ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年08月

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 今日は、江戸時代前期の1617年(元和3)に、第107代の天皇とされる後陽成天皇の亡くなった日ですが、新暦では9月25日となります。
 後陽成天皇(ごようぜいてんのう)は、1571年(元亀2年12月15日)に、京都において、正親町天皇の子誠仁親王の第1皇子(母は新上東門院勧修寺晴子)として生まれましたが、名は初め和仁(かずひと)のち周仁(かたひと)と言いました。1586年(天正14)に父・誠仁親王が皇位を継承する前に亡くなると立親王し、正親町天皇の譲位を受けて、同年11月25日に第107代とされる天皇として即位します。1588年(天正16)に室町幕府第15代将軍・足利義昭が豊臣秀吉とともに参内、征夷大将軍職を朝廷に返上し、朝廷は義昭に准三宮の待遇を与え、同年には秀吉の奏請により聚楽第に行幸しました。1593年(文禄2)に秀吉は、文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を献上、この技術を用いて『古文孝経』を印刷(文禄勅版)したとされ、1597年(慶長2)には、李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版(慶長勅版)させ、『日本書紀(神代巻)』、『四書』、『職原抄』や医書などを印刷させています。また、深く学問を好み、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに際して、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させて、八条宮に古今伝授を受けさせました。1607年(慶長12)に宮中女官の密通事件が発覚、猪熊教利を京都から追放処分とし、1609年(慶長14)に再び宮中女官の密通事件が発覚(猪熊事件)し、その処分を巡って江戸幕府と対立、1611年(慶長16)の政仁親王(後水尾天皇)への譲位へ至ったとされています。1614年(慶長19)に大坂冬の陣が開始されると、武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として徳川家康に和議を勧告しましたが、拒否されました。和漢の学問的教養に造詣が深く、『伊勢物語愚案抄』、『百人一首抄』、『詠歌之大概抄』、『名所方輿勝覧』などを撰し、『後陽成院製詠五十首』、『慶長六年正月叙位記』を残しましたが、1617年(元和3年8月26日)に、京都において数え年47歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされています。

<代表的な歌>

・「日にそへてただしき道の嬉しさはつつむ袖なく国ゆたかなり」(後陽成院一夜百首)
・「秋近きそらも知られてみそぎする川辺にかよふ風のすゞしさ」
・「さわらびを採りつゝ山のかくれ家に朝夕おくる人もありけり」
・「よむ歌のふかき心を慕ふ躬に過ぎにしむかしかへる世もがな」 

〇後陽成天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1571年(元亀2年12月15日) 京都において、正親町天皇の子誠仁親王の第1皇子(母は新上東門院勧修寺晴子)として生まれる
・1586年(天正14年7月24日) 父・誠仁親王が皇位を継承する前に亡くなる
・1586年(天正14年9月17日) 立親王する
・1586年(天正14年11月7日) 正親町天皇の譲位を受けて践祚する
・1586年(天正14年11月25日) 第107代とされる天皇として即位する
・1588年(天正16年1月) 室町幕府第15代将軍・足利義昭が豊臣秀吉とともに参内、征夷大将軍職を朝廷に返上し、朝廷は義昭に准三宮の待遇を与える
・1588年(天正16年4月) 秀吉の奏請により聚楽第に行幸する
・1588年(天正16年5月5日) 第1皇子として覚深入道親王が生まれる
・1591年(天正19年2月14日) 第2皇子として承快法親王が生まれる
・1593年(文禄2年1月5日) 祖父・正親町上皇が亡くなる
・1593年(文禄2年) 秀吉は文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を後陽成天皇に献上する
・1596年(文禄5年6月4日) 第3皇子として政仁親王(後の後水尾天皇)が生まれる
・1597年(慶長2年) 李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版させる
・1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させて、八条宮に古今伝授を受けさせる
・1607年(慶長12年2月) 宮中女官の密通事件が発覚、猪熊教利は京都から追放処分を受ける
・1609年(慶長14年7月) 再び宮中女官の密通事件が発覚する(猪熊事件)
・1611年(慶長16年3月27日) 政仁親王(後水尾天皇)へ譲位する
・1614年(慶長19年11月) 大坂冬の陣が開始される
・1614年(慶長19年12月) 武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として徳川家康に和議を勧告しましたが、拒否される
・1617年(元和3年8月26日) 京都において数え年47歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

887年(仁和3)第58代天皇とされる光孝天皇の命日(新暦9月17日)詳細
1988年(昭和63)奈良そごう建設予定地で大量の木簡が発見され、長屋王邸跡であることが判明する詳細
1993年(平成5)東京港連絡橋(レインボーブリッジ)が開通する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1648年(慶安元)に、儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の亡くなった日ですが、新暦では10月11日となります。
 中江藤樹(なかえ とうじゅ)は、1608年(慶長13年3月7日)に、近江国高島郡小川村で、農業を営む父・中江吉次の長男として生れましたが、名は原(はじめ)と言いました。9歳の時、伯耆国米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴きますが、翌年藩主の国替えに伴い伊予国大洲に移り、『庭訓往来』『貞永式目』等を勉強します。
 11歳の時、『大学』を読み、学に志を立て、14歳の時、天梁和尚について、詩や書を習いました。1622年(元和8)の15歳の時、元服し、祖父・徳左衛門吉長が亡くなって、代りに大洲加藤家に仕え、100石取りの武士となります。
 17歳の時、京都から来た僧に『論語』の講義を聞き、『四書大全』を学ぶようになりました。1626年(寛永3)の19歳の時、郡奉行となり、翌年初めて、門人たちに『大学』を教え、21歳の時には、『大学啓蒙』を著します。
 22歳の時から、郷里の小川村に母を訪ねるようになり、1634年(寛永11)の27歳の時、母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出したものの拒絶されて脱藩し、小川村へ帰り、酒を売り米を貸して、くらしをたてるようになりました。28歳の頃、易の学問を勉強し、人々に学問を教えるようになり、やがて村人や門人たちは、藤樹先生といって親しむようになります。
 1639年(寛永16)の32歳の時、『藤樹規』などを作り、翌年には、『孝経』という本を毎朝読み、『翁問答』を著しました。1641年(寛永18)に、熊沢蕃山が門人となり、翌年には『孝経啓蒙』を著し、『孝経』の中の「愛敬」について教えるようになります。
 1644年(正保元)に、『陽明全書』を熟読玩味して、おおいに触発感得を受け、1647年(正保4)には、女子教育のための訓話集『鑑草』を著しました。1648年(慶安元)に、藤樹書院が完成しましたが、同年8月25日に、近江国高島郡小川村において、数え年41歳で亡くなっています。
 その思想は、身分の上下をこえた平等に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し、「近江聖人」と称えられるようになりました。

〇中江藤樹の主要な著作

・『大学啓蒙』(1628年)
・『翁問答』(1641年成立)
・『孝経啓蒙』(1642年)
・『鑑草 (かがみぐさ)』(1647年)
・『大学考』(1647年)
・『大学解』(1647年)
・『中庸解』(1647年)

☆中江藤樹関係略年表(日付は旧暦です)

・1608年(慶長13年3月7日) 近江国高島郡小川村の中江吉次の長男として生れる
・1616年(元和2年) 9歳の時、伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に移る
・1617年(元和3年) 10歳の時、祖父と共に大洲に移り、『庭訓往来』『貞永式目』を勉強する
・1618年(元和4年) 11歳の時、『大学』を読み、志をたてる
・1621年(元和7年) 14歳の時、天梁和尚について、詩や書を習う、祖母・甫東が亡くなる(享年63歳)
・1622年(元和8年) 15歳の時、元服する、祖父・徳左衛門吉長が亡くなり、祖父に代り大洲加藤家に仕え、100石取りの武士となる
・1624年(寛永元年) 17歳の時、京都から来た僧に『論語』の講義を聞く、『四書大全』を学ぶ
・1625年(寛永2年) 18歳の時、小川村で、父吉次(享年52歳)が亡くなる
・1626年(寛永3年) 19歳の時、郡奉行となる
・1627年(寛永4年) 20歳の時、初めて、門人たちに『大学』を教える
・1628年(寛永5年) 21歳の時、『大学啓蒙』という本を著す
・1629年(寛永6年) 22歳の時、小川村に母をたずねる
・1632年(寛永9年) 25歳の時、春にまた小川村に母をたずねる、この年ごろ、大野了佐が教えを受ける
・1634年(寛永11年) 27歳の時、脱藩して、小川村へ帰り、酒を売り米を貸して、くらしをたてる
・1635年(寛永12年) 28歳の時、このころ易の学問を勉強すし、人々に学問を教える
・1636年(寛永13年) 29歳の時、村人や門人たちは、このころから藤樹先生といって親しむ
・1637年(寛永14年) 30歳の時、妻・久子をむかえ、大洲から教えを受けにくる者が多くなる
・1638年(寛永15年) 31歳の時、大野了佐が先生をたずね、勉強する
・1639年(寛永16年) 32歳の時、『藤樹規』などを作る
・1640年(寛永17年) 33歳の時、『孝経』という本を毎朝読み、『翁問答』を著す
・1641年(寛永18年) 34歳の時、熊沢蕃山が門人となる
・1642年(寛永19年) 35歳の時、『孝経啓蒙』を著し、『孝経』の中の「愛敬」について教える、長男(太右衛門)が生まれる
・1644年(正保元年) 37歳の時、『陽明全書』を読んで、いっそう学問にはげむ
・1646年(正保3年) 39歳の時、二男(鍋之助)が生まれる、久子夫人がなくなる(享年26歳)
・1647年(正保4年) 40歳の時、『鑑草』を著す、大溝の別所布理と再婚する    
・1648年(慶安元年2月) 41歳の時、藤樹書院が完成する、三男(弥三郎・常省先生)が生まれる
・1648年(慶安元年8月25日) 近江国高島郡小川村において数え年41歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、三宅島(東京都三宅村)の雄山が22年ぶりに大噴火(三宅島1962年噴火)した日です。
 三宅島1962年噴火(みやけじま1962ねんふんか)は、20時29分頃から三宅島測候所で火山性微動が感知され、その数と振幅が増していき、22時20分に三宅島の中央火口丘雄山山頂と赤場暁を結ぶ山腹で噴火が起こり、割れ目状にできた多数の火口から溶岩を流出し出しました。噴火活動は26日5時頃(約30時間)で終了しましたが、最盛期には、赤熱溶岩を火口から約200mの高さに噴き上げ、3つの大きな溶岩流となって山腹を下り、そのうち2つは海岸線を越えて沖合いまで流れ出しています。
 また、噴煙は5,000m以上の高さに達し、南東の風に流されて、島の北部一帯と新島(三宅島の45km北西)に火山砂または火山灰を降らせました。これによる直接の被害は、焼失家屋5棟のほか道路、山林、耕地などでしたが、地震活動は非常に活発で、噴火活動終了後の8月26日15時48分にマグニチュード5.9の地震が発生、その後も有感地震が頻発し、とくに8月30日には、伊豆地区で有感地震の数が2,000回以上に達します。
 このため、9月1日から14日まで、小中学校の学童および関係者など千数百人が、島外(主として千葉県の館山方面)へ集団疎開しました。これらの噴火と地震を合わせた被害総額は当時の金額で、250,854千円にも及んでいます。

〇「三宅島」とは?
 東京都に属する伊豆諸島中央部にある円形の火山島(全島が三宅村)で、活火山(ランクA)として常時観測されています。中央の雄山(標高775m)は複式火山で、度々噴火することで知られ、近年でも、1874年、1940年、1962年、1983年、2000年に大噴火がみられ、島内の集落にも大きな被害を与えました。島は東京から南へ約180kmのところにあり、面積は55平方kmで、伊豆諸島では3番目に大きく、富士箱根伊豆国立公園に属する風光明媚なところです。釣り・海水浴・野鳥観察などの観光客でにぎあっていましたが、2000年の噴火後の全島民避難でさびれ、2005年から住民の帰島によって復興が図られてきました。

〇「活火山」とは?
 活動的で近い将来噴火を起こす可能性のある火山のことですが、日本では、おおむね過去1万年以内に噴火した記録があるか、現在活発な噴気活動のある火山とされています。火山噴火予知連絡会によって、(1)過去1万年間の噴火の頻度、規模、爆発性などを定量化した1万年活動度指数、(2)過去100年間の観測データに基づく100年活動度指数。の2つの尺度が決められ、これによって、活火山はA・B・Cの3段階に分類されました。(ただし、海底火山と北方領土の火山は、データ不足のため評価の対象外)2017年(平成29)7月現在、Aランク(最も活動度が高い)の火山は13、Bランク(活動度は中程度)は36、Cランク(活動度は最も低い)の火山は38、対象外の火山は23で、合計110となっています。 

☆日本の活火山一覧(火山噴火予知連絡会、活動度による分類)

<北海道>
・十勝岳(北海道)ランクA
・樽前山(北海道)ランクA
・有珠山(北海道)ランクA
・北海道駒ケ岳(北海道)ランクA
・浅間山(長野県・群馬県)ランクA
・知床硫黄山(北海道)ランクB
・羅臼岳(北海道)ランクB
・摩周(北海道)ランクB
・雌阿寒岳(北海道)ランクB
・恵山(北海道)ランクB
・渡島大島(北海道)ランクB
・アトサヌプリ(北海道)ランクC
・丸山(北海道)ランクC
・大雪山(北海道)ランクC
・利尻山(北海道)ランクC
・恵庭岳(北海道)ランクC
・倶多楽(北海道)ランクC
・羊蹄山(北海道)ランクC
・ニセコ(北海道)ランクC

<東北>
・岩木山(青森県)ランクB
・十和田(青森県・秋田県)ランクB
・恐山(青森県)ランクC
・八甲田山(青森県)ランクC
・秋田焼山(秋田県)ランクB
・岩手山(岩手県)ランクB
・八幡平(岩手県・秋田県)ランクC
・秋田駒ヶ岳(秋田県)ランクB
・鳥海山(秋田県・山形県)ランクB
・栗駒山(宮城県)ランクB
・蔵王山(宮城県・山形県)ランクB
・鳴子(宮城県)ランクC
・肘折(山形県)ランクC
・吾妻山(福島県)ランクB
・安達太良山(福島県)ランクB
・磐梯山(福島県)ランクB
・沼沢(福島県)ランクC
・燧ヶ岳(福島県)ランクC

<関東>
・那須岳(栃木県)ランクB
・高原山(栃木県)ランクC
・男体山(栃木県)ランクC
・日光白根山(栃木県・群馬県)ランクC
・榛名山(群馬県)ランクB
・草津白根山(群馬県)ランクB
・赤城山(群馬県)ランクC
・伊豆大島(東京都)ランクA
・三宅島(東京都)ランクA
・伊豆鳥島(東京都)ランクA
・神津島(東京都)ランクB
・西之島(東京都)ランクB
・硫黄島(東京都)ランクB
・新島(東京都)ランクB
・利島(東京都)ランクC
・御蔵島(東京都)ランクC
・八丈島(東京都)ランクC
・青ヶ島(東京都)ランクC
・箱根山(神奈川県)ランクB

<中部>
・新潟焼山(新潟県)ランクB
・妙高山(新潟県)ランクC
・横岳(長野県)ランクC
・焼岳(長野県・岐阜県)ランクB
・御嶽山(長野県・岐阜県)ランクB
・乗鞍岳(長野県・岐阜県)ランクC
・アカンダナ山(岐阜県)ランクC
・白山(福井県・岐阜県)ランクC
・弥陀ヶ原(富山県)ランクC
・富士山(静岡県・山梨県)ランクB
・伊豆東部火山群(静岡県)ランクB

<中国>
・三瓶山(島根県)ランクC
・阿武火山群(山口県)ランクC

<九州>
・雲仙岳(長崎県)ランクA
・福江火山群(長崎県)ランクC
・阿蘇山(熊本県)ランクA
・九重山(大分県)ランクB
・鶴見岳・伽藍岳(大分県)ランクB
・由布岳(大分県)ランクC
・霧島山(鹿児島県・宮崎県)ランクB
・桜島(鹿児島県)ランクA
・薩摩硫黄島(鹿児島県)ランクA
・諏訪之瀬島(鹿児島県)ランクA
・米丸・住吉池(鹿児島県)ランクC
・池田・山川(鹿児島県)ランクC
・開聞岳(鹿児島県)ランクC
・中之島(鹿児島県)ランクB
・硫黄鳥島(鹿児島県)ランクB
・口之島(鹿児島県)ランクC
・口永良部島(鹿児島県)ランクB

A:100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山
B:100年活動度または1万年活動度が高い活火山
C:100年活動度および1万年活動度がともに低い活火山
注:上記以外にデータ不足で対象外となっている北方領土や海底の火山があります

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1776年(安永5)国学者平田篤胤の誕生日(新暦10月6日)詳細
1885年(明治18)歌人若山牧水の誕生日詳細
1956年(昭和31)映画監督溝口健二の命日詳細


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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争中の1944年(昭和19)に、「女子挺身隊勤労令」が公布・施行された日ですが、同時に「学徒勤労令」も出されています。
 「女子挺身隊勤労令(じょしていしんたいきんろうれい)」は、戦時下の深刻な労働力不足を補うために、主に未婚女性を軍需産業や食料生産に動員させるための勅令(昭和19年勅令第519号)でした。1943年(昭和18)6月に、「国民勤労報国協力令」が改正されると勤労報国隊は常時組織化され、無職の未婚女子に対して3~6ヶ月の勤労奉仕を要求するようになり、同年9月に「国内態勢強化方策」が閣議決定されると、14~25歳の未婚・無職・不在学の女子が居住地で女子挺身隊に組織されます。
 翌年3月から強制的になり、6月からは12歳にまで引き下げられました。その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたのが「女子挺身隊勤労令」で、「学徒勤労令」と同じ日の公布・施行となります。
 同令により、1年間の勤労動員が義務づけられ、違反者には「国家総動員法」により、1年以下の懲役または1,000円以下の罰金が科せられるようになって、14歳から40歳までの女性が軍需工場などの戦争遂行体制に動員さました。しかし、戦局が悪化したため本土決戦に備え、1945年(昭和20年)3月6日に公布・施行された「国民勤労動員令」に、労務関係の他の4勅令(国民徴用令、労務調整令、学校卒業者使用制限令、国民勤労報国協力令)と共に、一本化されて廃止されます。
 以下に、「女子挺身隊勤労令」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「女子挺身隊勤労令」(全文) 1944年(昭和19)8月23日公布・施行

女子挺身隊勤労令 (昭和19年勅令第519号)

第一条 勤労常時要員トシテノ女子(学徒勤労令ノ適用ヲ受クベキ者ヲ除ク)ノ隊組織(以下女子挺身隊ト称ス)ニ依ル勤労協力ニ関スル命令ニシテ国家総動員法第五条ノ規定ニ基クモノ並ニ当該命令ニ依ル勤労協力ヲ為スベキ者及女子挺身隊ニ依ル従業ヲ為ス者ノ雇入、使用、就職、従業又ハ給与其ノ他ノ従業条件ニ関スル命令ニシテ同法第六条ノ規定ニ基クモノニ関シテハ本令ノ定ムル所ニ依ル

第ニ条 国家総動員法第五条ノ規定ニ依ル命令ニ依リ女子ガ女子挺身隊ニ依リ為ス勤労協力(以下挺身勤労ト称ス)ハ国、地方公共団体又ハ厚生大臣若ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監以下同ジ)ノ指定スル者ノ行フ命令ヲ以テ定ムル総動員業務ニ付之ヲ為サシムルモノトス

第三条 挺身勤労ヲ為スベキ者(以下隊員ト称ス)ハ国民職業能力申告令ニ依ル国民登録者タル女子トス
2 前項該当者以外ノ女子ハ志願ヲ為シタル場合ニ限リ隊員ト為スコトヲ得ルモノトス

第四条 引続キ挺身勤労ヲ為サシムル期間ハ特別ノ事情アル場合ヲ除クノ外概ネ一年トス
2 隊員ヲシテ引続キ一年ヲ超エ挺身勤労ヲ為サシムル場合ニ於テハ隊員ノ同意アルコトヲ要ス

第五条 挺身勤労ヲ受ケントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ地方長官ニ之ヲ請求又ハ申請スベシ

第六条 地方長官前条ノ規定ニ依ル請求又ハ申請アリタル場合ニ於テ女子挺身隊ヲ出動セシムル必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ市町村長(市町村長ニ準ズベキモノヲ含ミ東京都ノ区ノ存スル区域並ニ京都市、大阪市、名古屋市、横浜市及神戸市ニ在リテハ区長トス以下同ジ)其ノ他ノ団体ノ長又ハ学校長ニ対シ隊員ト為ルベキ者ヲ選抜スベキコトヲ命ズルモノトス

第七条 前条ノ命令ヲ受ケタル者ハ本人ノ年齢、身体ノ状態、家庭ノ状況等ヲ斟酌シ隊員ト為ルベキ者ヲ選抜シ之ヲ地方長官ニ報告スベシ

第八条 地方長官ハ前条ノ規定ニ依ル報告アリタル者ノ中ヨリ隊員ヲ決定シ本人ニ其ノ旨ヲ挺身勤労令書ニ依リ通知シ挺身勤労ニ関シ必要ナル事項ヲ指示スルモノトス

第九条 前条ノ規定ニ依ル通知ヲ受ケタル者ハ同条ノ規定ニ依ル指示ニ従ヒ挺身勤労ヲ為スベシ

第十条 挺身勤労ヲ為ス場合ノ女子挺身隊ノ組織及運営並ニ其ノ隊員ノ規律ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第十一条 地方長官ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特別ノ事情アル場合ニ於テハ挺身勤労ノ全部又ハ一部ノ停止ニ関シ必要ナル措置ヲ為スコトヲ得

第十二条 挺身勤労ニ要スル経費ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特別ノ事情アル場合ヲ除クノ外其ノ挺身勤労ヲ受クル者之ヲ負担スルモノトス

第十三条 厚生大臣(軍需省所管企業ニ於ケル勤労管理及給与ニ関スル事項ニ付テハ軍需大臣)又ハ地方長官必要アリト認ムルトキハ国家総動員法第六条ノ規定ニ基キ挺身勤労ヲ受クル事業主ニ対シ隊員ノ使用又ハ給与其ノ他ノ従業条件ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得
2 隊員ガ業務上負傷シ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタル場合ニ於ケル本人又ハ其ノ遣族ノ扶助ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第十四条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ隊員ト為サザルモノトス但シ隊員ニシテ第一号又ハ第二号ニ該当スルニ至リタルモノハ此ノ限ニ在ラズ
 一 陸海軍軍属
  二 陸軍大臣若ハ海軍大臣ノ所管ニ属スル官衙(部隊及学校ヲ含ム)又ハ厚生大臣ノ指定スル工場、事業場其ノ他ノ場所ニ於テ軍事上必要ナル総動員業務ニ従事スル者
  三 法令ニ依リ拘禁中ノ者

第十五条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ志願ニ依ル場合ヲ除クノ外隊員ト為サザルモノトス
 一 厚生大臣ノ指定スル総動員業務ニ従事スル者
  二 家庭生活ノ根軸タル者
  三 其ノ他厚生大臣ノ指定スル者

第十六条 厚生大臣又ハ地方長官ハ命令ノ定ムル所ニ依リ挺身勤労ニ関シ市町村長其ノ他ノ団体ノ長若ハ学校長又ハ隊員若ハ挺身勤労ヲ受クル事業主ヲ監督ス

第十七条 地方長官必要アリト認ムル場合ニ於テハ国家総動員法第六条ノ規定ニ基キ挺身勤労ヲ為サザル者ニ対シ第五条ノ規定ニ依ル請求又ハ申請ニ係ル工場、事業場其ノ他ノ場所ニ就職スルコトヲ命ズルコトヲ得
2 前項ノ工場、事業場其ノ他ノ場所ノ事業主ハ国家総動員法第六条ノ規定ニ基キ同項ノ規定ニ依ル命令ヲ受ケタル者ヨリ就職申出ヲ受ケタルトキハ之ヲ雇入ルルコトヲ要ス
3 厚生大臣(軍需省所管企業ニ於ケル勤労管理及給与ニ関スル事項ニ付テハ軍需大臣)又ハ地方長官必要アリト認ムルトキハ国家総動員法第六条ノ規定ニ基キ第一項ノ規定ニ依ル命令ヲ受ケタル者又ハ前項ノ事業主ニ対シ第一項ノ規定ニ依ル命令ヲ受ケタル者ノ使用、従業又ハ給与其ノ他ノ従業条件ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得
4 第十三条第二項ノ規定ハ第一項ノ規定ニ依ル命令ヲ受ケタル者又ハ其ノ遺族ノ扶助ニ之ヲ準用ス

第十八条 第十三条ノ規定ハ地方長官又ハ国民勤労動員署長ノ為ス指導又ハ勧奨ニ基キ女子ガ女子挺身隊ニ依リ第二条ノ規定ニ依ル総動員業務ニ付工場、事業場其ノ他ノ場所ニ於テ従業スル場合ニ之ヲ準用ス

第十九条 地方長官必要アリト認ムルトキハ本令ニ依ル其ノ事務ノ一部ヲ国民勤労動員署長ヲシテ分掌セシムルコトヲ得

第二十条 第十三条(第十七条第四項及第十八条ニ於テ準用スル場合ヲ含ム)、第十六条並ニ第十七条第二項及第三項ノ規定ハ事業主タル国及都道府県ニ之ヲ適用セズ

第二十一条 本令中厚生大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮総督、台湾ニ在リテハ台湾総督トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在リテハ道知事、台湾ニ在リテハ州知事又ハ庁長トシ市町村長トアルハ朝鮮ニ在リテハ府尹(京城府ニ在リテハ区長)又ハ邑面長、台湾ニ在リテハ市長又ハ郡守(澎湖庁ニ在リテハ庁長)トシ国民勤労動員署長トアルハ朝鮮ニ在リテハ府尹、郡守又ハ島司、台湾ニ在リテハ市長又ハ郡守(澎湖庁ニ在リテハ庁長)トシ都道府県トアルハ朝鮮ニ在リテハ道、台湾ニ在リテハ州又ハ庁トス

第二十二条 挺身勤労ニハ国民勤労報国協力令ハ之ヲ適用セズ

第二十三条 本令ニ規定スルモノノ外挺身勤労ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

  附 則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

         「官報」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1914年(大正3)第一次世界大戦で、「日英同盟」を理由に日本がドイツに宣戦布告する詳細
1942年(昭和17)日本画家竹内栖鳳の命日詳細
1944年(昭和19)学徒勤労令」が公布・施行される詳細


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yoneharaunkai01

 今日は、明治時代前期の1869年(明治2)に、 彫刻家米原雲海の生まれた日ですが、新暦では9月27日となります。
 米原雲海(よねはら うんかい)は、出雲国安来(現在の島根県安来市)で漁業を営む木山家に生まれましたが、本名は幸太郎と言いました。小学校卒業後、宮大工に弟子入りし建築彫刻を学び、16歳の時に米原家の養子となります。
 京都や奈良の古仏に感銘を受けて彫刻家を志し、1890年(明治23)に上京して高村光雲に師事、また橋本雅邦からは画技を学びました。1892年(明治25)に光雲の代作をして日本美術協会展で『鸚鵡置物』が受賞、山崎朝雲と共に光雲門の双璧と称されるようになり、1894年(明治27)には、師光雲に因み雲海と号します。
 1895年(明治28)に『軍鶏』を第4回内国勧業博覧会に出品して妙技3等賞を受賞、同年には東京美術学校雇(1897年まで)となり、1897年(明治30)には、比例コンパスを利用した技術を用い『ジェンナー像』を制作しましたが、この技術は木彫界の革命と評されました。1903年(明治36)の第5回内国勧業博覧会に出品した『幼児と林檎』が入賞、1907年(明治40)には、岡倉天心の指導により平櫛田中、山崎朝雲らと日本彫刻会を結成します。
 同年の第1回東京勧業博覧会に出展した作品『清宵』は一等賞を受賞、この作品は1910年(明治43)にロンドンで行われた日英博覧会でも金賞となりました。1910年(明治43)以降、文展、帝展で審査員を務め、1913~19年(大正2~8)に、師光雲と共に長野県善光寺の仁王像の制作に従事、1920年(大正9)には、明治神宮造営にあたり、内殿に安置される狛犬を制作します。
 日本の伝統的木彫の正風を伝える理想主義的な作風として知られましたが、1925年(大正14)3月25日に、東京において、55歳で亡くなりました。

〇米原雲海の主要な作品

・『鸚鵡置物』高村光雲の代作(1892年)日本美術協会展入賞
・『軍鶏』(1895年)第4回内国勧業博覧会妙技3等賞受賞
・『ジェンナー像』(1897年)
・『幼児と林檎』(1903年)第5回内国勧業博覧会入賞
・『清宵』(1907年)第1回東京勧業博覧会一等賞、日英博覧会金賞
・『神来』(1907年)第1回文展3等賞受賞
・『寒山子』(1908年)第2回文展3等賞受賞
・『仙丹』(1910年)東京国立近代美術館蔵
・『旅人』(1914年)東京国立博物館蔵
・『竹取翁』(1921年)東京国立博物館蔵
・『仁王像』(1925年)高村光雲との合作 長野善光寺蔵 

☆米原雲海関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1869年(明治2年8月22日) 出雲国安来(現在の島根県安来市)の漁業を営む木山家に生まれる
・1885年(明治18年) 16歳の時、米原家の養子となる
・1890年(明治23年) 上京して高村光雲に師事する
・1892年(明治25年) 光雲の代作をして日本美術協会展で『鸚鵡置物』が受賞する
・1894年(明治27年) 師光雲に因み雲海と号する
・1895年(明治28年) 『軍鶏』を第4回内国勧業博覧会に出品して妙技3等賞を受賞する
・1895年(明治28年) 東京美術学校雇(1897年まで)となる
・1897年(明治30年) 比例コンパスを利用した技術を用い『ジェンナー像』を制作する
・1903年(明治36年) 第5回内国勧業博覧会に出品した『幼児と林檎』が入賞する
・1907年(明治40年) 平櫛田中、山崎朝雲らと日本彫刻会を結成する
・1907年(明治40年) 『神来』が第1回文展3等賞を受賞する
・1907年(明治40年) 『清宵』が第1回東京勧業博覧会一等賞を受賞する
・1910年(明治43年) 『清宵』を日英博覧会に出品し金賞を受賞する
・1910年(明治43年) 文展審査員となる
・1919年(大正8年) 長野善光寺の仁王像を光雲との合作により完成させる
・1920年(大正9年) 明治神宮造営にあたり、内殿に安置される狛犬を制作する
・1925年(大正14年)3月25日 東京において、55歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)劇作家・小説家長谷川時雨の命日詳細
1943年(昭和18) 詩人・小説家島崎藤村の命日(藤村忌)詳細
1944年(昭和19)沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件詳細


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