ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年09月

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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、御前会議において、「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」が決定され、いわゆる「絶対国防圏」が定められた日です。
 「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱(こんごとるべきせんそうしどうのたいこう)」は、太平洋戦争下において、1942年(昭和17)4月の東京初空襲、同年6月のミッドウェー海戦敗北、1943年(昭和18)2月のガタルカナル島撤退、同年5月のアッツ島玉砕、同年7月のキスカ等撤退などの戦況を踏まえ、1944年(昭和19)半ばを期して決戦戦力の骨幹となる航空戦力の反撃態勢が整うまでの間、「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」として、いわゆる「絶対国防圏」を定めたものでした。これによって、それまでの侵攻戦略から、敵の反攻を阻止するという防勢戦略に転換したものです。
 御前会議では、昭和天皇臨席の下で、東条英機首相が進行役を務め、幹事が「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」等を朗読したのに続いて、東條、統帥部を代表して永野軍令部総長、重光外相、青木一男大東亜相、鈴木貞一企画院総裁、岸信介商工相が順次説明、質疑応答を経て決定に至りましたが、御前会議における修正はありませんでした。
 以下に、「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」の全文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」 1943年(昭和18)9月30日御前会議決定

 方針

一、帝國ハ、今明年內ニ戰局ノ大勢ヲ決スルヲ目途トシ、敵米英ニ對シ、其ノ攻勢企圖ヲ破摧シツツ速カニ必勝ノ戰略態勢ヲ確立スルト共ニ、決勝戰力特ニ航空戰力ヲ急速增强シ主動的ニ對米英戰ヲ遂行ス

二、帝國ハ、彌々獨トノ提携ヲ密ニシ、共同戰爭ノ完遂ニ邁進スルト共ニ、進ンテ對ソ關係ノ好轉ヲ圖ル

三、速ニ國內決戰態勢ヲ確立スルト共ニ、大東亞ノ結束ヲ愈々强化ス

 要領

一、萬難ヲ排シ槪ネ昭和十九年中期ヲ目途トシ、米英ノ進攻ニ對應スヘキ戰略態勢ヲ確立シツツ、隨時敵ノ反攻戰力ヲ捕捉破摧ス

帝國戰爭遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絕對確保スヘキ要域ヲ、千島、小笠原、內南洋(中、西部)及西部ニューギニヤ、スンダ、ビルマヲ含ム圏域トス

戰爭ノ終始ヲ通シ、圏內海上交通ヲ確保ス

二、ソニ對シテハ、極力日ソ戰ノ惹起ヲ防止シ進ンテ日ソ國交ノ好轉ヲ圖ルト共ニ、機ヲ見テ獨ソ間ノ和平ヲ斡旋スルニ努ム

三、重慶ニ對シテハ、不斷ノ强壓ヲ繼續シ、特ニ支那大陸ヨリスル我本土空襲並ニ海上交通ノ妨害ヲ制扼シツツ、機ヲ見テ速カニ支那問題ノ解決ヲ圖ル

四、獨ニ對シテハ、手段ヲ盡シテ提携緊密化ヲ圖ル但シ對ソ戰ヲ惹起スルカ如キコトナカラシム

五、大東亞ノ諸國家諸民族ニ對シテハ、民心ヲ把握シ帝國ニ對スル戰爭協力ヲ確保增進スル如ク指導ス

敵側ノ政謀略ニ對シテハ、嚴ニ警戒シ機先ヲ制シテ所要ノ措置ヲ講ス

六、統帥ト國務トノ連繫ヲ益々緊密ニシ、戰爭指導ヲ愈々活潑ニス

七、速カニ國內總力ヲ結集發揮スル爲、決戰施策ヲ斷行シテ決勝戰力特ニ航空戰力ヲ增强シ、擧國赴難ノ士氣昂揚ヲ圖ル

八、對敵宣傳謀略ハ、一貫セル方針ノ下ニ强力ニ之ヲ行ヒ、其ノ重點ヲ樞軸道義ノ宣揚、我カ大東亞政策ノ徹底、主敵米ノ戰意喪失、米英ソ支ノ離間及印度獨立ニ指向ス

 議題其ノ二、「今後採ルヘキ戰爭指導大綱」ニ基ク當面ノ緊急措置ニ關スル件

一、陸、海船舶ノ徵傭及補塡ニ關シ、左ノ通リ定ム
1 陸海軍ハ、十月上旬ニ於テ計二五萬總噸(九月徵傭分ヲ含ム)ヲ增徵ス
2 九月以降ニ於ケル陸、海船舶ノ喪失ニ對シテハ、計三萬五千總噸以內ニ於テ翌月初頭ニ補塡ス

二、航空戰力ヲ根幹トスル決勝戰力確保ノ爲、昭和十九年度ニ於テ左ノ重要生產目標ヲ槪定シ、之カ必成ヲ期ス
1 普通鋼鋼材 五〇〇萬噸
2 特殊鋼鋼材 一〇〇萬噸
3 アルミニユウム 二一萬噸以上
4 甲造船 一八〇萬總噸

三、前二項ノ要請ニ旣應スル爲
1 戰力增强上必要ナル凡有非常ノ方途ヲ斷行ス
2 遲クモ昭和十九年度初頭ヨリ船腹保有量ヲ增加セシムル爲
(イ) 船舶ノ喪失ヲ極限ス
(ロ) 甲乙造船ノ實行ヲ促進ス
尙陸、海、民船舶運航率ノ向上ヲ期ス

    「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

894年(寛平6)菅原道眞の建白により遣唐使の廃止が決定する(新暦11月1日)詳細
1351年(観応2)臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓國師)の命日(新暦10月20日)詳細
1961年(昭和36)木曽川から知多半島に水を引く愛知用水が完成する詳細
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 今日は、明治時代前期の1879年(明治12)に、「学制」を廃止し「教育令」(明治12年9月29日太政官布告第40号)が制定された日です。
 「教育令(きょういくれい)」は、明治時代前期の1879年(明治12)9月29日に、太政官布告された総合的教育基本法令ですが、その後2度改正されていて、最初のものは「第1次教育令」とも呼ばれてきました。1872年(明治5)公布の学制に代わって制定されたもので、全47条からなっています。
 民衆の経済敵負担が大きい、教科内容と民衆生活との分離、地方財政の圧迫などの弊害を是正し、学区制を廃止、地方の実情を尊重し、教育権限を地方に大幅にゆだね、小学校の設置・就学義務の緩和、私立小学校への補助などを規定しました。しかし、反対意見が噴出し、翌1880年(明治13)と1885年(明治18)の2度の改正がなされ、1886年(明治19)の「学校令」(帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令・諸学校通則)の制定により廃止されます。
 以下に、「(第1次)教育令」を全文掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「(第1次)教育令」 (全文) 明治12年9月29日太政官布告第40号

第一条 全国ノ教育事務ハ文都卿之ヲ統摂ス故ニ学校幼穉園書籍館等ハ公立私立ノ別ナク皆文部卿ノ監督内ニアルヘシ

第二条 学校ハ小学校中学校大学校師範学校専門学校其他各種ノ学校トス

第三条 小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ授タル所ニシテ其学科ヲ読書習字算術地理歴史修身等ノ初歩トス土地ノ情況ニ随ヒテ罫画唱歌体操等ヲ加へ又物理生理博物等ノ大意ヲ加フ殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ

第四条 中学校ハ高等ナル普通学科ヲ授クル所トス

第五条 大学校ハ法学理学医学文学等ノ専門諸科ヲ授クル所トス

第六条 師範学校ハ教員ヲ養成スル所トス

第七条 専門学校ハ専門一科ノ学術ヲ授クル所トス

第八条 以上掲クル所何ノ学校ヲ論セス各人皆之ヲ設置スルコトヲ得ヘシ

第九条 各地方ニ於テハ毎町村或ハ数町村連合シテ公立小学校ヲ設置スヘシ但町村人民ノ公益タルヘキ私立小学校アルトキハ別ニ公立小学校ヲ設置セサルモ妨ケナシ

第十条 町村内ノ学校事務ヲ幹理セシメンカ為ニ学務委員ヲ置クヘシ
 但人員ノ多寡給料ノ有無ハ其町村/適宜タルヘシ

第十一条 学務委員ハ其町村人民ノ選挙タルへシ

第十二条 学務委員ハ府知事県令ノ監督ニ属シ児童ノ就学学校ノ設置保護等ノ事ヲ掌ルヘシ

第十三条 凡児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス

第十四条 凡児童学齢間少クトモ十六箇月ハ普通教育ヲ受クヘシ第十五条 学齢児童ヲ就学セシムルハ父母及後見人等ノ責任タルヘシ但事故アリテ就学セシメサルモノハ其事由ヲ学務委員ニ陳述スヘシ

第十六条 公立小学校ニ於テハ八箇年ヲ以テ学期トス土地ノ便宜ニ因リテハ此学期ヲ縮ムルコトヲ得ヘシト雖モ四箇年ヨリ短クスへカラス此四箇年ハ毎年授業スルコト必四箇月以上タルヘシ

第十七条 学校ニ入ラスト雖モ別ニ普通教育ヲ受クルノ途アルモノハ就学ト做スヘシ

第十八条 学校ヲ設置スルメ資カニ乏シキ地方ニ於テハ教員巡回ノ方法を設ケテ児童ヲ教授セシムルコトヲ得ヘシ

第十九条 学校ニ公立私立ノ別アリ地方税若クハ町村ノ公費ヲ以テ設置セルモノヲ公立学校トシ一人若クハ数人ノ私費ヲ以テ設置セルモノヲ私立学校トス

第二十条 公立学校ヲ設置或ハ廃止セント欲スルモノハ府知事県令ノ認可ヲ経ヘシ

第二十一条 私立学校ヲ設置或ハ廃止スルモノハ府知事県令ニ開申スヘシ

第二十二条 公立学校ノ教則ハ文部卿ノ認可ヲ経ヘシ

第二十三条 私立学校ノ教則ハ府知事県令ニ開申スヘシ

第二十四条 公立学校ノ費用府県会ノ議定ニ係レルモノハ町村費ヨリ支弁スヘシ

第二十五条 町村費ヲ以テ設置保護スル学校ニ於テ補助ヲ地方税ニ要スルトキハ府県会ノ議定ヲ経テ之ヲ施行スルコトヲ得ヘシ

第二十六条 公立学校ノ土地ハ免税タルヘシ

第二十七条 凡学事ニ供スル寄附金等ハ其寄附人ヨリ指淀セシ目途ノ外ニ支消スルコトヲ得ス

第二十八条 公立小学校ヲ補助センカ為ニ文部卿ヨリ毎年補助金ヲ各府県ニ配付スヘシ

第二十九条 府知事県令ハ文部卿ヨリ領収セシ補助金ヲ各公立小学校ニ配付スヘシ

第三十条 前年中授業四箇月ニ満タサリシ小学校ニハ補助金ヲ配付セサルヘシ

第三十一条 私立小学校タリト雖モ府知事県令ニ於テ其町村人民ノ公益タルコトヲ認ムルトキハ補助金ヲ配付スルコトフ得ヘシ

第三十二条 教員巡回ノ方法ヲ以テ教授セシムルコト一箇年四箇月以上ニ至ルノ町村ニハ補助金ヲ配付スルコトヲ得ヘシ

第三十三条 各府県ニ於テハ便宜ニ随ヒテ公立師範学校ヲ設置スヘシ

第三十四条 公立師範学校ニ於テハ本校卒業ノ生徒ニ試験ノ後卒業証書ヲ与フヘシ

第三十五条 公立師範学校ハ本校ニ入学セサルモノト雖モ卒業証書ヲ請フモノアラハ其学業ヲ試験シ合格ノモノニハ卒業証書ヲ与フヘシ

第三十六条 公立師範学校ノ整備ヲ要センカ為ニ文部卿ヨリ補助金ヲ各府県ニ配付スルコトアルヘシ

第三十七条 教員ハ男女ノ別ナク年齢十八年以上タルヘシ

第三十八条 公立小学校教員ハ師範学校ノ卒業証書ヲ得タルモノトス但師範学校ノ卒業証書ヲ得スト雖モ教員ニ相応セル学カヲ有スルモノハ教員タルモ妨ケナシ

第三十九条 文部卿ハ時時吏員ヲ府県ニ発遣シ学事ノ実況ヲ巡視セシムヘシ

第四十条 公私学校ニ於テハ文部卿ヨリ発遣セル吏員ノ巡視ヲ拒ムコトヲ得ス

第四十一条 府知事県令ハ管内学事ノ実状ヲ記載シテ毎年文部卿ニ申報スヘシ

第四十二条 凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス但小学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルモ妨ケナシ

第四十三条 凡学校二於テ授業料ヲ収ムルト収メサルトハ其便宜二任スヘシ

第四十四条 凡児童ハ種痘或ハ天然痘ヲ歴タルモノニ非サレハ入学スルコトヲ得ス

第四十五条 伝染病二罹ルモノハ学校二出入スルコトヲ得ス

第四十六条 凡学校二於テハ生徒二体罰殴チ或ハ縛スルノ類ヲ加フヘカラス

第四十七条 生徒試験ノトキハ父母或ハ後見人等其学校二来観スルコトヲ得ヘシ

           「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細
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 今日は、大正時代の1912年(大正元)に、小説家大原富枝の生まれた日です。
 大原富枝(おおはら とみえ)は、高知県長岡郡吉野村(現在の本山町)で、小学校校長だった父・大原亀次郎と母・米の次女として生まれましたが、10歳の時に母を亡くしました。1927年(昭和2)に高知県女子師範学校に入学したものの、18歳の時に学校で喀血して入院、退院後は自宅での10年近い療養生活を余儀なくされます。
 療養中に文筆活動を始め、1932年(昭和7)に初めて投稿した『姉のプレゼント』が「令女界」に入選、1935年(昭和10)には、『氷雨』で文壇にデビューしました。1938年(昭和13)に『祝出征』を「文芸首都」に発表、芥川賞候補となり、1941年(昭和16)には、生家の没落を機に、創作に専念するため上京して「文芸首都」の同人となります。
 1943年(昭和18)に『若い渓間』が「改造」の懸賞小説に当選、1957年(昭和32)に結核による長い闘病の体験を題材にした『ストマイつんぼ-第七感界の囚人』で第8回女流文学者会賞受賞、1960年(昭和35)には、40年の幽獄生活を耐えた野中婉の生涯をテーマにした『婉という女』を刊行し、第14回毎日出版文化賞、第13回野間文芸賞を受賞しました。1963年(昭和38)に日本文藝家協会代表として中国を訪問、1965年(昭和40)には、日ソ文学シンポジュウムにも参加出席します。
 1970年(昭和45)に『於雪 土佐一條家の崩壊』で、第9回女流文学者賞を受賞、1973年(昭和48)に『婉という女』のロシア語訳が、ソビエト作家同盟で刊行され、1976年(昭和51)には、キリスト教(カトリック)に入信しました。1991年(平成3)に「大原富枝文学館」が故郷の高知県本山町に開館、本山町名誉町民賞を受賞、翌年に高知県の文学を振興するため、高知新聞社等の支援をうけて「大原富枝賞」を創設、1995年(平成7)から翌年にかけて「大原富枝全集(全8巻)」が小沢書店から刊行されています。
 1998年(平成10)には、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となりましたが、2000年(平成12)1月27日に、『草を褥に 小説 牧野富太郎』執筆・連載中、東京において心不全のため、87歳で亡くなりました。

〇大原富枝の主要な著作

・『若い渓間』(1943年)「改造」懸賞小説当選
・『ストマイつんぼ』(1956年)第8回女流文学者会賞受賞
・『婉という女』(1960年)第14回毎日出版文化賞・第13回野間文芸賞受賞
・『正妻』(1961年)
・『於雪(おゆき)――土佐一条家の崩壊』(1970年)第9回女流文学賞受賞
・紀行小説『イェルザレムの夜』(1980年)
・『アブラハムの幕舎(ばくしゃ)』(1981年)
・『忍びてゆかな――小説津田治子』(1982年)
・『地上を旅する者』(1983年)
・伝記小説『今日ある命――小説・歌人三ヶ島葭子(みかじまよしこ)の生涯』(1994年)
・『原阿佐緒(あさお)』(1996年)
・『詩歌(うた)と出会う時』(1997年)
・自伝小説『眠る女』(1974年)
・『地籟(ちらい)』(1984年)
・『ハガルの荒野』(1986年)
・『彼もまた神の愛(め)でし子か――洲之内(すのうち)徹の生涯』(1989年)
・『草を褥(しとね)に――小説牧野富太郎』(2001年)

☆大原富枝関係略年表

・1912年(大正元)9月28日  高知県長岡郡吉野村(現在の本山町)で、小学校校長だった父・大原亀次郎と母・米の次女として生まれる
・1922年(大正11) 10歳の時、母が亡くなる
・1927年(昭和2) 15歳の時、高知県女子師範学校に入学する
・1930年(昭和5) 18歳の時、学校で喀血して入院、退院後、自宅で10年近い療養生活を送る
・1932年(昭和7) 20歳の時、初めて投稿。 「姉のプレゼント」令女界に入選する
・1935年(昭和10) 23歳の時、『氷雨』で文壇にデビューする
・1938年(昭和13) 26歳の時、『祝出征』を「文芸首都」に発表、芥川賞候補になる
・1941年(昭和16) 29歳の時、生家の没落を機に、創作に専念するため上京して「文芸首都」の同人となる
・1943年(昭和18) 31歳の時、『若い渓間』が「改造」懸賞小説に当選する
・1944年(昭和19) 32歳の時、帰郷し、「野中婉」の書簡を写すため県立図書館に通う
・1957年(昭和32) 45歳の時、『ストマイつんぼ-第七感界の囚人』で第8回女流文学者会賞受賞、父が急逝する
・1959年(昭和34) 47歳の時、『婉という女』260枚脱稿する
・1960年(昭和35) 48歳の時、『婉という女』を刊行し、第14回毎日出版文化賞、第13回野間文芸賞を受賞する
・1963年(昭和38) 51歳の時、日本文藝家協会代表として中国を訪問する
・1965年(昭和40) 53歳の時、日本文藝家協会代表として日ソ文学シンポジュウムに参加出席する
・1970年(昭和45) 58歳の時、『於雪 土佐一條家の崩壊』で、第9回女流文学者賞を受賞する
・1973年(昭和48) 61歳の時、『婉という女』のロシア語訳が、ソビエト作家同盟で刊行される
・1976年(昭和51) 64歳の時、キリスト教(カトリック)に入信。中目黒ミカエル修道院で洗礼を受ける
・1990年(平成2) 78歳の時、勲三等瑞宝章を受章する
・1991年(平成3) 79歳の時、「大原富枝文学館」が故郷の高知県本山町に開館、本山町名誉町民賞を受賞する
・1992年(平成4) 80歳の時、高知県の文学を振興するため、高知新聞社等の支援をうけて「大原富枝賞」を創設する
・1995年(平成7) 83歳の時、翌年にかけて「大原富枝全集(全8巻)」が小沢書店から刊行される
・1998年(平成10) 86歳の時、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となる
・2000年(平成12)1月27日 『草を褥に 小説 牧野富太郎』執筆・連載中、東京において心不全のため、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1500年(明応9)第103代の天皇とされる後土御門天皇の命日(新暦10月21日)詳細
1943年(昭和18)「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる詳細
1967年(昭和42)上越線の新清水トンネルが開通する詳細
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 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、日本初の地下鉄・銀座線(上野~浅草2.2km)の起工式が行われた日です。
 日本最初の地下鉄は、1920年(大正9)に「東京地下鉄道株式会社」が設立され、1923年(大正12)に東京市の新橋~上野間の工事施行認可を受けるものの、その年に起きた関東大震災の影響で施行区間を上野~浅草に変更し、1925年(大正14)9月27日に着工されました。そして、オープンカット工法による2年余りの工事を経て、1927年(昭和2)12月30日に、上野駅~浅草駅間(2.2km)が開通します。
 尚、貨物線では、1915年(大正4)に内閣鉄道院(現在のJR)東京駅と東京中央郵便局(現在のJPタワー)との間、約0.2km(地下駅:2駅)に開通した逓信省(現在の総務省/JP/NTT)の郵便物搬送用地下軌道がありました。

〇地下鉄とは?

 地下鉄道の略語で、地下にトンネルを掘り、そこに敷設された都市高速電気鉄道のことですが、一部地上を走る部分も含めて言う場合が多くありました。日本での法規上は、大阪市営地下鉄を除き「鉄道事業法」に基づくものです。大都市部では、鉄道用地取得が困難なため、やむを得ず地下に建設したもので、建設費はかかりますが、用地買収の手数が少く、道路との交差がないので高速運行が可能で、市街地景観も維持でき、沿線の騒音も小さいなどの利点があります。
 日本最初の地下鉄は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、東京市の上野駅~浅草駅間(2.2km)の開通によるものでした。この路線は、1939年(昭和14)までに延伸されて、浅草駅~渋谷駅間が全通し、1941年(昭和16)に設立された帝都高速度交通営団に引き継がれ、営団地下鉄銀座線となります。
 一方、大阪市では、1933年(昭和8)に、梅田(仮駅)~心斎橋駅間(3.1km)が開通しました。太平洋戦争後は、東京でも大阪でも新しい路線の建設や延伸が行われ、他の都市でも、1957年(昭和32)の名古屋市の名古屋駅~栄町駅間(2.4km)の開通を皮きりに広がって行きます。
 その後、札幌市(1971年)、横浜市(1972年)、神戸市(1977年)、京都市(1981年)、福岡市(1981年)、仙台市(1987年)などで開業し、2001年(平成13)時点の営業キロ数は672.9kmに達しました。それからも各地で新路線や延伸が進み、2020年現在、15事業者50路線で、営業キロ数は811.8kmとなっています。

☆日本で営業中の「地下鉄」(日本地下鉄協会の分類)一覧

・札幌市営地下鉄(札幌市交通局)3路線48.0km 46駅 日本唯一のゴムタイヤ式地下鉄
・仙台市地下鉄(仙台市交通局)2路線28.7km 29駅
・埼玉高速鉄道線(埼玉高速鉄道)1路線14.6km 8駅 総延長の97%が地下区間
・都営地下鉄(東京都交通局)4路線109.0km 98駅
・東京メトロ(東京地下鉄) 9路線195.1km 142駅
・りんかい線(東京臨海高速鉄道)1路線12.2km 8駅
・東葉高速線(東葉高速鉄道)1路線16.2km 9駅
・横浜市営地下鉄(横浜市交通局)3路線53.4km 40駅
・みなとみらい線(横浜高速鉄道)1路線4.1km 6駅
・名古屋市営地下鉄(名古屋市交通局)6路線93.3km 87駅
・京都市営地下鉄(京都市交通局)2路線31.2km 31駅
・Osaka Metro(大阪市高速電気軌道)8路線137.8km 100駅
・神戸市営地下鉄(神戸市交通局)5路線38.1km 26駅
・アストラムライン(広島高速交通)1路線0.3km 2駅 総延長の10%が地下区間
・福岡市地下鉄(福岡市交通局)3路線29.8km 35駅

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1940年(昭和15)日独伊三国同盟」が調印される 詳細
1946年(昭和21)労働関係調整法」が公布される詳細
1958年(昭和33)狩野川台風が神奈川県に上陸し、死者・行方不明1,269人を出す詳細


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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、哲学者・評論家・思想家三木清が獄死した日です。
 三木清(みき きよし)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月5日に、兵庫県揖保郡平井村小神(現在のたつの市揖西町)で、富裕な農家の長男として生まれました。第一高等学校を経て、1917年(大正6)に京都帝国大学哲学科に入学、西田幾多郎・波多野精一らに学びます。
 1921年(大正10)に教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送り、翌年からドイツに留学、ハイデルベルク大学でリッケルト、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーに師事、フランスのパリを経て、1925年(大正14)に帰国しました。その後、第三高等学校講師となり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表、1927年(昭和2)には、法政大学教授となります。
 1928年(昭和3)に、羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊、同年の「唯物史観と現代の意識」は社会主義と哲学との結合について知識人に大きな影響を与え、マルクス主義哲学者として注目を集めました。しかし、1930年(昭和5)に「治安維持法」違反で検挙されて大学を辞め、著作活動に専念するようになり、1932年(昭和7)に『歴史哲学』を著わし、1933年(昭和8)には学芸自由同盟を結成し、岩波新書の創刊に参画します。
 ジャーナリズムの場で時代と文化の批判を展開、ファシズムと軍国主義に抗して“新しいヒューマニズム”を主張しましたが、1938年(昭和13)には、近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したものの、挫折しました。1941年(昭和16)に、『哲学ノート』、『人生論ノート』を刊行、翌年には、陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣されています。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)3月に、再度の「治安維持法」違反容疑で投獄され、敗戦直後の1945年(昭和20)9月26日に、東京の豊多摩刑務所において、48歳で獄死しました。

〇三木清の主要な著作

・『パスカルに於(お)ける人間の研究』(1926年)
・『観念形態論』(1931年)
・『唯物史観と現代の意識』(1932年)
・『歴史哲学』(1932年)
・『人間学的文学論』(1934年)
・『構想力の論理』(1939,46年)
・『哲学ノート』(1941年)
・『人生論ノート』(1941年)
・『技術哲学』(1942年)

☆三木清関係略年表

・1897年(明治30)1月5日 兵庫県揖保郡平井村小神(現在のたつの市揖西町)で、富裕な農家の長男として生まれる
・1914年(大正3) 第一高等学校に入学、西田幾多郎の『善の研究』を読んで感動する
・1917年(大正6) 京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎に師事する
・1920年(大正9) 京都帝国大学哲学科を卒業する
・1921年(大正10)4月 教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送る
・1922年(大正11) ドイツに留学、ハイデルベルク大学でリッケルトに師事する
・1923年(大正12) マールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事する
・1924年(大正13) パリに移り、大学に席を置かず、フランス語の日用会話の勉強をする
・1925年(大正14) 帰国する
・1926年(大正15) 第三高等学校講師となり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表する
・1927年(昭和2) 法政大学教授となる
・1928年(昭和3) 羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊する
・1930年(昭和5) 「治安維持法」違反で検挙される
・1932年(昭和7) 『歴史哲学』を著わす
・1933年(昭和8) 学芸自由同盟を結成し、岩波新書の創刊に参画する
・1934年(昭和9) 『人間学的文学論』を刊行する
・1938年(昭和13) 近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したが挫折する
・1941年(昭和16) 『哲学ノート』、『人生論ノート』を刊行する
・1942年(昭和17) 陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣される
・1945年(昭和20)3月 再度の治安維持法違反容疑で投獄される
・1945年(昭和20)9月26日 東京の豊多摩刑務所において、48歳で獄死する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆、岩内町で大火が起きる詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細


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