院顧問となる 
・1939年(昭和14) 帝国学士院会員となり、(財)佐々木研究所を設立、理事長に就任、佐々木研所長兼務する 
・1940年(昭和15) 文化勲章を受章する 
・1941年(昭和16) (財)結核予防会結核研究所長を兼任する 
・1943年(昭和18) 宮中講書始、「運動に於ける静の生物學的観察と考察」を進講する 
・1951年(昭和26) 第一回文化功労者となり、平塚の土地を財団に寄付する
・1953年(昭和28) (財)佐々木研究所顧問となり、内科学会で記念講演、引退表明する 
・1965年(昭和40) 「佐々木隆興先生論文集」を出版、米寿祝賀会(於:平塚座忘荘)が開催される
・1966年(昭和41)10月31日  東京において、88歳で亡くなる 
・1967年(昭和42) 一周忌記念講演会(於:日本工業倶楽部)が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1934年(昭和9)小説家・児童文学作家灰谷健次郎の誕生日詳細
1943年(昭和18)軍需会社法」が公布される詳細
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 今日は、平成時代の1999年(平成11)に、上信越自動車道の中郷IC~上越JCT間が開通し、藤岡JCTから長野県長野市を経て上越JCT間が全通した日です。
 上信越自動車道(じょうしんえつじどうしゃどう)は、群馬県の藤岡JCTから長野県長野市を経て新潟県上越JCTへ至る、全長204.3kmの高速道路(高速自動車国道)で、全線を日本道路公団が建設を進めましたが、2005年(平成17)に日本道路公団が分割民営化されてからは東日本高速道路に引き継がれました。1966年(昭和41)に東京都~新潟県直江津市(現在の上越市)間の予定路線が決定、1971年(昭和46)に長野県更埴市(現在の千曲市)~須坂市間の基本計画、1972年(昭和47)に群馬県藤岡市~長野県長野市間の基本計画が決定、1973年(昭和48)には、更埴市~須坂市間の整備計画・施行命令が出されます。
 1973年(昭和48)に長野県長野市~新潟県上越市間の基本計画が決定、1979年(昭和54)に藤岡市~佐久市間の整備計画・施行命令が出され、1980年(昭和55)7月17日には、最初に藤岡JCT~藤岡IC間が関越自動車道の一部として開通しました。その後も順次整備計画が決定して施行命令が出され、1993年(平成5)には更埴JCT~須坂長野東IC間が開通(長野IC~須坂長野東IC間は暫定2車線)しています。
 1993年(平成5)に藤岡IC~佐久IC間が開通、藤岡JCT~藤岡IC間が関越自動車道から上信越自動車道になりました。その後も、1995年(平成7)に佐久IC~小諸IC間、須坂長野東IC~信州中野IC間、1996年(平成8)に小諸IC~更埴JCT間、1997年(平成9)に信州中野IC~中郷IC間が開通と路線距離を伸ばしていき、1999年(平成11)10月30日の中郷IC~上越JCT間の開通により全線開通し、上越JCTで北陸自動車道と接続します。
 それからも4車線化工事が進められ、2005年(平成17)に日本道路公団が分割民営化されてからは東日本高速道路に引き継がれ、2019年(令和元)12月5日の信濃町IC~妙高SA、中郷IC~新井PA/スマートIC間の4車線化によって全線4車線化がなりました。現在、藤岡JCTで関越自動車道、佐久小諸JCTで中部横断自動車道、更埴JCTで長野自動車道、上越JCTで北陸自動車道に接続しています。
 尚、本州を縦断しているために、五里ヶ峰トンネル(上り線4518m)や八風山トンネル(4468m)、太郎山トンネル(下り線4303m)などの長大トンネルが多く、休憩施設を活用した地域拠点整備事業・ハイウェイオアシスも4ヶ所設置されました。今では、関越自動車道と共に、首都圏と北陸地方を結ぶ重要路線となっています。

〇上信越自動車道関係略年表

・1966年(昭和41)7月1日 東京都~直江津市(現・上越市)間の予定路線が決定する
・1971年(昭和46)6月8日 更埴市(現・千曲市)~須坂市間の基本計画が決定する
・1972年(昭和47)6月30日 藤岡市~長野市間の基本計画が決定する
・1973年(昭和48)10月19日 更埴市~須坂市間の整備計画・施行命令が出される
・1973年(昭和48)11月1日 長野市~上越市間の基本計画が決定する
・1979年(昭和54)3月2日 藤岡市~佐久市間の整備計画・施行命令が出される
・1980年(昭和55)7月17日 藤岡JCT~藤岡IC間が関越自動車道として開通する
・1982年(昭和57)1月20日 須坂市~中野市間の整備計画が決定する
・1985年(昭和60)5月16日 須坂市~中野市間の施行命令が出される
・1986年(昭和61)1月21日 佐久市~更埴市間・中野市~中郷村(現・上越市)間の整備計画が決定する
・1987年(昭和62)12月8日 佐久市~更埴市間の施行命令が出される
・1988年(昭和63)1月31日 中郷村~上越市間の整備計画が決定する
・1988年(昭和63)9月22日 中野市~中郷村間の施行命令が出される
・1992年(平成4)12月10日 佐久市~更埴市間の4車線化施行が出される
・1993年(平成5)3月25日 更埴JCT~須坂長野東IC間開通、長野IC~須坂長野東IC間は暫定2車線となる
・1993年(平成5)3月27日 藤岡IC~佐久IC間開通、藤岡JCT~藤岡IC間が関越自動車道から上信越自動車道になる
・1995年(平成7)11月7日 佐久IC~小諸IC間開通(当時は暫定2車線)する
・1995年(平成7)11月30日 須坂長野東IC~信州中野IC間開通、長野IC~須坂長野東IC間が4車線化する
・1996年(平成8)11月14日 小諸IC~更埴JCT間開通(当時は暫定2車線)する
・1997年(平成9)10月16日 信州中野IC~中郷IC間開通(当時は暫定2車線、妙高SA~中郷IC間は4車線)する
・1998年(平成10)12月25日 中野市~信濃町間4車線化の整備計画・施行命令が出される
・1999年(平成11)10月30日 中郷IC~上越JCT間開通により全線開通、上越JCTで北陸自動車道と接続する
・2000年(平成12)4月28日 藤岡PA(藤岡ハイウェイオアシス、関越自動車道方面)が開設する
・2002年(平成14)7月26日 佐久IC~小諸IC間が4車線化する
・2002年(平成14)12月18日 小諸IC~上田菅平IC間が4車線化する
・2003年(平成15)12月20日 碓氷軽井沢IC~佐久IC間が4車線化する
・2004年(平成16)7月17日 上田菅平IC~更埴JCT間が4車線化する
・2005年(平成17)4月29日 信州中野IC~豊田飯山IC間が4車線化する
・2005年(平成17)10月1日 日本道路公団が分割民営化され、東日本高速道路に引き継がれる
・2009年(平成21)4月27日 中野市~上越市間が4車線化整備に計画変更される
・2009年(平成21)11月19日 豊田飯山IC~信濃町IC間が4車線化する
・2011年(平成23)3月26日 佐久小諸JCT開通により中部横断自動車道と接続する
・2018年(平成30)12月7日 新井PA/スマートIC~上越JCT間が4車線化される
・2019年(令和元)12月5日 信濃町IC~妙高SA、中郷IC~新井PA/スマートIC間が4車線化され全線4車線化がなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1850年(嘉永5)医師・蘭学者高野長英の命日詳細
1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1779年(安永8)に、第118代の天皇とされる後桃園天皇が亡くなった日ですが、新暦では12月6日となります。
 後桃園天皇(ごももぞのてんのう)は、江戸時代中期の1758年(宝暦8年7月2日)に、京都において、桃園天皇の第一皇子(母は関白太政大臣一条兼香の娘)として生まれましたが、名は英仁(ひでひと)と言いました。1759年(宝暦9)に儲君となり、同年に親王宣下されましたが、1762年(宝暦12)に父・桃園天皇が亡くなった時は幼少だったため、伯母の智子内親王(後桜町天皇)が第117代とされる天皇となります。
 1768年(明和5)に立太子し、同年に元服すると、1771年(明和7)には、伯母後桜町天皇の譲位を受けて践祚、第118代とされる天皇として即位しました。在位中の1773年(安永2年)に、朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分(安永の御所騒動)が起き、江戸幕府の圧力が強化されています。
 生来病弱でしたが、好学で、在位中の日記『後桃園院宸記』(東山御文庫)、禁中儀式書『年中さかつきの次第』を残し、和歌集『後桃園院御点』も伝えられてきました。しかし、在位10年皇嗣をきめないまま、1779年(安永8年10月29日)に京都において、数え年22歳で亡くなり、陵墓は月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされます。
 子が欣子内親王のみであったため、急遽、傍系にあたる閑院宮家より師仁親王を養子に迎えて、即位(光格天皇)させました。

〇後桃園天皇の主要な著作

・日記『後桃園院宸記(しんき)』8冊(東山御文庫)
・禁中儀式書『年中さかつきの次第』
・和歌集『後桃園院御点(ごてん)』1冊

☆後桃園天皇関係略年表年表(日付は旧暦です)

・1758年(宝暦8年7月2日) 京都において、桃園天皇の第一皇子(母は関白太政大臣一条兼香の娘)として生まれる
・1759年(宝暦9年1月18日) 儲君となる
・1759年(宝暦9年5月15日) 親王宣下される
・1762年(宝暦12年7月) 父・桃園天皇が亡くなり、伯母の智子内親王(後桜町天皇)が第117代とされる天皇となる
・1768年(明和5年2月19日) 立太子する
・1768年(明和5年8月9日) 元服する
・1771年(明和7年11月24日) 伯母後桜町天皇の譲位を受けて践祚する
・1772年(明和8年4月28日) 第118代とされる天皇として即位する 
・1773年(安永2年) 朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分が行われる(安永の御所騒動)
・1779年(安永8年10月29日) 京都において、数え年22歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
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haginoran01

 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、明治新政府に対する士族の反乱の一つ、萩の乱が起きた日です。
 萩の乱(はぎのらん)は、山口県萩(現在の萩市)で、旧長州藩士らが開明政策を掲げる明治新政府に対して起した反乱でした。1876年(明治9)10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応、長州藩士で明治新政府参議、兵部大輔前原一誠が守旧主義の立場から政府を去り、郷里の不平士族に擁立されて、反政府の旗を掲げて蜂起したものです。
 一誠らは萩の旧藩校明倫館に200人余を集め政府粛正の奏上を計画、山陰道を上京しようとしましたが、期待した薩摩の不平士族らの協力は得られず、広島鎮台司令長官三浦梧楼らによって1週間余で鎮圧されました。一誠ら首謀者8名は、12月に斬首刑に処せられ、それ以外にも数十名が懲役刑となっています。
 翌年には、西郷隆盛らによる西南戦争が約半年にわたって起こったものの、新政府軍に鎮圧され、一応武力による士族の反乱は収まりました。

〇明治政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる
・1877年(明治10)3月 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
1962年(昭和37)小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の命日詳細
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mojikatsujibunkanohi01

 今日は、平成時代の2005年(平成17)制定の「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です。
 文字・活字文化の日(もじ・かつじぶんかのひ)は、2005年(平成17)7月29日に公布・施行された「文字・活字文化振興法」第十一条によって、定められました。この日は、読書週間(11月3日の文化の日を中心とした2週間)の最初の日にあたり、文字・活字文化についての関心と理解を広く深めるため、図書館や出版社、書店などで様々な取組みが行われています。

〇「文字・活字文化振興法」とは?
 超党派の国会議員286名から成る活字文化議員連盟において法案がまとめられ、議員立法によって、2005年(平成17)7月29日に公布・施行された、文字・活字文化の振興を総合的に推進するための国や自治体の基本的責務を定めた法律(平成17年法律第91号)です。
 この法律は、「我が国における文字・活字文化の振興に関する施策の総合的な推進を図り、もって知的で心豊かな国民生活及び活力ある社会の実現に寄与することを目的とする。」(第1条)と定め、活字などの文字を用いて表現されたもの(文章)を読んだり書いたり出版する活動、または出版物などの文化的所産を「文字・活字文化」と定義し、この文字・活字文化の恵沢をすべての国民が生涯にわたり平等に享受できる環境を整備すること、国語が日本文化の基盤であることに配慮すること、学校教育で言語力を高めていくことを基本理念とし、国や地方自治体はこの理念にのっとり、文字・活字文化の振興に関する施策を総合的に策定し、実施する責務を有することが規定されました。その具体的な内容として、文字・活字にかかわる著作物再販制度の維持、著作者及び出版者の権利保護の充実を挙げ、読書週間の初日にあたる10月27日を「文字・活字文化の日」として定めています。
 尚、活字文化議員連盟は,国・行政・民間が展開すべき施策として、①公立図書館の設置基準を自治体単位から人口比に改善すること、公立図書館における学術・研究書等の整備充実や専門職員・読書アドバイザーの配置の推進(地域における文字・活字文化の振興)、②読書指導の充実、図書整備費の交付税措置の充実・予算化、国語教育の充実(学校教育に関する施策)、③著作物再販制度の維持、著作者および出版者の権利保護の充実、ブック・フェア等国際文化交流の支援(出版活動への支援)などを掲げてきました。
 以下に、「文字・活字文化振興法」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆「文字・活字文化振興法」2005年(平成17)7月29日公布・施行

(目的)

第一条 この法律は、文字・活字文化が、人類が長い歴史の中で蓄積してきた知識及び知恵の継承及び向上、豊かな人間性の涵かん 養並びに健全な民主主義の発達に欠くことのできないものであることにかんがみ、文字・活字文化の振興に関する基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、文字・活字文化の振興に関する必要な事項を定めることにより、我が国における文字・活字文化の振興に関する施策の総合的な推進を図り、もって知的で心豊かな国民生活及び活力ある社会の実現に寄与することを目的とする。

(定義)

第二条 この法律において「文字・活字文化」とは、活字その他の文字を用いて表現されたもの(以下この条において「文章」という。)を読み、及び書くことを中心として行われる精神的な活動、出版活動その他の文章を人に提供するための活動並びに出版物その他のこれらの活動の文化的所産をいう。

(基本理念)

第三条 文字・活字文化の振興に関する施策の推進は、すべての国民が、その自主性を尊重されつつ、生涯にわたり、地域、学校、家庭その他の様々な場において、居住する地域、身体的な条件その他の要因にかかわらず、等しく豊かな文字・活字文化の恵沢を享受できる環境を整備することを旨として、行われなければならない。
2 文字・活字文化の振興に当たっては、国語が日本文化の基盤であることに十分配慮されなければならない。
3 学校教育においては、すべての国民が文字・活字文化の恵沢を享受することができるようにするため、その教育の課程の全体を通じて、読む力及び書く力並びにこれらの力を基礎とする言語に関する能力(以下「言語力」という。)の涵かん 養に十分配慮されなければならない。

(国の責務)

第四条 国は、前条の基本理念(次条において「基本理念」という。)にのっとり、文字・活字文化の振興に関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する。

(地方公共団体の責務)

第五条 地方公共団体は、基本理念にのっとり、国との連携を図りつつ、その地域の実情を踏まえ、文字・活字文化の振興に関する施策を策定し、及び実施する責務を有する。

第六条 国及び地方公共団体は、文字・活字文化の振興に関する施策が円滑に実施されるよう、図書館、教育機関その他の関係機関及び民間団体との連携の強化その他必要な体制の整備に努めるものとする。

(地域における文字・活字文化の振興)

第七条 市町村は、図書館奉仕に対する住民の需要に適切に対応できるようにするため、必要な数の公立図書館を設置し、及び適切に配置するよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、公立図書館が住民に対して適切な図書館奉仕を提供することができるよう、司書の充実等の人的体制の整備、図書館資料の充実、情報化の推進等の物的条件の整備その他の公立図書館の運営の改善及び向上のために必要な施策を講ずるものとする。
3 国及び地方公共団体は、大学その他の教育機関が行う図書館の一般公衆への開放、文字・活字文化に係る公開講座の開設その他の地域における文字・活字文化の振興に貢献する活動を促進するため、必要な施策を講ずるよう努めるものとする。
4 前三項に定めるもののほか、国及び地方公共団体は、地域における文字・活字文化の振興を図るため、文字・活字文化の振興に資する活動を行う民間団体の支援その他の必要な施策を講ずるものとする。

(学校教育における言語力の涵養)

第八条 国及び地方公共団体は、学校教育において言語力の涵養が十分に図られるよう、効果的な手法の普及その他の教育方法の改善のために必要な施策を講ずるとともに、教育職員の養成及び研修の内容の充実その他のその資質の向上のために必要な施策を講ずるものとする。
2 国及び地方公共団体は、学校教育における言語力の涵養に資する環境の整備充実を図るため、司書教諭及び学校図書館に関する業務を担当するその他

(文字・活字文化の国際交流)

第九条 国は、できる限り多様な国の文字・活字文化が国民に提供されるようにするとともに我が国の文字・活字文化の海外への発信を促進するため、我が国においてその文化が広く知られていない外国の出版物の日本語への翻訳の支援、日本語の出版物の外国語への翻訳の支援その他の文字・活字文化の国際交流を促進するために必要な施策を講ずるものとする。

(学術的出版物の普及)

第十条 国は、学術的出版物の普及が一般に困難であることにかんがみ、学術研究の成果についての出版の支援その他の必要な施策を講ずるものとする。

(文字・活字文化の日)

第十一条 国民の間に広く文字・活字文化についての関心と理解を深めるようにするため、文字・活字文化の日を設ける。
2 文字・活字文化の日は、十月二十七日とする。
3 国及び地方公共団体は、文字・活字文化の日には、その趣旨にふさわしい行事が実施されるよう努めるものとする。

(財政上の措置等)

第十二条 国及び地方公共団体は、文字・活字文化の振興に関する施策を実施するため必要な財政上の措置その他の措置を講ずるよう努めるものとする。

附 則

この法律は、公布の日から施行する。

   「官報」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
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