今日は、江戸時代前期の1683年(天和3)に、江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(天和令)15ヶ条を発布し、「諸士法度」と統合の上、殉死の禁止や末期養子の禁緩和の明文化等をした日ですが、新暦では8月26日となります。
「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法で、最初のものは、1615年(慶長20年7月7日)に13ヶ条発布されました。しかし、その後状況の推移を踏まえ、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)として、一応の完成をみたものです。
しかし、その後も時勢に応じて、寛文令(1663年)で一部変更され、1683年(天和3年7月25日)には、文治政治の路線を基に大きな改編がなされ、「諸士法度」と統合されました。
以下に、「武家諸法度(天和令)」の全文を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?
江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と改訂が行われてきました。
第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。
〇「武家諸法度(天和令)」全15ヶ条 天和3年(1683年)7月25日発布
<原文・旧字>
一、文武忠孝を勵し、可正禮儀事、
一、參勤交替之儀、毎歳可守所定之時節、從者之員數不可及繁多事、
一、人馬兵具等、分限に應し、可相嗜事、
一、新規之城郭搆營堅禁止之、居城之隍壘石壁等敗壞之時は、達奉行所、可受指圖也、櫓塀門以下は如先規可修補事、
一、企新規、結徒黨、成誓約幷私之關所、新法之津留、制禁之事、
一、江戸幷何國にて、不慮之儀有之といふ共、猥不可懸集、在國之輩は其所を守り、下知を可相待也、何處にて雖行刑罰、役者之外不可出向、可任撿使之左右事、
一、喧嘩口論可加謹愼、私之諍論制禁之、若無據子細有之は、達奉行所、可受其旨、不依何事、令荷擔は、其咎本人よりおもかるへし、幷本主之障在之者不可相拘事、
附、頭有之輩之百姓訴論は、其支配え令談合、可相濟之、有滯儀は、評定所え差出之、可受捌事、
一、國主、城主、壹万石以上、近習幷諸奉行、諸物頭、私不可結婚姻、惣て公家と於結縁邊は、達奉行所、可受指圖事、
一、音信贈答嫁娶之規式或饗應或家宅營作等、其外万事可用儉約、惣て無益之道具を好、不可致私之奢事、
一、衣裳之品不可混亂、白綾公卿以上、白小袖諸大夫以上免許事、
附、徒若黨之衣類は羽二重絹紬布木綿、弓鐵炮之者は紬布木綿、其下に至は、万に布木綿可用事、
一、乘輿は、一門之歴々、國主、城主、壹万石以上幷國大名之息 城主曁侍從以上之嫡子或年五十以上許之、儒醫諸出家は制外事、
一、養子は同姓相應之者を撰、若於無之は、由緒を正し、存生之内可致言上、五十歳以上十七歳以下之輩、及末期雖致養子、吟味之上可立之、縱雖實子、筋目違たる儀不可立事、
附、殉死之儀、彌令制禁事、
一、知行所務淸廉沙汰之、國郡不可令衰弊、道路驛馬橋舟等無斷絶、可令往還事、
附、荷船之外、大船は如先規停止之事、
一、諸國散在之寺社領、自古至于今所附來は、不可取放之、勿論新地之寺社建立彌令停止之、若無據子細有之は、達奉行所、可受指圖事、
一、万事應江戸法度、於國々所々可遒行事。
右條々、今度定之訖、堅可相守者也、
天和三年七月廿五日
『御触書寛保集成』より
<原文・新字>
一、文武忠孝を励し可正礼儀事。
一、参勤交替之義、毎年可守定所之時節、従者之員数不可及繁多之事。
一、人馬・兵具等分限ニ応じ可相嗜事。
一、新規之城郭構営堅禁止之、居城湟累石壁等敗壊之時ハ達奉行所、可受差図也、櫓城門以下者如先規可修補事。
一、企新規、結徒党、成誓約并私之関所、新法之津留制禁事。
一、江戸并何国にて不慮之儀有之といふ共猥不可懸集、在国之輩ハ其所を守、下知可相待也、何所ニ而雖行刑罰、役者之外不可出向、可任検使之左右事
一、喧嘩口論可加謹慎、私之争論制禁之、若無拠子細有之、達奉行所可受其旨、不依何事令荷担者其咎本人よりおもかるべし、并 本主の障有之もの不可相抱事。
附 頭有之輩へ百姓訴論ハ其支配江令談合、可相済之、有滞儀ハ評定所へ差出之可受捌事。
一、国主・城主・壱万石以上近習并諸奉行、諸物頭私不可結婚姻、惣而公家と於結縁辺者、達奉行所可受差図事。
一、音信・贈答・嫁取之規式餐応、或家宅営作等其外万事可用倹約、惣而無益之道具を好、不可致私之奢事。
一、衣装之品不可混乱、白綾公卿以上、白小袖諸士大夫以上免許之事。
附 従者・若党之衣類、羽二重縮緬布木綿、弓鉄砲之者ハ紬布木綿其外ニ至てハ万に布木綿可用之事。
一、乗輿者一門之歴々、国主城主壱万石以上并国大名之息、城主及侍従以上之嫡子或五拾以上許之、儒・医・諸出家者制外之事。
一、養子者同姓相応之者を撰び、若無之においてハ由緒を正し、存生之内可致言上、五十已上十七已下之輩、及末期雖致養子、吟味之上可立之、縦雖実子筋目違たる義不可立事。
附 殉死之義令弥制禁事。
一、知行所務清廉沙汰之、国郡不可令衰弊、道路駅馬橋船等、無断絶可令往還事。
附 荷船之外、大船者如先規停止之事。
一、諸国散在之寺社領ハ自古至干今所附来ハ不可取放之、向後新地之寺社建立弥令停止之、若無拠子細有之ハ達奉行所可受差図事。
一、万事応江戸之法度、於国々所々可通行事。
右条々今度定之訖、堅可相守者也
天和三年七月二十五日
<読み下し文>
一、文武忠孝[1]を励し、礼儀を正すべきの事。
一、参勤交替[2]の義、毎年定める所の時節を守るべし、従者の員数これ繁多に及ぶべからざる事。
一、人馬兵具等、分限[3]に応じ、相嗜ふべき事。
一、新規の城郭搆営[4]は堅くこれを禁止す。居城の湟累[5]石壁等敗壊の時は、奉行所に達し、指図を受くべき也、櫓塀門以下は先規のごとく修補[6]すべき事。
一、新儀を企て徒党を結び[7]誓約を成す、ならびに私の関所・新法の津留め[8]制禁の事。
一、江戸ならびに何国にて、不慮の儀これ有るといふ共、猥に懸集めるべからず、在国の輩はその所を守り、下知を相待つへき也、何處にて刑罰の行はるるといえども、役者の外出向すべからず、検使[9]の左右に任せるべき事。
一、喧嘩口論は謹慎加ふるべし、私の争論はこれを制禁す、もし無拠[10]の子細[11]之あるは、奉行所に達し、その旨を受くべし、何事によらず、荷担[12]せしむ者は、その咎[13]本人よりおもかるべし、ならびに本主の障之在るの者は相拘えるべからざる事。
附、頭有の輩の百姓訴論は、その支配え談合せしめ、之を相済すべし、滯りあるの儀は、評定所え之を差出し、捌[14]を受くべき事。
一、国主[15]、城主[16]、壱万石以上、近習[17]ならびに諸奉行、諸物頭[18]、私に[19]婚姻を結ぶべからず、惣て公家と縁辺[20]を結ぶに於いては、奉行所に達し、指図を受くべき事。
一、音信[21]・贈答・嫁取の規式或は餐応[22]或は家宅営作[23]等、その外万事倹約をもちふるべし、惣て益之なき道具を好み、私の奢りいたすべからざる事。
一、衣装の品混乱すべからず。白綾[24]は公卿[25]以上、白小袖[26]は諸士大夫以上免許の事。
附 従者・若党の衣類は羽二重[27]絹紬[28]布木綿、弓鉄砲の者は紬布木綿、其下に至は、万ニ布木綿ヲ用ふべき事。
一、乘輿は、一門ノ歴々、国主[15]、城主[16]、壱万石以上ならびに国大名の息 城主[16]及侍従以上の嫡子或は年五十以上之を許す、儒・医・諸出家は制外の事。
一 養子は同姓相応の者を撰び、若之無きにおゐては、由緒を正し、存生の内[29]言上致すべし。五拾以上十七以下の輩末期[30]に及び養子致すと雖も、吟味の上之を立つべし。縦、実子と雖も筋目違たる儀、立つべからざる事。
附、殉死[31]の儀、弥制禁せしむる事。
一、知行所務清廉[32]に之を沙汰し、国郡衰弊[33]せしむべからず、道路驛馬橋舟等断絶無く、往還せしむべき事。
附 荷船の外、大船は先規のごとく停止の事。
一、諸国散在の寺社領、古より今に至り附け来る所は、之を取り放つべからず、勿論新地の寺社建立は之を停止せしむ、もし無拠[10]の子細[11]之あるは、奉行所に達し、指図を受くべき事。
一、万事江戸の法度[34]に応へ、国々所々に於て遒行[35]すべき事。
右條々は、今度之を定むるに訖る、堅く相守るべき者也。
天和三年七月二十五日
【注釈】
[1]文武忠孝:ぶんぶちゅうこう=学問・武芸・忠義・孝行。
[2]参勤交替:さんきんこうたい=原則として一年交代で、諸大名を江戸と領地とに居住させた制度。
[3]分限:ぶんげん=その人の社会的身分、地位。
[4]新儀ノ城郭構営:しんぎのじょうかくこうえい=新たに築城すること。
[5]湟累:こうるい=濠と土塁。
[6]修補:しゅうほ=修理。
[7]徒党ヲ結ビ:ととうをむすび=仲間、団体、一味などを集めて団結する。
[8]津留メ:つどめ=領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。多くが港で行なわれた。
[9]検使:けんし=殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
[10]無拠:よんどころなし=やむをえない、余儀ないの意。
[11]子細:しさい=特別の理由。こみいったわけ。
[12]荷担:かたん=力添えをすること。仲間になること。
[13]咎:とが=罰されるべきおこない。つみ。
[14]捌:さばき=訴訟を裁決すること。
[15]国主:こくしゅ=国持大名のこと。
[16]城主:じょうしゅ=城持大名のこと。
[17]近習:きんじゅう=主君のそば近くに仕える者。近侍。近寄衆。
[18]物頭:ものがしら=弓組・鉄砲組などの長。足軽頭・同心頭の類。武頭。物頭役。足軽大将。
[19]私ニ:わたくしに=私的に。公儀の許可なく、勝手に。
[20]縁辺:えんぺん=夫婦の縁を結ぶこと。縁組。結婚。縁約。
[21]音信:いんしん=便りをすること。便り。また、手紙や訪問によってよしみを通じること。
[22]餐応:きょうおう=酒や料理をとりそろえてもてなすこと。馳走すること。
[23]営作:えいさく=造営。建造。
[24]白綾:しらあや=白地の綾織物。
[25]公卿:くぎょう=摂政・関白以下、参議以上の現官および三位以上の有位者(前官を含む)の総称。
[26]小袖:こそで=袖口の小さく縫いつまっている衣服。
[27]羽二重:はぶたえ=絹布の一種。優良な絹糸で緻密に織り、精練した純白のもの。
[28]絹紬:けんちゅう/きぬつむぎ=絹織物の一種。柞蚕(さくさん)紡糸または絹紡糸を原料として織ったつむぎ。
[29]存生ノ内:ぞんじょうのうち=生きているうち。生存中。
[30]末期:まつご=臨終の時。
[31]殉死:じゅんし=主君、主人の死後、臣下があとを追って自殺すること。追腹。
[32]清廉:せいれん=心が清く私欲のないこと。行ないがいさぎよく、私利私欲をはかる心がないこと。また、そのさま。
[33]衰弊:すいへい=勢いなどがおとろえ弱ること。
[34]法度:はっと=法令。
[35]遵行:じゅんぎょう=従い行う。遵守。
<現代語訳>
一、学問・武芸・忠義・孝行に励み、礼儀を正しくすべきこと。
一、参勤交替については、毎年定める所の時期を守り、従者の人数が多すぎることがないようにすること。
一、人馬・兵具などは、その人の社会的身分や地位に応じ、相応のものとして準備しておくこと。
一、新たに築城することは厳禁する。居城の濠や土塁、石垣などが壊れた時は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。櫓、塀、門などは先の規則(元和令)に従って修理すること。
一、新たなものを企て、仲間を集め、誓約を取り交わすこと、ならびに私設の関所を設置したり、新法を制定して物資の他領との移出入を制限・停止してはならないこと。
一、江戸をはじめいかなる国において、不測の事態が起きたと言っても、無分別には集まらず、領国にいる者はその場所を守り、幕府からの命令を待つこと。どこかで刑罰が執行されるといっても、担当者以外は出向いてはならない。ただし、検使の指図には任せること。
一、喧嘩口論は慎むべきで、私的な争いごとは禁止する、もしやむを得ない理由がある場合は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。どのような理由にもかかわらず、加担する者は、その罪は本人より重いものとする。ならびに元の主人のところで問題があった者は、家来として召し抱えてはならないこと。
附 主人の有る者への百姓の訴訟は、その統治者に話合わせて解決すること。難航したならば評定所へ差出して、裁決させること。
一、国持・城持・一万石以上の大名、近習および諸奉行、諸物頭は、公儀の許可なく、勝手に結婚してはならない。全体に公家と縁組を結ぶときは、奉行所に届け指示を受けること。
一、よしみを通じたり、品物などの贈答、結婚の儀式、酒や料理をとりそろえてのもてなしや屋敷の建設など、その他何事においても倹約に心掛けること。全体に無益の道具を好むなど私的な贅沢をしないようにすること。
一、衣装の身分によるしきたりを乱れさせてはならない。白地の綾織物は公卿以上、白地の小袖は大夫以上に許可すること。
附 従者・若党の衣類は羽二重、縮緬、布木綿、弓鉄砲の者は紬布木綿、その他は全て布木綿を着用すること。
一、輿を使える者は、徳川一門、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに国持大名の息子、城持大名、侍従以上の嫡子、あるいは50歳以上の者に許可する。儒者・医者・僧侶は制限外とすること。
一 (実子のいない大名の)養子は同姓(一族)から相応の者を選び、もしふさわしい者がない場合は、由緒の正しい者を存命中に言上すること。50歳以上、17歳以下の者が臨終に及んで養子を立てるといっても、調査したた上で養子に立てる様にせよ。たとえ、実子だといっても筋道の違った者は跡継ぎにしてはならないこと。
附、殉死については、いっそう厳しく禁止すること。
一、領地での政務は心清く私欲なく行い、国郡の勢いを衰え弱らせてはならないこと。道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることなく、往来させること。
附 商船以外の大船建造は、先の規則(元和令)に従って禁止すること。
一、諸国に散在する寺社の領地で昔から現在まで所有しているところは、これを取り上げてはならないこと。今後新地の寺社建立はこれを禁止する、もしやむを得ない理由がある場合は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。
一、全て江戸幕府の法令のごとく、どこにおいてもこれを遵守すべきこと。
右の条文は、今度これを定めるに至ったので、堅く守るべきものである。
天和3年(1683年)7月25日
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