今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、文芸評論家・音楽評論家河上徹太郎の亡くなった日です。
河上徹太郎(かわかみ てつたろう)は、1902年(明治35)1月8日に、父の赴任先の長崎県長崎市で、日本郵船の造船工学技師だった父・河上邦彦の子として生まれました。旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学経済学部に入学、翌年に「月刊楽譜」誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表します。
在学中に小林秀雄を知り、雑誌「山繭」に『音楽と自然』(1925年)を発表しました。大学卒業後、1929年(昭和4)に中原中也、大岡昇平らと同人雑誌「白痴群」を創刊、編輯人となり、翌年「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を訳出、1930年(昭和5)には同人雑誌「作品」を創刊して同人となり、「自然人と純粋人」を発表するなどし、1932年(昭和7)の第一評論集『自然と純粋』によって文壇に認められます。
フランス象徴主義の影響下に純粋自我という批評原理を確立、小林秀雄とならんで近代批評の先駆者とされました。音楽評論では、『楽壇解消論』(1933年)で物議をかもし、 L.シェストフの『悲劇の哲学』を阿部六郎と共訳(1934年) して、シェストフ的不安の流行のきっかけとなります。
1937年(昭和12)に「文學界」編集の主担当となり、1942年(昭和17)には、日本文学報国会評論部門幹事長に就任し、やがて審査部長となりました。太平洋戦争後は、敗戦直後の解放状況を批判した『配給された自由』(1945年)でも物議を醸しながらも、文芸評論を書き続け、自伝的エッセイ『私の詩と真実』(1953年)で第5回読売文学賞・文芸評論賞、『日本のアウトサイダー』(1958~59年)で第6回新潮社文学賞、『吉田松陰 武と儒による人間像』(1966~68年)で第21回野間文芸賞を受賞するなどしています。
また、1961年(昭和36)に日本芸術院賞、1963年(昭和38)に日本芸術院会員、1972年(昭和47)に文化功労者となるなど数々の栄誉にも輝きました。しかし、1980年(昭和55)9月22日に、東京築地の国立がんセンターにおいて、肺癌のため78歳で亡くなっています。
〇河上徹太郎の主要な著作
・『音楽と自然』(1925年)
・『ヴェルレーヌの愛国詩』(1929年)
・第一評論集『自然と純粋』(1932年)
・『楽壇解消論』(1933年)
・翻訳『悲劇の哲学』L.シェストフ作 を阿部六郎と共訳(1934年)
・『音楽と文化』(1938年)
・『配給された自由』(1945年)
・『ドン・ジョヴァンニ』(1951年)
・自伝的エッセイ『私の詩と真実』(1953年)第5回読売文学賞・文芸評論賞受賞
・『日本のアウトサイダー』(1958~59年)第6回新潮社文学賞受賞
・『吉田松陰 武と儒による人間像』(1966~68年)第21回野間文芸賞受賞
・『有愁日記』(1971年)第3回日本文学大賞受賞
☆河上徹太郎関係略年表
・1902年(明治35)1月8日 長崎県長崎市で、日本郵船の造船工学技師だった父・河上邦彦の子として生まれる
・1908年(明治41) 神戸市立諏訪山小学校に入学する
・1914年(大正3) 旧制兵庫県立第一神戸中学校に入学する
・1916年(大正5) 旧制東京府立第一中学校に編入学する
・1919年(大正8) 旧制第一高等学校文科甲類に入学する
・1920年(大正9) 休学してピアノを習う
・1923年(大正12) 東京帝国大学経済学部に入学する
・1924年(大正13) 「月刊楽譜」誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表する
・1925年(大正14) 雑誌「山繭」に『音楽と自然』を発表する
・1926年(大正15) 東京帝国大学経済学部卒業後、3ヶ月のみ東京帝国大学文学部美学科に在籍する
・1927年(昭和2)10月 諸井三郎らと7名で「樂團スルヤ」を結成する
・1929年(昭和4)4月 同人雑誌「白痴群」を創刊、編輯人となる
・1929年(昭和4)6月 「白痴群」2号にヴァレリー「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を訳出する
・1930年(昭和5)5月 同人雑誌「作品」を創刊、同人となる
・1930年(昭和5)6月、「作品」2号に「自然人と純粋人」を発表する
・1930年(昭和5)8月、「作品」に「羽左衞門の死と變貌についての對話」を発表する
・1931年(昭和6) 英国から帰った吉田健一が親戚の病気見舞に行き、河上と識る
・1933年(昭和8) 「改造」3月号に「樂壇解消論」を発表。物議をかもす
・1934年(昭和9) シェストフ『悲劇の哲學』のドストエフスキイを分担翻訳し公刊する
・1935年(昭和10)6月 ヴェルレーヌ『叡智』を訳出する
・1936年(昭和11) 「文學界」1月号より同人に参加する
・1937年(昭和12)12月 「文學界」編集の主担当となる
・1938年(昭和13) 「文學界」1月号が発禁処分に会う
・1938年(昭和13)12月 『音樂と文化』を刊行する
・1940年(昭和15)1月 「婦人公論」に「新聖書講義」の連載を開始する
・1940年(昭和15)7月 『道徳と教養』を刊行する
・1942年(昭和17)5月 日本文学報国会評論部門幹事長に就任し、やがて審査部長となる
・1942年(昭和17)10月 反西洋的なシンポジウム「近代の超克」に司会の立場で参加する
・1943年(昭和18)8月 雑誌「批評」同人に参加する
・1945年(昭和20)10月 東京新聞へ「配給された自由」を執筆する
・1947年(昭和22)11月 神奈川県川崎市片平に居を定める
・1950年(昭和25)9月 郷里岩国の錦帯橋の流出を折から帰省中で見る
・1952年(昭和27)2月 初めて放送(JOKR)で、ピアノの演奏を披露する
・1953年(昭和28)8月~9月 英国外務省の招きで福原麟太郎、池島信平、吉田健一と共に本人初の渡英する
・1954年(昭和29) 自伝的エッセイ『私の詩と真実』で、第5回読売文学賞・文芸評論賞を受賞する
・1960年(昭和35) 『日本のアウトサイダーで、第6回新潮社文学賞を受賞する
・1961年(昭和36) 日本芸術院賞を受賞する
・1962年(昭和37)7月 「吉田松陰 明治維新の再評價」を発表する
・1963年(昭和38) 日本芸術院会員となる
・1968年(昭和43) 『吉田松陰 武と儒による人間像』により第21回野間文芸賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『有愁日記』で第3回日本文学大賞を受賞する
・1972年(昭和47)10月 文化功労者となる
・1972年(昭和47)12月 岩国市名誉市民に選出される
・1977年(昭和52)2月 『歴史の跫音』を刊行する
・1977年(昭和52)3月 『わがドストイエフスキー』を刊行する
・1980年(昭和55)9月22日 東京築地の国立がんセンターにおいて、肺癌のため78歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1311年(応長元) | 鎌倉幕府第10代執権北條師時の命日(新暦11月3日) | 詳細 |
1868年(明治元) | 戊辰戦争で鶴ヶ城が開城され、会津藩が新政府軍に降伏する(新暦11月6日) | 詳細 |
1968年(昭和43) | 第3宮古島台風により宮古島で最大瞬間風速79.8mを記録する | 詳細 |