今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、哲学者・評論家・思想家三木清が獄死した日です。
三木清(みき きよし)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月5日に、兵庫県揖保郡平井村小神(現在のたつの市揖西町)で、富裕な農家の長男として生まれました。第一高等学校を経て、1917年(大正6)に京都帝国大学哲学科に入学、西田幾多郎・波多野精一らに学びます。
1921年(大正10)に教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送り、翌年からドイツに留学、ハイデルベルク大学でリッケルト、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーに師事、フランスのパリを経て、1925年(大正14)に帰国しました。その後、第三高等学校講師となり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表、1927年(昭和2)には、法政大学教授となります。
1928年(昭和3)に、羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊、同年の「唯物史観と現代の意識」は社会主義と哲学との結合について知識人に大きな影響を与え、マルクス主義哲学者として注目を集めました。しかし、1930年(昭和5)に「治安維持法」違反で検挙されて大学を辞め、著作活動に専念するようになり、1932年(昭和7)に『歴史哲学』を著わし、1933年(昭和8)には学芸自由同盟を結成し、岩波新書の創刊に参画します。
ジャーナリズムの場で時代と文化の批判を展開、ファシズムと軍国主義に抗して“新しいヒューマニズム”を主張しましたが、1938年(昭和13)には、近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したものの、挫折しました。1941年(昭和16)に、『哲学ノート』、『人生論ノート』を刊行、翌年には、陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣されています。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20)3月に、再度の「治安維持法」違反容疑で投獄され、敗戦直後の1945年(昭和20)9月26日に、東京の豊多摩刑務所において、48歳で獄死しました。
〇三木清の主要な著作
・『パスカルに於(お)ける人間の研究』(1926年)
・『観念形態論』(1931年)
・『唯物史観と現代の意識』(1932年)
・『歴史哲学』(1932年)
・『人間学的文学論』(1934年)
・『構想力の論理』(1939,46年)
・『哲学ノート』(1941年)
・『人生論ノート』(1941年)
・『技術哲学』(1942年)
☆三木清関係略年表
・1897年(明治30)1月5日 兵庫県揖保郡平井村小神(現在のたつの市揖西町)で、富裕な農家の長男として生まれる
・1914年(大正3) 第一高等学校に入学、西田幾多郎の『善の研究』を読んで感動する
・1917年(大正6) 京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎に師事する
・1920年(大正9) 京都帝国大学哲学科を卒業する
・1921年(大正10)4月 教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送る
・1922年(大正11) ドイツに留学、ハイデルベルク大学でリッケルトに師事する
・1923年(大正12) マールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事する
・1924年(大正13) パリに移り、大学に席を置かず、フランス語の日用会話の勉強をする
・1925年(大正14) 帰国する
・1926年(大正15) 第三高等学校講師となり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表する
・1927年(昭和2) 法政大学教授となる
・1928年(昭和3) 羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊する
・1930年(昭和5) 「治安維持法」違反で検挙される
・1932年(昭和7) 『歴史哲学』を著わす
・1933年(昭和8) 学芸自由同盟を結成し、岩波新書の創刊に参画する
・1934年(昭和9) 『人間学的文学論』を刊行する
・1938年(昭和13) 近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したが挫折する
・1941年(昭和16) 『哲学ノート』、『人生論ノート』を刊行する
・1942年(昭和17) 陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣される
・1945年(昭和20)3月 再度の治安維持法違反容疑で投獄される
・1945年(昭和20)9月26日 東京の豊多摩刑務所において、48歳で獄死する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1954年(昭和29) | 洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆、岩内町で大火が起きる | 詳細 |
1959年(昭和34) | 伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名) | 詳細 |
1962年(昭和37) | 若戸大橋が開通する | 詳細 |