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 今日は、鎌倉時代の1231年(寛喜3)に、第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなった日ですが、新暦では11月6日となります。
 土御門天皇(つちみかどてんのう)は、1195年(建久6年11月1日)に、後鳥羽天皇の第一皇子(母は法勝寺執行法印能円の女)として生まれましたが、名は為仁と言いました。1198年(建久9)の4歳の時、父・後鳥羽天皇の譲位により践祚し、第83代とされる天皇として即位したものの、父による院政がしかれます。
 1199年(正治元年1月13日)に、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われるようになりました。1210年(承元4)の16歳の時、父の意向により、異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位させられ、上皇となったものの、遺恨を残したと伝えられています。
 歌を能くし、1216年(建保4)には、『土御門院御百首』が成立しましたが、藤原定家・家隆の合点、定家の評が付されました。1221年(承久3)の承久の乱では。父・後鳥羽上皇の倒幕計画に直接にかかわらず、乱鎮圧後幕府からの沙汰もなかったものの、後鳥羽・順徳両上皇が配流が決まると、自ら申し出て同年閏11月に土佐国に流されます。
 翌年には幕府の意向により阿波国に移り、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇を受け、1231年(寛喜3)には出家して、法名は行源となりました。しかし、同年10月11日に配流先の阿波国(現在の徳島県)において、数え年37歳で亡くなり、陵墓は京都の金原陵(現在の京都府長岡京市金ヶ原金原寺)とされたものの、徳島県板野郡堀江 (現在の鳴門市) に火葬塚も残されています。
 尚、優れた歌人でもあり、御製を集めた『土御門院御集』が残され、『続後撰和歌集』以後の勅撰集に154首入集し、新三十六歌仙にも選ばれました。

<代表的な歌>

・「しづかなる心のうちも久方の空に隈なき月やしるらむ」(土御門院御百首)
・「雪のうちに春はありとも告げなくにまづ知るものは鶯の声」(続後撰和歌集)
・「舟つなぐ影も緑になりにけり六田の淀のたまのを柳」(風雅和歌集)
・「むら雲のたえまたえまに星見えてしぐれをはらふ庭の松風」(玉葉和歌集)
・「白雲をそらなるものと思ひしはまだ山こえぬ都なりけり」(続古今和歌集)

〇土御門天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1195年(建久6年11月1日) 後鳥羽天皇の第一皇子(母は法勝寺執行法印能円の女)として生まれる
・1198年(建久9年1月11日) 4歳の時、父・後鳥羽天皇の譲位により践祚する
・1198年(建久9年3月3日) 第83代とされる天皇として即位するが、父による院政がしかれる
・1199年(正治元年1月13日) 鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われる
・1210年(承元4年11月25日) 16歳の時、異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位する
・1210年(承元4年12月5日) 上皇となる
・1216年(建保4年3月) 『土御門院御百首』が成立するが、藤原定家・家隆の合点、定家の評が付される
・1221年(承久3年6月) 承久の乱が起きる、
・1221年(承久3年閏11月) 自ら申し出て土佐国に流される
・1222年(承久4年) 幕府の意向により阿波国に移る
・1231年(寛喜3年10月) 出家して、法名は行源となる
・1231年(寛喜3年10月11日) 配流先の阿波国(現在の徳島県)において、数え年37歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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