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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、与謝野晶子が文芸誌『明星』9月号で反戦長詩「君死にたまふことなかれ」を発表した日です。
 「君死にたまふことなかれ」は、与謝野晶子著の日露戦争に関する反戦長詩です。この年の2月に日露戦争がはじまり、晶子の弟籌三郎は7月、補充召集を受けて出征、第四師団第八連隊に所属し、日露戦争に加わっていました。
 弟は、前年結婚したばかりで、身重の新妻を残しての出征だったのです。この詩は、戦火の中にいる弟を心配して詠んだものでしたが、文芸批評家大町桂月は、雑誌『太陽』10月号で、“国家的観念を藐視した危険な思想”だと非難しました。それに対して、晶子は、『明星』11月号に掲載した「ひらきぶみ」で、“少女と申す者誰も戦争ぎらいに候”と反論しています。
 以下に、与謝野晶子著「君死にたまふことなかれ」と大町桂月への反論「ひらきぶみ」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇与謝野晶子とは?

 明治時代後期から、昭和時代前期にかけて活躍した歌人、詩人で、本名は、与謝野志ようといい、1878年(明治11)12月7日、大阪府堺市の老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれました。堺女学校補習科卒業後、家業の菓子屋を手伝いながら古典を独習しました。1900年(明治33)に東京新詩社に加入し、翌年に22歳で上京することになります。その後、処女歌集『みだれ髪』を刊行し、浪漫派の歌人として注目されるようになりました。そして、「明星」の主宰者与謝野鉄幹と結婚することになります。それからは、鉄幹と共に浪漫主義詩歌運動を進めながら、社会評論、文化学院の創設など、多方面で活躍することになりました。歌集「火の鳥」、「小扇」、「舞姫」や詩歌集「恋衣」を残したほか、日露戦争に出征した弟を思う反戦詩「君死にたまふこと勿れ」や、源氏物語の現代語訳などでも知られています。12人の子どもを産み、育てましたが、1940年(昭和15)に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17)5月29日に死去しました。

<代表的な歌>
「金色の 小さき鳥の かたちして いちょう散るなり 夕日の丘に」
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」

〇「君死にたまふことなかれ」(全文) 文芸誌『明星』1904年(明治37)9月号所収

 君死にたまふこと勿れ
            旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて     

      與 謝 野 晶 子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺[1]の街のあきびと[2]の
舊家[3]をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順[4]の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみこと[5]は、戰ひに
おほみづから[6]は出でまさね、
かたみに[7]人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろ[8]の深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代[9]も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかに[10]わかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

   『明星』1904年(明治37)9月号より

【注釈】

[1]堺:さかい=現在の大阪府堺市で、与謝野晶子の実家があり、弟が跡を継いでいた。
[2]あきびと:商人のこと。
[3]舊家:きゅうか=旧家。歴史を誇る家。
[4]旅順:りょじゅん=中国の遼東半島先端部の地名で、日露戦争の激戦地。
[5]すめらみこと:天皇の尊称。
[6]おほみづから:ご自分で。
[7]かたみに:互いに。
[8]大みこゝろ:おおみこころ=天皇の心を敬っていう語。叡慮。
[9]大御代:おおみよ=天皇の治める時代。天皇の治世。
[10]あえかに:か弱い。

<現代語訳>  

ああ弟よ、あなたの置かれている状況を考え、泣いています。
弟よ、死なないで下さい。
末っ子に生まれたあなたなら
親から(他の兄弟よりも)強い愛情を受けただろうけど
親は刃物を握らせて
人を殺せと教えたでしょうか?(いやそんなはずないでしょう。)
人を殺して自分も死ぬために、
親は(あなたを)24歳まで育てたのでしょうか?(いやそんなはずないでしょう。)

堺の街の商人の
旧家の歴史を誇る家の主で歴史を誇る家の主人で
親の名前を受け継ぐあなたなら
(どうか)こんなところで死なないで下さい。
旅順の要塞が陥落するか
陥落しないかなんてどっちでもいいのです。
あなたは知らないでしょうが、商人の
家の掟には(人を殺すなど)ないのですよ。

弟よ、死なないで下さい。
天皇陛下はこの戦争に
ご自分では出撃なさらずに
敵味方互いに人の血を流して
「獣の道」に死ねなどとは、
それが人間の名誉とは
(天皇陛下は)お心が深いお方なので
どうして死ぬのが名誉だなどと思われるのでしょうか、(そんなはずないでしょう。)

ああ弟よ、戦争などで
(どうか)死なないで下さい。
この間の秋にお父様に
先立たれてしまったお母様は
悲しみの中、さらに痛々しくも
我が子を(戦争に)召集され、自分は家を守り
安泰だと聞いていた天皇陛下の治める時代なのに
(苦労がつのって)お母様の白髪は増えています。

暖簾の陰に伏して泣いている
か弱くて若い新妻を
あなたは忘れたのですか?それとも新妻を思っていますか?
10ヵ月も一緒に暮さないうちに別れた
若い女性(新妻のこと)の気持ちを考えてごらんなさい。
この世であなたは1人だけではないのです。
ああ、また誰を頼ったらよいのでしょう。
(とにかく)弟よ、死なないで帰って下さい。
 
〇「ひらきぶみ」(全文) 文芸誌『明星』1904年(明治37)11月号所収

ひらきぶみ[1]

      与謝野晶子

みだれ髪

 君
 事なく着きし電報はすぐ打たせ候ひしかど、この文は二日おくれ候。光[2]ひかるおばあ様を見覚えをり候はずなく、あたり皆顔知らぬ人々のみなれば、私の膝ひざはなれず、ともすればおとうさんおとうさんと申して帰りたがりむづかり候に、わが里ながら父なくなりて弟留守にては気をおかれ、筆親したしみ難かりしをおゆるし下されたく候。
 こちら母思ひしよりはやつれ居給いたまはず、君がかく帰し給ひしみなさけを大喜び致し、皆の者に誇りをり候。おせいさんは少しならず思ひくづをれ候すがたしるく、わかき人をおきて出いでし旅順[3]りよじゆんの弟の、たび/\帰りて慰めくれと申しこし候は、母よりも第一にこの新妻にいづまの上と、私見るから涙さしぐみ候。弟、私へはあのやうにしげ/\申し参りしに、宅へはこの人へも母へも余り文おくらぬ様子に候。思へば弟の心ひとしほあはれに候て。
 おん礼を忘れ候。あの晩あの雨に品川[4]しながわまで送らせまつり、お帰りの時刻には吹きぶり一層加くわわり候やうなりしに、殊ことにうすら寒き夜を、どうして渋谷[5]しぶやまで着き給ひし事かと案じ/\致し候ひし。窓にお顔見せてプラツトホームに立ち居給ひし父様の俄にわかに見えず成り給ひしに、光[2]ひかる不安な不思議な顔して外のみ眺ながめ、気を替へさせむと末すえさま/″\すかし候へど、金きんととの話も水ぐるまの唱歌も耳にとめず、この小ちいさき児この胸知らぬ汽車は瞬またたく内に平沼[6]ひらぬまへ着き候時、そこの人ごみの中にも父さま居給ふやと、ガラス戸あけよと指さしして戸に頭つけ候に、そとに立ち居し西洋婦人の若きが認めて、帽に花多き顔つと映うつし、物いひかけてそやし候思ひがけなさに、危く下に落つるばかりに泣きころげ来きたり候。その駭おどろきに父さまの事は忘れたらしく候へば、箱根へかかり候まで泣きいぢれて、よう寐ねてをり候秀[7]しげるを起しなど致し候へば、また去年の旅のやうに虫を出だし候てはと、呑のまさぬはずの私の乳啣ふくませ、やつとの事に寐かせ候ひしに、近江おうみのはづれまで不覚に眠り候て、案ぜしよりは二人の児は楽に候ひしが、私は末すえと三人を護まもりて少しもまどろまれず、大阪に着きて迎への者の姿見てほつと安心致し候時、身も心も海に流れ候人のやうに疲れを一時に覚え候。
 車中にて何心なく『太陽[8]』を読み候に、君はもう今頃御知りなされしなるべし、桂月[9]けいげつ様の御評のりをり候に驚き候。私風情ふぜいのなま/\に作り候物にまでお眼お通し下され候こと、忝かたじけなきよりは先づ恥しさに顔紅あかくなり候。勿体もつたいなきことに存じ候。さはいへ出征致し候弟[10]、一人の弟の留守見舞に百三十里を帰りて、母なだめたし弟の嫁ちからづけたしとのみに都を離れ候身には、この御評一も二もなく服しかね候。
 私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪わろく候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛めで候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺[11]さかいの街まちにて亡なき父ほど天子様[12]を思ひ、御上[13]おかみの御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅うちへは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより『栄華[15]えいが』や『源氏[15]げんじ』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもます/\王朝の御代[17]みよなつかしく、下様[17]しもざまの下司[18]げすばり候ことのみ綴つづり候今時いまどきの読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞[19]』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争いくさぎらひに候。御国のために止やむを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひ[20]に、春以来君にめりやすのしやつ[21]一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯ちようちん行列[22]のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉いずみの家の恤兵[23]じゆつぺいの百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者[24]馬丁[25]ぎよしやばていに先き追はせて、赤十字社[26]への路に、うちの末すえが致してもよきほどの手わざ、聞きこえはおどろしき繃帯巻ほうたいまきを、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似まねは、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務つとめは、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐[27]ぎえんなどいふ事に冷ひややかなりと候ひし嘲あざけりは、私ひそかにわれらに係かかはりなきやうの心地ここち致しても聞きをり候ひき。
 君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑うたがいなき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげ/\妻のこと母のこと身ごもり候児このこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。
 私が「君死にたまふこと勿なかれ[28]」と歌ひ候こと、桂月[9]様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏おそれおほき教育御勅語[29]などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おそれおほく勿体もつたいなきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。
 歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き/\年月としつきの後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月[9]様お許し下されたく候。桂月[9]様は弟御おとうとご様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様はなくとも、新橋しんばし渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光[2]ひかるまでもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ[28]」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。
 私十一ばかりにて鴎外[30]おうがい様の『しがらみ草紙[31]』、星川[32]様と申す方の何やら評論など分らずながら読みならひ、十三、四にて『めざまし草[33]ぐさ』、『文学界[34]』など買はせをり候頃、兄もまだ大学を出でぬ頃にて、兄より『帝国文学[35]』といふ雑誌新たに出でたりとて、折々送つてもらひ候うちに、雨江[36]うこう様桂月[9]様今お一人の新体詩[37]その雑誌に出ではじめ、初めて私藤村[38]とうそん様の外に詩をなされ候方かた沢山日本におありと知りしに候。その頃からの詩人にておはし候桂月[9]様、なにとて曾孫ひまごのやうなる私すらおぼろげに知り候歌と眼の前の事との区別を、桂月[9]様どう遊ばし候にや。日頃年頃桂月[9]様をおぢい様のやうに敬うやまひ候私、これはちと不思議に存じ候。
 なほ桂月[9]様私の新体詩[37]まがひのものを、つたなし/\、柄になきことすなと御深切しんせつにお叱しかり下され候ことかたじけなく思ひ候。これは私のとがにあらず、君のいつも/\長きもの作れと勧め給ふよりの事に候。しかしまた私考へ候に、私の作り候ものの見苦しきは仰せられずとものこと、桂月[9]様をおぢい様、私を曾孫と致し候へば、御立派な新体詩[37]のお出来なされ候桂月[9]様は博士、やう/\この頃君に教へて頂きて新体詩[37]まがひを試み候私は幼稚園の生徒にて候。幼稚園にてかたなりのままに止め候はむこと、心外なやうにも思ひ候。
 かやうなること思ひつづけて、東海道の汽車は大阪まで乗り通し候ひき。光[2]ひかる今夜はよく眠り候へば、うつかり長きこと書きつらね候かな、時計は朝の壱時を打ち候に。君も今頃は筆おき給ふ頃、坊たちがをらで静なる夜に何の夢か見給ふらむ。今日父の墓へまゐり候。去年のこの頃しのび候て、お寺の廊の柱にしばらく泣き申し候。
 光[2]は末すえが負おひて竹村の姉の許もとへ、天神様の鳩はとを見になど行き候。かしこに猿もあり、猿は行儀わろきもの故ゆえ見すなといひきかせ候。おばあ様は秀しげるを頬ほおずりし給ひ、もう今から、帰つたあとでこの児が一番心にかかるべしと申され候。光[2]は少しもここの人たちに馴なれず、またしては父さんへのん/\と申し、末すえと大道へのみ出たがり候。
 汽車中にてまた新版の藤村[38]様御集、久しぶりに彼君かのきみのお作読み候。初はじめのかたは大抵そらにも覚えをり候へば、読みゆく嬉うれしさ、今日ここにて昔の箏ことの師匠に逢あひしと同じここちに候ひし。宅の土蔵の虫はみし版本のみ読みならひて、仮名づかひなど、さやうのことどうでもよしと気にかけず、また和文家[39]と申すもの大嫌ひにて、学校にてもかかるあさはかにものいふたぐひの人にわれ習はじとて、その時間に顔出さざりしひがみ今に残り候私なれど、この御集のちがひやう私にも目につき候は、さはいへあやしき襟えりかけし少女をくちをしと見る思おもいに候。
 天眠[40]様精[41]様京の光子様お逢ひしたき人多けれど、かう児どもつれてはいかが致すべき。
 帰る日まで申さじと思ひ候ひしが、胸せまりて書き添へまほしくなり候。そはやはりふるさとは詩歌の国ならず、あさましき[42]こと憂うき[43]こと、きのふの夕より知りそめしに候。
 竹村の姉がり訪ひしに、私は聞かでもよきこと、姉は語らではあられぬこと耳に致し、人の子に否とこたへしわが名、もとよりなりと何も/\思ひすてをり候ものを、をみななり、今更に悲しう、父あらぬ身をわびしと思ひ知り候。母も宅の者誰もその事しらず候へど、姉より聞けば、むかひ側の家今は人の家なれば、私帰るともそこへは一歩もふむをゆるすなと、はる/″\英国より△△まで。――君おしはかり給へ。――それにその人、私の着くとやがて来て、ちと来よなど、さりとは知らぬおとしあな、おそろしの世と知り候。かなたの湯殿ゆどのに母も弟の思へる人も入りに行けど、さらばわれは踏むまじく、東京のせん湯に入りつけてはと母には申して、子らつれておあし[44]持ちて横町の湯へまゐれば、見知れるらしき人ありて眼をそばだて候。椿つばきの葉にて私のをさなき時に乳母がせしやう光[2]ひかるに草履ぞうりつくりてやりたくと、彼の家の庭をあやにく[45]や見たうも/\思へど、私はゆかず候。かしこの土蔵には弟どう思ひてか出立の前に、私のちひさき時よりの本と自分のと別々にしらべてまとめおき候よし、さ聞きて俄にわかにその本こひしく、お祖母ばあ様の手垢てあか父の手垢のうへに私の手垢つきしかず/\、また妹と朱など加へし『柵草紙[31]しがらみそうし』のたぐひ、都へも引きとらまほしく、母ゆるさば、父のいつもおもかげうつし給ひし大きな姿見すがたみもろとも、蒲団ふとんになとくるませて通運に出さすべく候。
 母ます/\文学狂になり候て、よべも歌の話いろ/\と致し、君の祭見る日の下加茂しもがもの橋はつまらずと申し、大井川濃き緋ひの帯のいくたりの鼓拍子に船は離れぬは、かしこ[46]の景色すきなるものから、それはよしと喜びていくたびも口ずさみ候。また松田などや申し候ひけむ、山の人とはきつとおえらき人なるべし、物言ひのてきはきして心の奥にかげなきは、江戸のお生れの人かと申し候ゆゑ、あれは緑雨[47]りよくう様や宅のお友達、数学の天才にて、こちらの朝日の角田様も古く知り給ふ方かた、当節は文学を専門になさる人たちよりも、かやうな学問のちがひし人様の方々に、まことのおえらき人あるなりと申し候へば、いつの世でも大抵はさうと、母たいさう知つたかぶりな顔を致し候。
 庭のコスモス咲き出で候はば、私帰るまであまりお摘つみなされずにお残し下されたく、軒の朝顔かれ/″\の見ぐるしきも、何卒なにとぞ帰る日まで苅かりとらせずにお置きねがひあげ候。
 あす天気よろしくば、光[2]に堺[11]の浜みせてやれと母申して寐たまひ候。

    『明星』1904年(明治37)11月号より

【注釈】

[1]ひらきぶみ:封をしていない書状。
[2]光:ひかる=与謝野鉄幹と晶子の長男で1902年(明治35)11月1日に生まれた。
[3]旅順:りょじゅん=中国の遼東半島先端部の地名で、日露戦争の激戦地。
[4]品川:しながわ=東京都品川区にある東海道本線・山手線品川駅のこと。
[5]渋谷:しぶや=東京都渋谷区にある山手線渋谷駅のこと。
[6]平沼:ひらぬま=神奈川県横浜市西区にかつてあった平沼駅のこと。
[7]秀:しげる.=与謝野鉄幹と晶子の次男で1904年(明治37)7月7日に生まれた。
[8]太陽:たいよう=博文館発行の総合雑誌で、1904年10月号に大町桂月の「君死にたまふことなかれ」の批評が載った。
[9]桂月:けいげつ=大町桂月のことで、詩人、歌人、随筆家、評論家として、明治から大正時代に活躍した。
[10]出征致し候弟:しゅっせいいたしそうろうおとうと=与謝野晶子の弟籌三郎のことで、当時日露戦争に出征していた。
[11]堺:さかい=現在の大阪府堺市で、与謝野晶子の実家があり、弟が跡を継いでいた。
[12]天子様:てんしさま=明治天皇のこと。
[13]御上:おかみ=政府。
[14]栄華:えいが=平安時代に書かれた「栄花物語」のこと。⇒詳細
[15]源氏:げんじ=平安時代に書かれた「源氏物語」のこと。⇒詳細
[16]王朝の御代:おうちょうのみよ=平安時代の天皇の治世のことを指す。
[17]下様:しもざま=身分・教養などの低い人々。しもじも。
[18]下司:げす=心根の卑しいこと。下劣なこと。また、そのようなさまやその人。
[19]平民新聞:へいみんしんぶん=平民社が発行していた週刊新聞で、日露戦争反対を唱えていた。⇒詳細
[20]わびずまひ:貧しくみすぼらしい暮らし。また、その住居。
[21]めりやすのしやつ:編み物用機械によって編んだ布地(ニット)のシャツ。
[22]提灯行列:ちょうちんぎょうれつ=祝賀の行事等で、祝意を表すために多くの人が夜、提灯を持って行進すること。
[23]恤兵:じゅっぺい=軍隊や軍人に対する献金や寄付、またそれらを送ること。
[24]御者:ぎょしゃ=馬車の前部に乗って馬を操り、馬車を走らせる人。
[25]馬丁:ばてい=馬の世話や口取りをする人。
[26]赤十字社:せきじゅうじしゃ=医療・社会事業に携わる国家的救護機関で、当時は皇族や家族が中心を担っていた。
[27]義捐:ぎえん=慈善や 被災者救済などの趣旨で、金銭や品物を差し出すこと。
[28]君死にたまふこと勿れ:きみしにたまふことなかれ=与謝野晶子が1904年の『明星』9月号に発表した詩。⇒詳細
[29]教育御勅語:きょういくおんちょくご=1890年に発布された教育の指導原理を示す勅語で、1948年に失効した。
[30]鴎外:おうがい=明治から大正時代に活躍した小説家・医師の森鴎外のこと。⇒詳細
[31]しがらみ草子:しがらみぞうし=森鴎外が主宰した月刊の文芸雑誌で、1889年(明治22)10月創刊し約5年継続。
[32]星川:せいせん=寺山星川のことで、明治時代に批評・評論家として活躍した。
[33]めざまし草:めざましぐさ=「しがらみ草子」を継いで1896年(明治29)創刊し、約5年継続した文芸雑誌のこと。
[34]文学界:ぶんがくかい=1893年(明治26)1月創刊し4年継続した文芸雑誌で、前期浪漫主義文学運動を推進した。
[35]帝国文学:ていこくぶんがく=1895年(明治28)1月創刊で、1920年(大正9)1月に廃刊した学術文芸雑誌。
[36]雨江:うこう=明治から大正時代に活躍した詩人・国文学者の塩井雨江のこと。
[37]新体詩:しんたいし=明治時代前期に、西洋の詩歌の形式・思想を取り入れて作り出された文語定型詩のこと。
[38]藤村:とうそん=明治から昭和時代に活躍した詩人・小説家の島崎藤村のこと。⇒詳細
[39]和文家:わぶんか=和語を用い、主として平仮名を用いて書かれた文章を書く人。
[40]天眠:てんみん=実業家の小林政治ことで、天眠のペンネームで小説も書き、与謝野夫妻の後援者でもあった。
[41]精:せい=実業家の有賀精のことか?
[42]あさましき:驚くばかりこと。意外なこと。
[43]憂き:うき=つらいこと。悲しいこと。
[44]おあし:お金。ぜに。
[45]あやにく:あいにく。
[46]かしこ:あそこ。
[47]緑雨:りょくう=明治時代に活躍した小説家、評論家の斎藤緑雨のこと。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1916年(大正5)工場法」が施行される詳細
1923年(大正12)関東大震災が起き、190万人が被災、10万5千人余が死亡・行方不明(防災の日)詳細
1939年(昭和14)第1回興亜奉公日が実施され、国旗掲揚、宮城遥拝、勤労奉仕等が行われる詳細