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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、言語学者・国語学者・随筆家新村出の生まれた日です。
 新村出(しんむら いずる)は、山口県山口において、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれましたが、1889年(明治22)に、父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、元小姓頭取の新村猛雄の養子となりました。1896年(明治29)に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学へ入学、1899年(明治32)に博言学科を卒業、国語研究室助手を経て、1902年(明治35)より東京高等師範学校の教授となる一方で東大大学院で国語学を専攻します。
 1904年(明治37)に東京帝国大学助教授を兼任、1907年(明治40)に京都帝国大学助教授となり、欧州留学に出発し、イギリス・ドイツ・フランスで言語学研究に従事、1908年(明治40)にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として参加、1909年(明治41)には、欧州留学から帰国して京都帝国大学教授となり、言語学講座を担当しました。1910年(明治43)に文学博士、翌年には、京都帝国大学図書館長となり、日本語音韻史や近隣の諸言語との比較研究に成果をあげ、1927年(昭和2)に論文集『東方言語史叢考』を刊行、翌年には帝国学士院会員となります。
 1930年(昭和5)に語源研究『東亜語源志』を刊行、1935年(昭和9)には、宮中の講書始の正メンバーに選ばれ、昭和天皇に国書の進講を行い、国語審議会委員も勤めました。1936年(昭和11)に京都帝国大学を定年退官し名誉教授となってからは、1937年(昭和12)に音声学協会、1938年(昭和13)に日本言語学会、1942年(昭和17)に日本民族学協会などの会長を歴任します。
 1943年(昭和18)に『国語学叢録』を刊行、1949年(昭和24)に国語辞書『言林』を編纂、1955年(昭和30)には、国語辞書『広辞苑』を編纂、初版が発刊されました。これらの功績により、1956年(昭和31)に文化勲章を受章、文人でもあり、『琅玕記 』(1930年)など多くの随筆も残しましたが、1967年(昭和42)8月17日に、京都府京都市北区の自宅において、90歳で亡くなっています。

〇新村出の主要な著作

・南蛮文化論考『南蛮更紗』(1924年)
・南蛮文化論考『南蛮広記』(1925年)
・論文集『東方言語史叢考』(1927年)
・語源研究『東亜語源志』(1930年)
・随筆集『琅玕記 (ろうかんき) 』(1930年)
・『言語学概論』(1935年)
・国語辞書『辞苑』編纂(1935年)
・『日本吉利支丹文化史』(1940年)
・『国語学叢録』(1943年)
・国語辞書『言林』編纂(1949年)
・国語辞書『広辞苑』編纂(1955年)

〇『広辞苑』自序 新村出

 いまさら辞典懐古の自叙でもないが、明治時代の下半期に、国語学言語学を修めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入したころには、恩師上田万年先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両先進の、辞書編集法およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであった。柳村上田からは『新英大辞典』の偉業の紹介を「帝国文学」の誌上で示され、目をみはって海彼にあこがれた。われらもいかにしてか、理想的な大中小はともかくも、あんなに整った辞典を編んでみたいものだと、たのしい夢を見たのであった。
 かくて、英米独仏の大辞書の完備に対して限りなき羨望の情が動き、ひたむき学究的な理想にのみふけりつつ、青春の客気で現実的方面については一層暗愚であったことは、後年とほぼ同様であった。卒業後の三年めの明治三十五年(一九〇二年)から凡そ五年間、それぞれの大辞典の編著や統理に成功を収めた上田・大槻・芳賀・松井等の諸先覚には、他方において国語の研究や調査や教育や改善やの諸事業にわたって計るべからざる種々の資益を得たことが、かれこれと想起されてくる。とりわけ、上田・松井両博士の『大日本国語辞典』と、大槻博士の『大言海』とに関しては、身親しくその編集室に見学した縁故もあったのみか、殊に後者の校訂には深く参与し、前者の再刊に際しては僅少ながら接触したゆかりもあって、自分のためにも、何かと参考に資せられて幸福であった。その後も、かれこれ二つばかりの辞典の編集に参画はしたものの、元より綜合統理の任に当った次第ではなかった。それに反して、自分の仕事は、主として語原や語史、語誌や語釈の、主として分解的な、しかし根本的本質的な方面の考究に専念し、綜合的方面の事業に意を致し力を注ぐまでには至らなかった。それは、自分自身の研究が、当初は音韻および文字に、やや進んでからは漸次語法や語義に及び、後年には段々と語誌に向って来たのであって、要は分解を主とし、綜合にうとかった。
 今から二十年前、私の辞典の処女作が出来て、望外の歓迎を受けたが、内心大いに満足し得ず、『言海』の著者が、古く率直にその巻末に録しておいたごとく、そんなに良く出来あがったものは無く、ただ直してゆくばかりだ、と思って、すぐさま改訂の業を起し、或は簡約し、或は増訂し、同時に業を進めて、大戦の末期に入り、改訂版の原稿が災厄に帰した。簡約版は衆知のごとく、早く印行して世に出でたが、しかし私に代って戦時中には、統理の傍ら、他方には、新たに、語詞の採訪と採集とに力を尽くしつつ専ら改訂の業に従った私の次男猛は、苦心努力の結果、辞書編集上、望外にもこよなき良い経験と智識とを得たかと信ずる。彼自身もまたフランスの大辞典リットレないしラルース等の名著およびダルメステテール等の中辞典から平素得つつある智識を、他山の石として、乃父の『改訂辞苑』旧版本の礎石の材料にも供してくれた。彼は従前のごとくには、今回の『広辞苑』の編集に関して、協力する余裕は十分でなかったが、名古屋大学の行余の力をこれに注いでくれ、老父の能くせざる所を補足し、編集および印刷の進行、人事その他各般の統理に心を尽くしてくれた。現代の国語に対する智識と感覚とについては、当然長所の在ることは認めてよろしく、その点において、むしろ語史にのみ傾倒せる編者の粗漫な一方面を補佐してくれたことを付言したい。また、グリム兄弟の場合とは、全く違った情味が存する。
 以上、主として『改訂辞苑』の進行および始末について述べつつ、その善後の処理に及ばんとしたが、戦後その改訂版の長所を保存し、短所を除去し、内容形態共に新時代の要求に応ずる必要上、根本的修正と増補とを施すことを得たのは、昭和二十三年九月より岩波書店内に設置された編集室において、斯業の経験と智識とを具備する市村宏氏を編集主任となし、終始一貫、増訂の業を進めたことによる。爾来、編集部はこの複雑な編集に従事し、その間いくたびか内員外員の増減変動と場所の転移等とを見たが、書店内外よりの定期臨機に嘱託された諸員諸君の格別なる協力に依って、編集すでに了り、校正および修治の業、将に完成せんとするに至ったのは、まことに欣懐といたす所である。
 抱負と実行、理想と現実、その間、自分の未熟か老境かよりして、事志と違った趣きがあることを自省してやまないが、とにかく、簡明にして平易、広汎にして周到、雅語漢語、古語新語、慣用語と新造語、日用語と専門語、旧外来語と新外来語、新聞語と流行語、みなつとめて博載を期した。発音の正確と語法の説明には意を注ぎて、規範を示さんと欲したけれども、現在の規範こんとんとして未だ定まらぬ不便をなげかねばならなかった。
 誇称してもよいが、われら父子が親交ある哲学・史学・文学の先進同友をはじめ、今日の科学界に令名あり世界的栄誉をも博せられた碩学者より、直接にも間接にも指示を受けた語詞の説明も少からず存し、花さき実のれる、この言語園を展望しながら、感激してやまぬ心境に在るのである。従来の経験により、あとからあとから、自他の注意から、種々補修を要することが、殊に一般辞書の上には生じがちなのを按ずるが、さりとて先進の辞典学者の引いた言葉にたよって、あのラテン語の金言や、ゲーテの箴言にもあるがごとき、過まるは人のつね、容るすは神のみち、とやら申された遁辞めいた文句にすがる気はない。ただ周密な眼光をもって徹底的に過誤なきを期したばかりである。
 もしそれ、物の順序からすると、大辞書が先きに出来あがってから、その後に、それらの成果を収拾し抜萃し、簡易に平明に、短縮して編集してこそ、より完全な中小辞典、簡短(ショーター)とか、要略(コンサイス)とかの文字を冠らせた中型小型の辞書が作られるわけであるが、私一個の場合、その逆のコースを進んで来たので、殊に現今わが国語界の標準規律は未だ緒につかず、新語の粗製濫造のはげしい時代には、程よき中辞典の達成は、省みるに早計であったかも知れない。
 上記のごとく、本書は、当初の出発点こそ改訂版をいささか加除し修正する程度から進んだのであったが、いつしか本来の節度をかなり超えて、根本的修正が、ひとり文字の表記法のみにとどまらず、載録語詞、分量の上のみならず、かなり本質的にも及ぶことになってしまった。結局、実質にも、形式にも、少なからぬ進歩の跡がみとめられると信ずる。従って、頁数や組方の上にも、多大の影響を及ぼし、厚みその他装幀等色々な点にも、予想以上の多難を感ぜねばならなかった。
 かくて、編集完成の時期もおくれたし、諸般の煩雑名状しがたい苦難も甞めなければならなかった。編集部においても、辛うじてこれらの難を克服し得たのであるが、部員の手不足などを補充するために、書店の内部からも、俊敏練達の士の参加協力を得ると共に、臨時に外部からも特に明達懇篤な新進諸学人の援助をも求めることとなり、内外一和、衆力一致、他方もちろん熟練な校正員の補翼にも由り、着々、印刷の工程もなめらかにはかどり、ここに発行の機運に恵まれるに至ったのは、編者の満足これに及ぶものはない。
 それら諸彦の助力を跋文中に銘記するに先だって、特に今記すべき一事は、畏友大野晋氏が、語法と基本語詞につき、更にその同窓板坂元・同美智子両氏の協力をも得て、応急適切な援助を寄せられたことである。
 斯業行程の始終に関しては、一に岩波書店前店主故岩波茂雄氏の宏量と、現社長同雄二郎氏の寛厚に感謝すると共に、事業の進行上絶えず店内の練達者諸賢から、啓発激励を蒙ったことを肝銘する。さかのぼっては、前行『辞苑』の出版改訂時代の、博文館の上局諸氏と、忠実なる編集主任たりし溝江八男太翁と内助の一老友をも想起せざるを得ない。曽て「私の信条」(本全集第十三巻二九七頁)として書いた如く、老至って益々四恩のありがたきを感ずるのみである。(昭和三十年一月一日)

☆新村出関係略年表

・1876年(明治9)10月4日 山口県山口において、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれる
・1889年(明治22) 父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる
・1896年(明治29) 第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学へ入学する
・1899年(明治32) 東京帝国大学文科大学博言学科を卒業する
・1902年(明治35) 東京高等師範学校の教授となる一方で東大大学院で国語学を専攻する
・1904年(明治37) 東京帝国大学助教授を兼任する
・1907年(明治40) 京都帝国大学助教授となり、ヨーロッパへの留学に出発する
・1908年(明治41) ドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として参加する
・1909年(明治42) ヨーロッパ留学から帰国して京都帝国大学教授となり、言語学講座を担当する
・1910年(明治43) 文学博士となる
・1911年(明治44) 京都帝国大学図書館長となる
・1919年(大正8) 中国旅行に出かける
・1921年(大正10) 欧米旅行に出かける
・1924年(大正13) 南蛮文化論考『南蛮更紗』を刊行する
・1925年(大正14) 南蛮文化論考『南蛮広記』を刊行する
・1927年(昭和2) 論文集『東方言語史叢考(そうこう)』を刊行する
・1928年(昭和3) 帝国学士院会員となる
・1930年(昭和5) 語源研究『東亜語源志』を刊行する
・1933年(昭和7) 宮中の講書始の控えメンバーに選ばれる、欧米旅行を行う
・1935年(昭和9) 宮中の講書始の正メンバーに選ばれ、昭和天皇に国書の進講を行う、国語審議会委員を勤める
・1936年(昭和11) 京都帝国大学を定年退官し名誉教授となる
・1937年(昭和12) 音声学協会の会長となる
・1938年(昭和13) 日本言語学会の会長となる
・1942年(昭和17) 日本民族学協会の会長となる
・1943年(昭和18) 『国語学叢録』を刊行する
・1944年(昭和19) 学術会議会員となる
・1949年(昭和24) 国語辞書『言林』を編纂、刊行する
・1950年(昭和25) 日本ダンテ学会の会長となる
・1951年(昭和26) 日西文化協会の会長となる
・1955年(昭和30) 国語辞書『広辞苑』を編纂、初版が発刊される
・1956年(昭和31) 文化勲章を受章する
・1967年(昭和42)8月17日 京都府京都市北区の自宅において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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