今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の亡くなった日です。
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう)は、1874年(明治7)4月7日に、静岡県榛原郡堀野新田村(現:牧之原市堀野新田)で農業を営む鈴木庄蔵の次男として生まれました。幼い頃より学問を好み、1888年(明治21)に単身上京し、東京農林学校(翌年帝国大学農科大学と改称)へ入学、J. Liebig(リービッヒ)の弟子O. Loebなどに農芸化学を学び、1896年(明治29)に卒業し、大学院に入ります。
桑の萎縮病の原因を研究、1900年(明治33)に農科大学助教授に任ぜられ、1901年(明治34)には、農学博士の学位を授与されました。同年に文部省留学生として渡欧、スイス、ドイツに遊学、特にベルリンのE.フィッシャーについてタンパク質の研究にあたります。
1906年(明治39)に帰国し、盛岡高等農林学校教授に任ぜられ、東京帝国大学助教授も兼任しました。翌年東京帝国大学農科大学教授となり、1910年(明治43)に、米ぬかから抗脚気の有効成分ビタミンB1の抽出に成功、オリザニンと命名し、ビタミン発見の先駆をなします。
1917年(大正6)に理化学研究所設立と共に同研究委員となり、栄養化学および合成酒、サリチル酸、乳酸などの研究・製造に従事しました。1924年(大正13)に「副栄養素の研究」により学士院賞受賞、日本農芸化学会を創立し、初代会長となり、翌年に帝国学士院会員、1926年(大正15)には、帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞および大賞を受賞します。
1943年(昭和18)には、文化勲章を受章しましたが、同年9月20日に東京の慶應義塾大学病院において腸閉塞症のため、69歳で亡くなりました。
〇鈴木梅太郎関係略年表
・1874年(明治7)4月7日 榛原郡堀野新田村、鈴木庄蔵・次男として生まれる
・1879年(明治12) 5歳の時、鈴木利七先生に学問を習う
・1880年(明治13) 6歳の時、地頭方学校(現:牧之原市立地頭方小学校)へ入学する
・1886年(明治19) 12歳の時、地頭方学校を卒業する
・1887年(明治20) 13歳の時、県公認東遠義塾が開講し入塾する
・1888年(明治21)5月15日 14歳の時、単身徒歩にて東京に向かって出発、上京する
・1888年(明治21) 東京神田の日本英学館に入り、のち東京農林学校予備校に入学する
・1889年(明治22) 15歳の時、東京農林学校入学する
・1890年(明治23) 東京農林学校は帝国大学農科大学と改称され、農商務省より文部省に移管される
・1893年(明治26) 19歳の時、 帝国大学農科大学予科を卒業する
・1894年(明治27) 20歳の時、遠江学生奨学会より、同学1年級優等として賞品を授与する
・1896年(明治29) 22歳の時、農科大学農芸化学科を卒業し、卒業式において東京帝国大学各文科大学全卒業生を代表して答辞を朗読、大学院に入る
・1897年(明治30) 23歳の時、桑の萎縮病の対策費として政府から数千円を支出され、その研究に着手する
・1900年(明治33) 26歳の時、農科大学助教授に任ぜられる
・1901年(明治34) 27歳の時、農学博士の学位を授与され、辰野須磨子嬢と結婚、文部省留学生を命ぜられ、欧州に向け出発、ベルリン大学に留学、エミール・フィッシャーの下で、ペプチド合成の研究に従事する
・1906年(明治39) 32歳の時、帰国し、盛岡高等農林学校教授に任ぜられ、東京帝国大学助教授も兼任する
・1907年(明治40) 33歳の時、東京帝国大学農科大学教授に任ぜられ、盛岡高等農林学校教授を兼任、米糖らフィチンを分離する
・1909年(明治42) 35歳の時、東京渋谷区宇田川町に転居、東京肥料分析講習所長を兼務する
・1910年(明治43)12月13日 36歳の時、東京化学会例会席上、米糖の有効成分が燐タングステン酸と結合して沈殿せしめ分離できること、およびそれが新栄養素であることを発表する
・1911年(明治44) 37歳の時、東京化学会誌に米糠の有効成分の分離についての報告が掲載される
・1912年(明治45) 38歳の時、蛋白化学の研究に対し、東京化学会より桜井賞が授与される
・1913年(大正2) 39歳の時、東京農業大学教授(兼農芸化学講習部長)となり、植物栄養論の講義を担当する
・1915年(大正4) 41歳の時、サルバルサン、サルチル酸の工業的製造に成功する
・1917年(大正6) 43歳の時、理化学研究所主任研究員となる
・1919年(大正8) 45歳の時、香川県藍同業組合の招聘に応じ、小松島町(現:小松島市)に藍工場を建設する
・1923年(大正12) 49歳の時、私立東京農業大学農芸化学講習部は農芸化学部と改称し、2年制となる
・1924年(大正13) 50歳の時、副栄養素の研究に対し帝国学士院賞を授与、日本農芸化学会を創立し、初代会長となる
・1925年(大正14) 51歳の時、帝国学士院会員となる
・1926年(大正15) 52歳の時、帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞および大賞を受賞、東京帝国大学農学部長(1928年まで)に就く
・1927年(昭和2) 53歳の時、自宅において夫婦銀婚式を行い、郷里の地頭方小学校に奨学資金1万円を寄付する
・1928年(昭和3) 54歳の時、帝国発明協会より合成酒の発明に対し、特等賞牌を受ける
・1929年(昭和4) 55歳の時、大日本農会より名誉賞を受ける、東京帝国大学農学部へ実験室一棟寄付の件に対して紺綬褒章を受ける
・1930年(昭和5) 56歳の時、発明家の一人として宮中賜餐の栄に浴する
・1931年(昭和6) 57歳の時、御講書始の儀において「エミール・フィッシャーの業績と生化学の発達について」御進講する
・1932年(昭和7) 58歳の時、ドイツ学士院会員に推される
・1933年(昭和8) 59歳の時、東京帝国大学へ奨学資金10万円寄付の件により、紺綬褒章を受ける
・1934年(昭和9) 60歳の時、願いにより東京帝国大学教授を辞する
・1936年(昭和11) 62歳の時、満州国大陸科学院長となる
・1937年(昭和12) 63歳の時、パリ万国博覧会にてビタミンB1の結晶を出品し名誉賞を受賞する
・1938年(昭和13) 64歳の時、理研酒工業株式会社(1955年、協和発酵キリンに吸収合併)を創設する
・1941年(昭和16) 67歳の時、理研酒の造石高40余万石に達する
・1943年(昭和18)4月29日 69歳の時、文化勲章を受章する
・1943年(昭和18)9月20日 慶應義塾大学病院において腸閉塞症のため、69歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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