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 今日は、鎌倉時代の1304年(嘉元2)に、第89代の天皇とされる後深草天皇の亡くなった日ですが、新暦では8月17日となります。
 後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、1243年(寛元元年6月10日)に、京都の外祖父・太政大臣実氏の今出川邸第において、後嵯峨天皇の第2皇子(母は中宮・西園寺姞子)として生まれましたが、名は久仁(ひさひと)と言いました。1246年(寛元4)の4歳の時、後嵯峨天皇の譲位により践祚・即位しましたが、父が院政を敷きます。
 1251年(建長3)に宣陽門院の猶子となり、その所領・長講堂領を譲渡され、1256年(康元元)の14歳の時、母の妹公子(東二条院)が入内、翌年に中宮となりました。1259年(正元元)の17歳の時、瘧病を患い、父・後嵯峨上皇の要請で亀山天皇に譲位、1268年(文永5)には、後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草上皇の皇子熈仁を差し置いて亀山天皇の皇子世仁親王が立太子します。
 1272年(文永9)に、父・後嵯峨法皇が治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で亡くなると、1274年(文永11)に亀山天皇は世仁親王(後宇多天皇)に譲位し、治天の君として院政を開始しました。その中で、翌年に太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、執権北条時宗と後継者について折衝し、子の熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させることに成功し、後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統の両統迭立の基を開き、持明院統の祖となります。
 1287年(弘安10)に、伏見天皇即位に伴い院政を開始し、1289年(正応2)には、第六皇子・久明親王を鎌倉将軍として下向させました。1290年(正応3)に、出家し法諱を素実とし、公式の院政を停めましたが、政治には介入し続け、1291年(正応4)には、東大寺で受戒します。
 1298年(永仁6)に持明院統の胤仁親王が践祚して後伏見天皇となり、1301年(正安3)には、大覚寺統の後二条天皇(後宇多上皇の皇子)が践祚しました。そういう状況の中、1304年(嘉元2年7月16日)に、京都の富小路殿において、数え年62歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされます。

〇後深草天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1243年(寛元元年6月10日) 京都の外祖父・太政大臣実氏の今出川邸第において後嵯峨天皇の第2皇子(母は中宮・西園寺姞子)として生まれる
・1243年(寛元元年6月28日) 久仁と命名され、親王に立てられる
・1246年(寛元4年1月) 4歳の時、後嵯峨天皇の譲位により践祚・即位するが、父が院政を敷く
・1251年(建長3年) 宣陽門院の猶子となり、その所領・長講堂領を譲渡される
・1252年(建長4年) 後嵯峨上皇の皇子で異母兄の宗尊親王が将軍として鎌倉に迎え入れられる
・1256年(康元元年11月) 14歳の時、母の妹公子(東二条院)が入内する
・1257年(正嘉元年1月) 公子(東二条院)が中宮となる
・1259年(正元元年11月) 17歳の時、瘧病を患い、後嵯峨上皇の要請で亀山天皇に譲位する
・1268年(文永5年) 後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草上皇の皇子熈仁を差し置いて亀山天皇の皇子世仁親王が立太子する
・1272年(文永9年2月) 後嵯峨法皇が治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で亡くなる
・1274年(文永11年1月) 亀山天皇は後宇多天皇に譲位し、治天の君として院政を開始する
・1275年(建治元年4月) 太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、執権北条時宗と後継者について折衝する
・1275年(建治元年11月) 熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させることに成功する
・1287年(弘安10年10月) 伏見天皇即位に伴い院政を開始する
・1289年(正応2年10月) 第六皇子・久明親王を鎌倉将軍として下向させる
・1290年(正応3年2月) 出家し法諱を素実とし、公式の院政を停めたが、政治に介入し続ける
・1291年(正応4年11月)  東大寺で受戒する
・1298年(永仁6年7月) 胤仁親王が践祚して後伏見天皇となる
・1301年(正安3年1月) 後二条天皇(後宇多上皇の皇子)が践祚する
・1304年(嘉元2年7月16日) 京都の富小路殿において、数え年62歳で亡くなる

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