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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、「帝国美術院規程」(大正8年勅令第417号)によって、帝国美術院が創設された日です。
 帝国美術院(ていこく びじゅつ いん)は、文部大臣管轄下に設立され、その諮問に応じて美術に関する意見を開申し、あるいは美術に関する重要事項について建議を行なうと共に、定期に展覧会(帝展)を主催した機関でした。院長1人、会員15人以内で組織することが定められ、初代院長に森鷗外が任命されています。
 この機関は、文部省に代わって美術展覧会を開くこととなり、その審査員は半数を文部大臣の奏請、半数を帝国美術院の推薦によるものとし、同年に第1回の帝国美術院展覧会(帝展)が開催されました。この前身として、1907年(明治40)6月に文部省美術展覧会(文展)の審査を目的とした美術審査委員会が設置され、以後、文部省美術展覧会(文展)を毎年主宰し、出品物の審査を行うようになります。
 しかし、審査委員の任命や授賞等に批判が起こるようになり、改革の声が内外に強まり、特に美術展覧会だけを開催する政府の美術行政に対して、不満が高まりました。そこで、新たに「帝国美術院規程」を公布し、帝国学士院と並んで、美術のアカデミーとも言われる帝国美術院が設立されることとなり、旧来の美術審査委員会は廃止されます。
 毎年帝国美術院展覧会(帝展)を開催していましたが、1927年(昭和2)にはそれまでの三部制(日本画・西洋画・彫刻)に第四部として美術工芸を加えられました。会員定数も、1923年(大正12)に20人、1928年(昭和3)に25人、1930年(昭和5)に30人と増加し、展覧会以外の事業も行なうようになります。
 その後、1937年(昭和12)6月に、「帝国芸術院官制」が定められ、美術のほかに文芸・音楽・演劇・舞踊の分野を加えた帝国芸術院(日本芸術院の前身)に改組されました。
 以下に、「帝国美術院規程」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「帝国美術院規程」(大正八年九月六日勅令第四百十七号)

第一条 帝国美術院ハ文部大臣ノ管理ニ属シ美術ノ発達ヲ稗補スルヲ以テ目的トス

第二条 帝国美術院ハ文部大臣ノ諮詢ニ応シ美術ニ関スル意見ヲ開申ス
 帝国美術院ハ美術ニ関スル重要ノ事項ニ付文部大臣ニ建議スルコトヲ得

第三条 帝国美術院ハ院長一人及会員十五人以内ヲ以テ之ヲ組織ス

第四条 院長及会員ハ美術ニ関シ声望閲歴卓越スル者ノ中ヨリ文部大臣ノ奏請ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ス
 院長及会員ハ勅任官ノ待遇ヲ受ク

第五条 院長ハ院務ヲ総理ス
 院長事故アルトキハ文部大臣ノ指定シタル会員其ノ職務ヲ代理ス

第六条 帝国美術院ニ幹事ヲ置ク文部部内ノ高等官申ヨリ文部大臣ノ奏請ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ス
 幹事ハ院長ノ指揮ヲ承ケ庶務ヲ整理ス

第七条 帝国美術院ニ書記ヲ置ク文部部内ノ判任官中ヨリ文部大臣之ヲ命ス
 書記ハ上司ノ指揮ヲ承ケ庶務ニ従事ス

第八条 帝国美術院ハ定期又ハ臨時ニ美術展覧会ヲ開ク
 美術展覧会ニ関スル規程ハ帝国美術院文部大臣ノ認可ヲ経テ之ヲ定ム

第九条 美術展覧会ノ出品ヲ審査セシムル為審査委員ヲ置ク

第十条 美術展覧会審査委員ハ委員長一人及委員若干人ヲ以テ之ヲ組織ス
 委員長及委員ノ半数ハ文部大臣ノ奏請ニ依リ、委員ノ他ノ半数ハ帝国美術院ノ推薦ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ス
 委員長ノ任期ハ三年トシ委員ハ一年トス

   「文部科学省ホームページ」より

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