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 今日は、鎌倉時代初期の1185年(元暦2)に、京都地方で文治地震が起こり、大きな被害が出た日ですが、新暦では8月13日となります。
 文治地震(ぶんじじしん)は、この日の正午頃に近畿地方で起きた地震(M7.4 と推定) で、この天変地異により、翌月の8月14日に文治に改元されたことから、一般には文治地震と呼ばれていますが、元暦地震また、京都の被害が大きかったので、京都地震とも呼ばれてきました。近江国・山城国・大和国を中心に、土砂災害や河道閉塞、津波、沈下、液状化などの被害が広がり、京都では、宇治橋が落下し、比叡山や三井寺、法勝寺をはじめ多くの寺社や家屋が倒壊したとされています。
 この様子は、『方丈記』(鴨長明著)、『山槐記』(中山忠親著)、『玉葉』(九条兼実著)、『吉記』(吉田経房著)、『愚管抄』(慈円著)、『醍醐寺雑事記』、『平家物語』、『吾妻鑑』などに記載されていることが知られてきました。この3ヶ月半ほど前に、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡しており、その祟りともいわれ、変革期の事象として耳目を集めています。
 以下に、『方丈記』(鴨長明著)、『愚管抄』(慈円著)、『平家物語』、『吾妻鑑』の該当部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇文治地震 1185年(元暦2年7月9日)関係史料

☆『方丈記』(鴨長明著)より

<原文>

 又同じころ[1]かとよ、大地震振ること侍りき[2]。そのさま、世の常ならず[3]。山は崩れて河を埋み、海は傾きて[4]陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は浪にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす[5]。都のほとりには、在々所々[6]、堂舍塔廟[7]、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の中に居れば、忽にひしげなんとす[8]。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ[9]。恐れのなかに恐るべかりけるは、たゞ地震なりけるとこそ覺え侍りしか。
 かくおびたゞしく[10]振る事は、しばしにて[11]やみにしかども、そのなごり[12]しばしは[13]絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて[14]、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。
 四大種[15]の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては[16]殊なる變をなさず[17]。むかし齊衡[18]のころとか、大地震振りて、東大寺の佛の御頭落ち[19]など、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、みなあぢきなき事[20]を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

【注釈】

[1]同じころ:おなじころ=ここでは、元暦2年(1185年)を指す。
[2]振ること侍りき:ふることはべりき=揺れることがあった。
[3]世の常ならず:よのつねならず=世間の普通ではない。いつもとは違っている。尋常ではない。
[4]海は傾きて:うみはかたぶきて=海が傾斜して、つまり津波が起きた状態を表している。
[5]足の立ちどをまどはす:あしのたちどをまどわす=立つ足元が定まらない。立っているのが難しい状態を表す。
[6]在々所々:ざいざいしょしょ=あちらこちら。ここかしこ。あらゆる所。いたるところ。
[7]堂舍塔廟:どうじゃとうろう=堂塔伽藍。寺院の建物のこと。
[8]ひしげなんとす=押し潰されそうになる。
[9]雲にも乗らむ:くもにものらん=雲に乗ることもあろうにそれもできない。
[10]おびたゞしく:おびただしく=程度がはなはだしい。ひどい。激しい。
[11]しばしにて=短い間で。
[12]そのなごり=その余波。余震のこと。
[13]しばしは=しばらくの間は。
[14]やうやう間遠になりて:ようようまどおになりて=だんだん間隔が遠くなって。
[15]四大種:しだいしゅ=仏教で万物の構成要素とされる、地・水・火・風の四つの元素。
[16]大地に至りては:だいちにいたりては=だいちはどうかというと。
[17]殊なる變をなさず:ことなるへんをなさず=特別な災変を現わさないものである。
[18]齊衡:さいこう=日本の元号の一つで、平安時代前期の854~857年までの期間を指す。
[19]佛の御頭落ち:ほとけのみぐしおち=廬舎那仏の頭が落ちる。
[20]あぢきなき事:あじきなきこと=やり切れないこと。やるせないこと。

<現代語訳>

 また、同じ頃(元暦2年)のこととか、大地震で揺れることがあった。その様は、尋常ではなかった。山は崩れて河を埋め、津波が起きて陸地を浸した。地面が裂けて水が沸き出し、岩が割れて谷に落ち込んだ。渚を漕ぐ船は波に漂い、道行く馬は脚元が定まらない。都の周辺では、いたるところで堂塔伽藍は一つとして完全なものはなかった。あるいは崩れ、あるいは倒れた。そこから塵灰が立ち上って、勢いの盛んな煙のようにみえた。地が動き、家が倒壊する音は、雷鳴のように聞こえた。家の中にいれば、たちまち押し潰されそうになる。走り出れば、地面が割れ裂けた。羽を持っていない身では空を飛ぶこともできない。龍であれば、雲に乗ることもあろうにそれもできない。恐ろしいものの中でも特に恐ろしいのは、ただ地震だと思われた次第であった。
 このように激しく揺れることは、短い間でやんだけれども、その余震はしばらくの間はやまなかった。いつもならびっくりするような揺れが二、三十回起こらなかった日はなかった。十日、二十日過ぎてから、だんだん間隔が遠くなって、あるいは一日に四、五度、二、三度、もしくは一日おき、二、三日に一度などと、だいたいその余震は、三ヶ月ばかりも続いただろうか。
 仏教で説く四大種の中でも、水・火・風はいつも災害を起こすが、大地については特別な災変を現わさないものではない。昔、齊衡の頃(854~857年)とか、大地震があって東大寺の大仏の頭が落ちたなどという、大変なことなどもあったが、それでも今回の地震には及ばないという。その折には、みなこの世はやるせないなどと言って、少しは心の煩悩も薄らぐとも見えたが、月日が重なり、年数を経るに従い、言葉に出して地震の恐ろしさを語る人さえいなくなった。

☆『愚管抄』(慈円著)より

<原文>

元暦二年七月九日午時バカリ、ナノメナラヌ[1]大地震アリキ。古ノ堂ノマロバヌ[2]ハナシ。所々ノツイガキ[3]クヅレヌハナシ。少シモ[4]ヨハキ家[5]ノヤブレヌモナシ。山[6]ノ根本中堂以下ユガマヌ所ナシ。事モナノメナラヌ[1]龍王[7]動トゾ申シ。平相國[8]龍ニ成テフリタル[9]ト世ニハ申キ。法勝寺[10]九重塔[11]ハアダニハタウレズ傾キテ。ヒエンハ重コトニ皆落ニケリ。

【注釈】

[1]ナノメナラヌ:なのめならぬ=並ひととおりでなく。格別に。
[2]マロバヌ:まろばぬ=ひっくりかえらない。倒れない。ころばない。転倒しない。
[3]ツイガキ:ついがき=築垣。築地。築地塀。
[4]少シモ:すこしも=少しでも。わずかながら。
[5]ヨハキ家:よわきいえ=丈夫でない家。頑丈でない家。脆い家。
[6]山:やま=山寺すなわち比叡山延暦寺のこと。
[7]龍王:りゅうおう=竜神のこと。
[8]平相國:へいしょうこく=平清盛のこと。
[9]フリタル:ふりたる=大地が揺れること。
[10]法勝寺:ほっしょうじ=1077年に白河天皇の勅願により創建された七堂伽藍をそなえた大寺。
[11]九重塔:くじゅうのとう=当時、法性寺には高さ約81mの八角九重塔があった。

<現代語訳>

元暦2年(1185年)7月9日12時位に、格別な大地震があった。古堂で転倒しないものはなかった。所々の築地塀で崩れないものはない。少しでも頑丈でない家の壊れないものはなかった。比叡山の根本中堂はじめ傾かない所はなかった。ことも格別な竜神が動いたのではないか。平清盛が龍に成って大地が揺れたのではと世間ではうわさした。法勝寺の九重塔はいたずらには倒壊せずに傾いた。ヒエンは重ごとに皆落ちてしまった。

☆『平家物語』巻第十二より

大地震

 さるほどに、平家滅び、源氏の世になりて後、国は国司に順ひ、庄[1]は領家[2]のままなりけり。上下安堵して[3]覚えしほどに、同じき七月九日の午の刻ばかりに、大地夥しう動いてやや久し。赤県の内[4]、白河の辺、六勝寺[5]皆破れ崩る。九重塔[6]も、上六重を揺り落す、得長寿院[7]の三十三間の御堂を、十七間まで揺り倒す。皇居を始めて、在々所々[8]の神社仏閣、賤しの民屋[9]、さながら破れ崩る。崩るる音は、雷の如く、上がる塵は煙に同じ。天暗うして日の光も見えず、老少共に魂を消し、朝衆[10]悉く心を尽す。また遠国近国もかくの如し。山崩れて河を埋み、海漂ひて浜を浸す。
 渚漕ぐ舟は波に揺られ、陸行く駒は脚の立所を失へり[11]。大地裂けて水湧き出で、磐石破れて谷へ転ぶ。洪水漲り来たらば、岡に登つてもなどか助からざらん。猛火燃え来たらば、川を隔てても、暫しは避けぬべし。鳥にあらざれば、空をも翔り難く、龍にあらざれば雲にもまた上り難し。ただ悲かりけるは大地震なり。白河、京中、六波羅に、うち埋まるる者、幾らといふ数を知らず。四大種[12]の中に、水火風は常に害を為せども、大地に於いては異なる変を為さず[13]。今度ぞ世の失せ果て、上下遣戸障子[14]を立てて、天の鳴り地の動く度毎には、声々に念仏申し喚き叫ぶ事夥し。八九十七八十の者共、「世の滅するなどいふ事は、世の習ひなれども、さすが今日明日とは聞かざりしものを」と云ひければ、童部[15]共はこれを聞きて、喚き叫びけり。法皇は新熊野[16]へ御幸成つて、御花参らせ給ふ。折節かかる大地震あつて、触穢出で来にければ、急ぎ御輿に召して、六条殿へ還御成る。御供の公卿殿上人道すがら、いかばかりの心をか砕かれけん。法皇は南庭に幄屋[17]を立ててぞおはします。主上[18]は鳳輦[19]に召して、池の汀へ行幸成る。
 御所内裏皆揺り崩れければ、女院[20]宮々は御車に奉つて、他所へ行啓[21]有りけり。天文博士[22]急ぎ馳せ参つて、夕さりの亥子の刻には、大地必ず打ち返すべき由申しければ、恐ろしなどもおろかなり。昔文徳天皇[23]、齊衡三年三月八日の大地震には、東大寺の仏の御頭を揺り落したりけるとかや。また天慶二年四月二日の大地震には、主上[18]御殿を去つて、常寧殿の前に五丈の幄屋[17]を立てて、おはしけるとぞ承る。それは上代なればいかがありけん。この後はかやうの事あるべしとも覚えず。十善帝王[24]都を出でさせ給ひて、御身を海底に沈め、大臣公卿囚はれて、旧里に帰り、或いは頭を刎ねて大路を渡さる。或いは妻子に別れて遠流せさる。平家の怨霊にて、世の失すべき由申しければ、心ある[25]人の嘆き悲しまぬはなかりけり。

【注釈】

[1]庄:しょう=荘園のこと。
[2]領家:りょうけ=荘園領主。
[3]安堵して:あんどして=居住すべき土地に安住すること。
[4]赤県の内:せきけんのうち=皇居に近い地。畿内。
[5]六勝寺:ろくしょうじ=白河にあった法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺の6寺のこと。
[6]九重塔:くじゅうのとう=当時、法性寺には高さ約81mの八角九重塔があった。
[7]得長寿院:とくちょうじゅいん=平安京郊外の白河殿に付属した鳥羽上皇の御願寺。
[8]在々所々:ざいざいしょしょ=あちらこちら。ここかしこ。あらゆる所。いたるところ。
[9]賤しの民屋:あやしのみんおく=粗末な民家。
[10]朝衆:ちょうしゅ=朝廷に仕える人と一般民衆。
[11]脚の立所を失へり:あしのたちどころをうしなへり=立つ足元が定まらない。立っているのが難しい状態を表す。
[12]四大種:しだいしゅ=仏教で万物の構成要素とされる、地・水・火・風の四つの元素。
[13]異なる変を為さず:ことなるへんをなさず=特別な災変を現わさないものである。
[14]遣戸障子:やりどしょうじ=引き戸やふすま。
[15]童部:わらんべ=子供。
[16]新熊野:いまぐまの=1160年に後白河上皇の命により院の御所である法住寺殿の鎮守社として紀伊国・熊野三山の熊野権現を勧請した神社。
[17]幄屋:あくや=仮屋。あげばり。幄舎。幄屋。
[18]主上:しゅじょう=天皇を敬っていう語。おかみ。至尊。
[19]鳳輦:ほうれん=屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿。土台に二本の轅を通し、肩でかつぐ、天皇専用の乗り物。
[20]女院:にょいん=天皇の母・后・皇女に贈られた尊号。
[21]行啓:ぎょうけい=太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出すること。
[22]天文博士:てんもんはかせ=陰陽寮に属し、天文の観測と天文生の教授とに当たった職。天文の博士。
[23]文徳天皇:もんとくてんのう=第55代とされる天皇。在位は850~858年。
[24]十善帝王:じゅうぜんていおう=天子。帝王。天皇。十善の主 。十善の天子。ここでは、安徳天皇を指す。
[25]心ある:こころある=思慮・分別がある。道理をわきまえている。

<現代語訳>

 さて、平家が滅亡して源氏の世の中となってからは、国々は国司が治め、荘園は荘園領主に従うようになった。上下の身分に関係なくみなが居住すべき土地に安住しはじめたときのこと、同じ元暦2年(1185年)の7月9日12時頃、大地が短い間激しく揺れた。京の中、白河周辺、六勝寺などみな崩壊した。法勝寺の九重塔も上の六層が崩れ落ちた。得長寿院の三十三間の御堂は十七間まで倒壊した。皇居をはじめいたるところの神社仏閣から粗末な民家まで軒並み崩壊した。崩壊する音は雷鳴のごとく、舞い上がる塵は煙のようであった。天は遮られて暗くなって日の光も見えず、老いも若きも肝を潰し、朝廷に仕える者達や民衆はことごとく気を失わんほどであった。また遠国・近国も同じ有様であった。山は崩れて川を埋め、海は津波が押し寄せてきて海岸を浸した。
 渚を漕ぐ舟は波に揺られ、陸を行く馬は脚元が定まらないくらいだった。大地が裂けて水が湧出し、岩盤は壊れて谷へ落ち込んだ。洪水がみなぎって迫ったなら、丘に登っても助からないだろう。猛火が迫ってきたら、川を隔てているといってもしばらくは避難しようがないだろう。鳥でもないので空を飛ぶことも難しく、龍でもないので雲にも上ることも難しい。ただ悲惨なのは大地震である。白河、京中、六波羅に埋もれる人たちは数え切れない。四大種の中で、水・火・風は常に被害を与えているが、大地だけは異変をもたらさない。今度こそはこの世の終わりだと、人々はみな遣戸や障子を立て、天が鳴り、地が揺れるたびごとに、声々に念仏を唱え、はなはだしく喚き叫んだ。八・九十、七・八十の者たちが、「世が滅亡するということは世の習いではあるが、さすがに今日や明日に起こるとは聞いていなかった。」と言うと、子供たちは嘆き叫んだ。法皇(後白河院)は新熊野神社へ行幸され、花を供えられていた。折からの大地震にあって、死者の穢れが出たので神事に差し障りがあってはならないと、急遽御輿に乗られ、六条殿(御所)へお戻りになった。お供の公卿や殿上人は道を行きながら、どのくらい心を痛めただろうか。法皇は南庭に仮屋を建てて、そこにおられた。天皇(後鳥羽帝)は専用の輿にお乗りになり、池の水際に行かれた。
 御所や内裏は地震で崩壊してしまったので、承明門院・在子殿をはじめ宮々は御車に載られて別の場所にお移りになった。天文博士が急いで馳せ来たり、今夜22時から24時頃に必ず余震がありましょう。と告げるので、恐ろしいどころではない。昔、文徳天皇・斉衡3年(856年)3月8日の大地震では、東大寺の大仏の頭が振動で落ちたという。また、天慶2年(941年)4月2日の大地震では、天皇(朱雀帝)は御所を去り、常寧殿の前に15mほどの仮屋を建て、そこにおられたという。それは上代のことなので、まさかその後にこのようなことがあろうなどとは思わなかった。安徳天皇が都を退去され、身を海底に沈められ、大臣や公卿は虜囚となって京に帰ったり、打ち首となって市中引き回しとなったりした。また、妻子と別れさせられ流罪となった。平家の怨霊によってこの世が滅亡するのではないかと噂され、思慮・分別がある人はみな嘆き悲しまなかった人はいないという。

☆『吾妻鑑』第四巻より

<原文>

元暦二年七月小十九日庚子。地震良久。京都去九日午剋大地震。得長壽院。蓮華王院。最勝光院以下佛閣。或顛倒。或破損。又閑院御殿棟折。釜殿以下屋々少々顛倒。占文之所推。其愼不輕云々。而源廷尉六條室町亭。云門垣。云家屋。無聊頽傾云々。可謂不思議歟。

<読み下し文>

元暦二年七月小十九日庚子。地震良久し[1]。京都、去る九日午剋大地震。得長壽院[2]、蓮華王院[3]、最勝光院[4]以下の佛閣、或は顛倒[5]し、或は破損す。又、閑院[6]御殿は棟が折れ、釜殿[7]以下の屋々少々顛倒[5]す。占文[8]之推す所、其の愼み[9]輕不と云々。而るに源廷尉[10]が六條室町亭[11]は、門垣と云ひ家屋と云ひ、聊も[12]頽れ傾くこと無しと云々。不思議と謂つ可き歟。

【注釈】

[1]良久し:ややひさし=少し長い時間が経過しての意。
[2]得長壽院:とくちょうじゅいん=法住寺殿内に平忠盛が得長壽院を造進して三十三間の御堂を建てた。
[3]蓮華王院:れんげおういん=平安京郊外の白河殿に付属した鳥羽上皇の御願寺。
[4]最勝光院:さいしょうこういん=法住寺殿内に建春門院(後白河院女御)御願として承安三年(1137年)に建立された。
[5]顛倒:てんとう=転倒。ひっくり返る。倒れること。
[6]閑院:かんいん=法住寺殿内にあった後白河法皇の居所。
[7]釜殿:かなえどの=宮中、社寺や貴人の邸内の建物の一つで、湯や御膳を調進するための釜を置いたところ。宮中や将軍・貴人の邸内にあった湯殿。
[8]占文:うらぶみ=うらないの結果、現われた文言。
[9]愼み:つつしみ=つつしむこと。過ちがないように気を配ること。
[10]源廷尉:げんていい=源義経のこと。廷尉とは検非違使の佐尉をいう。
[11]六條室町亭:ろくじょうむろまちてい=左京六条二坊十二町の六条堀川西側の六条左女牛井に源氏の館があった。
[12]聊も:いささかも=少しも。ちっとも。微塵も。全く。全然。

<現代語訳>

 元暦2年(1185年)7月小19日庚子。地震が少し長い間ありませんでしたが、京都では先日の9日昼頃に大地震がありました。後白河法皇の居所となっている法住寺内の得長壽院、蓮華王院三十三間堂、最勝光院をはじめ仏閣が転倒、または損壊したりしました。また、同じ法住寺内の後白河院の居所は棟梁が折れて、厨房棟などの建物が多少倒壊しました。占いの結果によると、為政者が過ちがないように気を配ることが重要とのことだ。それにもかかわらず、源義経の六条室町の屋敷では、門も築地塀も家屋も、少しも傾くこともなかったとのことだ。世間では不思議な話だと言っておりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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