ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年07月

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、第2次近衛内閣によって国家の政策の基本方針である「基本国策要綱」が閣議決定された日です。
 「基本国策要綱(きほんこくさくようこう)」は、その後の日本の進路を定めたもので、“大東亜新秩序”の建設と国防国家体制の確立を基本とすることとなりました。同年1月から半年かけて、「国策研究会」を活用して、陸海軍、企画院官僚、「革新」派官僚の参加のもと策定した国策案「綜合国策基本要綱」に基づいたものとされています。内容は、ファシズム諸国による世界再分割を世界史上の必然的動向とし、従来言われていた“東亜新秩序”よりいっそう広大な“大東亜新秩序”の建設を国是とし、この新秩序建設を目指し、国防国家体制の確立を強調、具体策として、国民新組織、議会翼賛体制、官界新体制の確立、計画経済と統制機構強化等を掲げました。
 前月14日にナチスドイツがパリを陥落させ、破竹の勢いでヨーロッパを侵略している中で定められ、翌7月27日には、この要綱に従って、大本營政府連絡会議において「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定され、南方進出=東南アジア侵略を既定方針とすることとなります。さらに外交面では、9月27日にドイツのベルリンで「日独伊三国同盟」に調印し、内政面では新体制運動が展開され、各政党、労働組合も自発的に解散し、10月12日には、「大政翼賛会」が発足して、日本型のファシズム体制の確立へと向かいました。
 以下に、1940年(昭和15)7月26日閣議決定の「基本国策要綱」と7月27日大本營政府連絡会議決定の「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「基本国策要綱」1940年(昭和15)7月26日 閣議決定

世界ハ今ヤ歴史的一大転機ニ際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ、皇国亦有史以来ノ大試錬ニ直面ス、コノ秋ニ当リ真ニ肇国ノ大精神ニ基ク皇国ノ国是ヲ完遂セントセハ右世界史的発展ノ必然的動向ヲ把握シテ庶政百般ニ亘リ速ニ根本的刷新ヲ加ヘ万難ヲ排シテ国防国家体制ノ完成ニ邁進スルコトヲ以テ刻下喫緊ノ要務トス、依ツテ基本国策ノ大綱ヲ策定スルコト左ノ如シ

基本国策要綱

一、根本方針
皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ
之カ為皇国自ラ速ニ新事態ニ即応スル不抜ノ国家態勢ヲ確立シ国家ノ総力ヲ挙ケテ右国是ノ具現ニ邁進ス

二、国防及外交
皇国内外ノ新情勢ニ鑑ミ国家総力発揮ノ国防国家体制ヲ基底トシ国是遂行ニ遺憾ナキ軍備ヲ充実ス
皇国現下ノ外交ハ大東亜ノ新秩序建設ヲ根幹トシ先ツ其ノ重心ヲ支那事変ノ完遂ニ置キ国際的大変局ヲ達観シ建設的ニシテ且ツ弾力性ニ富ム施策ヲ講シ以テ皇国国運ノ進展ヲ期ス

三、国内態勢ノ刷新
我国内政ノ急務ハ国体ノ本義ニ基キ諸政ヲ一新シ国防国家体制ノ基礎ヲ確立スルニ在リ之カ為左記諸件ノ実現ヲ期ス
1、国体ノ本義ニ透徹スル教学ノ刷新ト相俟チ自我功利ノ思想ヲ排シ国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス尚科学的精神ノ振興ヲ期ス
2、強力ナル新政治体制ヲ確立シ国政ノ総合的統一ヲ図ル
イ、官民協力一致各々其ノ職域ニ応シ国家ニ奉公スルコトヲ基調トスル新国民組織ノ確立
ロ、新政治体制ニ即応シ得ヘキ議会制度ノ改革
ハ、行政ノ運用ニ根本的刷新ヲ加ヘ其ノ統一ト敏活トヲ目標トスル官場新態勢ノ確立
3、皇国ヲ中心トスル日満支三国経済ノ自主的建設ヲ基調トシ国防経済ノ根基ヲ確立ス
イ、日満支ヲ一環トシ大東亜ヲ包容スル皇国ノ自給自足経済政策ノ確立
ロ、官民協力ニヨル計画経済ノ遂行特ニ主要物資ノ生産、配給、消費ヲ貫ク一元的統制機構ノ整備
ハ、総合経済力ノ発展ヲ目標トスル財政計画ノ確立並ニ金融統制ノ強化
ニ、世界新情勢ニ対応スル貿易政策ノ刷新
ホ、国民生活必需物資特ニ主要食糧ノ自給方策ノ確立
ヘ、重要産業特ニ重化学工業及機械工業ノ画期的発展
ト、科学ノ画期的振興並ニ生産ノ合理化
チ、内外ノ新情勢ニ対応スル交通運輸施設ノ整備拡充
リ、日満支ヲ通スル総合国力ノ発展ヲ目標トスル国土開発計画ノ確立
4、国是遂行ノ原動力タル国民ノ資質、体力ノ向上並ニ人口増加ニ関スル恒久的方策特ニ農業及農家ノ安定発展ニ関スル根本方策ヲ樹立ス
5、国策ノ遂行ニ伴フ国民犠牲ノ不均衡ノ是正ヲ断行シ厚生的諸施策ノ徹底ヲ期スルト共ニ国民生活ヲ刷新シ真ニ忍苦十年時難克服ニ適応スル質実剛健ナル国民生活ノ水準ヲ確保ス

  『内閣制度百年史 下』内閣官房編「国立国会図書館リサーチナビ」より

〇「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」  1940年(昭和15)7月27日 大本營政府連絡会議決定

 方針

帝国ハ世界情勢ノ変局ニ対処シ内外ノ情勢ヲ改善シ速二支那事変ノ解決ヲ促進スルト共二好機ヲ捕捉シ対南方問題ヲ解決ス
支那事変ノ処理未タ終ラサル場合ニ於テ対南方施策ヲ重点トスル態勢転換ニ関シテハ内外諸般ノ情勢ヲ考慮シ之ヲ定ム
右二項ニ対処スル各般ノ準備ハ極力之ヲ促進ス

要領

㐧一条 支那事変処理ニ関シテハ政戦両略ノ綜合力ヲ之ニ集中シ特ニ㐧三国ノ援蒋行為ヲ絶滅スル等凡ユル手段ヲ尽シテ速ニ重慶政権ノ屈服ヲ策ス
 対南方施策ニ関シテハ情勢ノ変転ヲ利用シ好機ヲ捕捉シ之カ推進ニ努ム

㐧二条 対外施策二関シテハ支那事変処理ヲ推進スルト共ニ対南方問題ノ解決ヲ目途トシ概ネ左記ニ依ル
一、先ツ対独伊蘇施策ヲ重点トシ特ニ速ニ独伊トノ政治的結束ヲ强化シ対蘇国交ノ飛躍的調整ヲ図ル
二、米国ニ対シテハ公正ナル主張ト厳然タル態度ヲ持シ帝国ノ必要トスル施策遂行ニ伴フ已ムヲ得サル自然的悪化ハ敢テ之ヲ辞セサルモ常ニ其動向ニ留意シ我ヨリ求メテ摩擦ヲ多カラシムルハ之ヲ避クル如ク施策ス
三、佛印及香港等ニ対シテハ左記ニ依ル
(イ)佛印(広洲湾ヲ含ム)ニ対シテハ援蒋行為遮断ノ徹底ヲ期スルト共ニ速ニ我軍ノ補給担任、軍隊通過及飛行場使用等ヲ容認セシメ且帝国ノ必要ナル資源ノ獲得ニ努ム情況ニヨリ武力ヲ行使スルコトアリ
(ロ)香港ニ対シテハ「ビルマ」ニ於ケル援蒋「ルート」ノ徹底的遮断ト相俟チ先ツ速ニ敵性ヲ芟除スル如ク强力ニ諸工作ヲ推進ス
(ハ)租界ニ対シテハ先ツ敵性ノ芟除及交戦国軍隊ノ撤退ヲ図ルト共ニ逐次支那側ヲシテ之ヲ回収セシムル如ク誘導ス
(ニ)前二項ノ施策ニ当リ武力ヲ行使スルハ㐧三条ニ依ル
四、蘭印ニ対シテハ暫ク外交的措置ニ依リ其重要資源確保ニ努ム
五、太平洋上ニ於ケル旧独領及佛領島嶼ハ国防上ノ重大性ニ鑑ミ成シ得レハ外交的措置ニ依リ我領有ニ帰スル如ク処理ス
六、南方ニ於ケル其他ノ諸邦ニ対シテハ努メテ友好的措置ニヨリ我工作ニ同調セシムル如ク施策ス

㐧三条 対南方武力行使ニ関シテハ左記ニ準拠ス
一、支那事変処理概ネ終了セル場合ニ於テハ対南方問題解決ノ為内外諸般ノ情勢之ヲ許ス限リ好機ヲ捕捉シ武力ヲ行使ス
二、支那事変ノ処理未タ終ラサル場合ニ於テハ㐧三国ト開戦ニ至ラサル限度ニ於テ施策スルモ内外諸般ノ情勢特ニ有利ニ進展スルニ至ラハ対南方問題解決ノ為武力ヲ行使スルコトアリ
三、前二項武力行使ノ時期、範囲、方法等ニ関シテハ情勢ニ応シ之ヲ決定ス
四、武力行使ニ当リテハ戦争対手ヲ極力英国ノミニ局限スルニ努ム
  但シ此ノ場合ニ於テモ対米開戦ハ之ヲ避ケ得サルコトアルヘキヲ以テ之カ準備ニ遺憾ナキヲ期ス

㐧四条 国内指導ニ関シテハ以上ノ諸施策ヲ実行スルニ必要ナル如ク諸般ノ態勢ヲ誘導整備シツツ新世界情勢ニ基ク国防国家ノ完成ヲ促進ス
 之カ為特ニ左ノ諸件ノ実現ヲ期ス
一、强力政治ノ実行
二、総動員法ノ広汎ナル発動
三、戦時経済態勢ノ確立
四、戦争資材ノ集積及船腹ノ擴充
  (繰上輸入及特別輸入最大限実施竝ニ消費規正)
五、生産擴充及軍備充実ノ調整
六、国民精神ノ昂揚及国内輿論ノ統一

   「ウイキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1651年(慶安4)軍学者・慶安の変の首謀者由比正雪が自害する(新暦9月10日)詳細
1881年(明治14)劇作家・演出家小山内薫の誕生日詳細
1992年(平成4)将棋棋士・15世永世名人大山康晴の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1683年(天和3)に、江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(天和令)15ヶ条を発布し、「諸士法度」と統合の上、殉死の禁止や末期養子の禁緩和の明文化等をした日ですが、新暦では8月26日となります。
 「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法で、最初のものは、1615年(慶長20年7月7日)に13ヶ条発布されました。しかし、その後状況の推移を踏まえ、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)として、一応の完成をみたものです。
 しかし、その後も時勢に応じて、寛文令(1663年)で一部変更され、1683年(天和3年7月25日)には、文治政治の路線を基に大きな改編がなされ、「諸士法度」と統合されました。
 以下に、「武家諸法度(天和令)」の全文を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?

 江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
 1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
 内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と改訂が行われてきました。
 第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。

〇「武家諸法度(天和令)」全15ヶ条 天和3年(1683年)7月25日発布

<原文・旧字>

一、文武忠孝を勵し、可正禮儀事、
一、參勤交替之儀、毎歳可守所定之時節、從者之員數不可及繁多事、
一、人馬兵具等、分限に應し、可相嗜事、
一、新規之城郭搆營堅禁止之、居城之隍壘石壁等敗壞之時は、達奉行所、可受指圖也、櫓塀門以下は如先規可修補事、
一、企新規、結徒黨、成誓約幷私之關所、新法之津留、制禁之事、
一、江戸幷何國にて、不慮之儀有之といふ共、猥不可懸集、在國之輩は其所を守り、下知を可相待也、何處にて雖行刑罰、役者之外不可出向、可任撿使之左右事、
一、喧嘩口論可加謹愼、私之諍論制禁之、若無據子細有之は、達奉行所、可受其旨、不依何事、令荷擔は、其咎本人よりおもかるへし、幷本主之障在之者不可相拘事、
 附、頭有之輩之百姓訴論は、其支配え令談合、可相濟之、有滯儀は、評定所え差出之、可受捌事、
一、國主、城主、壹万石以上、近習幷諸奉行、諸物頭、私不可結婚姻、惣て公家と於結縁邊は、達奉行所、可受指圖事、
一、音信贈答嫁娶之規式或饗應或家宅營作等、其外万事可用儉約、惣て無益之道具を好、不可致私之奢事、
一、衣裳之品不可混亂、白綾公卿以上、白小袖諸大夫以上免許事、
 附、徒若黨之衣類は羽二重絹紬布木綿、弓鐵炮之者は紬布木綿、其下に至は、万に布木綿可用事、
一、乘輿は、一門之歴々、國主、城主、壹万石以上幷國大名之息 城主曁侍從以上之嫡子或年五十以上許之、儒醫諸出家は制外事、
一、養子は同姓相應之者を撰、若於無之は、由緒を正し、存生之内可致言上、五十歳以上十七歳以下之輩、及末期雖致養子、吟味之上可立之、縱雖實子、筋目違たる儀不可立事、
 附、殉死之儀、彌令制禁事、
一、知行所務淸廉沙汰之、國郡不可令衰弊、道路驛馬橋舟等無斷絶、可令往還事、
 附、荷船之外、大船は如先規停止之事、
一、諸國散在之寺社領、自古至于今所附來は、不可取放之、勿論新地之寺社建立彌令停止之、若無據子細有之は、達奉行所、可受指圖事、
一、万事應江戸法度、於國々所々可遒行事。
 右條々、今度定之訖、堅可相守者也、
   天和三年七月廿五日
   『御触書寛保集成』より

<原文・新字>

一、文武忠孝を励し可正礼儀事。 
一、参勤交替之義、毎年可守定所之時節、従者之員数不可及繁多之事。
一、人馬・兵具等分限ニ応じ可相嗜事。 
一、新規之城郭構営堅禁止之、居城湟累石壁等敗壊之時ハ達奉行所、可受差図也、櫓城門以下者如先規可修補事。
一、企新規、結徒党、成誓約并私之関所、新法之津留制禁事。
一、江戸并何国にて不慮之儀有之といふ共猥不可懸集、在国之輩ハ其所を守、下知可相待也、何所ニ而雖行刑罰、役者之外不可出向、可任検使之左右事
一、喧嘩口論可加謹慎、私之争論制禁之、若無拠子細有之、達奉行所可受其旨、不依何事令荷担者其咎本人よりおもかるべし、并 本主の障有之もの不可相抱事。
 附 頭有之輩へ百姓訴論ハ其支配江令談合、可相済之、有滞儀ハ評定所へ差出之可受捌事。
一、国主・城主・壱万石以上近習并諸奉行、諸物頭私不可結婚姻、惣而公家と於結縁辺者、達奉行所可受差図事。 
一、音信・贈答・嫁取之規式餐応、或家宅営作等其外万事可用倹約、惣而無益之道具を好、不可致私之奢事。
一、衣装之品不可混乱、白綾公卿以上、白小袖諸士大夫以上免許之事。
 附 従者・若党之衣類、羽二重縮緬布木綿、弓鉄砲之者ハ紬布木綿其外ニ至てハ万に布木綿可用之事。
一、乗輿者一門之歴々、国主城主壱万石以上并国大名之息、城主及侍従以上之嫡子或五拾以上許之、儒・医・諸出家者制外之事。 
一、養子者同姓相応之者を撰び、若無之においてハ由緒を正し、存生之内可致言上、五十已上十七已下之輩、及末期雖致養子、吟味之上可立之、縦雖実子筋目違たる義不可立事。
 附 殉死之義令弥制禁事。
一、知行所務清廉沙汰之、国郡不可令衰弊、道路駅馬橋船等、無断絶可令往還事。
 附 荷船之外、大船者如先規停止之事。
一、諸国散在之寺社領ハ自古至干今所附来ハ不可取放之、向後新地之寺社建立弥令停止之、若無拠子細有之ハ達奉行所可受差図事。
一、万事応江戸之法度、於国々所々可通行事。 
 右条々今度定之訖、堅可相守者也

  天和三年七月二十五日

<読み下し文>

一、文武忠孝[1]を励し、礼儀を正すべきの事。
一、参勤交替[2]の義、毎年定める所の時節を守るべし、従者の員数これ繁多に及ぶべからざる事。
一、人馬兵具等、分限[3]に応じ、相嗜ふべき事。
一、新規の城郭搆営[4]は堅くこれを禁止す。居城の湟累[5]石壁等敗壊の時は、奉行所に達し、指図を受くべき也、櫓塀門以下は先規のごとく修補[6]すべき事。
一、新儀を企て徒党を結び[7]誓約を成す、ならびに私の関所・新法の津留め[8]制禁の事。
一、江戸ならびに何国にて、不慮の儀これ有るといふ共、猥に懸集めるべからず、在国の輩はその所を守り、下知を相待つへき也、何處にて刑罰の行はるるといえども、役者の外出向すべからず、検使[9]の左右に任せるべき事。
一、喧嘩口論は謹慎加ふるべし、私の争論はこれを制禁す、もし無拠[10]の子細[11]之あるは、奉行所に達し、その旨を受くべし、何事によらず、荷担[12]せしむ者は、その咎[13]本人よりおもかるべし、ならびに本主の障之在るの者は相拘えるべからざる事。
 附、頭有の輩の百姓訴論は、その支配え談合せしめ、之を相済すべし、滯りあるの儀は、評定所え之を差出し、捌[14]を受くべき事。
一、国主[15]、城主[16]、壱万石以上、近習[17]ならびに諸奉行、諸物頭[18]、私に[19]婚姻を結ぶべからず、惣て公家と縁辺[20]を結ぶに於いては、奉行所に達し、指図を受くべき事。
一、音信[21]・贈答・嫁取の規式或は餐応[22]或は家宅営作[23]等、その外万事倹約をもちふるべし、惣て益之なき道具を好み、私の奢りいたすべからざる事。
一、衣装の品混乱すべからず。白綾[24]は公卿[25]以上、白小袖[26]は諸士大夫以上免許の事。
  附 従者・若党の衣類は羽二重[27]絹紬[28]布木綿、弓鉄砲の者は紬布木綿、其下に至は、万ニ布木綿ヲ用ふべき事。
一、乘輿は、一門ノ歴々、国主[15]、城主[16]、壱万石以上ならびに国大名の息 城主[16]及侍従以上の嫡子或は年五十以上之を許す、儒・医・諸出家は制外の事。
一 養子は同姓相応の者を撰び、若之無きにおゐては、由緒を正し、存生の内[29]言上致すべし。五拾以上十七以下の輩末期[30]に及び養子致すと雖も、吟味の上之を立つべし。縦、実子と雖も筋目違たる儀、立つべからざる事。
 附、殉死[31]の儀、弥制禁せしむる事。
一、知行所務清廉[32]に之を沙汰し、国郡衰弊[33]せしむべからず、道路驛馬橋舟等断絶無く、往還せしむべき事。
 附 荷船の外、大船は先規のごとく停止の事。
一、諸国散在の寺社領、古より今に至り附け来る所は、之を取り放つべからず、勿論新地の寺社建立は之を停止せしむ、もし無拠[10]の子細[11]之あるは、奉行所に達し、指図を受くべき事。
一、万事江戸の法度[34]に応へ、国々所々に於て遒行[35]すべき事。
 右條々は、今度之を定むるに訖る、堅く相守るべき者也。
   天和三年七月二十五日

【注釈】

[1]文武忠孝:ぶんぶちゅうこう=学問・武芸・忠義・孝行。
[2]参勤交替:さんきんこうたい=原則として一年交代で、諸大名を江戸と領地とに居住させた制度。
[3]分限:ぶんげん=その人の社会的身分、地位。
[4]新儀ノ城郭構営:しんぎのじょうかくこうえい=新たに築城すること。
[5]湟累:こうるい=濠と土塁。
[6]修補:しゅうほ=修理。
[7]徒党ヲ結ビ:ととうをむすび=仲間、団体、一味などを集めて団結する。
[8]津留メ:つどめ=領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。多くが港で行なわれた。
[9]検使:けんし=殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
[10]無拠:よんどころなし=やむをえない、余儀ないの意。
[11]子細:しさい=特別の理由。こみいったわけ。
[12]荷担:かたん=力添えをすること。仲間になること。
[13]咎:とが=罰されるべきおこない。つみ。
[14]捌:さばき=訴訟を裁決すること。
[15]国主:こくしゅ=国持大名のこと。
[16]城主:じょうしゅ=城持大名のこと。
[17]近習:きんじゅう=主君のそば近くに仕える者。近侍。近寄衆。
[18]物頭:ものがしら=弓組・鉄砲組などの長。足軽頭・同心頭の類。武頭。物頭役。足軽大将。
[19]私ニ:わたくしに=私的に。公儀の許可なく、勝手に。
[20]縁辺:えんぺん=夫婦の縁を結ぶこと。縁組。結婚。縁約。
[21]音信:いんしん=便りをすること。便り。また、手紙や訪問によってよしみを通じること。
[22]餐応:きょうおう=酒や料理をとりそろえてもてなすこと。馳走すること。
[23]営作:えいさく=造営。建造。
[24]白綾:しらあや=白地の綾織物。
[25]公卿:くぎょう=摂政・関白以下、参議以上の現官および三位以上の有位者(前官を含む)の総称。
[26]小袖:こそで=袖口の小さく縫いつまっている衣服。
[27]羽二重:はぶたえ=絹布の一種。優良な絹糸で緻密に織り、精練した純白のもの。
[28]絹紬:けんちゅう/きぬつむぎ=絹織物の一種。柞蚕(さくさん)紡糸または絹紡糸を原料として織ったつむぎ。
[29]存生ノ内:ぞんじょうのうち=生きているうち。生存中。
[30]末期:まつご=臨終の時。
[31]殉死:じゅんし=主君、主人の死後、臣下があとを追って自殺すること。追腹。
[32]清廉:せいれん=心が清く私欲のないこと。行ないがいさぎよく、私利私欲をはかる心がないこと。また、そのさま。
[33]衰弊:すいへい=勢いなどがおとろえ弱ること。
[34]法度:はっと=法令。
[35]遵行:じゅんぎょう=従い行う。遵守。

<現代語訳>

一、学問・武芸・忠義・孝行に励み、礼儀を正しくすべきこと。
一、参勤交替については、毎年定める所の時期を守り、従者の人数が多すぎることがないようにすること。
一、人馬・兵具などは、その人の社会的身分や地位に応じ、相応のものとして準備しておくこと。
一、新たに築城することは厳禁する。居城の濠や土塁、石垣などが壊れた時は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。櫓、塀、門などは先の規則(元和令)に従って修理すること。
一、新たなものを企て、仲間を集め、誓約を取り交わすこと、ならびに私設の関所を設置したり、新法を制定して物資の他領との移出入を制限・停止してはならないこと。
一、江戸をはじめいかなる国において、不測の事態が起きたと言っても、無分別には集まらず、領国にいる者はその場所を守り、幕府からの命令を待つこと。どこかで刑罰が執行されるといっても、担当者以外は出向いてはならない。ただし、検使の指図には任せること。
一、喧嘩口論は慎むべきで、私的な争いごとは禁止する、もしやむを得ない理由がある場合は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。どのような理由にもかかわらず、加担する者は、その罪は本人より重いものとする。ならびに元の主人のところで問題があった者は、家来として召し抱えてはならないこと。
 附 主人の有る者への百姓の訴訟は、その統治者に話合わせて解決すること。難航したならば評定所へ差出して、裁決させること。
一、国持・城持・一万石以上の大名、近習および諸奉行、諸物頭は、公儀の許可なく、勝手に結婚してはならない。全体に公家と縁組を結ぶときは、奉行所に届け指示を受けること。
一、よしみを通じたり、品物などの贈答、結婚の儀式、酒や料理をとりそろえてのもてなしや屋敷の建設など、その他何事においても倹約に心掛けること。全体に無益の道具を好むなど私的な贅沢をしないようにすること。
一、衣装の身分によるしきたりを乱れさせてはならない。白地の綾織物は公卿以上、白地の小袖は大夫以上に許可すること。
 附 従者・若党の衣類は羽二重、縮緬、布木綿、弓鉄砲の者は紬布木綿、その他は全て布木綿を着用すること。
一、輿を使える者は、徳川一門、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに国持大名の息子、城持大名、侍従以上の嫡子、あるいは50歳以上の者に許可する。儒者・医者・僧侶は制限外とすること。
一 (実子のいない大名の)養子は同姓(一族)から相応の者を選び、もしふさわしい者がない場合は、由緒の正しい者を存命中に言上すること。50歳以上、17歳以下の者が臨終に及んで養子を立てるといっても、調査したた上で養子に立てる様にせよ。たとえ、実子だといっても筋道の違った者は跡継ぎにしてはならないこと。
 附、殉死については、いっそう厳しく禁止すること。
一、領地での政務は心清く私欲なく行い、国郡の勢いを衰え弱らせてはならないこと。道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることなく、往来させること。
 附 商船以外の大船建造は、先の規則(元和令)に従って禁止すること。
一、諸国に散在する寺社の領地で昔から現在まで所有しているところは、これを取り上げてはならないこと。今後新地の寺社建立はこれを禁止する、もしやむを得ない理由がある場合は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。
一、全て江戸幕府の法令のごとく、どこにおいてもこれを遵守すべきこと。
 右の条文は、今度これを定めるに至ったので、堅く守るべきものである。

   天和3年(1683年)7月25日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、南北朝時代の1352年(観応3)に、室町幕府が「観応の半済令」を発布した日ですが、新暦では9月3日となります。
 「観応の半済令(かんおうのはんぜいれい)」は、室町幕府が近江・美濃・尾張三ヶ国において、一年に限って、荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたものでした。当時は、観応の擾乱と呼ばれる全国的な争乱が続いており、軍費・兵糧の調達のために、主戦場となっていた近江・美濃・尾張三ヶ国の一年分に限って発令されたものでしたが、同年8月には和泉なども加えた八ヶ国に拡大します。
 さらに全国的・永年的に拡大していき、1368年(応安元)6月17日の「応安の半済令」を発布して、皇族・寺社・摂関領などを例外として、全ての荘園年貢について、本所側と守護側武士との間で均分することを永続的に認めるものとなりました。その結果、守護の権益が拡大していくこととなり、守護領国制、守護大名形成へと向かっていくこととなります。
 以下に、「観応の半済令」の全文を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「観応の半済令」 観応3年(1352年)7月24日発布

一 寺社本所領の事、観応三年七月廿四日の御沙汰
 諸国擾乱[1]に依り、寺社の荒廃、本所の牢籠[2]、近年倍増せり。而してたまたま静謐[3]の国々も、武士の濫吹[4]未だ休まずと云云。仍って守護人に仰せ、国の遠近に依り日限を差し[5]、施行[6]すべし。承引[7]せざる輩に於ては、所領の三分一を分ち召す可し。所帯無くば、流刑に処すべし。若し遵行[8]の後立帰り、違乱[9]致さば、上裁[10]を経ず国中の地頭御家人を相催し、不日[11]に在所に馳せ向ひ、治罰を加へ、元の如く沙汰[12]し雑掌[13]を下地[14]に居え、子細[15]を注申す可し。将又[16]守護人緩怠[17]の儀有らば、其の職を改易[18]す可し。次に近江・美濃・尾張三箇国、本所領半分[19]の事、兵粮料所[20]として、当年一作[21]、軍勢に預け置く可きの由、守護人等に相触れおはんぬ[22]。半分に於ては、宜しく本所に分渡すべし。若し預人[23]事を左右に寄せ[24]、去渡さざれば、一円[25]本所に返付す可す。

    『建武以来追加』より

【注釈】

[1]擾乱:じょうらん=乱すこと。騒乱。
[2]牢籠:ろうろう=苦しみこまること。困窮すること。
[3]静謐:せいひつ=世の中が穏やかに治まっていること。また、そのさま。
[4]濫吹:らんすい=秩序を乱すこと。狼藉。不法行為。
[5]日限を差し:にちげんをさし=あらかじめ期限を定めること。
[6]施行:せぎょう=命令を実施すること。
[7]承引:しょういん=受け入れる。承認する。
[8]遵行:じゅんぎょう=将軍の命を守護が下達すること。
[9]違乱:いらん=法に違反し秩序を乱すこと。
[10]上裁:じょうさい=上奏されたものに対する将軍の裁可。
[11]不日:ふじつ=多くの日を経ないこと。すぐ。ただちに。
[12]沙汰:さた=命令・指示。下知。
[13]雑掌:ざっしょう=本所・領家のもとで荘園に関する訴訟や年貢・公事の徴収などの任にあたった荘官。
[14]下地:したじ=年貢、雑税など、領主の収益の対象となる荘園、所領をいう。田畑だけでなく、山林、塩浜なども含めたもの。
[15]子細:しさい=詳しい事情。一部始終。
[16]将又:はたまた=もしくは。また。
[17]緩怠:かんたい=なまけ怠る。
[18]改易:かいえき=罪科などによって所領・所職・役職を取り上げること。
[19]本所領半分:ほんじょりょうはんぶん=近江・美濃・尾張三ヶ国にある荘園の半分の意味だが、実際は年貢の半分のこと。
[20]兵粮料所:ひょうりょうりょうしょ=兵糧米にあてる所領。
[21]当年一作:とうねんいっさく=今年一年の収穫(実際は年貢)。
[22]相触れおはんぬ:あいふれおはんぬ=通知する。
[23]預人:あずかりにん=本所領半分を預けられた足利尊氏方の武士。
[24]事を左右に寄せ:ことをそうによせ=あれこれ言い逃れをして。
[25]一円:いちえん=ことごとく。すべて。

<現代語訳>

一 寺院・神社。公家などの荘園領主の所領について、観応3年(1352年)7月24日の御命令
 諸国が騒乱により、寺社の荒廃、本所の困窮は、近年倍増してきた。そしてたまたま穏やかに治まっている国々も、武士の狼藉がいまだなくならないという。よって守護人に命じて、任国の都からの遠近によりあらかじめ期限を定めて、命令を実施せよ。承認しない連中については、その者の所領の三分一を割譲させて召し上げよ。所領のない者は、流刑に処せよ。もし将軍の命を守護が下達した後に立帰り、法に違反し秩序を乱したならば、将軍の裁可を経るまでもく国中の地頭・御家人を動員し、すぐに現地に駆けつけ、処罰を加え、元のように命令し荘官に荘園を委ね、一部始終を報告せよ。また、守護人がなまけ怠るようなことが有れば、その職を取り上げること。次に近江・美濃・尾張の三ヶ国、荘園領の年貢の半分については、兵糧米にあてる所領として、今年一年の収穫(実際は年貢)に限り、(足利尊氏方の)軍勢に与えるべきこと、守護人等に通知する。残りの半分については、必ず本所に渡すこと。もし預けられた足利尊氏方の武士があれこれ言い逃れをして、渡さない場合には、すべて本所に返還させることとする。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

826年(天長3)平安時代初期の公卿藤原冬嗣の命日(新暦8月30日)詳細
1927年(昭和2)小説家芥川龍之介の命日(河童忌)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、小説家・教育評論家本庄陸男の亡くなった日です。
 本庄陸男(ほんじょう むつお)は、1905年(明治38)2月20日に北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれました。その後、北見渚滑に再移住し、紋別高等小学校卒業後、尋常小学校の代用教員をしていましたが、16歳の時、樺太に渡って、王子製紙に1年間勤務、その貯金を持って、上京して青山師範学校へ入学します。
 在学中から文学活動を始め、雑誌に小品を投稿したり、教育評論を発表し、1925年(大正14)に卒業後、本郷誠之小学校に勤務しました。新興教育運動に参加するようになり、下町にある深川の明治小学校に自ら望んで転任します。
 その中で、前衛芸術家連盟に参加、1928年(昭和3)に全日本無産者芸術連盟(ナップ)に合流し、「文学新聞」の発行責任者を務め、出版部員として活動しました。同年に、『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となり、1930年(昭和5)には、教員組合事件で明治小学校を免職となります。
 それを機にプロレタリア文学の作家活動に専念し、小説、童話、評論などを発表、1931年(昭和6)の日本プロレタリア作家同盟(ナップ文学部の後身)第4回大会で中央委員となり、1934年(昭和9)の日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加し『白い壁』などを発表して、注目されました。1936年(昭和11)に雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となり、同年の『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞します。
 1938年(昭和13)に同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、歴史長編小説『石狩川』の連載を開始、明治初期の北海道開拓団の苦闘を描いて代表作となりました。しかし、肺結核に侵され、1939年(昭和14)7月23日に東京において、34歳の若さで亡くなっています。

〇本庄陸男の主要な著作

・『北の開墾地』(1928年)
・『資本主義下の小学校』(1928年)発禁
・『白い壁』(1935年)
・『橋梁(きょうりょう)』(1936年)
・『女の子男の子』(1936年)第2回人民文庫賞受賞
・『石狩は懐く』(1939年)
・『石狩川』(1939年)

☆本庄陸男関係略年表

・1905年(明治38)2月20日 北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれる
・1913年(大正2) 9歳の時、一家の破産で、北見渚滑に再移住する
・1919年(大正8) 紋別高等小学校を卒業し、第三渚滑尋常小学校代用教員となる
・1920年(大正9) 16歳の時、樺太に渡り、王子製紙に勤務する
・1921年(大正10) 17歳の時、上京して青山師範学校本科へ編入する
・1925年(大正14) 青山師範学校を卒業、本郷誠之小学校に勤務する
・1928年(昭和3) 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する
・1928年(昭和3) 『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となる
・1929年(昭和4)4月 自ら望んで下町にある深川の明治小学校に転任する
・1930年(昭和5)2月 教員組合事件で明治小学校を免職となる
・1931年(昭和6)7月 日本プロレタリア作家同盟第4回大会で中央委員となる
・1934年(昭和9) 日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加する
・1935年(昭和10) 雑誌「現実」に『白い壁』を発表して注目される
・1936年(昭和11) 雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となる
・1936年(昭和11) 『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞する
・1938年(昭和13) 同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、代表作『石狩川』の連載を開始する
・1939年(昭和14)7月23日 東京で肺結核のため34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)小説家幸田露伴の誕生日(新暦8月22日)詳細
1918年(大正7)富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こす(米騒動の始まり)詳細
1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細
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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、応用化学者・企業家高峰譲吉の亡くなった日です。
 高峰譲吉(たかみね じょうきち)は、江戸時代後期の1854年(嘉永7年11月3日)に、越中国高岡(現在の富山県高岡市)で、加賀藩典医高峰元陸(げんろく)の長男として生まれました。翌年に父の学問所「壮猶館」勤務のため加賀国金沢城下へ移住し、藩校明倫堂で学んだ後、12歳で選抜されて長崎に留学し、オランダ語や英語などを学びます。
 引き続き京都の安達兵学塾、大坂の適塾、七尾語学所、大坂医学校で学び、1872年(明治5)に上京して、工学寮(のち工部大学校)に入学しました。1879年(明治12)に工部大学校(現在の東京大学工学部)応用化学科をを首席で卒業、翌年からイギリスのグラスゴー大学へ3年間留学します。
 1883年(明治16)に帰国し、農商務省に入省、御用係として和紙、製藍、清酒醸造の研究に従事、翌年にはアメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣されました。1886年(明治19)に専売特許局局長代理となり、特許制度の整備に尽力するとともに、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立、翌年には、米国人キャロライン・ヒッチと結婚します。
 1890年(明治23)に渡米しアメリカへ永住することとし、パークデヴィス社顧問となり、1892年(明治25)には、強力消化剤“タカジアスターゼ”の創製に成功、1894年(明治27)にその特許を取得しました。1899年(明治32)に東京帝国大学から名誉工学博士号を授与され、1900年(明治33)に“アドレナリン”の結晶抽出に成功、1902年(明治35)には、ニューヨークに高峰研究所を開設、これらの業績により、1912年(大正元)に帝国学士院賞を受賞します。
 1913年(大正2)に一時帰国し、「国民科学研究所」を創立を説き(後に理化学研究所の創立となる)、また三共製薬を創設、帝国学士院会員ともなりました。日本初のアルミニウム製造事業の推進にも取り組み、1919年(大正8)に東洋アルミナムを設立、黒部川電源開発のため、その資材輸送手段として黒部鉄道を設立、1921年(大正10)には、鉄道免許状が下付されます。
 世界的名声を得て、巨万の財を成しましたが、1922年(大正11)7月22日に、アメリカのニューヨークで、腎臓炎のため69歳で亡くなりました。

〇高峰譲吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1854年(嘉永7年11月3日) 越中国高岡(現在の富山県高岡市)で、加賀藩典医高峰元陸(げんろく)の長男として生まれる
・1855年(嘉永8年) 父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現:石川県金沢市大手町)へ移住する
・1865年(慶応元年) 12歳の時、選抜されて長崎に留学する
・1868年(明治元年) 京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)に入学する
・1869年(明治2年) 16歳の時、大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学ぶ
・1872年(明治5年) 工学寮(のち工部大学校)に入学する
・1879年(明治12年) 工部大学校(現在の東京大学工学部)応用化学科を卒業する
・1880年(明治13年) イギリスのグラスゴー大学への3年間の留学へ出発する
・1883年(明治16年) 帰国し、農商務省に入省、御用係として和紙、製藍、清酒醸造の研究に従事する
・1884年(明治17年) アメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣される
・1886年(明治19年) 専売特許局局長代理となり、特許制度の整備に尽力する
・1886年(明治19年) 東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立する
・1887年(明治20年) キャロライン・ヒッチと結婚する
・1890年(明治23年) 渡米しアメリカへ永住することとし、パークデヴィス社顧問となる
・1892年(明治25年) 強力消化剤“タカジアスターゼ”の創製に成功する
・1894年(明治27年) デンプンを分解する酵素を植物から抽出した“タカジアスターゼ”の特許を取る
・1899年(明治32年) 東京帝国大学から名誉工学博士号を授与される
・1900年(明治33年) “アドレナリン”の結晶抽出に成功する
・1902年(明治35年) ニューヨークに高峰研究所を開設する
・1912年(大正元年) 帝国学士院賞を受賞する
・1913年(大正2年) 帰国し、「国民科学研究所」を創立を説き、後に理化学研究所の創立となって実現する
・1913年(大正2年) 三共製薬を創設する
・1913年(大正2年)6月26日 帝国学士院会員となる
・1919年(大正8年) 高峰譲吉らによって 東洋アルミナムが設立される
・1921年(大正10年) 黒部鉄道に鉄道免許状が下付される
・1922年(大正11年)7月22日 アメリカのニューヨークで、腎臓炎のため69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1549年(天文18)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する(新暦8月15日)詳細
1924年(大正13)小作調停法」が公布(施行は同年12月1日)される詳細
1953年(昭和28)離島振興法」が公布・施行される詳細
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