ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年07月

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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、外交官杉原千畝の亡くなった日です。
 杉原千畝(すぎはら ちうね)は、明治時代後期の1900年〈明治33〉1月1日に、岐阜県加茂郡八百津町で、税務官吏だった父・杉原好水、母・やつの子として生まれました。父の仕事の関係で、岐阜県や三重県、愛知県の各地を転々とし、古渡尋常小学校を卒業後、1912年(明治45)に旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)に入学します。
 1918年(大正7)に早稲田大学高等師範部英語科(現在の早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学したものの、翌年に外務省留学生試験に合格、大学を中退して、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学びました。1920年(大正9)に朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に一年志願兵として入営後、1923年(大正12)には、満州里(領事館)へ転学命令を受けます。
 1924年(大正13)に外務省書記生として採用され、ハルビンで勤務、1926年(大正15)に報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、外務省から高い評価を受けました。1932年(昭和7)に満洲国外交部事務官に転じ、1935年(昭和10)に退官後、1937年(昭和12)にフィンランドのヘルシンキ公使館に赴任します。
 1939年(昭和14)に、リトアニア・カウナス日本領事館領事代理となり、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人難民に対して、日本政府の命令に背いて、約6,500人分のビザを発給し続けました。1940年(昭和15)に在プラハ総領事館副領事に転任、1941年(昭和16)に在ルーマニア公使館一等通訳官、三等書記官を歴任します。
 戦争後の1945年(昭和20)に、ブカレストの捕虜収容所に収監され、1947年(昭和22)に日本への帰国が叶いました。しかし、1947年(昭和22)に訓令無視により外務省を辞めさせられ、職を転々とし、1960年(昭和35)には川上貿易のモスクワ駐在員となります。
 1978年(昭和53)に国際交易モスクワ支店を退職して日本に帰国、1980年(昭和55)に神奈川県鎌倉市・西鎌倉に転居しました。1985年(昭和60)にイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を贈られたものの、翌年7月31日に、神奈川県鎌倉市において、86歳で亡くなっています。
 その後、外交官時代のユダヤ人救済が高く評価され、1989年(平成元)にカレッジ・トゥ・ケア賞、1991年(平成3)に外務省により名誉回復、1991年(平成3)に長崎県被爆者手帳友の会平和賞、1996年(平成8)にポーランド政府功労勲章、1998年(平成10)にラウル・ワレンバーグ賞などの数々の栄誉に輝きました。また、故郷・八百津町に、1992年(平成4)、「人道の丘公園」がオープン、2000年(平成12)には、生誕100年を記念し、「杉原千畝記念館」が設立されています。

〇杉原千畝関係略年表

・1900年〈明治33〉1月1日に、岐阜県加茂郡八百津町で、税務官吏だった父・杉原好水、母・やつの子として生まれる
・1903年(明治36) 福井県丹生郡朝日村(現・福井県丹生郡越前町)へ転居する
・1904年(明治37) 三重県四日市市へ転居する
・1905年(明治38)10月25日 岐阜県恵那郡中津町(現・岐阜県中津川市)へ転居する
・1906年(明治39)4月2日 中津町立尋常小学校(現尋・岐阜県中津川市立南小学校)へ入学する
・1907年(明治40)3月31日 三重県桑名郡桑名町第一尋常小学校(現・桑名市立日進小学校)へ転校する
・1907年(明治40)12月 父が韓国統監府の聘用のため単身赴任する
・1909年(明治42)3月1日 愛知県から「操行善良学力優等」により表彰される
・1912年(明治45) 古渡尋常小学校を全甲の優秀な成績で卒業後、旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)に入学する
・1918年(大正7)4月 早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学する
・1919年(大正8)11月 早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ
・1920年(大正9)12月 朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)する
・1922年(大正11)3月 朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊(一年志願兵)を去る
・1923年(大正12)3月 満州里(領事館)へ転学命令を受ける
・1924年(大正13) 外務省書記生として採用され、ハルビンで勤務する
・1926年(大正15) 報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、外務省から高い評価を受ける
・1932年(昭和7) 満洲国外交部事務官に転じる
・1935年(昭和10) 満洲国外交部を退官する
・1937年(昭和12) フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任する
・1939年(昭和14) カウナス日本領事館領事代理となり、本省命令を無視して、約6,500人のユダヤ人難民にビザを発給し続ける
・1940年(昭和15) 在プラハ総領事館副領事となる
・1941年(昭和16) 在ルーマニア公使館一等通訳官となる
・1943年(昭和18) 在ルーマニア公使館三等書記官となる
・1944年(昭和19) 勲五等瑞宝章を受章する
・1945年(昭和20) ブカレストの捕虜収容所に収監される
・1947年(昭和22)4月5日 日本へ帰国する
・1947年(昭和22)6月 訓令無視により外務省を辞めさせられる
・1960年(昭和35) 川上貿易のモスクワ駐在員となる
・1969年(昭和44) 蝶理へ勤務する
・1969年(昭和44) イスラエルに招待され、多くのユダヤ人の生命の恩人として勲章を授与される
・1971年(昭和46) 国際交易モスクワ事務所長となる
・1978年(昭和53) 国際交易モスクワ支店を退職して日本に帰国する
・1980年(昭和55) 神奈川県鎌倉市・西鎌倉に転居する
・1985年(昭和60) イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を贈られる
・1986年(昭和61)7月31日 神奈川県鎌倉市において、86歳で亡くなる
・1989年(平成元) カレッジ・トゥ・ケア賞が贈られる
・1991年(平成3) リトアニアの首都ビリニュスに「スギハラ通り」が誕生する
・1991年(平成3) 外務省により名誉回復される
・1991年(平成3) 長崎県被爆者手帳友の会平和賞が贈られる
・1992年(平成4) 故郷・八百津町に、「人道の丘公園」がオープンする
・1996年(平成8) ポーランド政府功労勲章が贈られる
・1998年(平成10) ラウル・ワレンバーグ賞が贈られる
・1998年(平成10) 肖像画がユダヤ人救済に功績のあった各国の外交官ら4人と共にイスラエルの切手の図柄となって発行される
・2000年(平成12) 生誕100年を記念し、故郷・八百津町に「杉原千畝記念館」が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)民俗学者柳田國男の誕生日詳細
1948年(昭和23)政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認される詳細
1952年(昭和27)警察予備隊を保安隊に改組するための「保安庁法」が制定公布される詳細


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 今日は、昭和時代後期の1971年(昭和46)に、全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡した日です。
 全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸(ANA)58便の旅客機(ボーイング727-281)と航空自衛隊の戦闘機(ノースアメリカンF-86Fセイバー)が衝突し、双方とも墜落した事故でした。これによって、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡したものの、航空自衛隊の戦闘機のパイロット(訓練生)はパラシュートで脱出しています。
 事故原因は、自衛隊戦闘機の新人パイロットが飛行訓練中、訓練エリアから外れ、航空機の飛行エリアに侵入したことによるとされました。それまでの1966年(昭和41)2月4日に全日本空輸60便が羽田空港着陸直前に東京湾に墜落(原因不明)し、乗員乗客133人全員が死亡した事故を上回り、1985年(昭和60)8月12日に日本航空123便墜落事故が発生し、乗員乗客524人中520人が死亡するまで、日本国内最悪の航空機事故となります。
 この空域は、民間の飛行ルートと自衛隊の訓練空域が重なりあい、自衛隊機の異常接近の危険は、かねてから指摘されていたところで、当時の増原防衛庁長官は、事故の責任を取って辞任しました。尚、事故後の裁判では、最高裁(1983年9月22日判決)により、当時の指導教官のみ「見張り義務違反」があったとして、禁錮3年(執行猶予3年)の判決が確定しています。

〇戦後の日本における重大航空機事故(死者30名以上)一覧

・1952年(昭和27)4月9日 日本航空301便(もく星号) 機種:マーチン2-0-2
 状況: 伊豆大島の三原山山頂付近に墜落。乗員乗客37人全員が死亡。
・1958年(昭和33)8月12日 全日本空輸25便 機種:ダグラスDC-3
 状況: エンジントラブルのため羽田空港に引き返そうとしたが、利島近海に墜落。乗員乗客33人全員が死亡。
・1966年(昭和41)2月4日 全日本空輸60便 機種:ボーイング727-81
 状況: 羽田空港着陸直前に東京湾に墜落(原因不明)。乗員乗客133人全員が死亡。
・1966年(昭和41)3月4日 カナダ太平洋航空402便 機種:ダグラスDC-8-43
 状況: 濃霧の中、羽田空港への着陸に失敗し爆発炎上。乗員乗客72人中64人が死亡。
・1966年(昭和41)3月5日 英国海外航空 (BOAC) 911便 機種:ボーイング707-436
 状況: 富士山上空で乱気流に巻き込まれて機体が空中分解し墜落。乗員乗客124人全員が死亡。
・1966年(昭和41)11月13日 全日本空輸533便 機種:日本航空機製造YS-11-111
 状況: 松山空港への着陸に失敗したため、着陸復行したが瀬戸内海沖合に墜落。乗員乗客50人全員が死亡。
・1971年(昭和46)7月3日 東亜国内航空63便(ばんだい号) 機種:日本航空機製造YS-11A-217
 状況: 函館空港への着陸アプローチ中に山間部に墜落。乗員乗客68人全員が死亡。
・1971年(昭和46)7月30日 全日本空輸58便と航空自衛隊訓練機 機種:ボーイング727-281とノースアメリカンF-86Fセイバー
 状況: 岩手県雫石町上空で空中衝突。全日空機の乗員乗客162人全員が死亡。
・1985年(昭和60)8月12日 日本航空123便 機種:ボーイング747SR-46
 状況: 1978年6月の尻もち事故の際にボーイング社が修理ミスを起こしたために、飛行中に圧力隔壁が破壊され、操縦系統が破損し操縦不能に陥り迷走した後に墜落。乗員乗客524人中520人が死亡。
・1994年(平成6)4月26日 中華航空140便 機種:エアバスA300B4-622R
 状況:名古屋空港への着陸復行の際に操縦士と機体制御システムが相反したあげく、失速し墜落。乗員乗客271人中264人が死亡。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細


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murakamitakejirou01

 今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、冶金学者・化学者村上武次郎の亡くなった日です。
 村上武次郎(むらかみ たけじろう)は、明治時代前期の1882年(明治15)11月10日に、京都府南桑田郡(現在の亀岡市)で生まれました。高等小学校を卒業して小学校の代用教員を務め、その後、京都府師範学校へ入学、卒業後小学校の教諭となります。
 その後上京し、東京高等師範学校へ入学、1907年(明治40)に同校数物化学科を卒業後、京都府立第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)の教師職に就きました。しかし再び学問を志し、29歳で京都帝国大学純正化学科へ入学、1914年(大正3)に卒業後も大学に残り講師を務めます。
 本多光太郎の懇請で、1916年(大正5)に東北帝国大学臨時理化学研究所へ入所、KS鋼・新KS鋼の研究に携わり、1919年(大正8)には、東北帝国大学講師、理学博士となりました。1923年(大正12)に同大学工学部金属工学科教授に就任、1927年(昭和2)には、『特殊鋼の物理冶金学的研究』で帝国学士院賞を受賞します。
 1936年(昭和11)に東北帝国大学教授となり、金属材料研究所の第3代所長を務め、1939年(昭和14)には、日本金属学会の設立発起人となりました。1942年(昭和17)に第4回日本金属学会賞を受賞、1944年(昭和19)には、東北帝国大学教授を定年退官し、名誉教授となります。
 1950年(昭和25)に日本金属学会の第4代会長となり、1956年(昭和31)に文化勲章受章、1958年(昭和33)に第1回本多記念賞受賞、1959年(昭和34)に仙台市名誉市民となるなど数々の栄誉にも輝きました。特に合金についての状態図、および特殊鋼の組織図などの研究者、顕微鏡組織を見るための村上試薬などで知られましたが、1969年(昭和44)7月29日に、86歳で亡くなっています。

〇村上武次郎関係略年表

・1882年(明治15)11月10日 京都府南桑田郡(現在の亀岡市)で生まれる
・1907年(明治40) 東京高師数物化学科を卒業する
・1914年(大正3) 京都帝国大学理学部純正化学科を卒業する
・1916年(大正5) 東北帝国大学臨時理化学研究所へ入所する
・1919年(大正8) 東北帝国大学講師、理学博士となる
・1923年(大正12) 東北帝国大学工学部金属工学科教授に就任する
・1927年(昭和2) 『特殊鋼の物理冶金学的研究』で帝国学士院賞を受賞する
・1936年(昭和11) 東北帝国大学教授となり、金属材料研究所の第3代所長を務める
・1939年(昭和14) 日本金属学会の設立発起人となる
・1942年(昭和17) 第4回日本金属学会賞を受賞する
・1944年(昭和19) 東北帝国大学教授を定年退官し、名誉教授となる
・1950年(昭和25) 日本金属学会の第4代会長となる
・1956年(昭和31) 文化勲章を受章する
・1958年(昭和33) 第1回本多記念賞を受賞する
・1959年(昭和34)6月10日 仙台市名誉市民となる
・1969年(昭和44)7月29日 86歳で亡くなる。妻ゆうとともに故郷亀岡市の保津町墓地に埋葬されている。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)矢田堀景蔵、勝海舟らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる(新暦9月10日)詳細
1871年(明治4)日清修好条規」が調印される(新暦9月13日)詳細
1989年(平成元)小説家森敦の命日詳細


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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、日本軍が南部仏印進駐を開始した日です。
 南部仏印進駐(なんぶふついんしんちゅう)は、日本軍がフランス領インドシナ連邦(仏印)の南部へ進駐した事件でした。泥沼化した日中戦争の打開策として日本軍がフランス領インドシナ連邦(仏印)進出をねらい、1940年(昭和15)5月にナチスドイツの進撃によりフランスが降伏したことを受けて、第2次近衛文麿内閣の下で、まず同年9月に北部へ軍隊を派遣(進駐)し、9月27日には「日独伊三国同盟」を締結します。
 さらに、翌年の大本営政府連絡会議で南部進駐の方針が決定され、7月2日御前会議でこれを確認、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が出され、「本號目的達成ノ爲メ對英米戰ヲ辭セス」としました。その中で、日本軍はフランスのヴィシー政府に強要して「インドシナ共同防衛」を名目とする軍隊派遣を同月21日はほぼ認めさせ、23日の現地で細目の話合い成立を受けて、28日に日本軍第25軍はフランス領インドシナ南部(ベトナム南部のサイゴン=現在のホーチミン市を含むメコンデルタ地帯)に上陸を開始し、翌日には、「仏印共同防衛に関する日仏議定書」が調印されます。
 さらに、カンボジア・ラオス全域に展開し、アメリカ、イギリス、オランダ3国との対立が決定的となりました。同月25日にアメリカのF.ルーズベルト大統領は在米日本の資産凍結令を公布し、イギリス、オランダもそれに追随、8月にはアメリカは対日石油全面的禁輸に踏切ったことにより、この進駐は、同年12月8日の太平洋戦争開戦の直接的な契機となります。
 以下に、南部仏印進駐を確認した第5回御前会議で出された「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」とは?

 昭和時代前期の1941年(昭和16)7月2日に、第2次近衛内閣時の第5回御前会議において決定された、国策を定めた御前会議の決定文書です。海軍が主張する南方進出と、陸軍が主張する対ソ戦の準備という二正面での作戦展開を目指すものとなりました。
 1941年6月22日未明、ナチス=ドイツ軍は「独ソ不可侵条約」に違反して、突如大兵力をソ連領に侵攻させるという情勢の変化があり、南方進出に関わり、「世界情勢變轉ノ如何ニ拘ラス大東亞共榮圏ヲ建設シ」と唱え、「右目的達成ノ爲如何ナル障害ヲモ之ヲ排除ス」と述べ、「本號目的達成ノ爲メ對英米戰ヲ辭セス」と明記されます。一方で、「獨「ソ」戰爭ノ推移帝國ノ爲メ有利ニ進展セハ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北邊ノ安定ヲ確保ス」とも述べ、対ソ戦の準備も行うものとなりました。
 この決定を受け、対ソ戦の準備としては、7月7日に「関東軍特種演習」を発動して演習名目で兵力を動員し、また、南方進出では、7月28日の南部仏印進駐が実行されます。しかし、これによりアメリカの経済制裁を受け、石油の対日輸出が全面禁止されるなど困難な状況に追い込まれ、12月8日の太平洋戦争開戦へと至ることとなりました。

〇「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」 1941年(昭和16)7月2日御前会議決定

  第一 方針

一、帝國ハ世界情勢變轉ノ如何ニ拘ラス大東亞共榮圏ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與セントスル方針ヲ堅持ス
二、帝國ハ依然支那事變處理ニ邁進シ且自存自衛ノ基礎ヲ確立スル爲南方進出ノ步ヲ進メ又情勢ノ推移ニ應シ北方問題ヲ解決ス
三、帝國ハ右目的達成ノ爲如何ナル障害ヲモ之ヲ排除ス

  第二 要領

一、蔣政權屈服促進ノ爲更ニ南方諸域ヨリ壓力ヲ强化ス情勢ノ推移ニ應シ適時重慶政權ニ對スル交戰權ヲ行使シ且支那ニ於ケル敵性租界ヲ接收ス
二、帝國ハ其ノ自存自衛上南方要域ニ對スル必要ナル外交交涉ヲ續行シ其ノ他各般ノ施策ヲ促進ス
 之カ爲メ對英米戰準備ヲ整へ先ツ「對佛印泰施策要綱」及「南方施策促進ニ關スル件」ニ據リ佛印及泰ニ對スル諸方策ヲ完遂シ以テ南方進出ノ態勢ヲ强化ス
 帝國ハ本號目的達成ノ爲メ對英米戰ヲ辭セス
三、獨「ソ」戰ニ對シテハ三國樞軸ノ精神ヲ基調トスルモ暫ク之ニ介入スルコトナク密カニ對「ソ」武力的準備ヲ整ヘ自主的ニ對處ス此ノ間固ヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交涉ヲ行フ
 獨「ソ」戰爭ノ推移帝國ノ爲メ有利ニ進展セハ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北邊ノ安定ヲ確保ス
四、前號遂行ニ當リ各種ノ施策就中武力行使ノ決定ニ際シテハ對英米戰爭ノ基本態勢ノ保持ニ大ナル支障ナカラシム
五、米國ノ參戰ハ旣定方針ニ從ヒ外交手段其他有ユル方法ニ依リ極力之ヲ防止スヘキモ萬一米國カ參戰シタル場合ニハ帝國ハ三國條約ニ基キ行動ス但シ武力行使ノ時機及方法ハ自主的ニ之ヲ定ム
六、速カニ國內戰時體制ノ徹底的强化ニ移行ス特ニ國土防衛ノ强化ニ勉ム
七、具體的措置ニ關シテハ別ニ之ヲ定ム

              「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)「太政官布告第272号(地租改正)」と付属の「地租改正条例」が公布される詳細
1965年(昭和40)推理小説家江戸川乱歩の命日(乱歩忌)詳細
1989年(平成元)「緑の文明学会」・「社団法人日本公園緑地協会」が日本の都市公園100選を選ぶ詳細
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 今日は、平成時代の1995年(平成7)に、人吉仮出入口~えびのIC間の開通(暫定2車線)により、九州自動車道が全線開通した日です。
 九州自動車道(きゅうしゅうじどうしゃどう)は、福岡県北九州市門司区を起点とし、佐賀県、再び福岡県に入り、熊本県、宮崎県を経由し鹿児島県鹿児島市に至る、全長346.3kmの高速道路(高速自動車国道)で、略称は九州道、日本高速道路公団の分割民営化後は西日本高速道路が管理してきました。1965年(昭和40)に、「高速自動車国道の路線を指定する政令及び東海道幹線自動車国道建設法施行令の一部を改正する政令」施行により北九州市~熊本市間が「高速自動車国道九州自動車道福岡熊本線」として指定され、翌年7月に工事が着工され、1967年(昭和42)には、「高速自動車国道の路線を指定する政令の一部を改正する政令」施行により北九州市~鹿児島市間が「九州縦貫自動車道鹿児島線」として指定されます。
 1971年(昭和46)6月30日に、植木IC~熊本IC間が最初の開通区間となり、その後、順次開通区間を伸ばしていき、1995年(平成7)7月27日の人吉仮出入口~えびのIC間開通(暫定2車線)により全線開通し、青森から鹿児島までの2,170kmが高速道路で結ばれました。その後、車線の拡幅工事が進捗し、2004年(平成16)12月12日の人吉IC~えびのIC間の4車線化により、全線が4車線以上(小倉東IC~北九州JCTと太宰府IC~久留米IC間は6車線)となります。
 また、門司ICで関門自動車道を経て中国自動車道、北九州JCTで東九州自動車道、鳥栖JCTで長崎自動車道と大分自動車道、八代JCTで南九州自動車道、えびのJCTで宮崎自動車道、加治木JCTで東九州自動車道(隼人道路)、鹿児島ICで南九州西回り自動車道と接続しました。これにより、九州地方と近畿圏・首都圏を繋ぎ、地形的に隔てられていた北九州と南九州との交流を拡大し、市場の拡大、諸産業の振興、観光開発などに大きな役割を果たしてきています。

〇九州自動車道関係略年表

・1965年(昭和40)11月1日 「高速自動車国道の路線を指定する政令及び東海道幹線自動車国道建設法施行令の一部を改正する政令」施行により北九州市・熊本市間が「高速自動車国道九州自動車道福岡熊本線」として指定される
・1966年(昭和41)7月 工事に着工する
・1967年(昭和42)11月22日 「高速自動車国道の路線を指定する政令の一部を改正する政令」施行により北九州市・鹿児島市間が「九州縦貫自動車道鹿児島線」として指定される
・1971年(昭和46)6月30日 九州自動車道植木IC~熊本IC間が開通する
・1972年(昭和47)10月21日 南関IC~植木IC間が開通する
・1973年(昭和48)11月16日 鳥栖IC~鳥栖JCT~南関IC間が開通する
・1973年(昭和48)12月13日 加治木IC~薩摩吉田IC間が開通する
・1975年(昭和50)3月13日 古賀IC~鳥栖JCT間が開通する
・1976年(昭和51)3月4日 宮崎自動車道としてえびのIC~えびのJCT~高原IC間が開通する
・1976年(昭和51)11月26日 熊本IC~御船IC間が開通する
・1976年(昭和51)11月29日 溝辺鹿児島空港IC~加治木IC間が開通する
・1977年(昭和52)7月21日 若宮IC~古賀IC間が開通する
・1977年(昭和52)11月15日 薩摩吉田IC~鹿児島北IC間が開通する
・1978年(昭和53)12月15日 御船IC~松橋IC間が開通する
・1979年(昭和54)3月8日 八幡IC~若宮IC間が開通、中国自動車道山口ICから関門橋、北九州道路、北九州直方道路を経由して松橋ICまでが高速道路で結ばれる
・1980年(昭和55)3月12日 松橋IC~八代IC間が開通する
・1980年(昭和55)3月22日 栗野IC~溝辺鹿児島空港IC間が開通する
・1981年(昭和56)10月1日 えびのJCT~栗野IC間が開通し、宮崎自動車道えびのIC~えびのJCT間を九州自動車道に編入する
・1983年(昭和58)3月24日 中国自動車道全線開通により、東名高速道路(または中央自動車道)、名神高速道路、中国自動車道、関門橋、北九州道路、北九州直方道路を経由して東京から八代ICまでが高速道路で結ばれる。
・1984年(昭和59)3月27日 門司IC~小倉東IC間開通により関門橋と直結する
・1985年(昭和60)3月28日 長崎自動車道(当時は九州横断自動車道)佐賀大和IC~鳥栖IC間開通にあわせ、九州自動車道鳥栖IC~鳥栖JCT間を長崎自動車道に編入する
・1987年(昭和62)2月5日 鳥栖JCTで大分自動車道と接続する
・1988年(昭和63)3月29日 鹿児島北IC~鹿児島IC間が開通する
・1988年(昭和63)3月31日 小倉東IC~八幡IC間の開通により、北九州道路・北九州直方道路経由が解消される
・1988年(昭和63)10月19日 鹿児島ICで南九州西回り自動車道と接続する
・1989年(平成元)12月7日 八代IC~人吉仮出入口間が開通する
・1992年(平成4)3月25日 加治木ICで隼人道路(東九州自動車道に並行する一般国道自動車専用道路)と接続する
・1993年(平成5)3月31日 新門司ICが開通する
・1995年(平成7)7月27日 人吉仮出入口~えびのIC間開通(暫定2車線)により全線開通する
・1997年(平成9)7月14日 八代IC~人吉IC間(肥後トンネルを除く)4車線化する
・1997年(平成9)11月28日 鳥栖JCT~久留米IC間6車線化する
・1998年(平成10)3月23日 広川ICが開通する
・1998年(平成10)3月31日 筑紫野ICが開通する
・1998年(平成10)4月20日 八代JCT開設により南九州西回り自動車道と接続する
・1999年(平成11)3月24日 益城熊本空港ICが開通する
・1999年(平成11)4月14日 肥後トンネル前後区間を4車線化する
・2001年(平成13)3月24日 鳥栖JCTの九州道下り→長崎道長崎方面を直結する連絡橋「サガンクロス橋」が開通する
・2001年(平成13)4月26日 えびのPA~えびのIC間が4車線化する
・2001年(平成13)12月19日 加治木JCT開通により、加治木ICの接続部を廃止し加治木JCTで東九州自動車道と接続する
・2002年(平成14)7月27日 人吉IC~えびのIC間(加久藤トンネルを除く)4車線化する
・2004年(平成16)12月12日 人吉IC~えびのIC間4車線化により、全線が4車線以上で完成する
・2006年(平成18)2月26日 北九州JCT開通により東九州自動車道と接続する
・2009年(平成21)3月29日 みやま柳川ICが開通する
・2011年(平成23)2月19日 鞍手ICが開通する
・2014年(平成26)3月22日 嘉島JCT開通により九州中央自動車道と接続する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1719年(享保4)幕臣・大名・老中田沼意次の誕生日(新暦9月11日)詳細
1835年(天保6)日本画家橋本雅邦の誕生日(新暦8月21日)詳細
1976年(昭和51)田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される詳細
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