ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年09月

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 今日は、奈良時代の769年(神護景雲3)に、宇佐八幡宮神託事件が起きた日ですが、新暦では10月28日となります。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は、奈良時代の769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上した事件です。天皇は夢で八幡神から宇佐に尼法均(和気広虫)を派遣せよと求められ、代わりにその弟の和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申しました。
 このことにより、清麻呂は「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて、大隅に流刑とされます。しかし、天皇も道鏡を皇位につけるのを断念し、770年(神護景雲4年8月4日)に天皇が亡くなると状況が一変しました。
 同年に道鏡は、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られることになります。
 以下に、『続日本紀』巻第三十の769年(神護景雲3年9月25日)の条の宇佐八幡宮神託事件の部分を現代語訳・注釈付きで全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇道鏡とは?

 奈良時代の法相宗の僧です。700年(文武天皇4年)?に、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で、弓削櫛麻呂の息子として生まれたとされますが、はっきりしません。
 若い頃に、法相宗の高僧・義淵の弟子となったとされ、また東大寺の僧として華厳宗の名僧良弁に仕え、葛城山中で如意輪法を修し、梵文(サンスクリット)に通じたと言われます。
 その後、禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となり、761年(天平宝字5年)に行幸中の近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病し、信任を得ました。763年(天平宝字7年)に慈訓に代わって少僧都に任じられ、764年(天平宝字8年9月)に藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されると、大臣禅師に任ぜられて政権を握ります。
 同年10月に、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚すると、翌年の称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられました。765年(天平宝字9年)に貴族の墾田をいっさい禁じたものの、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、翌年に法王に任じられ、767年(神護景雲元年)には阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど権力をふるって貴族を抑圧します。
 769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する「宇佐八幡宮神託事件」が起こり、和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したことにより、「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて大隅に流刑とされました。しかし、天皇に就くことはできず、称徳天皇が道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸していた時に発病し、770年(神護景雲4年8月4日)平城宮において亡くなると状況が一変します。
 同年には、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られました。

〇和気清麻呂とは?

 奈良時代から平安時代初期に活躍した貴族で、公卿・和気氏の祖です。733年(天平5)に、備前国藤野郡(現在の岡山県和気郡和気町)で、備前の豪族だった磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子として生まれましたが、本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ)と言いました。
 孝謙天皇の頃上京し、武官として右兵衛少尉、従六位上の官位を得たとされます。764年(天平宝字8)に起きた藤原仲麻呂の乱で、孝謙上皇側に参加し、765年(天平神護元)正月にその功労により、勲六等の叙勲を受けました。
 同年3月には、藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓し、翌年従五位下、次いで近衛将監に遷任され、特に封50戸を与えられます。769年(神護景雲3)に、称徳天皇が寵愛していた道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき(宇佐八幡宮神託事件)に、広虫の代わりに宇佐八幡宮に派遣され、「日本では臣下が君主となった例はない。皇位には皇族を立てるべし」という神託を上奏して道鏡の野心を退けました。
 そのため、道鏡の怒りを買って、名を別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)と変えられ、大隅国(現在の鹿児島県)に配流されます。770年(宝亀元)に称徳天皇が亡くなり、光仁天皇が即位すると、京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり、781年(天応元)には従四位下となりました。
 その後、桓武天皇の下で、784年(延暦3)に長岡造京の功により従四位上、796年(延暦15)には平安京造営の功により、従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇ります。一方、吏務に精通し、『民部省例』 (20巻) を撰し、『和氏譜』も奏上していました。
 しかし、799年(延暦18年2月21日)に、京都において数え年67歳で亡くなっています。死後、即日正三位を贈られ、遺志によって、備前国の彼の私墾田 100町を百姓賑給田 (しんごうでん) として農民の厚生の料にあてられました。

〇孝謙天皇(称徳天皇)とは?

 第46代・48代とされる天皇です。奈良時代の718年(養老2)に、聖武天皇の第2皇女(母は光明皇后)として生まれましたが、名は阿倍(あべ)と言いました。
 738年(天平10)に立太子し、史上唯一の女性皇太子となり、744年(天平17)に安積親王が没すると、聖武天皇の皇子がいなくなります。749年(天平勝宝元)に、父・聖武天皇の譲位により即位しましたが、母・光明皇后に後見され、皇太后のために新たに紫微中台が設置されました。
 752年(天平勝宝4)に大仏開眼供養会を行いましたが、756年(天平勝宝8)に父・聖武上皇が亡くなり、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔が残されます。ところが、翌年に皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子としました。
 同年に橘奈良麻呂や大伴古麻呂らが、新帝擁立のクーデターを計画して粛清される(橘奈良麻呂の乱)事件も起きています。758年(天平宝字2)に病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となり、760年(天平宝字4)には、藤原仲麻呂が太師(太政大臣)に任命されました。
 760年(天平宝字4)に、母・光明皇太后が亡くなると、淳仁天皇らと共に小治田宮に移り、翌年には保良宮に移ります。この頃、病気を患った際、傍に道鏡が侍して看病してから寵愛するようになり、淳仁天皇と対立、762年(天平宝字6)に淳仁天皇は平城宮に戻りましたたが、自身は平城京に入らず法華寺に住居を定めました。
 764年(天平宝字8)に、藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂を誅し、同年に五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言します。翌年には、「墾田永年私財法」の停止を勅して、貴族の墾田はいっさい禁じましたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、弓削寺行幸の際、道鏡を太政大臣禅師に任じたものの、和気王の謀叛事件が起きました。
 766年(天平神護2)に、道鏡を法王に任じましたが、769年(神護景雲3)には、異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑とします。同年に、豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」との神託を奏上(宇佐八幡宮神託事件)、和気清麻呂を天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮させ、神託が虚偽であることが上申されましたが、清麻呂を大隅国への流罪としました。
 しかし、道鏡を皇嗣とすることには失敗し、769年(神護景雲3)に道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸したものの、翌年そこで発病し、8月4日には奈良平城京において、数え年53歳で亡くなり、白壁王(光仁天皇)が後継となります。

☆宇佐八幡宮神託事件 (全文) 『続日本紀』巻第三十の769年(神護景雲3年9月25日)の条

<原文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

   『続日本紀』巻第三十より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

神護景雲三年九月己丑条
(上略)始め大宰の主神[1]習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え[2]、因りて八幡の神教[3]と矯り[4]て言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。道鏡これを聞き、深く喜びて自負[5]す。天皇、清麻呂を床下[6]に召し、勅して日く。「昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、『大神事を奏せしめんが為に尼法均を請う』と。宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命[7]を聴くべし」と。発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。「大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を告げんが為ならん」と。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣[8]して日く。『我が国家、開闢[9]より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。天之日嗣[10]は必ず皇緒[11]を立てよ。無道[12]の人は宜しく早く掃除[13]すべし』と。清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。未だ任所にゆかず、尋いで詔有りて除名[14]し、大隅に配す。其の姉法均は還俗[15]せしめて備後に配す。銅元年春正月乙巳。
 
【注釈】

[1]主神:かんづかさ=正七位下相当で、諸々の祭祀を司る者。
[2]媚び事え:こびつかえ=気に入られるように目上の人に振る舞う。目上の相手の機嫌をとる。
[3]神教:しんきょう=神の教え。神のお告げ。
[4]矯りて:いつわりて=無理に曲げて。いつわって。
[5]自負:じふ=自分の才能や、学問、功業などをすぐれていると信じて誇ること。また、その心。
[6]床下:しょうか=床の近く。ねどこの下。また、ねどこ。
[7]神命:しんめい=神の命令。神勅。
[8]託宣:たくせん=神のことば。神のおつげ。神託。
[9]開闢:かいびゃく=天と地が初めてできた時。世界の始まりの時。
[10]天之日嗣:あまのひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[11]皇緒:こうしょ=天皇の血統、天皇の位のこと。
[12]無道:ぶどう=考え、行動などが道理にはずれていること。人の道にそむいた暴悪非道なふるまいをすること。また、そのさま。非道。
[13]掃除:そうじ=社会の害悪などを取り除くこと。
[14]除名:じょめい=官人が罪を犯したとき、その者を官の籍から除いたこと。位階や勲等を奪い、調・庸や雑徭を課した。
[15]還俗:げんぞく=一度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。

<現代語訳>

神護景雲3年(769年)9月己丑条
(上略)初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、重く用いて官爵を上げてやると持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。清麻呂は帰京して、神のお告げのように天皇に奏上した。これによって、道鏡は大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍して、大隅国へ配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日)詳細
1829年(文政12)P.F.vonシーボルトシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日)詳細
1985年(昭和60)奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される詳細


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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、歴史学者服部之総の生まれた日です。
 服部之総(はっとり しそう)は、島根県那賀郡木田村(現在の旭町)の浄土宗正蓮寺の長男に生まれ、旧制浜田中学校を経て、京都の第三高等学校へ入学しました。卒業後、上京して東京帝国大学文学部社会学科へ入学、大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍し、社会的関心を深めます。
 1925年(大正14)に大学卒業後、東大副手となり、1927年(昭和2)には、野坂参三の産業労働調査所の所員となって、『マルクス主義講座』に「明治維新史」を執筆し、マルクス主義史学による維新史研究に先鞭をつけました。翌年に労農党書記局長となり、3.15の共産党弾圧の際、検挙されたものの釈放されます。
 1930年(昭和5)に中央公論社初代出版部長となり、翌年には、プロレタリア科学研究所の所員となりました。1933年(昭和8)に、唯物論研究会の創立に加わり、1932年(昭和7)には、『日本資本主義発達史講座』に「明治維新の革命及び反革命」を執筆、以後講座派の代表的論客として、「幕末厳マニュ時代説」を展開します。
 しかし、1938年(昭和13)の唯物論研究会事件で検挙され、釈放後、花王石鹸に入社して上海へ渡り、同社五十年史などの編纂にあたり、宣伝部長を経て、1942年(昭和17)には、取締役となりました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、三枝博音らと鎌倉大学校(のち鎌倉アカデミアと改称)を創立、教授となり、1951年(昭和26)に日本近代史研究会を設立、翌年には、法政大学教授に就任して若い研究者を育てています。
 1955年(昭和30)に『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』で、毎日出版文化賞を受賞しましたが、翌年3月4日に、東京において、病気により54歳で亡くなりました。

〇服部之総の主要な著作

・『明治維新史』(1927年)
・『黒船前後』(1933年)
・『維新史の方法論』(1934年)
・『蓮如』(1948年)
・『親鸞(しんらん)ノート』(1948年)
・『近代日本のなりたち』(1949年)
・『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』(1955年)毎日出版文化賞受賞

☆服部之総関係略年表

・1901年(明治34)9月24日 島根県那賀郡木田村(現在の旭町)の浄土宗正蓮寺の長男に生まれる
・1925年(大正14) 東京帝国大学文学部を卒業、東大副手となる
・1927年(昭和2) 産業労働調査所の所員となり、『マルクス主義講座』に「明治維新史」を執筆する
・1928年(昭和3) 労農党書記局長となる、3.15の共産党弾圧の際、検挙されたものの釈放される
・1930年(昭和5) 中央公論社初代出版部長となる
・1931年(昭和6) プロレタリア科学研究所の所員となる
・1933年(昭和8) 唯物論研究会の創立にあたる
・1932年(昭和7) 『日本資本主義発達史講座』に「明治維新の革命及び反革命」を執筆する
・1938年(昭和13) 唯物論研究会事件で検挙され、釈放後、花王石鹸に入社して上海へ渡る
・1942年(昭和17) 花王石鹸取締役となる
・1946年(昭和21) 三枝博音らと鎌倉大学校(のち鎌倉アカデミアと改称)を創立、教授となる
・1951年(昭和26) 日本近代史研究会を設立する
・1952年(昭和27) 法政大学教授に就任する
・1955年(昭和30) 『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』で、毎日出版文化賞を受賞する
・1956年(昭和31)3月4日 東京において、病気により54歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1744年(延享元)江戸時代中期の思想家・石門心学の祖石田梅岩の命日(新暦10月29日)詳細
1877年(明治10)薩摩藩士・軍人・政治家西郷隆盛が西南戦争に敗れ、城山で自刃する詳細
1966年(昭和41)熊本県の天草五橋(パールライン)が開通した日詳細
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、自由民権運動の激化事件の一つ加波山事件が起きた日です。
 加波山事件(かばさんじけん)は、福島県令三島通庸(みしまみちつね)と政府高官の暗殺を計画して、自由党急進派が茨城県加波山に蜂起した事件でした。1882年(明治15)以来のいわゆる松方デフレ政策よによる米価の暴落と増税による、中・貧農層の急激な没落を背景に、福島県令三島通庸の自由民権運動弾圧を契機としています。
 1882年(明治15)の福島事件で弾圧された後、翌年4月に釈放された河野広体(こうのひろみ)、小針重雄(こばりしげお)、三浦文治(みうらぶんじ)ら若き福島自由党員は、宿敵の福島県令三島通庸を暗殺しようと計画して上京、政府転覆を企てていた栃木県自由党員鯉沼九八郎らと結び大臣顕官の暗殺を計画しました。9月に栃木県庁落成時に集まる予定となっていた、三島通庸県令や太政大臣三条実美らを爆殺する計画でしたが、鯉沼九八郎が爆弾を製造中に誤爆して、計画が明らかになります。
 そこで、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、9月23日に「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げて16名が決起、下山して警察署を襲撃、次いで宇都宮の県庁を襲う途中警官と交戦、多数が検挙され、数日で鎮圧されました。その後の裁判の結果、小針、三浦ら7名が死刑、河野ら7名が無期徒役(他に戦死1名、公判前死去1名)となっています。

〇自由民権運動とは?

 明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に自由民権運動が始まりました。それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件がおきることになりました。

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
  このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
  このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する 

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1790年(寛政2)前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日)詳細
1832年(天保3)儒学者・詩人頼山陽の命日詳細
1871年(明治4)思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日)詳細


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 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、文芸評論家・音楽評論家河上徹太郎の亡くなった日です。
 河上徹太郎(かわかみ てつたろう)は、1902年(明治35)1月8日に、父の赴任先の長崎県長崎市で、日本郵船の造船工学技師だった父・河上邦彦の子として生まれました。旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学経済学部に入学、翌年に「月刊楽譜」誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表します。
 在学中に小林秀雄を知り、雑誌「山繭」に『音楽と自然』(1925年)を発表しました。大学卒業後、1929年(昭和4)に中原中也、大岡昇平らと同人雑誌「白痴群」を創刊、編輯人となり、翌年「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を訳出、1930年(昭和5)には同人雑誌「作品」を創刊して同人となり、「自然人と純粋人」を発表するなどし、1932年(昭和7)の第一評論集『自然と純粋』によって文壇に認められます。
 フランス象徴主義の影響下に純粋自我という批評原理を確立、小林秀雄とならんで近代批評の先駆者とされました。音楽評論では、『楽壇解消論』(1933年)で物議をかもし、 L.シェストフの『悲劇の哲学』を阿部六郎と共訳(1934年) して、シェストフ的不安の流行のきっかけとなります。
 1937年(昭和12)に「文學界」編集の主担当となり、1942年(昭和17)には、日本文学報国会評論部門幹事長に就任し、やがて審査部長となりました。太平洋戦争後は、敗戦直後の解放状況を批判した『配給された自由』(1945年)でも物議を醸しながらも、文芸評論を書き続け、自伝的エッセイ『私の詩と真実』(1953年)で第5回読売文学賞・文芸評論賞、『日本のアウトサイダー』(1958~59年)で第6回新潮社文学賞、『吉田松陰 武と儒による人間像』(1966~68年)で第21回野間文芸賞を受賞するなどしています。
 また、1961年(昭和36)に日本芸術院賞、1963年(昭和38)に日本芸術院会員、1972年(昭和47)に文化功労者となるなど数々の栄誉にも輝きました。しかし、1980年(昭和55)9月22日に、東京築地の国立がんセンターにおいて、肺癌のため78歳で亡くなっています。

〇河上徹太郎の主要な著作

・『音楽と自然』(1925年)
・『ヴェルレーヌの愛国詩』(1929年)
・第一評論集『自然と純粋』(1932年)
・『楽壇解消論』(1933年)
・翻訳『悲劇の哲学』L.シェストフ作 を阿部六郎と共訳(1934年)
・『音楽と文化』(1938年)
・『配給された自由』(1945年)
・『ドン・ジョヴァンニ』(1951年)
・自伝的エッセイ『私の詩と真実』(1953年)第5回読売文学賞・文芸評論賞受賞
・『日本のアウトサイダー』(1958~59年)第6回新潮社文学賞受賞
・『吉田松陰 武と儒による人間像』(1966~68年)第21回野間文芸賞受賞
・『有愁日記』(1971年)第3回日本文学大賞受賞

☆河上徹太郎関係略年表

・1902年(明治35)1月8日 長崎県長崎市で、日本郵船の造船工学技師だった父・河上邦彦の子として生まれる
・1908年(明治41) 神戸市立諏訪山小学校に入学する
・1914年(大正3) 旧制兵庫県立第一神戸中学校に入学する
・1916年(大正5) 旧制東京府立第一中学校に編入学する
・1919年(大正8) 旧制第一高等学校文科甲類に入学する
・1920年(大正9) 休学してピアノを習う
・1923年(大正12) 東京帝国大学経済学部に入学する
・1924年(大正13) 「月刊楽譜」誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表する
・1925年(大正14) 雑誌「山繭」に『音楽と自然』を発表する
・1926年(大正15) 東京帝国大学経済学部卒業後、3ヶ月のみ東京帝国大学文学部美学科に在籍する
・1927年(昭和2)10月 諸井三郎らと7名で「樂團スルヤ」を結成する
・1929年(昭和4)4月 同人雑誌「白痴群」を創刊、編輯人となる
・1929年(昭和4)6月 「白痴群」2号にヴァレリー「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を訳出する
・1930年(昭和5)5月 同人雑誌「作品」を創刊、同人となる
・1930年(昭和5)6月、「作品」2号に「自然人と純粋人」を発表する
・1930年(昭和5)8月、「作品」に「羽左衞門の死と變貌についての對話」を発表する
・1931年(昭和6) 英国から帰った吉田健一が親戚の病気見舞に行き、河上と識る
・1933年(昭和8) 「改造」3月号に「樂壇解消論」を発表。物議をかもす
・1934年(昭和9) シェストフ『悲劇の哲學』のドストエフスキイを分担翻訳し公刊する
・1935年(昭和10)6月 ヴェルレーヌ『叡智』を訳出する
・1936年(昭和11) 「文學界」1月号より同人に参加する
・1937年(昭和12)12月 「文學界」編集の主担当となる
・1938年(昭和13) 「文學界」1月号が発禁処分に会う
・1938年(昭和13)12月 『音樂と文化』を刊行する
・1940年(昭和15)1月 「婦人公論」に「新聖書講義」の連載を開始する
・1940年(昭和15)7月 『道徳と教養』を刊行する
・1942年(昭和17)5月 日本文学報国会評論部門幹事長に就任し、やがて審査部長となる
・1942年(昭和17)10月 反西洋的なシンポジウム「近代の超克」に司会の立場で参加する
・1943年(昭和18)8月 雑誌「批評」同人に参加する
・1945年(昭和20)10月 東京新聞へ「配給された自由」を執筆する
・1947年(昭和22)11月 神奈川県川崎市片平に居を定める
・1950年(昭和25)9月 郷里岩国の錦帯橋の流出を折から帰省中で見る
・1952年(昭和27)2月 初めて放送(JOKR)で、ピアノの演奏を披露する
・1953年(昭和28)8月~9月 英国外務省の招きで福原麟太郎、池島信平、吉田健一と共に本人初の渡英する
・1954年(昭和29) 自伝的エッセイ『私の詩と真実』で、第5回読売文学賞・文芸評論賞を受賞する
・1960年(昭和35) 『日本のアウトサイダーで、第6回新潮社文学賞を受賞する
・1961年(昭和36) 日本芸術院賞を受賞する
・1962年(昭和37)7月 「吉田松陰 明治維新の再評價」を発表する
・1963年(昭和38) 日本芸術院会員となる
・1968年(昭和43) 『吉田松陰 武と儒による人間像』により第21回野間文芸賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『有愁日記』で第3回日本文学大賞を受賞する
・1972年(昭和47)10月 文化功労者となる
・1972年(昭和47)12月 岩国市名誉市民に選出される
・1977年(昭和52)2月 『歴史の跫音』を刊行する
・1977年(昭和52)3月 『わがドストイエフスキー』を刊行する
・1980年(昭和55)9月22日 東京築地の国立がんセンターにおいて、肺癌のため78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第10代執権北條師時の命日(新暦11月3日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争で鶴ヶ城が開城され、会津藩が新政府軍に降伏する(新暦11月6日)詳細
1968年(昭和43)第3宮古島台風により宮古島で最大瞬間風速79.8mを記録する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、小説家・評論家広津和郎の亡くなった日です。
 広津和郎(ひろつ かずお)は、1891年(明治24)12月5日に、東京牛込矢来町で、硯友社の作家だった父・広津柳浪と母・須美(旧姓・蒲池)の次男として生まれました。年少の頃より文学に親しみ、1904年(明治37)に麻布中学校に入学後、「女子文壇」や「萬朝報」に投書し、時々賞金をもらっています。
 1909年(明治42)に中学校卒業後、早稲田大学文科予科に入学、翌年には英文科に進み、葛西善蔵らと共に、同人雑誌『奇蹟』を創刊、短編、翻訳などを発表しました。1913年(大正2)に卒業後、半年ほどして「毎夕新聞」に勤め、退社後、1916年(大正5)に雑誌『洪水以後』の文芸時評を担当し、最初は批評家として認められます。
 翌年に雑誌「中央公論」に小説『神経病時代』を発表、新進作家として登場、以後、『二人の不幸者』(1918年)、『やもり』(1919年)などを発表しました。また、「怒れるトルストイ」、「志賀直哉論」などを収めた評論集『作者の感想』(1920年)を刊行、評論家としての評価も高まります。
 その頃勃興してきたプロレタリア文学には、その政治万能主義を警戒しつつ自由な知識人の立場から接近し、同伴者作家と称され、小説『風雨強かるべし』(1933~34年)はその代表作とされました。昭和時代前期の軍国主義の流れには、「散文精神について」(1936年)、「心臓の問題」(1937年)などを書いて、抵抗の姿勢を示しています。
 太平洋戦争が激化すると、静岡県熱海に疎開し、戦後の1949年(昭和24)には芸術院会員となり、後に文芸家協会会長も務めました。晩年は、松川事件に関心を抱き、松川事件対策協議会の会長となると共に、その政治性と正面から取組んだ評論『松川裁判』(1954~58年)で知られましたが、1968年(昭和43)9月21日に、心臓発作をおこして熱海国立病院において、数え年77歳で亡くなっています。

〇広津和郎の主要な著作

・小説『神経病時代』(1917年)
・小説『二人の不幸者』(1918年)
・小説『師崎行』(1918年)
・小説『やもり』(1919年)
・小説『波の上』(1919年)
・評論集『作者の感想』(1920年)
・小説『わが心を語る』(1929年)
・小説『風雨強かるべし』(1933~34年)
・小説『青麦』(1936年)
・小説『巷の歴史』(1940年)
・評論集『わが文学論』(1953年)
・小説『泉への道』(1953年)
・小説『誘蛾燈』(1953年)
・評論『松川裁判』(1958年)
・回想録『年月のあしおと』正続(1963、67年)

☆広津和郎関係略年表

・1891年(明治24)12月5日 東京牛込矢来町で、広津柳浪と須美(旧姓・蒲池)の次男として生まれる
・1898年(明治31) 7歳の時、東京市立赤城小学校に入学、母・須美が結核で病死する
・1900年(明治33) 9歳の時、東京牛込弁天町に転居する
・1902年(明治35) 11歳の時、父が再婚し継母・潔子を迎える
・1904年(明治37) 13歳の時、麻布中学校に入学、東京麻布霞町、笄町に転居する
・1905年(明治38) 14歳の時、東京麻布霞町に転居、雑誌『女子文壇』に短文「不眠の夜」を投稿、特別賞を得る
・1907年(明治40) 16歳の時、正宗白鳥の『妖怪画』を読み小説に関心をもった。
・1908年(明治41) 17歳の時、『微笑』が「万朝報」の懸賞小説に当選、賞金10円を得る
・1909年(明治42) 18歳の時、麻布中学校を卒業、早稲田大学文科予科に入学する
・1910年(明治43) 19歳の時、早稲田大学英文科に進学する
・1912年(明治45) 21歳の時、葛西善蔵・光用穆・相馬泰三・峯岸幸作らとともに、同人雑誌『奇蹟』を創刊する
・1913年(大正2) 22歳の時、早稲田大学を卒業、麻布本村町に転居、モーパッサンの『女の一生』を翻訳して植竹書院から出版する
・1914年(大正3) 23歳の時、補充兵教育召集で3ヶ月召集されたが、結核の疑いで世田谷の衛戍病院入院、父の紹介で毎夕新聞に入社する
・1915年(大正4) 24歳の時、毎夕新聞を退社し、相馬泰三の紹介で植竹書院翻訳部に入社、トルストイの『戦争と平和』を翻訳する
・1916年(大正5) 25歳の時、予備召集で3週間召集される、神奈川県鎌倉坂の下に転居する
・1917年(大正6) 26歳の時、雑誌『トルストイ研究』に「怒れるトルストイ」を発表、雑誌『中央公論』に「神経病時代」を発表、文壇的処女作となる
・1918年(大正7) 27歳の時、長女・桃子が生まれる
・1919年(大正8) 28歳の時、雑誌『中央公論』に「死児を抱いて」を発表する
・1923年(大正12) 32歳の時、友人と出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版するが失敗し借金を抱える
・1924年(大正13) 33歳の時、「散文芸術の位置」を雑誌『新潮』に発表する
・1928年(昭和3) 37歳の時、父・広津柳浪が病死する
・1929年(昭和4) 38歳の時、芸術社の債務償還や兄夫婦の生活費のために大森書房を設立する
・1930年(昭和5) 39歳の時、婦人公論に『女給』を連載、東京世田谷豪徳寺に家を新築し転居する
・1933年(昭和8) 42歳の時、報知新聞に『風雨強かるべし』を連載、宇野浩二とともに「文学界」同人となる
・1936年(昭和11) 45歳の時、人民文庫講演会で「散文精神について」と題して講演する
・1937年(昭和12) 46歳の時、「心臓の問題」「歴史を逆転させるもの」を雑誌『文芸春秋』に発表する
・1939年(昭和14) 48歳の時、長男・賢樹、継母・潔子が病死する
・1941年(昭和16) 50歳の時、朝鮮・満州を旅行する
・1942年(昭和17) 51歳の時、日本文学報国会結成の会議に参加する
・1944年(昭和19) 51歳の時、世田谷豪徳寺の家を売り世田谷四丁目の家を買い転居、静岡県熱海市清水町に疎開する
・1946年(昭和21) 55歳の時、国立熱海病院で診察の結果膀胱癌ではなくバンビロームと判り手術を受ける
・1949年(昭和24) 58歳の時、芸術院会員となる
・1950年(昭和25) 59歳の時、熱海の大火で清水町の家が焼失、下天神町の新居に移る
・1951年(昭和26) 60歳の時、松川事件の被告らが書いた「真実は壁を透して」を読み、松川事件に関心を抱く
・1953年(昭和28) 62歳の時、宇野浩二らとともに松川事件第二審公判傍聴のために仙台に行き、事件現場を視察、松川事件被告の無罪を訴える「真実を阻むもの」を雑誌『中央公論』に発表する
・1958年(昭和33) 67歳の時、松川事件対策協議会の会長となる
・1961年(昭和36) 70歳の時、松川事件の仙台高裁差し戻し公判で、被告全員に無罪判決が出る
・1963年(昭和38) 72歳の時、松川事件の最終判決がくだり、被告全員の無罪が確定する
・1968年(昭和43)9月21日 心臓発作をおこして熱海国立病院において、数え年77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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