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 今日は、江戸時代後期の1831年(天保2)に、棋士・将棋十二世名人小野五平の生まれた日ですが、新暦では11月9日となります。
 小野五平(おの ごへい)は、阿波国脇町(現在の徳島県美馬市)の旅籠の長男として生まれましたが、幼名は土井喜太郎と言いました。泊まり客の指す将棋を見たのが病みつきとなり、三度の飯より将棋が好きになり、7、8歳の頃には、すでにj:負けることはなかったといい、1846年(弘化3)に皮膚病の治療のため有馬温泉に滞在中、天野宗歩門下とされる長崎出身の三段格の棋士(氏名不詳)に見いだされたとされます。
 1850年(嘉永3)にその三段格の棋士より天野宗歩への紹介状を貰い、京都にのぼって"幕末の棋聖"天野宗歩の指導を受け、1860年(万延元)には、再び天野の指導を受けるべく江戸に出ましたが、すでに天野が亡くなっていたため、十一代大橋宗桂の下に身を寄せ、三段を許されました。1861年(文久元)に宗桂から四段を許されますが、同年に日本橋・銀町一丁目の丁字風呂で渋谷孫助と左香落を対局した記録が残されています。
 1866年(慶応2)に五段、1869年(明治2)に六段に昇段、土井五香と改名した後、家名を継いで尾野五平と名乗り、同年に八代伊藤宗印らが呼びかけた「百番出版校合会」に参加、八代宗印と平香交じりで対局しました。1879年(明治12)に小野五平と改名、七段へ昇段、本所亀町の藤堂隠宅で宗印と左香落とされで対局、252手で小野の勝利に終わっています。
 1880年(明治13)に八段に昇段、1893年(明治26)に八代伊藤宗印が死去し、名人位はその後5年間空位となったのち、1898年(明治31)に十二世名人を襲位、家元出身以外では初めてとなりました。福沢諭吉・榎本武揚らとも交際し、棋士の社会的地位を高め、多くの門弟に教え、将棋界隆盛の基礎をつくったとされ、23年間名人位を保持したものの、1921年(大正10年)1月29日に、数え年91歳で亡くなっています。

〇小野五平関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1831年(天保2年10月6日) 阿波国脇町(現在の徳島県美馬市)の旅籠の長男として生まれる
・1846年(弘化3年) 皮膚病の治療のため有馬の温泉に滞在中、天野宗歩の門下とされる長崎出身の三段格の棋士(氏名不詳)に見いだされる
・1850年(嘉永3年) 某三段より天野宗歩への紹介状を貰い、京都にのぼって天野宗歩の指導を受ける
・1860年(万延元年) 再び天野の指導を受けるべく江戸に出たが、すでに天野は死去した後であったため、十一代大橋宗桂の下に身を寄せ、三段を許される
・1861年(文久元年) 宗桂から四段を許される
・1861年(文久元年7月15日) 日本橋・銀町一丁目の丁字風呂で渋谷孫助と左香落を対局した記録が残されている
・1866年(慶応2年) 五段に昇段する
・1869年(明治2年) 六段に昇段、土井五香と改名した後、家名を継いで尾野五平と名乗る
・1869年(明治2年5月21日) 八代伊藤宗印らが呼びかけた「百番出版校合会」に参加、八代宗印と平香交じりで対局する
・1870年(明治5年1月20日) 宗印や大矢東吉らと連将棋に参加する
・1870年(明治5年6月6日) 深川木場の鹿島清次郎宅で宗印と香落とされで対局する
・1879年(明治12年) 小野五平に改名する
・1879年(明治12年)4月13日 宗印は小野に七段への昇段を許す
・1879年(明治12年)10月13日 本所亀町の藤堂隠宅で宗印と左香落とされで対局、11月10日に252手で小野の勝利に終わる
・1880年(明治13年)10月 八段に昇段する
・1893年(明治26年) 八代伊藤宗印が死去し、名人位はその後5年間空位となる
・1898年(明治31年) 十二世名人を襲位する
・1898年(明治31年)5月8日 名人披露会を開催する
・1898年(明治31年)5月27日 両国の中村楼で名人披露の宴を張る
・1915年(大正4年) 坂田三吉に八段位を認める
・1917年(大正6年) 関根金次郎と和解した小野は築地・新喜楽で右香落で対戦して勝利する
・1920年(大正9年) 柳沢保恵の発案で上野・常盤華壇で長寿の祝賀会が催される
・1921年(大正10年)1月29日 数え年91歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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