honjyoumutsuo01

 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、小説家・教育評論家本庄陸男の亡くなった日です。
 本庄陸男(ほんじょう むつお)は、1905年(明治38)2月20日に北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれました。その後、北見渚滑に再移住し、紋別高等小学校卒業後、尋常小学校の代用教員をしていましたが、16歳の時、樺太に渡って、王子製紙に1年間勤務、その貯金を持って、上京して青山師範学校へ入学します。
 在学中から文学活動を始め、雑誌に小品を投稿したり、教育評論を発表し、1925年(大正14)に卒業後、本郷誠之小学校に勤務しました。新興教育運動に参加するようになり、下町にある深川の明治小学校に自ら望んで転任します。
 その中で、前衛芸術家連盟に参加、1928年(昭和3)に全日本無産者芸術連盟(ナップ)に合流し、「文学新聞」の発行責任者を務め、出版部員として活動しました。同年に、『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となり、1930年(昭和5)には、教員組合事件で明治小学校を免職となります。
 それを機にプロレタリア文学の作家活動に専念し、小説、童話、評論などを発表、1931年(昭和6)の日本プロレタリア作家同盟(ナップ文学部の後身)第4回大会で中央委員となり、1934年(昭和9)の日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加し『白い壁』などを発表して、注目されました。1936年(昭和11)に雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となり、同年の『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞します。
 1938年(昭和13)に同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、歴史長編小説『石狩川』の連載を開始、明治初期の北海道開拓団の苦闘を描いて代表作となりました。しかし、肺結核に侵され、1939年(昭和14)7月23日に東京において、34歳の若さで亡くなっています。

〇本庄陸男の主要な著作

・『北の開墾地』(1928年)
・『資本主義下の小学校』(1928年)発禁
・『白い壁』(1935年)
・『橋梁(きょうりょう)』(1936年)
・『女の子男の子』(1936年)第2回人民文庫賞受賞
・『石狩は懐く』(1939年)
・『石狩川』(1939年)

☆本庄陸男関係略年表

・1905年(明治38)2月20日 北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれる
・1913年(大正2) 9歳の時、一家の破産で、北見渚滑に再移住する
・1919年(大正8) 紋別高等小学校を卒業し、第三渚滑尋常小学校代用教員となる
・1920年(大正9) 16歳の時、樺太に渡り、王子製紙に勤務する
・1921年(大正10) 17歳の時、上京して青山師範学校本科へ編入する
・1925年(大正14) 青山師範学校を卒業、本郷誠之小学校に勤務する
・1928年(昭和3) 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する
・1928年(昭和3) 『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となる
・1929年(昭和4)4月 自ら望んで下町にある深川の明治小学校に転任する
・1930年(昭和5)2月 教員組合事件で明治小学校を免職となる
・1931年(昭和6)7月 日本プロレタリア作家同盟第4回大会で中央委員となる
・1934年(昭和9) 日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加する
・1935年(昭和10) 雑誌「現実」に『白い壁』を発表して注目される
・1936年(昭和11) 雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となる
・1936年(昭和11) 『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞する
・1938年(昭和13) 同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、代表作『石狩川』の連載を開始する
・1939年(昭和14)7月23日 東京で肺結核のため34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)小説家幸田露伴の誕生日(新暦8月22日)詳細
1918年(大正7)富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こす(米騒動の始まり)詳細
1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細