ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年08月

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 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出した日です。
 陸羽地震(りくうじしん)は、午後5時06分27秒に秋田・岩手県境の山間部で発生したマグニチュード7.2の大地震で、震源は真昼山地の直下(北緯39.5度、東経140.7度)で、深さは10kmより浅いとされました。東北地方の内陸部が震源の地震としては最大規模の内陸直下型地震で、震源地付近で震度6、一部では震度7の揺れがあったと推定され、東北地方中心に揺れを感じ、真昼山地の秋田県側には千屋断層(長さ約30km、最大3.5m変位)、岩手県側には川舟断層がそれぞれ出現しています。
 この結果、秋田・岩手両県を中心に大きな被害を出し、死者209人、負傷者779人、家屋全壊5,792戸、半壊3,045戸、山崩れ9,899箇所にも及びました。特に、秋田県仙北郡の千屋、畑屋、飯詰、六郷などの町村では、75%以上の家屋が全半壊し、震源のほぼ真上にあった千屋村では、地盤が液状化を起こし、地割れから泥水が噴出、この村だけで、家屋の全壊は338戸、焼失7戸を数え、34人が死亡しています。
 尚、この地震の1ヶ月半ほど前の6月15日にも明治三陸地震(マグニチュード8.2)が起き、大津波によって、三陸地方中心に死者・行方不明者は2万1,959人を出すという、大きな被害が出ていました。
 以下に、陸羽地震による惨状を書き留めた『畑屋村震災惨状記』(抜粋)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『畑屋村震災惨状記』(抜粋)

 明治29年8月31日我が地方に非常に大きな地震があった。我村では21人の即死者141人の重軽傷者を出した。無論四隣町村に於ても惨害を被りたること言ふまでもない。此の惨状を目のあたり見て要点を書きつつで置いたものは本書である。実に亡友耕芸高橋石五郎君の遺著である。

(中略)

 此の地震のときは自分は青森歩兵第五連隊第九中隊にあった。此の日戦友等と共に夕食を喫し面桶を洗浄すべく満水の入盥の前に立てありしに大地震で盥の水は東に西に溢し出つるを見た。当時何とも思はなかったが翌日になって秋田仙北の震災を報じて来た。後数日許可を得て臨時帰省して見たらありし我家は全く取り払はれ僅に水屋と土蔵とを利用して家族の住居となしてあつた。附近一円原形を留めてなく、惨状目も当てられぬ有様であった当時厳父慈母の語る処に因れば地震のときは母方の老祖母が来泊されてあった。この突差大地震に老祖母及び母と妹のハル子が通路を失い屋内に喚き叫んで居るうちに家屋は倒潰して了つた。宅地に隅々よりは噴水の如く泥土が湧き出たと云ふ有様である。父は外より呼びつつ漸くにして三人のありかを尋ね当て倒れたる家の欄間より引き辷り出したと云ふことである。幸いに怪我の無かったのは天佑である。斯うした惨話は村内毎戸にありしと思はる。

 「『畑屋村震災惨状記』に記された 1896 年陸羽地震の震災の状況と対応について」水田敏彦著より

☆日本付近で明治時代に起きたマグニチュード7.0以上の大地震一覧

・1872年3月14日(明治5年2月6日) 浜田地震(島根県沖) M7.1
・1881年(明治14)10月25日 国後島 M7.0
・1891年(明治24)10月28日 濃尾地震(岐阜県) M8.0
・1983年(明治26)6月4日 色丹島沖地震 M7.7
・1894年(明治27)3月22日 根室半島沖地震 M7.9
・1894年(明治27)6月20日 明治東京地震 M7.0
・1894年(明治27)10月22日 庄内地震 M7.0
・1895年(明治28)1月18日 霞ヶ浦 M7.2
・1896年(明治29)1月9日 茨城県沖 M7.3
・1896年(明治29)6月15日 明治三陸地震 M8.2
・1896年(明治29)6月16日 三陸沖 M7.5
・1896年(明治29)8月31日 陸羽地震 M7.2
・1897年(明治30)2月20日 宮城県沖 M7.4
・1897年(明治30)8月5日 三陸沖 M7.7
・1898年(明治31)4月23日 宮城県沖 M7.2
・1898年(明治31)9月1日 石垣島東方沖 M7.0
・1899年(明治32)3月7日 紀伊大和地震(奈良・三重) M7.0
・1900年(明治33)5月12日 宮城県北部 M7.0
・1901年(明治34)8月9日 青森県東方沖 M7.2
・1901年(明治34)8月10日 青森県東方沖 M7.4
・1902年(明治35)1月30日 青森県三八上北地方地震 M7.0
・1905年(明治38)6月2日 芸予地震(瀬戸内海) M7.2
・1905年(明治38)7月7日 福島県沖 M7.1
・1911年(明治44)6月15日 喜界島地震 M8.0

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1878年(明治11)日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日詳細
1913年(大正2)お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日詳細
1970年(昭和45)小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載された日です。
 『自由党を祭る文(じゆうとうをまつるぶん)』は、憲政党(旧自由党系)が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成しようとしていることを批判した論文でした。その内容は、20数年前の明治10年代には、旧自由党は自由民権運動の旗手として、「自由平等」や「文明進歩」のため闘ってきたものの、現在では党の主流は挙げて、専制政治の張本人である仇敵伊藤博文の政友会に馳せ参じようとしているとし、これは自由党の死であり、自由の死だと断じたものです。
 旧自由党系の自由民権運動以来の光栄ある歴史に背をむけ、藩閥勢力の前に屈したことに憤慨したもので、秋水一代の名文と言われてきました。しかし、翌月憲政党はみずから解党して、伊藤博文の立憲政友会の結成することとなっています。
 以下に、『自由党を祭る文』を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『自由党を祭る文』(全文)「万朝報」1900年(明治33)8月30日付

 歳は庚子[1]に在り八月某夜、金風淅瀝[2]として露白く天高きの時、一星忽焉[3]として墜ちて声あり、嗚呼自由党死す[4]矣、而して其光栄ある歴史は全く抹殺されぬ。
 嗚呼汝自由党の事、吾人[5]之を言うに忍びんや、想うに二十余年前、専制抑圧の惨毒[6]滔々四海[7]に横流[8]し、維新中興の宏謨[9]は正に大頓挫[10]を来すの時に方って、祖宗[11]在天の霊は赫[12]として汝自由党を大地に下して、其呱々の声を揚げ[13]其円々[14]の光を放たしめたりき、而して汝の父母は実に我乾坤[15]に磅はく[16]せる自由平等の正気なりき、実に世界を振蘯[17]せる文明進歩の大潮流なりき。
 是を以て汝自由党が自由平等の為めに戦い、文明進歩の為め闘うや、義を見て進み正を蹈で懼れず[18]、千挫[19]屈せず百折撓まず[20]、凛乎[21]たる意気精神、真に秋霜烈日[22]の慨ありき、而して今安くに在る哉。
 汝自由党の起るや、政府の圧抑は益々甚しく迫害は愈よ急也、言論は箝制[23]せられたり、集会は禁止せられたり、請願は防止せられたり、而して捕縛、而して放逐[24]、而して牢獄、而して絞頸台[25]、而も汝の鼎钁[26]を見る飴の如し、幾万の財産を蘯尽[27]して悔いざる也、幾百の生命を損傷して悔いざる也、豈是れ汝が一片の理想信仰の牢として千古渝う可らざる者[28]ありしが為にあらずや、而して今安くに在る哉。
 汝自由党は如此にして堂々たる丈夫[29]となれり、幾多志士[30]仁人[31]の五臓[32]を絞れる熱涙と鮮血とは、実に汝自由党の糧食[33]なりき、殿堂[34]なりき、歴史なりき、嗚呼彼れ田母野[35]や、村松[36]や、馬場[37]や、赤井[38]や、其熱涙鮮血を濺げる志士[30]仁人[31]は、汝自由党の前途光栄[39]洋々たるを想望[40]して、従容[41]笑を含んで其死に就けり、当時誰か思わん彼等死して即ち自由党の死せんとは、彼等の熱涙鮮血が他日其仇敵[42]たる専制主義者の唯一の装飾に供せられんとは、嗚呼彼熱涙鮮血や丹沈碧化今安くに在る哉。
 汝自由党や、初めや聖賢[43]の骨、英雄の胆、目は日月の如く、舌は霹靂[44]の如く、攻めて取らざるなく、戦いて克ざるなく、以て一たび立憲代議の新天地を開拓し、乾坤[15]を斡旋するの偉業を建てたり、而も汝は守成[45]の才に非ざりき、其傾覆[46]は建武の中興より脆くして、直ちに野蛮専制の強敵の為めに征服せられたり、而して汝が光栄[39]ある歴史、名誉なる事業今安くに在る哉。
 更に想う、吾人[5]年少にして林有造[47]君の家に寓す、一夜寒風凛冽[48]の夕薩長政府は突如として林君等と吾人[5]を捕えて東京三里以外に放逐[23]せることを、当時諸君が髪指[49]の状突然目に在り忘れざる所也、而して見よ今や諸君は退去令[50]発布の総理伊藤侯、退去令[50]発布の内相山県侯の忠実なる政友として、汝自由党の死を視る路人[51]の如く、而して吾人[5]独り朝報[52]の孤塁[53]に拠って、尚ほ自由平等文明進歩の為めに奮闘しつつあることを、汝自由党の死を吊し霊を祭るに方って、吾人[5]豈に追昔撫今[54]の情なきを得んや、陸游[55]曾て剣閣[56]の諸峯を望んで、慨然[57]として賦して曰く、「陰平窮冦非難禦、如此江山坐付人[58]」嗚呼専制主義者の窮冦[59]禦ぎ[60]難からんや、而も光栄ある汝の歴史は今や全く抹殺せられぬ、吾人[5]唯だ此句を吟じて以て汝を吊するあるのみ、汝自由党若し霊あらば髣髴[61]として来り饗けよ。

    「万朝報」1900年(明治33)8月30日付より

【注釈】

[1]庚子:こうし=1900年(明治33)の干支。
[2]金風淅瀝:きんぷうせきれき=秋風のきびしい音のさま。
[3]一星忽焉:いっせいこつえん=にわかに。たちまち。
[4]自由党死す:じゆうとうしす=自由民権運動を闘ってきた自由党の歴史が立たれるという意味。
[5]吾人:ごじん=一人称。われわれ。われら。
[6]惨毒:さんどく=むごたらしい害毒。
[7]四海:しかい=国内。世の中。天下。また、世界。
[8]横流:おうりゅう=水が勝手な方向に流れたり、あふれ出して流れたりすること。転じて、よくない物事が盛んに行なわれるようになること。
[9]宏謨:こうぼ=広大な計画。宏図(こうと)。
[10]頓挫:とんざ=事業・計画などが途中で急に駄目になること。
[11]祖宗:そうそ=君主の始祖と中興の祖。また、ひろく歴代の君主やある系統を伝える人の称。
[12]赫:かく=光が輝くさま。明るく強烈な感じを表わす。転じて、人間の名誉の輝くさまにも用いる。
[13]呱々の声を揚げ:ここのこえをあげ=新しく物事がはじまる。発足する。
[14]円々:つぶつぶ=肥えふとっているさま。
[15]乾坤:けんこん=天地の間。人の住むところ。国、また、天下。
[16]磅はく:ほうはく=広がり満ちること。満ちふさがること。
[17]振蘯:しんとう=激しく振り動かすこと。また、揺れ動くこと。
[18]蹈で懼れず:とうでおそれず=実行することを恐れない。
[19]千挫:せんざ=度重なる困難。
[20]百折撓まず:ひゃくせつたゆまず=何度失敗して挫折ざせつ感を味わっても、くじけずに立ち上がること。
[21]凛乎:りんこ=りりしく勇ましいさま。毅然としているさま。凜然。
[22]秋霜烈日:しゅうそうれつじつ=刑罰・権威・意志などが非常にきびしく、またおごそかであることのたとえ。
[23]箝制:かんせい=束縛。自由にさせないこと。
[24]放逐:ほうちく=1887年(明治30)の「保安条例」による追放のこと。
[25]絞頸台:こうけいだい=紐などで絞める台。絞首台。
[26]鼎钁:ていかく=中国の戦国時代に極刑の罪人を煮殺すために用いた道具。
[27]蘯尽:とうじん=すっかり使ってしまうこと。すべてなくしてしまう。
[28]千古渝う可らざる者:せんこかうべからざるもの=固く永遠に変えることがない者。
[29]丈夫:じょうふ=りっぱな男。ますらお。
[30]志士:しし=高い志を持った人。また、国家、社会のため自分の身を犠牲にして力をつくそうとする人。
[31]仁人:じんじん=思いやりの心を備えた人。仁者。
[32]五臓:ごぞう=からだ。また、からだじゅう。全身。
[33]糧食:りょうしょく=食料。かて。
[34]殿堂:でんどう=広大で立派な建物。また、ある分野の中枢となる建物・施設。殿宇。堂宇。
[35]田母野:たもの=自由民権運動家の田母野秀顕のこと、1882年(明治15)の福島事件に連座し、軽禁獄6年の刑を受け、獄死した。
[36]村松:むらまつ=自由民権運動家の村松愛蔵のこと、1885年(明治18)の飯田事件に連座し、軽禁獄7年の刑に処せられた。
[37]馬場:ばば=自由民権運動家の馬場辰猪のこと、1886年(明治19)の横浜での爆裂弾事件に巻込まれ、爆発物取締罰則違反の容疑で半年間拘留され、その後アメリカへ渡り、客死した。
[38]赤井:あかい=自由民権運動家の赤井景韶のこと、1883年(明治16)の高田事件で内乱陰謀予備罪で重禁固9年の判決をうけ、脱獄後捕縛されて処刑された。
[39]光栄:こうえい=栄えかがやくこと。さかえること。栄誉とすること。  
[40]想望:そうぼう=心に思い描くこと。また、思い描いて待ち望むこと。
[41]従容:しょうよう=ゆったりと落ち着いているさま。
[42]仇敵:きゅうてき=憎んでいる相手。かたき。
[43]聖賢:せいけん=聖人と賢人。また、知識・人格にすぐれた人物。
[44]霹靂:へきれき=かみなりがなること。また、大きな音が響きわたること。
[45]守成:しゅせい=創業を受け継ぎ、事業の基礎を固めること。
[46]傾覆:けいふく=ひっくりかえること。また、ひっくりかえすこと。転覆。転倒。
[47]林有造:はやしゆうぞう=高知生まれの政治家で、板垣退助らと立志社を創立した。
[48]寒風凛冽:かんぷうりんれつ=寒風が吹いて、寒さが厳しく身にしみいるさま。
[49]髪指:はっし=髪が逆立つこと。
[50]退去令:たいきょれい=1887年(明治20)の「保安条例」のこと。
[51]路人:ろじん=通行人。傍観者。
[52]朝報:ちょうほう=「万朝報」のこと。
[53]孤塁:こるい=孤立した根拠地。ただ一つ残って助けのないとりで。
[54]追昔撫今:ついせきぶこん=昔を思い今をいつくし
[55]陸游:りくゆう=中国,南宋の詩人(1125~1209年)。
[56]剣閣:けんかく=中国、四川省剣閣県の北にある山の名。長安方面から蜀にはいる通路にあたり、要害として知られる。
[57]慨然:がいぜん=いきどおり、なげくさま。また、うれいなげくさま。
[58]陰平窮冦非難禦、如此江山坐付人=陸游の七言絶句『劍門城北回望劍關諸峰青入雲漢感蜀亡事慨然有賦』の3句目と4句目で、「隠平から追い詰めてきた敵は難なく防御できたはずだが、これほど険阻な江山を、やすやすと敵に明け渡すとは。」という意味。
[59]窮冦:きゅうかん=追い詰められること。
[60]禦ぎ:ふせぎ=防御し。
[61]髣髴:ほうふつ=ありありと眼前に見えること。はっきりと脳裏に浮かぶこと。また、そのさま。

<現代語訳>

 年は1900年(明治33)の8月のある夜、秋風のきびしい音が聞こえ、露が白く、天高き時、にわかに墜ちて声がした、「ああ自由党は死んだ、そしてその光栄ある歴史は全く抹殺されてしまった。」と。
 ああ、あなたたち自由党のことを、私がこのように言うのは忍ばれるのだが。想うに20余年前、専制抑圧のむごたらしい害毒がとうとうと世の中に勝手に流れ出し、明治維新中興の広大な計画は正に大きく頓挫しようとする時にあたって、始祖の天にあった霊は光輝かんとしてあなたたち自由党を大地に下し、それが新しく発足し、その成長していく光を放たたせた。そして、あなたたちの父母は実に我国に広がり満ちる自由平等の正しい気風であり、本当に世界を激しく振り動かし、また明らかに進歩の大潮流であった。
 それゆえに、あなたたち自由党が自由平等のために戦い、文明進歩のために闘い、義を見て進み、正しきを実行することを恐れず、度重なる困難にも屈せず、くじけずに立ち上がり、りりしく勇ましい気風や精神で、真に非常に厳しく、おごそかのうれえがあった。そして、それは今どこにあるのであろうか。
 あなたたち自由党が結成されると、政府の抑圧はますます甚しくなり、迫害はいよいよ急となり、言論は束縛させられ、集会は禁止させられ、請願は防止させられ、そして捕まえられ、そして「保安条例」による追放、そして牢獄へ入れられ、そして絞首台に上らされた。しかも、あなたたちは、釜茹でさえ飴の如く甘いと思い、幾万の財産をすべてなくしてしまっても悔いなかった。幾百の生命を損傷しても悔いなかった。どうして、これあなたたちの一片の理想信仰は変えたりすることができないくらい固く、永遠に変えることがない者であったためではなかったのか、そして、それは今どこにあるのであろうか。
 あなたたち自由党は、このようにして堂々たる立派な存在となった。多くの高い志を持った人、思いやりの心を備えた人の全身から絞り出した熱涙と鮮血とは、実にあなたたち自由党の糧であり、中枢のものであり、歴史である、ああ彼の田母野秀顕や、村松愛蔵や、馬場辰猪や、赤井景韶や、その熱涙鮮血をそそげる多くの高い志を持った人、思いやりの心を備えた人は、あなたたち自由党の前途光栄で洋々であるを思い描き待ち望んで、ゆったりと落ち着いた笑いを含んでその死に就いた。当時の誰か思うだろうか、彼等が死をささげたのに、すなわち自由党が死ぬとは、彼等の熱涙や鮮血が後日、その憎んでいる相手であった専制主義者の唯一の装飾に供せられようとは、ああ彼の熱涙や鮮血は、丹として沈殿し、碧と化して、それは今どこにあるのであろうか。
 あなたたち自由党は、初めは聖人と賢人の骨、英雄の胆、目は太陽や月のごとく、舌は雷が鳴るがごとく、攻めて取らなかったことはなく、戦って打ち勝たなかったことはなく、そして一たび憲法確立と代議制度の新天地を開拓し、国をとりもつ偉業を建てたのである。それなのにあなたたちは、創業を受け継ぎ、事業の基礎を固める才能がなく、そのひっくり返り方は建武の中興より危うくて、ただちに野蛮で専制の強敵のために征服させられてしまった、そうしてあなたたちの光り輝く歴史、名誉ある事業は今どこにあるのであろうか。
 さらに想う、私が年少の時に林有造君の家に仮住まいしていた時、一夜に寒風が吹いて、寒さが厳しく身に染み入る夕刻に、薩長藩閥政府は突如として林君等と私を捕えて(「保安条例」により)東京の12kmより外に追放したことを、当時諸君が髪が逆立つ状態で突然目に在り忘れられないことである、そして見よ、今や諸君は「保安条例」発布の総理伊藤侯、「保安条例」発布の内相山県侯の忠実な政友として、あなたたち自由党の死を視る傍観者のごとくである。そして、私は独り「万朝報」の孤立した根拠地に依拠して、なお自由平等、文明進歩のために奮闘しつつあることを、あなたたち自由党の死骸を吊るし、霊を祭る方法として、私はどうして昔を思い今をいつくしむの情がないのを得れるのか。陸游はかつて剣閣の諸峰を眺望して、憤って漢詩を作って言った、「隠平から追い詰めてきた敵は難なく防御できたはずだが、これほど険阻な江山を、やすやすと敵に明け渡すとは。」と、ああ専制主義者に追い詰められて防御し難かったのであろうか、その上に、光栄あるあなたたちの歴史は今や全く抹殺されてしまった、私はただこの句を吟じて、あなたたちを吊るすことがあるだけで、あなたたち自由党は、もし魂があるならば、ありありと眼前に見える姿として現れて、もてなしてくれよ。

☆幸徳秋水とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
 また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、洋画家牛島憲之の生まれた日です。
 牛島憲之(うしじま のりゆき)は、熊本県熊本市二本木町の大地主牛島米太郎の4男として生まれ、1913年(大正2)に古町小学校を卒業して、熊本県立熊本中学校(現在の県立熊本高等学校)に入学しました。1919年(大正8)に熊本中学校卒業後、上京し東京美術学校を受験するが失敗、葵橋洋画研究所に学び、1922年(大正11)には、東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助教室に在籍します。
 1927年(昭和2)に同校を卒業、研究科に進学、『赤坂並木の段』で第8回帝展に初入選しました。同年に同級生の猪熊弦一郎、荻須高徳らと上杜会を結成、1933年(昭和8)に東光会が結成されるとその第1回展から出品、1935年(昭和10)の第4回東光会展に『貝焼場』『午後(貝焼場)』を出品してK氏奨励賞を受賞します。
 1936年(昭和11)に主線美術協会を創立、1939年(昭和14)にその絵画部解散後、1941年(昭和16)に創元会が結成されると第1回展に『元朝』『昼』を出品して受賞しました。太平洋戦争中もつとめて勇ましい戦争画は描かず、戦後の1946年(昭和21)に『炎昼』が第2回日展で特選となります。
 1949年(昭和24)に創元会を退会し、須田寿らと立軌会を結成、1953年(昭和28)には、サンパウロの第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に『早春』『午後』『麦を刈る』を出品しました。1955年(昭和30)に東京芸術大学講師となり、1959年(昭和34)に助教授、1965年(昭和40)に教授となり、1968年(昭和43)の停年退官まで勤めて、同校名誉教授となります。
 1969年(昭和44)に芸術選奨文部大臣賞、1971年(昭和46)に熊本県近代文化功労者、1981年(昭和56)に日本芸術院会員、1982年(昭和57)に文化功労者、1983年(昭和58)に文化勲章受章と数々の栄誉にも輝きました。繊細な描写力で、独自の心象風景を描いてきましたが、1997年(平成9)9月16日に、東京都港区の虎ノ門病院において、97歳で亡くなっています。
 尚、2000年(平成12)に、東京都の「府中市美術館」内に遺作約 100点を収蔵する記念館が完成しました。

〇牛島憲之の主要な作品

・『赤坂並木の段』(1927年)第8回帝展に初入選
・『あるサーカス』(1928年)第9回帝展入選
・『貝焼場の風景』(1933年)第14回帝展入選
・『貝焼場』(1935年)第4回東光会展K氏奨励賞受賞
・『午後(貝焼場)』(1935年)第4回東光会展K氏奨励賞受賞
・『炎昼』(1946年)第2回日展特選受賞 京都国立近代美術館蔵
・『早春』(1953年)第2回サンパウロ・ビエンナーレ展出品
・『午後』(1953年)第2回サンパウロ・ビエンナーレ展出品
・『麦を刈る』(1953年)第2回サンパウロ・ビエンナーレ展出品
・『樽のある街』(1954年)第1回現代日本美術展出品
・『橋の風景』(1954年)第1回現代日本美術展出品
・『まるいタンク』(1957年)熊本県立美術館蔵 

☆牛島憲之関係略年表

・1900年(明治33)8月29日 熊本県熊本市二本木町の大地主牛島米太郎の4男として生まれる
・1913年(大正2) 古町小学校を卒業して、熊本県立熊本中学校に入学する
・1919年(大正8) 熊本中学校卒業後、上京し東京美術学校を受験するが失敗、葵橋洋画研究所に学ぶ
・1922年(大正11) 東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助教室に在籍する
・1927年(昭和2) 東京美術学校西洋画科を卒業、研究科に進学、岡田三郎助に師事、『赤坂並木の段』で第8回帝展に初入選
・1928年(昭和3) 第9回帝展に『あるサーカス』で入選する
・1929年(昭和4) 第10回帝展に『春爛漫』を出品する
・1930年(昭和5) 第2回聖徳太子奉賛美術展に『二人像』を出品する
・1933年(昭和8) 東光会が結成されるとその第1回展から出品、第14回帝展に『貝焼場の風景』が入選する
・1935年(昭和10) 第4回東光会展に『貝焼場』『午後(貝焼場)』を出品してK氏奨励賞を受賞する
・1936年(昭和11) 主線美術協会を創立する
・1939年(昭和14) 主線美術協会絵画部が解散する
・1941年(昭和16) 創元会が結成されると第1回展に『元朝』『昼』を出品して受賞する
・1946年(昭和21) 『炎昼』が第2回日展で特選となる
・1949年(昭和24)4月 創元会を退会し、須田寿らと立軌会を結成する
・1953年(昭和28) サンパウロの第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に『早春』『午後』『麦を刈る』を出品する
・1954年(昭和29) 第1回現代日本美術展に『樽のある街』『橋の風景』を出品する
・1955年(昭和30) 東京芸術大学講師となる
・1959年(昭和34) 東京芸術大学助教授となる
・1965年(昭和40) 東京芸術大学教授となる
・1968年(昭和43) 東京芸術大学を停年退官し、同校名誉教授となる
・1969年(昭和44)3月 芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1971年(昭和46) 熊本県近代文化功労者となる
・1981年(昭和56)11月 日本芸術院会員となる
・1982年(昭和57) 文化功労者となる、勲三等瑞宝章を受章する
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章する
・1997年(平成9)9月16日 東京都港区の虎ノ門病院において、97歳で亡くなる 
・2000年(平成12)10月 「府中市美術館」内に遺作約 100点を収蔵する記念館が開館する
・2004年(平成16)10月 「牛島憲之と昭和前期の絵画―抽象と具象のあいだ」展が開催される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1835年(天保6)南画家田能村竹田の命日(新暦10月20日)詳細
1910年(明治43)韓国併合ニ関スル条約」が発効する詳細
1918年(大正7)奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(生駒鋼索鉄道)が開業する詳細


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 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、「盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)が公布(施行は翌年4月1日)された日です。
 「盲学校及聾唖学校令(もうがっこうおよびろうあがっこうれい)」は、近代日本の盲学校と聾唖学校について定めた勅令(大正12年勅令第375号)でした。その目的は、「盲学校ハ盲人ニ、聾唖学校ハ聾唖者ニ普通教育ヲ施シ其ノ生活ニ須要ナル特殊ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ目的トシ特ニ国民道徳ノ涵養ニ力ムヘキモノトス」(第1条)とし、設置については、「北海道及府県ニ於テハ盲学校及聾唖学校ヲ設置スヘシ」(第2条)として道府県による盲学校および聾唖学校の設置義務を明文化、その経費は「北海道地方費又ハ府県ノ負担トス」(第3条)としています。
 また、市町村・市町村学校組合・町村学校組合(以上公立)・私人(私立)による設置も可能(第4条・第5条)としました。原則、初等部と中等部の設置を規定(第7条)し、予科・研究科・別科の設置も可能(第8条)としています。
 公立・私立の教科書は学校長が地方長官の認可を経たうえで定め(第9条)、入学料・授業料は公立の初等部・予科は無料(第10条)としました。その細則を定めた「公立私立盲学校及聾唖学校規程」(大正12年文部省令第34号)も同時に公布(施行は翌年4月1日)されています。
 この勅令は、全国盲唖教育大会等の盲・聾教育への施策の要望、盲・聾教育関係者の請願運動の高まりを踏まえ、文部省関係者の努力によって制定に至りました。太平洋戦争後の1947年(昭和22年)4月1日の「学校教育法」の施行により、廃止されています。
 以下に、「盲学校及聾唖学校令」(全文)と「公立私立盲学校及聾唖学校規程」(抄文)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)1923年(大正12)8月28日公布、翌年4月1日施行

盲学校及聾唖学校令(大正十二年八月二十八日勅令第三百七十五号)
 
第一条 盲学校ハ盲人ニ、聾唖学校ハ聾唖者ニ普通教育ヲ施シ其ノ生活ニ須要ナル特殊ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ目的トシ特ニ国民道徳ノ涵養ニ力ムヘキモノトス

第二条 北海道及府県ニ於テハ盲学校及聾唖学校ヲ設置スヘシ

第三条 前条ノ盲学校及聾唖学校ノ経費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス

第四条 市町村、市町村学校組合及町村学校組合ハ盲学校及聾唖学校ヲ設置スルコトヲ得

第五条 私人ハ本令ニ依リ盲学校及聾唖学校ヲ設置スルコトヲ得

第六条 公立又ハ私立ノ盲学校及聾唖学校ノ設置廃止ハ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

第七条 盲学校及聾唖学校ニ初等部及中等部ヲ置ク但シ土地ノ情況ニ依リ必要アル場合ニ於テハ初等部又ハ中等部ノミヲ置クコトヲ得
 盲学校及聾唖学校ニ予科研究科及別科ヲ置クコトヲ得

第八条 官立ノ盲学校及聾唖学校ノ修業年限、入学資格、学科、学科目及其ノ程度並予科、研究科及別科ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム
 公立又ハ私立ノ盲学校及聾唖学校ノ設置廃止、修業年限、入学資格、学科、学科目及其ノ程度、予科、研究科、別科、教員資格、編成並設備ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第九条 公立又ハ私立ノ盲学校及聾唖学校ノ教科書ハ学校長ニ於テ地方長官ノ認可ヲ経テ之ヲ定ム

第十条 公立ノ盲学校及聾唖学校ノ初等部及其ノ予科ニ在リテハ授業料入学料等ヲ徴収スルコトヲ得ス
 前項ニ規定スル場合ヲ除クノ外盲学校及聾唖学校ニ於テ授業料入学料等ヲ徴収セムトスルトキハ公立学校ニ在リテハ地方長官ニ於テ、私立学校ニ在リテハ設立者ニ於テ文部大臣ノ認可ヲ経テ其ノ額ヲ定ムヘシ

附則

 本令ハ大正十三年四月一日ヨリ施行ス
 北海道及府県ニ於テ特別ノ事情アルトキハ文部大臣ノ認可ヲ受ケ当分ノ内道府県立以外ノ公立又ハ私立ノ盲学校又ハ聾唖学校ヲ以テ第二条ノ盲学校又ハ聾唖学校ニ代用スルコトヲ得
 前項ニ規定スル代用ヲ為スコト能ハサルトキハ文部大臣ノ認可ヲ受ケ本令施行後七年以内第二条ノ盲学校又ハ聾唖学校ノ設置ヲ延期スルコトヲ得
 当分ノ内盲学校ノ学科ト聾唖学校ノ学科トヲ併置スル学校ヲ設クルコトヲ得
 前項ノ学校ハ之ヲ盲学校及聾唖学校ト看做ス

           「文部科学省ホームページ」より

〇「公立私立盲学校及聾唖学校規程」(抄文)(大正12年文部省令第34号)1923年(大正12)8月28日公布、翌年4月1日施行

公立私立盲学校及聾唖学校規程(抄)(大正十二年八月二十九日文部省令第34号)
 
第一条 盲学校ノ修業年限ハ初等部六年、中等部四年ヲ常例トス
 聾唖学校ノ修業年限ハ初等部六年、中等部五年ヲ常例トス

第二条 盲学校及聾唖学校ニ入学スルコトヲ得ルモノハ初等部ニ在リテハ年齢六年以上ノモノ、中等部ニ在リテハ初等部ヲ卒リタルモノ又ハ之ニ準スヘキモノタルヘシ但シ中等部ノ普通科以外ノ学科ヲ修メントスル者ハ初等部第五学年ヨリ技芸ニ関スル学科目ヲ兼修スルコトヲ得

第三条 相当年齢ニ達シ相当ノ学力アリト認メタル者ハ第二学年以上ニ入学ヲ許シ又ハ一学年ノ課程ヲ終了セサルモ其ノ学年ヲ進ムルコトヲ得

第四条 盲学校ノ中等部ヲ分チテ普通科、音楽科及鍼按科トシ聾唖学校ノ中等部ヲ分チテ普通科、図画科、裁縫科及工芸科トス
 前項ノ外土地ノ情況ニ依リ必要ナル学科ヲ置クコトヲ得

第五条 盲学校ノ学科目左ノ如シ
 一 初等部ニ在リテハ修身、国語、算術、歴史、地理、理科、唱歌、手工及体操トス
 二 中等部ノ普通科ニ在リテハ修身、国語、外国語、数学、歴史、地理、理科、音楽及体操トシ女子ノ為ニハ家事及裁縫ヲ加フ
 三 中等部ノ普通科以外ノ学科ニ在リテハ修身、国語、体操及技芸ニ関スル学科目トス
 前項ノ学科目中土地ノ情況ニ依リ其ノ一科目又ハ数科目ヲ闕キ若ハ必要ナル学科目ヲ加フルコトヲ得

第六条 聾唖学校ノ学科目左ノ如シ
 一 初等部ニ在リテハ修身、国語、算術、歴史、地理、理科、図画、手工及体操トス
 二 中等部ノ普通科ニ依リテハ修身、国語、外国語、数学、歴史、地理、理科、図画及体操トシ女子ノ為ニハ家事及裁縫ヲ加フ
 三 中等部ノ普通科以外ノ学科ニ在リテハ修身、国語、図画、体操及技芸ニ関スル学科目トシ女子ノ為ニハ家事及裁縫ヲ加フ但シ図画科ニハ図画ヲ、裁縫科ニハ裁縫ヲ闕ク
 前項ノ学科目中土地ノ情況ニ依リ其ノ一科目又ハ数科目ヲ闕キ若ハ必要ナル学科目ヲ加フルコトヲ得

第七条 盲学校及聾唖学校ノ毎週教授時数ハ初等部ニ在リテハ尋常小学校ニ、中等部ニ在リテハ学科ノ種類ニ応シ中学校、高等女学校又ハ実業学校ニ準シ之ヲ定ムヘシ

第八条 盲学校及聾唖学校ノ予科、別科、研究科及選科生ニ関シテハ公立学校ニ在リテハ地方長官ニ於テ、私立学校ニ在リテハ設立者ニ於テ之ヲ定メ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

第九条 盲学校及聾唖学校ニ於テハ学科目、教授時数及学級数ニ応シ相当員数ノ教員ヲ置クコトヲ要ス

第十条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ盲学校ノ教員タルコトヲ得
 一 東京盲学校ノ師範部甲種ヲ卒業シタル者
 二 文部大臣ノ指定シタル者
 三 文部大臣ノ認可シタル者
 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ盲学校ノ初等部ノ教員タルコトヲ得
 一 東京盲学校ノ師範部乙種ヲ卒業シタル者
 二 文部大臣ノ認可シタル者

第十一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ聾唖学校ノ教員タルコトヲ得
 一 東京聾唖学校ノ師範部甲種ヲ卒業シタル者
 二 文部大臣ノ指定シタル者
 三 文部大臣ノ認可シタル者
 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ聾唖学校ノ初等部ノ教員タルコトヲ得
 一 東京聾唖学校ノ師範部乙種ヲ卒業シタル者
 二 文部大臣ノ認可シタル者

第十二条 略

第十三条 特別ノ必要アル場合ニ於テハ公立学校ニ在リテハ地方長官ニ於テ、私立学校ニ在リテハ設立者ニ於テ第十条及第十一条ノ資格ヲ有セサル者ヲ教員トシテ採用スルコトヲ得
 前項ニ依リ採用シタル教員ハ公立学校ニ在リテハ教諭、助教諭、訓導又ハ保姆ト称スルコトヲ得ス

第十四条 第十条及第十一条ノ資格ヲ有セサル教員数之ヲ有スル教員数ノ二分ノーヲ超過スル場合ニ於テハ公立学校ニ在リテハ地方長官ニ於テ、私立学校ニ在リテハ管理者ニ於テ、文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

 以下略

第十五条-第十九条 略

第二十条 盲学校及聾唖学校ハ小学校其ノ他ノ学校ニ併設スルコトヲ得

第二十一条 土地ノ情況ニ依リ分教場ヲ設クルコトヲ得

第二十二条-第二十五条 略

附則

 本令ハ大正十三年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

 以下略

           「文部科学省ホームページ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

718年(養老2)貴族・歌人大伴家持の命日(新暦10月5日)詳細
1253年(建長5)日本の曹洞宗開祖道元の命日(新暦9月22日)詳細
1597年(慶長2)室町幕府第15代将軍だった足利義昭の命日(新暦10月9日)詳細


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 今日は、平安時代前期の858年(天安2)に、第55代の天皇とされる文徳天皇が亡くなった日ですが、新暦では10月7日となります。
 文徳天皇(もんとくてんのう)は、827年(天長4)に、京都平安京において、仁明天皇の第一皇子(母は左大臣・藤原冬嗣の娘順子)として生まれましたが、名は道康(みちやす)と言いました。842年(承和9)の承和の変で皇太子・恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子します。
 850年(嘉祥3)に、父・仁明天皇の病死により位を譲られ、第55代とされる天皇として即位しましたが、実権は伯父・藤原良房に握られました。同年に女御・明子(藤原良房の娘)が第四皇子惟仁親王(後の清和天皇)を産むと、第一皇子惟喬親王を押しのけて、生後8ヶ月で立太子させます。
 855年(斉衡2)に、勅命により『続日本後紀』の編纂を藤原良房、伴善男、春澄善縄、安野豊道により開始させました。しかし、858年(天安2年8月27日)に、京都平安京において、突然の病により数え年32歳で亡くなり、陵墓は田邑陵(現在の京都市右京区太秦)とされています。
 尚、没後の879年(元慶3)に天皇一代の歴史を編年体で記した『日本文徳天皇実録』10巻が完成しました。

〇文徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・827年(天長4年8月) 京都平安京において、仁明天皇の第一皇子(母は左大臣・藤原冬嗣の娘順子)として生まれる
・842年(承和9年) 承和の変で皇太子・恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子する
・844年(承和11年) 更衣・紀静子(三条町)が第一皇子惟喬親王を産む
・846年(承和13年) 更衣・紀静子(三条町)が第二皇子惟条親王を産む
・850年(嘉祥3年) 宮人・滋野奥子が第三皇子惟彦親王を産む
・850年(嘉祥3年3月19日) 父・仁明天皇の病死により位を譲られ、第55代とされる天皇として即位する
・850年(嘉祥3年3月25日) 女御・明子(藤原良房の娘)が第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を産む
・850年(嘉祥3年11月) 第四皇子・惟仁親王を立太子させる
・855年(斉衡2年) 勅命により『続日本後紀』の編纂が開始される
・858年(天安2年8月27日) 京都平安京において、突然の病で数え年32歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1714年(正徳4)本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の命日(新暦10月5日)詳細
1896年(明治29)詩人・童話作家宮沢賢治の誕生日詳細
1949年(昭和24)GHQによって「第一次税制改革勧告文概要」(シャウプ勧告)が出される詳細


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