今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、小説家・評論家広津和郎の亡くなった日です。
広津和郎(ひろつ かずお)は、1891年(明治24)12月5日に、東京牛込矢来町で、硯友社の作家だった父・広津柳浪と母・須美(旧姓・蒲池)の次男として生まれました。年少の頃より文学に親しみ、1904年(明治37)に麻布中学校に入学後、「女子文壇」や「萬朝報」に投書し、時々賞金をもらっています。
1909年(明治42)に中学校卒業後、早稲田大学文科予科に入学、翌年には英文科に進み、葛西善蔵らと共に、同人雑誌『奇蹟』を創刊、短編、翻訳などを発表しました。1913年(大正2)に卒業後、半年ほどして「毎夕新聞」に勤め、退社後、1916年(大正5)に雑誌『洪水以後』の文芸時評を担当し、最初は批評家として認められます。
翌年に雑誌「中央公論」に小説『神経病時代』を発表、新進作家として登場、以後、『二人の不幸者』(1918年)、『やもり』(1919年)などを発表しました。また、「怒れるトルストイ」、「志賀直哉論」などを収めた評論集『作者の感想』(1920年)を刊行、評論家としての評価も高まります。
その頃勃興してきたプロレタリア文学には、その政治万能主義を警戒しつつ自由な知識人の立場から接近し、同伴者作家と称され、小説『風雨強かるべし』(1933~34年)はその代表作とされました。昭和時代前期の軍国主義の流れには、「散文精神について」(1936年)、「心臓の問題」(1937年)などを書いて、抵抗の姿勢を示しています。
太平洋戦争が激化すると、静岡県熱海に疎開し、戦後の1949年(昭和24)には芸術院会員となり、後に文芸家協会会長も務めました。晩年は、松川事件に関心を抱き、松川事件対策協議会の会長となると共に、その政治性と正面から取組んだ評論『松川裁判』(1954~58年)で知られましたが、1968年(昭和43)9月21日に、心臓発作をおこして熱海国立病院において、数え年77歳で亡くなっています。
〇広津和郎の主要な著作
・小説『神経病時代』(1917年)
・小説『二人の不幸者』(1918年)
・小説『師崎行』(1918年)
・小説『やもり』(1919年)
・小説『波の上』(1919年)
・評論集『作者の感想』(1920年)
・小説『わが心を語る』(1929年)
・小説『風雨強かるべし』(1933~34年)
・小説『青麦』(1936年)
・小説『巷の歴史』(1940年)
・評論集『わが文学論』(1953年)
・小説『泉への道』(1953年)
・小説『誘蛾燈』(1953年)
・評論『松川裁判』(1958年)
・回想録『年月のあしおと』正続(1963、67年)
☆広津和郎関係略年表
・1891年(明治24)12月5日 東京牛込矢来町で、広津柳浪と須美(旧姓・蒲池)の次男として生まれる
・1898年(明治31) 7歳の時、東京市立赤城小学校に入学、母・須美が結核で病死する
・1900年(明治33) 9歳の時、東京牛込弁天町に転居する
・1902年(明治35) 11歳の時、父が再婚し継母・潔子を迎える
・1904年(明治37) 13歳の時、麻布中学校に入学、東京麻布霞町、笄町に転居する
・1905年(明治38) 14歳の時、東京麻布霞町に転居、雑誌『女子文壇』に短文「不眠の夜」を投稿、特別賞を得る
・1907年(明治40) 16歳の時、正宗白鳥の『妖怪画』を読み小説に関心をもった。
・1908年(明治41) 17歳の時、『微笑』が「万朝報」の懸賞小説に当選、賞金10円を得る
・1909年(明治42) 18歳の時、麻布中学校を卒業、早稲田大学文科予科に入学する
・1910年(明治43) 19歳の時、早稲田大学英文科に進学する
・1912年(明治45) 21歳の時、葛西善蔵・光用穆・相馬泰三・峯岸幸作らとともに、同人雑誌『奇蹟』を創刊する
・1913年(大正2) 22歳の時、早稲田大学を卒業、麻布本村町に転居、モーパッサンの『女の一生』を翻訳して植竹書院から出版する
・1914年(大正3) 23歳の時、補充兵教育召集で3ヶ月召集されたが、結核の疑いで世田谷の衛戍病院入院、父の紹介で毎夕新聞に入社する
・1915年(大正4) 24歳の時、毎夕新聞を退社し、相馬泰三の紹介で植竹書院翻訳部に入社、トルストイの『戦争と平和』を翻訳する
・1916年(大正5) 25歳の時、予備召集で3週間召集される、神奈川県鎌倉坂の下に転居する
・1917年(大正6) 26歳の時、雑誌『トルストイ研究』に「怒れるトルストイ」を発表、雑誌『中央公論』に「神経病時代」を発表、文壇的処女作となる
・1918年(大正7) 27歳の時、長女・桃子が生まれる
・1919年(大正8) 28歳の時、雑誌『中央公論』に「死児を抱いて」を発表する
・1923年(大正12) 32歳の時、友人と出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版するが失敗し借金を抱える
・1924年(大正13) 33歳の時、「散文芸術の位置」を雑誌『新潮』に発表する
・1928年(昭和3) 37歳の時、父・広津柳浪が病死する
・1929年(昭和4) 38歳の時、芸術社の債務償還や兄夫婦の生活費のために大森書房を設立する
・1930年(昭和5) 39歳の時、婦人公論に『女給』を連載、東京世田谷豪徳寺に家を新築し転居する
・1933年(昭和8) 42歳の時、報知新聞に『風雨強かるべし』を連載、宇野浩二とともに「文学界」同人となる
・1936年(昭和11) 45歳の時、人民文庫講演会で「散文精神について」と題して講演する
・1937年(昭和12) 46歳の時、「心臓の問題」「歴史を逆転させるもの」を雑誌『文芸春秋』に発表する
・1939年(昭和14) 48歳の時、長男・賢樹、継母・潔子が病死する
・1941年(昭和16) 50歳の時、朝鮮・満州を旅行する
・1942年(昭和17) 51歳の時、日本文学報国会結成の会議に参加する
・1944年(昭和19) 51歳の時、世田谷豪徳寺の家を売り世田谷四丁目の家を買い転居、静岡県熱海市清水町に疎開する
・1946年(昭和21) 55歳の時、国立熱海病院で診察の結果膀胱癌ではなくバンビロームと判り手術を受ける
・1949年(昭和24) 58歳の時、芸術院会員となる
・1950年(昭和25) 59歳の時、熱海の大火で清水町の家が焼失、下天神町の新居に移る
・1951年(昭和26) 60歳の時、松川事件の被告らが書いた「真実は壁を透して」を読み、松川事件に関心を抱く
・1953年(昭和28) 62歳の時、宇野浩二らとともに松川事件第二審公判傍聴のために仙台に行き、事件現場を視察、松川事件被告の無罪を訴える「真実を阻むもの」を雑誌『中央公論』に発表する
・1958年(昭和33) 67歳の時、松川事件対策協議会の会長となる
・1961年(昭和36) 70歳の時、松川事件の仙台高裁差し戻し公判で、被告全員に無罪判決が出る
・1963年(昭和38) 72歳の時、松川事件の最終判決がくだり、被告全員の無罪が確定する
・1968年(昭和43)9月21日 心臓発作をおこして熱海国立病院において、数え年77歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1874年(明治7) | 日本画家菱田春草の誕生日 | 詳細 |
1934年(昭和9) | 室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る | 詳細 |
1954年(昭和29) | 実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日 | 詳細 |