今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、小説家・詩人高見順の亡くなった日です。
高見順(たかみ じゅん)は、明治時代後期の1907年(明治40)1月30日に、福井県坂井郡三国町(現在の坂井市三国町)で、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子(母は高間古代)として生まれましたが、本名は高間義雄と言いました。1908年(明治41)に母と共に上京し、1919年(大正8)に東京府立第一中学校へ入学して、白樺派などの文学に親しみます。
1924年(大正13)に中学校を卒業後、第一高等学校文科甲類入学し、一高社会思想研究会に入会、翌年にはダダイスムの雑誌「廻転時代」を創刊、1926年(大正15)には、校友会文芸部委員に就任しました。1927年(昭和2)に第一高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部英文学科に入学、同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加します。
翌年に左翼芸術同盟に参加し、機関紙「左翼芸術」に小説『秋から秋まで』を発表、東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した「大学左派」創刊にも参加しました。1929年(昭和4)に「大学左派」の後身「十月」や「時代文化」の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進み、翌年に東京帝国大学を卒業後、コロムビア・レコード会社へ入社します。
1931年(昭和6)頃から日本プロレタリア作家同盟員として活動し、1933年(昭和8)には、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されたものの、「転向」を表明し、半年後に釈放され、雑誌「日暦」創刊に参加しました。1935年(昭和10)に饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を「日暦」に発表、第1回芥川賞候補となって作家としての地位を確立、翌年には『文芸時評』で文学界賞を受賞、「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加、コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に入ります。
1939年(昭和14)、「文芸」に長編小説『如何なる星の下に』の連載を開始し、高い評価を受け、1941年(昭和16)に陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣され、1944年(昭和19)に中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席、1945年(昭和20)には日本文学報国会へも参加しました。太平洋戦争後は、久米正雄、川端康成、中山義秀らと出版社「鎌倉文庫」を創立、1946年(昭和21)には、そこから小説『今ひとたびの』を刊行します。
1947年(昭和22)に池田克己らと「日本未来派」を創刊、詩作を再開、1958年(昭和33)には、日本ペンクラブ専務理事に就任しました。1959年(昭和34)に評論『昭和文学盛衰史』で毎日出版文化賞、1963年(昭和38)に長編小説『いやな感じ』で新潮社文学賞、1964年(昭和39)には、日本近代文学館設立運動により菊池寛賞、詩集『死の淵より』で野間文芸賞受章など数々の栄誉にも輝いています。
しかし、翌年8月17日に、食道癌のため千葉県の放射線医学総合研究所病院において、58歳で亡くなり、文化功労者が追贈されました。
〇高見順の主要な著作
・短編小説『感傷』(1933年)
・長編小説『故旧忘れ得べき』(1935年)第1回芥川賞候補
・評論『描写のうしろに寝てゐられない』(1936年)
・長編小説『如何(いか)なる星の下(もと)に』(1939~40年)
・評論『文学非力説』(1941年)
・長編小説『わが胸の底のここには』(1946~47年)1957年続編を発表するが未完
・小説『今ひとたびの』(1946年)
・詩集『樹木派』(1950年)
・長編小説『胸より胸に』(1950~51年)
・長編小説『生命の樹(き)』(1956~58年)
・評論『昭和文学盛衰史』(1958年)毎日出版文化賞受賞
・長編小説『激流』1部(1959~63年)
・長編小説『激流』2部(1963年~未完)
・長編小説『いやな感じ』(1960~63年)新潮社文学賞受賞
・詩集『死の淵(ふち)より』(1964年)野間文芸賞受賞
・日記『高見順日記』正続16巻(1941~65年)
☆高見順関係略年表
・1907年(明治40)1月30日 福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)で、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子(母は高間古代)として生まれる
・1908年(明治41) 母と共に上京する
・1919年(大正8) 東京府立第一中学校へ入学する
・1924年(大正13) 東京府立第一中学校を卒業、第一高等学校文科甲類入学し、一高社会思想研究会に入会する
・1925年(大正14) ダダイスムの雑誌「廻転時代」を創刊する
・1926年(大正15) 校友会文芸部委員に就任する
・1927年(昭和2) 第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部英文学科に入学、同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加する、
・1928年(昭和3) 左翼芸術同盟に参加し、機関紙「左翼芸術」に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した「大学左派」創刊にも参加する
・1929年(昭和4) 「大学左派」の後身「十月」や「時代文化」の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進む
・1930年(昭和5) 東京帝国大学を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務後、コロムビア・レコード会社へ入社する
・1931年(昭和6)頃 日本プロレタリア作家同盟員として活動する
・1933年(昭和8) 治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放され、雑誌「日暦」創刊に参加する
・1935年(昭和10) 饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を「日暦」に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立、水谷秋子と結婚する
・1936年(昭和11) 『文芸時評』で文学界賞を受章、「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加、コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に入る
・1938年(昭和13) 浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める
・1939年(昭和14) 「文芸」に長編小説『如何なる星の下に』の連載を開始し、高い評価を受ける
・1941年(昭和16) 陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣される
・1944年(昭和19) 中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席する
・1945年(昭和20)6月 日本文学報国会参加する
・1945年(昭和20)9月 久米正雄、川端康成、中山義秀らと出版社「鎌倉文庫」を創立する
・1946年(昭和21)9月 「鎌倉文庫」から小説『今ひとたびの』を刊行する
・1947年(昭和22)5月 池田克己らと「日本未来派」を創刊、詩作を再開する
・1950年(昭和25)6月 「婦人公論」に長編小説『胸より胸に』の連載を開始する
・1958年(昭和33)2月 日本ペンクラブ専務理事に就任する
・1959年(昭和34)9月 評論『昭和文学盛衰史』で毎日出版文化賞を受賞する
・1962年(昭和37)5月 伊藤整、小田切進らと日本近代文学館設立準備会を発足させる
・1963年(昭和38)10月 長編小説『いやな感じ』で新潮社文学賞を受賞する
・1964年(昭和39)3月 日本近代文学館設立運動により菊池寛賞を受章する
・1964年(昭和39)12月 詩集『死の淵より』で野間文芸賞を受章する
・1965年(昭和40)8月17日 食道癌のため千葉県の放射線医学総合研究所病院において、58歳で亡くなり、文化功労者が追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1691年(元禄4) | 経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日) | 詳細 |
1945年(昭和20) | 小説家島木健作の命日 | 詳細 |
1949年(昭和24) | 国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる | 詳細 |