今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、歴史学者服部之総の生まれた日です。
服部之総(はっとり しそう)は、島根県那賀郡木田村(現在の旭町)の浄土宗正蓮寺の長男に生まれ、旧制浜田中学校を経て、京都の第三高等学校へ入学しました。卒業後、上京して東京帝国大学文学部社会学科へ入学、大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍し、社会的関心を深めます。
1925年(大正14)に大学卒業後、東大副手となり、1927年(昭和2)には、野坂参三の産業労働調査所の所員となって、『マルクス主義講座』に「明治維新史」を執筆し、マルクス主義史学による維新史研究に先鞭をつけました。翌年に労農党書記局長となり、3.15の共産党弾圧の際、検挙されたものの釈放されます。
1930年(昭和5)に中央公論社初代出版部長となり、翌年には、プロレタリア科学研究所の所員となりました。1933年(昭和8)に、唯物論研究会の創立に加わり、1932年(昭和7)には、『日本資本主義発達史講座』に「明治維新の革命及び反革命」を執筆、以後講座派の代表的論客として、「幕末厳マニュ時代説」を展開します。
しかし、1938年(昭和13)の唯物論研究会事件で検挙され、釈放後、花王石鹸に入社して上海へ渡り、同社五十年史などの編纂にあたり、宣伝部長を経て、1942年(昭和17)には、取締役となりました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、三枝博音らと鎌倉大学校(のち鎌倉アカデミアと改称)を創立、教授となり、1951年(昭和26)に日本近代史研究会を設立、翌年には、法政大学教授に就任して若い研究者を育てています。
1955年(昭和30)に『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』で、毎日出版文化賞を受賞しましたが、翌年3月4日に、東京において、病気により54歳で亡くなりました。
〇服部之総の主要な著作
・『明治維新史』(1927年)
・『黒船前後』(1933年)
・『維新史の方法論』(1934年)
・『蓮如』(1948年)
・『親鸞(しんらん)ノート』(1948年)
・『近代日本のなりたち』(1949年)
・『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』(1955年)毎日出版文化賞受賞
☆服部之総関係略年表
・1901年(明治34)9月24日 島根県那賀郡木田村(現在の旭町)の浄土宗正蓮寺の長男に生まれる
・1925年(大正14) 東京帝国大学文学部を卒業、東大副手となる
・1927年(昭和2) 産業労働調査所の所員となり、『マルクス主義講座』に「明治維新史」を執筆する
・1928年(昭和3) 労農党書記局長となる、3.15の共産党弾圧の際、検挙されたものの釈放される
・1930年(昭和5) 中央公論社初代出版部長となる
・1931年(昭和6) プロレタリア科学研究所の所員となる
・1933年(昭和8) 唯物論研究会の創立にあたる
・1932年(昭和7) 『日本資本主義発達史講座』に「明治維新の革命及び反革命」を執筆する
・1938年(昭和13) 唯物論研究会事件で検挙され、釈放後、花王石鹸に入社して上海へ渡る
・1942年(昭和17) 花王石鹸取締役となる
・1946年(昭和21) 三枝博音らと鎌倉大学校(のち鎌倉アカデミアと改称)を創立、教授となる
・1951年(昭和26) 日本近代史研究会を設立する
・1952年(昭和27) 法政大学教授に就任する
・1955年(昭和30) 『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』で、毎日出版文化賞を受賞する
・1956年(昭和31)3月4日 東京において、病気により54歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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